第十六話
キリアンとルカの手腕のおかげで、玄関ホールの装飾と黒鉛の柱は、予定より早く完成に近づいていた。連日の工事で疲れ切っていた私たちは、幸いにも進捗が予定を上回っていたこともあり、週に一度は休暇を取ることにしていた。一日中、泥のように眠る日も必要だったのだ。
今年が終わるまで、あと二ヶ月。その日はルカも実家へ帰り、家族と夕食を囲むと笑っていた。実家の遠い私は一人客室に残り、心地よい静寂の中で深い眠りに落ちた。……そのはずだった。
――異変に気づいたのは、夜更け過ぎ。
ガタン、ゴトン、バサッ。誰もいないはずの室内で、不穏な物音が絶え間なく響いてくる。夢か現か、朦朧とする意識の中で起き上がろうとすると、身体はびくともしなかった。いつの間にか両手足は縛られ、猿ぐつわをされている。息が詰まりそうになるのを堪えながら、薄く目を開けると――二人の人影が、部屋を荒らしていた。
すべての棚が乱暴に開けられ、床には洋服や書類が、無惨に散らばっている。
「……別に、このあたりに怪しい様子はないけれど」
「いや、絶対この部屋にあるはずだ! ルカ・エルナンデスも頻繁にここへ入っていくのをこの目で見たんだから」
うっすらと開けた視界に映ったのは、王妃の側近である執事と秘書だった。以前、私と王子を尾行してた人たちだ。
幸い、地下への隠し戸は、私の手首に刻んだ魔導認証がなければ開かない。たとえカイルが助けに来ようとしても、この騒々しさを察知すれば、策を練らずに踏み込んでくることはないはずだった。私は恐怖を抑え込み、寝たふりをして二人の会話を探ることにした。
「部屋の中のどこにも、何もなさそうだが」
「……やはり、今すぐ彼女を起こして、ここで尋問するしかないか?」
お風呂場やベッドの下まで、あらゆる場所をひっくり返した二人の声に、焦燥の色が混じり始める。
「設計図やメモをひと通り見たが、これだけでは大したことは分からないな」
「あんた、そもそもお妃様からはどこまで話を聞いているの?」
「俺も同じだ。王子とこの女が『王家の重大な秘密』を隠蔽している。何としてもその証拠を掴め……とな」
「……私も今の大きな工事に関係があることだって聞いてるけど」
「じゃあ、この設計図も全部没収していくか?」
「そうね。彼女の専門を考えると、やはり水道塔の改修が怪しいと、お妃様も仰っていたし」
(水道塔……? お妃様は、あそこを狙っているの……?)
二人が図面を手に密談を続ける中、私は心の内でわずかに息を吐いた。彼らが血眼になって探しているのは、あくまで「表向きの計画案」に過ぎない。一番重要な、黄金の角sy場所へと続く真の設計図は、ここにはないのだ。
皇女の側近たちが散らばった図面を拾い集めている時だった。だいぶ深夜にもかかわらず、急に扉の向こうで複数の足音と話し声が通り過ぎた。
「……酔っ払いか?」
「大変、もう三時半だわ。五時になれば使用人たちが動き出してしまう」
「カイル王子たちに見つかる前に、一度場所を移すか。別の場所に手がかりを隠している可能性もあるしな」
「南棟を出た私の部屋へ連れて行きましょう。……指先や手から徐々に炙れば、すぐに吐くでしょうし」
秘書の冷酷な声に、背筋が凍りついた。
(た、大変……。手を炙られるなんて……!)
「手を炙る」という言葉を聞いた瞬間、指先の奥がずきりと疼いた。何も触れていないのに、まるで、骨の内側から焼かれるような痛みが蘇る。思わず息が詰まり、指に力が入らない。今、もしまた私の手が動かなくなったら、計画がすべて滞ってしまう。
(……先に、縄に水の魔法でもかけられないかしら。少しでも緩めば……!)
私は一か八か目を開け、助けを求めて手足を縛られたまま、喉が張り裂けんばかりに叫んだ。廊下を通った人たちに、あるいは隣室の誰かに、そして――カイルに届くことを願って。
「んん――っ!! んんん――!!!」
「やべえ、起きたぞ!」
即座に執事が私の首筋にナイフを押し当てた。冷たい刃の感触が、喉元にぴたりと吸い付く。ほんのわずかに力を込められただけで、皮膚が容易く裂けてしまいそうだった。
「騒ぐと危険だよ。大人しくしな」
「この部屋のどこかに、何か隠しているんだろう? 今吐いた方が楽になれるわよ」
「静かに話す約束をしないと、どうなると思う?」
彼らの脅しや喉元のナイフなどお構いなしに、私は狂ったように声を出し続けた。
「んーーー!!」
すると、鋭い痛みが走ると同時に、するりと刃が私の首筋を滑った。一瞬遅れて、じわりと熱い感覚が広がる。温かい液体が鎖骨へと伝っていくのが分かった。生々しい恐怖に、一瞬だけ声が詰まる。
「しぶとい女ね……。言うこと聞きなさい!」
その時、客室のドアの向こうで、再び誰かの足音がした。私はその音に縋るように、最後の一滴の力を振り絞って叫んだ。
「んんん――っ!! んんん――!!!」
「ちっ、まずいな。急いでここを出るぞ!」
ベッドの上で必死にジタバタと暴れたが、口元に押し当てられた薬の匂いが広がるとともに、急速に意識が遠のいていく。 頭から黒い袋を被せられ、視界は完全に閉ざされた。
男の肩に担がれ、客室を出る。階段を降りる振動。そして、彼らが用意していたのであろう荷台に乱暴に放り込まれた。 ガタガタという不快な振動と、肌を刺す冷たい夜気。荷台に乗せられたまま中央棟の玄関を出た、その時だった――。
「――お前たち、随分と早いな。秘書のユキエールと、執事のヒーロだろう? そこで何をしているんだ?」
王宮の中庭。まだ底知れぬ真っ暗闇が支配する中、低く、冷徹な声が響き渡った。一斉に鳴り響いたのは、重厚な騎士団の足音。灯火ひとつない闇の中では、互いの顔すら定かではない。声を出せば即座に正体が露呈すると悟ったのだろう、呼び止められた二人は返事もできず、ただその場に凍りついた。
カイルとキリアン、そして彼らを取り囲む騎士たちの包囲網が、じりじりと狭まっていく。
「……こんな時刻から仕事か?」
「随分と重そうな荷物だが、中身は何だ?」
キリアンとカイルが荷台へ歩み寄り、私の体を覆う袋に手を伸ばした、その瞬間。
ユキエールとヒーロは弾かれたように裏手へ向かって走り出した。
「追え! 一人も逃がすな!」
キリアンの怒号が夜の静寂を切り裂く。すぐに縄が解かれ、袋が剥ぎ取られ、一気に視界が開けた。
「バイオレット! バイオレット、大丈夫か!? 君の部屋で物音がして、急いで回ったんだ」
目に飛び込んできたのは、見たこともないほど蒼白になり、唇を震わせるカイルの顔だった。
「ああ……っ! なんてことだ、首から血が……! 誰か、王医を早く! どうしよう、本当にごめん、僕が遅かったばかりに……っ」
カイルの涙で濡れた腕に抱きしめられた瞬間、私は深い安堵の中で意識を手放した。遠のく意識の淵で、彼のひび割れたような声が聞こえた気がした。
「……二度と、こんな目に遭わせない。絶対に、何があっても!」
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気がつくと、私は微かな光の中にいた。意識はまだ朧げだが、横たわっているのはいつもの客室ではないことに気づく。
(ここは……どこだろう?)
高い枕に預けた頭を動かそうとすると、首元の包帯が微かに突っ張った。ふと横を見れば、ベッドの傍らにカイルが座っていた。私の手を両手で包み込んだまま、疲れ果てたように眠っている。ずっと、こうして私の目覚めを待っていてくれたのだろうか。
(……大袈裟なんだから。あんなに騒ぐほどの傷じゃないのに)
少しおかしくなって、思わず小さく吹き出してしまった。それでもまだ、薬のせいか眩暈がして酷く眠い。もう一度目を閉じようとした、その時だった。
「バイオレット? 起きたの? 大丈夫!?」
カイルが弾かれたように顔を上げた。だが、私と目が合った瞬間、彼の安堵した表情はみるみるうちに崩れ、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「どうしたの?カイル。私は大丈夫よ」
「全然、大丈夫そうには見えない……。ああ、どうしよう、本当に大変なことを……」
声がかすれている。普段の落ち着いた姿とはまるで違う、取り乱した王子を見て、私は思わず微笑んでしまった。
「全然。まだ少し眠いだけだから」
「ごめん。秘密の扉がバレるのを恐れて、表へ回ったのがいけなかったんだ!キリアンを呼んでいる暇なんてなかったのに……」
彼は私の手を握りしめ、泣きながら、私の髪を慈しむように何度も撫でた。
「ちゃんと助けてくれたじゃない」
「お願いだ。ゆっくり休んで、早く元気になってくれ……」
「そんな、オーバーな……。本当に、ちょっと切れただけで、なんともないのに」
私の笑顔を見ても、彼の目からは次々と涙がこぼれ落ちる。私が手を伸ばし、指先でその涙を拭うと、彼は私の指を捕まえ、手のひらに縋るような熱い口付けを落とした。うっとりとそれを見つめていると、ゆっくりと彼の顔が近づいてくる。
触れるだけの、静かな口づけだった。
一度離れたと思ったら、その後、彼は確かめるように、何度も、唇が私の唇をなぞっていく。優しくて、甘くて、溶けるような温かいキス。胸の奥から突き上げてくる愛おしさに、気がつけば、私は彼の背に腕を回していた。彼もまた、私の頬や肩をそっと包み込むように触れてくる。
混ざり合う吐息。互いの体温が、ゆっくりと溶け合っていく。唇がふと離れると、彼は切羽詰まったような切ない眼差しで、私を覗き込んでいた。私はその火照った頬をゆっくりと撫で、深い充足感の中で再び目を閉じた。
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「バイオレット!! 大丈夫!? 私がいない間になんてこと……っ!!」
次に目を覚ました時、視界を埋め尽くしたのは眩いほどの朝の光だった。
ベッドの傍らで、ルカが今にも泣き出しそうな顔で私の手を握りしめている。辺りを見渡せば、そこは昨夜の微睡みの中で見たのと同じ、見覚えのない豪華な客室。けれど、そこにカイルの姿はなかった。
「……もう、どうにかなっちゃったのかと思った! 全然起きないんだもん。心配したんだから!」
ルカは目を開けた私に勢いよく抱きつき、耳元で叫んだ。
「ご、ごめん、ルカ……」
謝る私の背中にしがみついたまま、彼女は声を潜める。
「聞いたよ。あんた、完全に狙われてるって。今、カイルとキリアンが、部屋をどう移動させるか話し合ってるわ」
その言葉に、私たちは互いに目を合わせた。もはや、どこに誰の耳があるか分からない。一挙手一投足に細心の注意を払わなければならない、本当の戦いが始まったのだ。
「身体は大丈夫なの?痛くない? 首から血を流してたって……さっきまで王子、真っ青な顔でつきっきりで、生きた心地がしないって様子だったわよ」
ルカが私の首の包帯を、痛々しいものを見るような目で見つめる。
「全然痛くないし、ちょっと表面を掠めただけよ。みんな、大袈裟なんだから」
私が努めて明るく笑うと、ルカの表情にもようやく微かな笑みが戻った。
「ならいいけど……。でも、施工が九割方終わった後で本当に良かったわ。怪我人を無理に働かせるのも忍びないし、残りの工程なら、だいぶ余裕を持って動けるはずよ」
「そんな、怪我人だなんて。私はまだ動けるわ」
私たちがそんなやり取りをしていた、その時だった。
遠慮のないノックの音が響き、キリアンが入ってきた。
「失礼。決定事項を伝えに来たよ」
その険しい表情、一度も私と目を合わせようとしない頑なな態度。一瞬にして、部屋の空気が凍りついた。背筋を嫌な予感が駆け抜ける。
「バイオレット。君には今日から、建築省の寮へ戻ってもらうことになった。……工事は、こちらだけで進める」
「えっ!? ちょっと、何言ってんのよ、キリアン! どういうこと!?」
ルカが弾かれたように立ち上がり、彼に詰め寄った。
「バイオレットの安全を第一に考えた、王子の決断だ」
目を伏せて淡々と告げる彼の胸元まで迫り、ルカは小さな声で怒っていた。
「どうするつもりなのよ! 仕上げの十パーセントが一番肝心なのよ!? 施工後の調整だってあるし、バイオレットがいなきゃ無理に決まってるじゃない!」
「……ルカ、私、そして王子で執り行う。既に手筈は整えた」
「はあ!? 正気なの!?」
押し合うように激しく言い合う二人を、私はただ呆然と見つめていた。
「バイオレットへの支払いは、全て初めと変わらない条件で今日すでに終えた。ご実家にも確認してほしい」
キリアンから告げれられる言葉が、ありがたいことなのに、どこかとても冷たいものに感じてしまう。
(ああ……どうして。どうしてカイルは、今、ここにそれを伝えに来ないの……?一目でも、お顔が見れたらよかったのに)
答えは、胸の中に既にあった。
私を守るために、距離を取るつもりなのだと。それと同時に、自分自身の「情」を断ち切ろうとしているようだった。私をこの危険な計画から切り離し、このまま離れてしまうことも含めて、安全な場所へ帰そうとしているのだ。
目の前が真っ白になった。
あの優しくて、どこまでも甘かった熱い指先が、一瞬にして、もう届かないものになってしまった。もう、あの腕の中には戻れない。昨夜のあの口づけは、再会の約束ではなく、彼なりの「永遠の別れの儀式」だったのだ。
その残酷な事実に気づいた瞬間、全身を張り裂けるような痛みが貫いた。




