第五話
(カイル視点)
門をくぐると、バイオレットはさっそく門番小屋や馬小屋の中を、隅々まで丁寧に確認し始めた。柱、梁、床板の擦れ具合、道具の配置――細かなところまで目を走らせている。カイルは彼女の隣に立ち、その熱心な仕事ぶりを不思議な心地で見つめていた。
「一から見直しているの? このあたりは、君がよく知っている場所だと思うけど」
「はい。ですが、図面と現実は時間が経つにつれて、差異が出てくるものなので。それが重要かと思いまして……」
そう言って、彼女は馬小屋の柱を指でなぞった。
「ここ、最近修復されていますよね。木材の色が微妙に違いますし、下の補強も新しいです」
確かに言われてみれば、その通りだ。 カイルが気づかなかった部分を、彼女は迷いなく見抜いている。さらに奥まで確認しようと、バイオレットが馬小屋の中を覗き込んだ、その時。ちょうど帰ってきたばかりの馬が、ふっと顔を突き出した。
(あぶない!)
反射的に、カイルは手を伸ばした。ぐらりと体勢を崩しかけた彼女の腕を、大きな手でしっかり包み込み、安全な方へと引き寄せる。
(……っ!)
バイオレットの二の腕の驚くほどの柔らかさ、そして彼女の髪からふわりと漂う薔薇の香り。カイルの心臓が、どくんと大きく跳ねた。
(このまま手を離したくない。この細い身体を、腕の中に閉じ込めてしまいたい――)
そんな衝動が沸き上がるが、もちろんそんなことは出来るはずもない。気づけばカイルの手は、吸い付いたように彼女の腕に残ってしまう。
「あ、ありがとうございます! すみません……」
バイオレットは、慌てた様子で身を引き、するりとカイルの手を抜け出す。カイルは名残惜しさを押し殺して、指を離した。その手や指先に、全ての神経が集まってきたかのように、血が騒いでいる。ゆっくりとバイオレットを見ると、彼女の頬も赤くなっていた。
腕を掴まれた後、バイオレットはしばらくそこが熱い気がして、無意識に自分でもそこを触っていた。(大きい手なのに、優しくて温かかった……)
そんな思いが、彼女の胸をかすめていた。二人の間に、一瞬だけ沈黙が落ちる。まるで時間が止まったように、お互いを見つめ合う。けれど次の瞬間、バイオレットは、自分の腕に残る彼の指の感触を振り払うように、必死に柱へ視線を戻した。
「この辺りは、お馬さんの高さに合わせて、柱や敷居が少しずつ調整されているみたいですね。だから、思っていたより変更が多いです」
「なるほど」
カイルは頷きながら話を聞いていたが、正直なところ、意識は半分ほどしか内容に向いていなかった。赤く染まった頬。透き通るような瞳。陽の光を受けてきらめく髪。それらすべてに、釘付けになっていた。
(いけない……集中しないと)
内心で小さく自分を叱った。すると、バイオレットが急にこちらへ近寄ってきて顔を寄せ、耳元に小さな声で囁いてきた。
「カイル王子、今のことでちょっと気づいたのですが。中央棟の壁のある部分、素材の色が、明らかに違って見える場所があるように思えます」
彼女の言葉の一字一句、しっかりと頭では理解できたのに、彼女の柔らかそうな頬と、透き通るような茶色い瞳、潤いのあるピンクの唇が気になって、胸の奥が激しい早鐘を鳴らし始めた。
「もともと、その素材の違いは気になっていたところなの?」
「はい。何か過去に増築された部分だろうとは思っていたのですが」
バイオレットは、真剣な表情でそういうと、またスッと身をひいた。
「ですが、こちらの中庭も気になる部分が多いので、ゆっくり見させてください」
彼女はそう言うと、門の玄関口から、王宮へ続く園庭へ歩き始めた。バイオレットは木の位置から芝の状態、土の硬さまで、まるで地面の下を透視するかのようにチェックを重ねていく。そして、小さなメモ帳をそっと取り出した。カイルは、彼女の様子をそのまま目で追いながら、自分の中で血がざわめく不思議な感じを抑えたくて、両腕を組んだ。
「中庭は、隠しやすい候補の一つかと思いましたが、やはり違いますよね。もしこの土の下に『何か』を埋めたら、掘り起こしている間に人に見つかってしまいますし……」
バイオレットがメモ帳を見ながら、説明し、その言葉にカイルが頷いているだろうと思い、振り返ると――カイルは何とも言えない、切ないような瞳で彼女を見つめていた。
(わあ……なんて目で見てるんだろう……。胸が苦しくなる……)
彼の視線に、バイオレットは思わず息を呑んだ。一瞬動けず、固まって彼の瞳を見つめていると、カイルがふわりと歩み寄ってきた。そして彼は大きな身体を少し丸め、バイオレットの小さなメモ帳を覗き込む。
「……メモにはなんて書いたの? 図面を見ていた時も、この場所をだいぶ気にしていたね」
カイルの唇から漏れる吐息や、整った鼻先がすぐ横にある。バイオレットの心臓は、もう自分でも制御できないほど激しく跳ねていた。手帳を持つ手が震える。
「ここには地下室がないので、構造上の『空白』ができやすい場所なんです」
「なるほど。こういう空白が出来そうな場所をリストアップして書いてたんだね」
王子はそう言うと、真剣にメモを指でなぞる。頬と頬がくっついてしまうかのような距離。
(恥ずかしいのに……すごく、嬉しい……)
シャオンのように体重をかけてくるわけでも、威圧するわけでもない。ただ、すぐ側に寄り添う王子。その佇まいも、横顔も、光を帯びているように美しかった。
「この中庭、中央棟の東部分、食堂脇、王書斎上と東の見張り塔か……」
カイルはそれらを見ながら頷くと、またいつもの距離に戻って歩き出した。
「その辺は重点的に確認しないとね」
その背中を見た瞬間、バイオレットの胸に言葉にできない寂しさが込み上げた。
(あれ……なんだか……)
もっとそばにいてほしかったような。もっと長い時間、あの距離で引き留めたかったような。また、彼が近づいてきてくれないかな、と思ってしまっていた。
無意識に立ち止まり、ぼんやりと見つめていると――
「あれ、行かないの? 大丈夫?」
不意にカイルが振り返り、優しく手を差し伸べた。バイオレットは弾かれたように前を向く。
「い、行きます! 大丈夫です。次は、礼拝堂ですね!」
彼女は赤面を隠すように足早に歩き出した。差し伸べられたカイルの手は、ふわりと元の位置へ戻る。
(……どうしよう。あの手を掴んでみたかった。いつか、本当に触れてみたい……わあ、私ったら、王子様相手になんてことを……)
胸の奥で渦巻くモヤモヤとした感情。それは、これまでの人生で一度も経験したことのない、熱を帯びた「願い」だった。
「王子ー! こちらにいらしたんですね!」
宮殿の方から、すらっとした手足の長い黒髪の青年が大きく手を振って駆け寄ってきた。声がよく通る、目の大きな青年だった。
「一つだけ、この書類に目を通してサインをいただきたいのですが!」
「大丈夫だ」
カイルは頷き、書類を受け取った。カイルが書類に目を通している間、青年はバイオレットに人懐っこい笑みを向けた。
「バイオレット・アザール様ですね。私は王子の側近、キリアン・ベイリーと申します」
「どうぞよろしくお願いいたします」
バイオレットも一歩下がり、丁寧に挨拶を返した。
するとキリアンは、ふと首を傾げる。
「あのう、王子もバイオレット様も、お顔が真っ赤ですけれど、何か運動でもされてました?」
バイオレットは慌てて答えた。
「方々歩き回っていたので、少し体温が上がってしまったのかもしれません」
キリアンは頷いた。だがその顔は、どう見ても納得していない。むしろ面白いものを見つけた子供のように、にやにやと二人の顔を覗き込んでいた。
バイオレットも、カイルも、こんな浮ついた気持ちで大丈夫かとお互いの熱をどう冷ましていいのか分からないまま--。その日は礼拝堂の隅々までのチェックで1日を終えた。




