第十七話
(ルカ目線)
バイオレットが建築省へ戻ったその日から、ルカの生活は一変した。安全確保のため、ルカはキリアンの騎士団室で寝泊まりすることが決まったのだ。
代々騎士団長を輩出してきた彼の家系に与えられたその部屋は、当直室というよりは高級ホテルのスイートルームに近い。生活に必要なものはすべて揃っていた。建物の内部に位置しているせいで窓がひとつもない割りに、どこか明るい、ちょっと奇妙な空間だった。
「僕のベイリー家は代々、この国の騎士団長なんだ。実家は城のすぐそばにあるけれど、父や祖父とともに、この部屋を与えられていたんだよ」
そう言ってキリアンは、整然としつらえられた家具の一角を示し、荷物を置けるよう静かに手配を進めていく。
「今は父は来ないし、実質ここを使っているのは俺だけだ。着替えは風呂場と脱衣所を使ってくれていいし、棚も全部空けてある」
淡々とした説明に、ルカは一瞬ぽかんとした後――
「いやいやいや、なんであんたと枕並べて寝なきゃいけないのよ!? おかしいでしょ!!」
勢いよく声を張り上げた。その様子に、キリアンは人差し指を口元に当てて、シーっといなした。そして、手首の魔法の誓約の印をかざし、クローゼットの中の扉を見せてくれた。
「……はあ、なるほどね」
「一大事なんだ。仕方ないだろ?ここなら、ルカの安全も確保できるし」
キリアンの言葉に、私はそれでも身をひいた。
「襲わないでよ? 絶対に手を出してこないでよ!?」
「……誰がそんなことを。お前こそ、こっち側に一歩も入ってくるなよ!」
言い合いながら、噛み合わない二人の距離に、ルカの胸の奥では別の感情がぐつぐつと煮え立っていた。
(なんで私だけこんなところに残って、しかも知り合ったばかりの男と同室なのよ……。王子ってば、あんなに仲良くしてたバイオレットをどうして勝手に帰すのよ。黄金移送計画は彼女の企画で、彼女が中心だったのに――どうして、あんなやり方……!)
カイルを捕まえて、一晩中問い詰めてやりたいほどの怒りが、腹の底から湧き上がってくる。
「わああああああ!」
行き場のない怒りをぶつけるように、ルカはカバンから大量の洋服をベッドへぶちまけた。
「感情の爆発がすごいな……」
すでに自分のベッドに寝そべり、ワイン片手にこちらを眺めるキリアンの目は、どこまでもクールだった。
「なんであんたそんな優雅にしてんのよ?このあと私たち、どうせ朝四時まで夜勤なんでしょ?大丈夫なの?」
「昔から、ワインには強いんだ」
前髪をかき分けるキリアンに、ルカは冷ややかな目を向けた。
「あんたのことは聞いてないから」
イライラを抑えきれないルカを見て、キリアンは騎士団のジャケットを脱ぎ捨て、ラフなシャツ姿で立ち上がった。奥のスペースから軽食の入った籠を持って戻ってくる。
「まだ時間はたっぷりあるし。一度落ち着いてテーブルを囲もうよ」
テーブルの上には、手際よくチーズやパン、ハムにサラダ、そしてデザートワインが並べられた。簡素ながらも、質の良さが伝わる、豊かな光景だった。
「ルカ。王子がバイオレットを守るためにあんな決断をしたこと、君だって分かっているだろう」
彼が注いでくれたワインを一口、喉に流し込む。甘みが広がると同時に、胸に溜まっていた感情が、わずかにほどける。
「……分かってるよ。だからって、もっと他にやり方があったはず……」
「うーん……」
「何も、あの嫌味なシャオンやブルーノがいる場所に戻さなくてもいいじゃない」
「王子は知っているんだよ。皮肉なことに、今の王宮で一番バイオレットの身の安全が保障されているのは、あそこ(建築省)だとね」
確かに、物理的な警護としては正解なのだろう。けれど、精神的には最悪の環境だ。
「心配しないで。まずは俺たちでこの工事を成功させよう。そうすれば、必ず状況は変わるはずだから」
「……そうだといいけど」
その日の夜から、施工は三人体制になった。バイオレットの見送りにまで来なかった王子は、ここにはいつも通りに現れ、いつも通りの作業着を着て働いていた。地下二階。カイルもキリアンも無口なまま、黙々とパイプの組み立てに没頭している。時折見えるカイル王子の横顔は、ひどくやつれ、目は腫れぼったい。
(……こんな顔、初めて見た)
彼がどれほど自分自身を責め、バイオレットを想って泣き明かしたのかが痛いほど伝わってきた。
(……辛いのは、バイオレットだけじゃないのね)
ルカは喉元まで出かかった文句をぐっと飲み込み、顔中を真っ黒にしながら、重い槌を振るい続けた。それからしばらくの間、無口の作業時間を終え、地下のパイプ建設業は全て終わりを迎えていた。
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久しぶりに戻った建築省の寮は、驚くほど静かで、ルカのいない空間は思っていた以上に広く、そしてどこか寒々しく感じられた。もともと女性職員の数は多くなく、私たちはいつも二人で行動し、部屋も共有していたせいか、彼女がいないだけで、ここまで空気が変わってしまうのかと、思わず立ち尽くしてしまう。
あと二ヶ月以上の休養を言い渡されているものの、その先、自分が建築省に戻れるのかどうかさえわからないまま、ぽっかりと時間だけを与えられてしまった私は、何をしていいのか見当もつかず、ただ曖昧な不安だけを胸に抱えていた。
王宮を離れる際、キリアンに促され、ルカに手伝ってもらいながら身の回りの整理を終え、与えられていた衣類や履き物もすべて持ち帰ってきた。それらをクローゼットに収めていくたびに、ほんの三ヶ月ほどの出来事だったはずの王宮での日々が、やけに遠く、そして眩しいものとして胸に蘇ってくる。
(夢みたいな時間だったな……本当に、現実に戻ってきちゃったんだ)
カイル王子が隣にいない夜を、私はどう耐えればいいのだろう。明日から、何を目的に目覚めればいいのか。不安に押し潰されそうになり、激しい頭痛に思わず頭を抱えた。いっそ田舎の母や妹の元へ帰り、すべてを忘れて静かに過ごそうか。しばらくは街中の建築探査にでも行こうか。
結局何も決めきれないまま、私は部屋の片付けを終え、気分を変えようと建築省の中庭へ出た。
「レティ、戻ってきたのか!」
振り向くと、ブルーノがいつもの快活な表情でこちらに歩み寄ってくる。
「ブルーノ、回廊の工事、もう評判になっているって聞いたわ。タイルの柱がとても美しいって」
「ああ、細部まで徹底的にこだわらせてもらったよ。カイル王子も国王陛下も高く評価してくださって、予算もふんだんに注ぎ込んでくださったんだ」
「きっと多くの人が集まる、国一番の観光名所になるわね」
「ありがとう……それより、お前こそ大丈夫か?」
ふと声音を落とし、ブルーノが私の顔を覗き込んだ。かつての傲慢さは消え、その眼差しには確かな懸念が滲んでいる。
「工事中の事故で怪我をしたから、療養のために戻ったと聞いたけれど……その首の包帯、痛々しいな」
「ええ……。でも、もう大丈夫よ」
「無理は禁物だぞ。体が資本なんだから、しっかり休んでから現場に戻るんだ」
「ありがとう」
「何か必要なものがあったら、なんでも言えよ。シャオンもいるんだし」
「ええ」
建設省大臣の息子として常にトップを走っていた彼が、まるで学生時代のような気さくな口調で私を労わっている。働き始めてから、長いこと冷たくあしらわれてきたけれど、久しぶりに聞く優しい友人のような声に不思議な気分になる。これも王子の采配の成果なのだろう。そう思いながら視線を上げると、王宮の天守閣が静かにそびえ立っていた。志半ばで、あの輝かしい計画から切り離されたことが、首の傷よりも深く、鋭く胸を締め付けた。
それからしばらく、寮の部屋の扉に小さな袋がかけられていることが何度あった。中にはちょっとした食べ物や、薬、折り畳まれた一枚の手紙が入っていた。
「ちゃんと食べて、元気出せよ」
シャオンからの短い一文だけが書かれていた。殴り書きのような、けれど彼らしい直球の言葉。どう受け止めていいのかわからないまま、私はその手紙を手にしても、ただ呆然とため息をついていた。
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それから一週間ほどが過ぎた。けれど私は、結局ほとんど何もできないまま、時間だけをやり過ごしていた。身体はもう動くはずなのに、どうしても気持ちが追いつかない。ふと窓の外に目をやれば、遠くに王宮が見える。その姿を見上げるたびに、胸の奥に言いようのない感情が広がっていった。地下のパイプ工事は、きっともう完成に近づいている頃だろう。その後の工程も、きっと滞りなく進んでいくに違いない。
息苦しさに耐えかねて、ふらりと外へ踏み出してみた。ちょうど、現場へ向かおうとするシャオンとブルーノの一団が、賑やかに寮から出てくるところだった。気まずくて、立ち止まっていると、二人はすぐにこちらに気づいた。
「レティ! 朝からどうしたんだ? もう動けるのか?」
二人がすぐに私を見つけ、駆け寄ってきた。今の私にとって、この世界で言葉を交わせる「知人」は、皮肉にもかつて私を追い出した彼らしかいなかった。
「もう大丈夫よ。少し、歩きたくなって」
「それならよかった。もし動けるなら、こっちの建設現場でも見に来るか?」
「そうだな、せっかくだから来いよ」
王宮を追放された身で、その敷地に足を踏み入れてもいいのか。戸惑う私を、シャオンが穏やかな笑顔で覗き込んだ。
「少しだけだ。俺がまたここまで送ってくれば問題ないだろう」
シャオンの大きな手が、私の背中をそっと押した。差し入れを届けてくれていたその手の温もりに促されるように、私は馬車に乗り込み、彼らが手がける噴水広場へと向かった。
案内された噴水広場は、思わず息を呑むほど華やかだった。
水の神々や聖獣たちが、豊かな恵みを携えて地上へと現れ出るかのような、壮麗な彫刻が広がっている。その筋肉の一筋までが精緻に彫り込まれ、陽光を浴びて輝いている。
「なんて素晴らしいの……」
思わずこぼれた言葉に、二人はどこか誇らしげに微笑んだ。
「レティも気に入ってくれると思った。この仕掛けはなーー」
彼らが誇らしげに解説を続ける傍らで、私の視線は自然と南棟へと吸い寄せられた。そこから、朝礼に向かうのであろう騎士団が次々と姿を現した。思わず目で探してしまう。
(ああ、一目でも、見れたら……)
説明を聞きながらも、私の瞳は無意識に、あの凛とした焦茶色の髪を探し求めていた。騎士団のネイビーのスーツの合間から、水色のジャケットは見えないだろうか。けれど、いくら目を凝らしても、カイル王子の姿は見当たらない。
「レティ!おい、聞いてるか?」
シャオンが私の肩を掴んで、また顔を寄せてきた。いつもの癖で、私は反射的に身を引き、視線を落とした。触れられた場所が、ひどく冷たく感じる。
「ごめん、まだ調子悪かったのか?送っていくよ」
「ああ、ありがとう」
私は結局、王子の影すら感じることもできないまま。シャオンに促されるまま王宮を後にした。後ろ髪を引かれる思いで何度も振り返ったが、高い城壁が私たちの間を非情に隔てていた。
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(キリアン目線)
その様子を、朝礼前のカイルは回廊の陰からじっと眺めていた。
「バイオレットが、シャオンと来てる……」
低く、地を這うような王子の呟きがこぼれた。隣にいたキリアンは、その声に驚いて、慌てて振り返った。カイルは奥歯を噛み締め、拳を白くなるほど握りしめている。その表情は、嫉妬と自己嫌悪が混ざり合った、見るに堪えないほど悲痛なものだった。
「……声かけてこいよ。どうしてわざわざ、そんな遠くから」
キリアンは堪り兼ねて促した。かつて、カイルがバイオレットへの想いを胸に秘め、遠くから見つめるしかなかったあの「長い片思い」の時期。今の彼は、自らその地獄のような苦しみに戻ろうとしているように見えた。カイルは一歩も動こうとしなかった。バイオレットへと向かいたがっている足に、無理やり重い枷をはめているかのように。
「行けよ。今ならまだ間に合う」
キリアンが背中を強く押すと、カイルは弾かれたように振り向き、凄まじい剣幕で怒鳴り散らした。
「行けるわけないだろ!」
「……っ、なんでこっちに怒鳴るんだよ。 自分の気持ちに正直になれよ。ちゃんと話して、誤解を解いてこい!」
「俺といたらまた彼女が狙われる。あんな思いを……、二度と味わせたくない」
「俺みたいに側で見張ってればいいだろ……」
キリアンは言葉を失った。呆然と立ち尽くし、遠ざかるバイオレットの背中だけを、魂が抜けたような目で見送る横顔。不憫で、見ていられなかった。
視線の先では、シャオンがバイオレットの肩に親しげに手を置いている。彼女が怯えたように身を引き、俯いたまま馬車へ乗り込む。バイオレットが王宮の門を出て、その姿が完全に見えなくなるまで、カイルは微動だにしなかった。やがて彼女の気配が消えると、カイルは激しい動悸を抑えるように自分の胸に手を当て、深く、重いため息をついた。その肩は、隠しようもなく震えていた。
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私が寮へ帰ってきて二週間が過ぎようと意していた。さすがに、そろそろ起き上がって、もしもの時のために仕事を探したり、動き出さなければと思った。
(手足が痛いわけじゃないし。身体が自由に動くだけでもありがたいことよね)
気を紛らわせるように、街へ出て必要なものを買い揃えようとした、その時だった。
「号外ー! 号外ー!」
商店街に響き渡る喧騒。勢いよく新聞が配られ、人々が一斉にざわつき始める。
「なんだなんだ?」
「カイル王子が婚約を発表したらしいぞ!」
「相手は母方の親戚の貴族、エメラルダ様だそうだ!」
「来週にはもう婚約式が行われるらしいぞ!」
その言葉を耳にした瞬間、心臓が強く打ち、思わず私も号外へと手を伸ばしていた。広げた紙面の一面に、大きく描かれた二人の姿――そこにいたのは、あの日王宮で私を問い詰めてきた、あの金髪の女性だった。
視界がぐらりと揺れる。
(この前までの宮殿のことは、やっぱり夢だったんだろうか?王子とのこと、私はそもそも何も初めからわかっていなかったんじゃ)
頭の中が真っ白になり、足元の感覚がふっと消えていくような感覚に襲われる。悲しくて、辛くて、自分がどこで生きているのかすら、わからないような感覚だった。それでも何とか歩こうと一歩踏み出した瞬間、固いものにぶつかった。
「おい、大丈夫か……って、レティ?」
顔を上げると、シャオンが驚いたようにこちらを見ている。
「あ……ごめんなさい」
「ふらついてるじゃないか。ちゃんと歩けるのか?」
何も言い返せないまま頷くと、彼は迷いなく私の腕を取った。
「一度戻るぞ。必要なものは俺が買ってくる」
そのまま半ば強引に寮へと連れ戻され、ベッドに横たわる頃には、全身の力が抜けきっていた。
「本当に大丈夫だから……」
「いいから寝てろ。水と食料と薬、全部揃えてくる」
そう言い残して部屋を出ていったシャオンは、しばらくして両腕いっぱいに荷物を抱えて戻ってきたが、その頃にはもう、私は再び眠りに落ちていた。
あれだけ眠ったはずなのに、どうしてこんなにも眠いのだろうと、どこか遠くでぼんやりと思いながら。
「……レティ、もう何も心配するな。俺がいるから」
「ごめん、シャオン」
気遣ってくれるシャオン腕を、私は謝罪と共に突き放した。
「本当に今まで色々とありがとう」
「なんだ?どうしたんだ」
「私ね、シャオンにたくさん助けてもらってたこと、本当に感謝してる……だけど」
「お前が王子を好きなのは見ててわかったけど、さっきの号外見ただろう?もう諦めろ」
「そんなに簡単にはいかないよ」
「俺、待ってるよ」
「シャオン、それは違うと思う。私たち、小さい頃から楽しい時間をたくさん過ごしてきたと思っていたけど、やっぱりお互いに違う方向を見て、別々の道を歩むべきなんだと思う」
私の言葉に、シャオンは俯いた。長いこと待っていたけれど、何も始まらなかった私たち。彼の気持ちだけじゃなくて、私にもそこまでの気持ちはなかったことが今はよくわかっていた。
「レティ。わかった。これからは、いい同僚でいよう。何も心配せずに、今はしっかり休め」
彼はそう言って、すぐに寮を出ていった。
これで、やっとシャオンとのことも、きちんと話し合うことができた、と思えた。
かすかに聞こえた足音だけを残して、私の意識は再び深く沈んでいった。




