1 彼の名前は一之瀬春哉
「どうしてあんたが残ったのよ!あんたは幸じゃない!幸を返して!!」
そう言って泣き叫んだ母さんは、いつもの母さんじゃなかった。
あぁ否定するんだ、あたしを。全てを捨てて自殺しようとした臆病者の倉田幸だけを見てるんだ。
じゃああたしは何者なの?倉田幸って誰?
1 彼の名前は一之瀬春哉
あれから何年経ったっけ?思い出せない。でももう1人の幸は未だに眠ってるし、母さんも大分落ち着いてきた。今のところは安定してる。対人恐怖症なもう1人の倉田幸を起こさないために極力人との関わりを自ら断った。そのお陰で皆があたしを疎ましがっている。
母さんは若いころすごくモテたらしいから容姿の遺伝なのか、いつのまにか氷のマドンナってあだ名をつけられて見た目だけで男が寄ってくるようになった。
うざったい奴ら。そして今日もまた1人。
「あのっ……俺、一之瀬春哉って言うんだ!えと……ずっと好きでした!良かったら俺と付き合って下さい!」
今月は告白2回目か。見覚えのない相手の名前を覚えるのも面倒だ。同じ学年みたいだけどクラスも違うし、正直言って勝手に見られてて勝手に好かれてるなんて気持ち悪い。
この手の男は皆同じ。あたしを見た目だけで判断してる。そんな奴とかかわるのも億劫だ。
「悪いけど付き合えない」
バッサリ切り捨てたあたしに男は露骨にショックを受けた顔をして固まってしまった。
相手にするのも面倒だったから、そのままそいつを置いて教室に戻る。
あんたみたいなのは普通の女子と付き合って普通に生きたらいい。どうせあたしの気持ちなんてわからない。
教室に戻ったあたしにクラスメイト達の視線が向く。
そしてヒソヒソと話している女子の横を通り過ぎた際、耳に聞こえてきたのは中傷。
「マジで愛想悪いよねー倉田って」
「調子のってんだよ。少しモテるからって」
モテるってそんなにいい事?正直あたしから言わせてもらえば、あんたたちの方が羨ましい。
あからさまに見せつけるかのように左手の薬指にはめられてる指輪。ブランドじゃ無さそうだけど、それでも好きな人に貰えば価値あるものに変わる。
そんな人がいるのに、なんでモテる事を望む?好きな人が自分を好きでいてくれたらそれでいいじゃない。
きっとあたしにそんな相手は現れない。もう1人の倉田幸の存在を知れば皆気味悪がる。
それは初めての彼氏だったあいつだってそうだった。誰も信じない、1人でも生きていける。自分の全てを明かす真似はせず、表面上だけ繕って……楽と言えば嘘になるけど気味悪がられるよりは数千倍増しだ。
あんた達はいいよね。毎日楽しそうで。
その思いを込めて視線を送ったら、相手は一瞬肩を震わし、あからさまに目を逸らした。
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放課後になり、他の生徒たちが帰って行く中、あたしには寄る所があった。今日は診察夜からだし、少し時間を潰さなきゃいけないわけだけど、家に帰るのも面倒だから渋谷にでも行こうかな。
席を立ちあがって、病院に向かうまでの時間潰しのプランを考える。でも特に何も浮かばず、結局渋谷でウィンドウショッピング。
同じ高校生がいっぱい集まってる渋谷を1人で回る。
こういう時間は嫌いじゃない、好きなものを好きなだけ見れる。案の定あっという間に時間は過ぎ、診察の時間になったので病院に向かうことにした。
病院は相変わらず混んでて、1つの椅子に腰掛けて自分の名前が呼ばれるのを待つ。
医療事務の人が名前を呼んで、会計を事務的に済ませていく。
「お大事に」なんて口では言いながら、本当は何も思ってないんだろうな。だって言った後にすぐ視線を逸らして金の計算し始めてる。病院だって商売だ、医療事務だって一緒。医師だって看護師だって薬剤師だって商売だ。口では何とでも言いながら、治そうなんて心から思ってる奴がどれだけいるの変わらない。
自分の名前が呼ばれて診察室に入る頃には、もう3~4人しか患者は残っていなかった。
「こんばんは幸ちゃん。具合はどうだい?」
「いえ、悪くはありません。いつもと同じです」
「そうか、それは良かった」
少し年老いた医師がニコニコ愛想笑いをしながら、カルテに色々書きこんでいく。何か思い出す事はない?とか周りの様子は?とか、言ったところであんたに何ができる。周りの様子?そんなの最悪に決まってるだろう。だから誰ともかかわらず、1人でやってるんだ。
今日だって母さんはきっとあたしを待たずにさっさとご飯を食べて、風呂に入って寝てるだろう。まるで忘れてしまったかのように生活してるに決まってる。そう考えれば悔しくて手が震えたことに気付いた医師は眉を下げた。
「幸ちゃん、落ち着いて。お母さんとは少し会話したかな?」
「はい、最低限の会話ならしてます。捨てられたら困るんで。でも向こうはもう忘れたがってるんですよ。それだけは分かります」
「幸ちゃん……」
「だって未だに言ってくるんですよ。無意識なのかもしれないけど、幸はこれが好きだったよねって言ってオムライス出してくるんですよ。それを好きだったのはあたしじゃなくてもう1人の倉田幸なのに!」
語尾が荒くなったあたしを医師が慰めようとしてくる。でもそれが憎たらしい。
「可笑しいでしょ?笑えるでしょ?この事他の患者に話したら、きっと皆うつ病だって治るよ。家族に忘れられた子がいるんだよって。だから君はまだ不幸じゃないよって!」
「幸ちゃん、そんな事しないよ。辛かったね……」
「馬鹿にしないでください!辛いなんて先生に何が分かるんですか!?ただお金もらって事務的に言ってるだけでしょ!?」
他の患者と違うと思ってた。自分は精神病じゃないって。うつ病の人のように切れ散らかしたりしないし、塞ぎこんだりしないって思ってた。でも今のあたしは何だろう。これじゃ確実に……
俯いたあたしの頭を医師が優しくなでる。
「確かにお金は受け取ってるけど、先生は幸ちゃんが元気に過ごしてほしいって心から思ってるよ。それはもう1人の幸もそうだけど、君にもだ。その為にも、お母さんと少しでもコミュニケーションを取らないと。今度お母さんを連れておいで。先生と3人で少し話をしよう」
「……はい」
医師はにっこりと笑って、この間のテレビ面白かったね。と話し出した。
あたしが前に好きだって言ってたバラエティを医師は覚えてくれていたようだ。
この人だけは違う。あたしを理解してくれる。例え同じような事を何十人に言ってたとしても、この人だけは……
診察も終わり、会計をするために待合室に向かったあたしの視界に入ったのは、今日告白してきた奴だった。
案の定、向こうも驚いた顔をしてあたしを凝視している。
「え、倉田さん……」
「あ」
こいつ名前なんだっけ?忘れたけど顔は覚えてる。なんでこいつがここに?ここは内科だけど心療内科なんだけど。でもそれ以上にヤバいと感じたのは、この事を高校の奴らに言いふらされたらどうしようと言う焦りだった。
振った腹いせにやられるかもしれない。そんな事になったら終わりだ。
上手い事も言えずに口から出たのは脅しのような言葉だった。
「誰にも言うなよ」
「え?」
「ここにあたしがいる事。誰にも言うな」
「そ、それはわかってるけど……何で倉田さんはここに?」
それをあんたが知る必要はない。とりあえず、こいつの質問はスルーして礼だけ言うことにした。
「ありがと。言われると困るんだよね」
「そりゃな……」
「あんたは何でここに居んの?」
逆に質問すれば、悲しそうにそいつは顔を俯かせた。この表情を知ってる。母さんがした事があるから。
足が縫い付けられて動かなくなって、気付いたらこいつが返事をするのをジッと待っていた。
「家族の迎えだよ」
「……そう」
そう言って笑ったこいつに胸が締め付けられた。あたしの母さんもこんな風に笑って理解してくれたら。
制服に縫われた名前を見て、改めてこいつの名前を覚えた。
それ以上話す事もなく、名前を呼ばれたあたしは会計を済ませて病院を出た。
一之瀬……もう少し話してみたい。あたしの事を理解してくれるかもしれない。話し相手がほしい。振った相手に頼める内容じゃないけど、でも彼なら引き受けてくれる気がした。
「話したい……」
ねぇ、貴方の事を教えて?
そうしたら私の事も教えてあげる。