第十話
客室に戻った頃には、すでに午後三時を過ぎていた。
すっかり埃と泥にまみれてしまった私たちは、二人で交互にお湯を浴びて、洗面台で衣服を整えることにした。私は王子に促されて、先に手早く湯を浴び、着替えを済ませて部屋に戻った。王子のために急いで、自分の濡れた髪を拭きながら王子に手拭いを渡すと、彼は一度も目を合わせることなく、「あ、ありがとう」とだけ言って、そそくさと浴室へと駆け込んでいった。
(……?)
少し不思議に思いながらも、私は椅子に腰掛け、髪を拭きながら待つことにした。しばらくすると、浴室の扉が開いて、王子が湯上がりの姿で現れた。彼の湿った髪を乾かす、あまりにも艶やかな姿に、私ははっと息を呑んだ。少しはだけた胸元、お湯上がりでほんのりと熱を帯びた頬、湯上がり特有の無防備な色香があまりに眩しく、心臓が跳ねた。
(……これは、大変だわ)
もし、王子が私の部屋に来て、二時間以上も滞在していることが他の人に知られてしまったら――。どう考えても、大きな誤解を生むに違いない。恥ずかしいけれど、何かしらの情事の後だと勘違いされてもおかしくはない状況なのではないだろうか、と自分でも思ってしまう。
(明日からの身の振り方を徹底的に考えておかないと)
そう自分に言い聞かせる一方で、私はどうしても王子の姿から目を離すことができず、ついじっと見つめてしまっていた。王子は手拭いを口元に当て、ふと私と視線を合わせた。
「……ああ、すまない。少しくつろぎすぎたかな?」
王子はそう言って、慌てて一番上のボタンまで留め、手拭いを首にかけた。見惚れていたことがバレてしまったようで、気まずくて私は慌てて視線を逸らす。
けれど、王子は誰かに聞かれるのを警戒して、いつものようにテーブル席の椅子を私のすぐ横に移動して、顔を寄せ、さらに声を潜めた。
「明日からの行動、どうしようか。まずは、あの鍵の謎を解くのが先決だね」
「そうですね……あのう、カイル王子。王様たちは、私たちが財宝を追っていることに気づいているのですよね?」
「うん。おそらく王と王妃は確信している。けれど、下手に騒ぎ立てて他の勢力に勘付かれるのを恐れているはずだ。だから、今は側近に見張らせるだけに留めているんだろう」
「それなら、しばらくはダミー行動を取りませんか?私が一人で別の場所を調査するふりをしたり、別の改修を提案したりして、王たちの目を逸らすんです」
「そうだね。じゃあ、僕もしばらくは溜まっている仕事を片付けるね。あとは、鍵の謎も解かなくちゃいけない」
王子は真っ直ぐに私を見つめ、深く頷いた。
「分かりました。では、明日から私は一人で庭や礼拝堂を回りながら、鍵のことも図書館で調べてみます」
「うん。じゃあ、毎日、朝晩の食事の時に、その後の動きをすり合わせよう」
「はい!」
すると王子は、ふと思い出したように私の方へ少し身を寄せ、さらに声を落とした。
「実は……財宝を見つけた後の『隠し場所』を作る際にも、大規模なダミー工事を並行しようと考えているんだ」
「ダミー工事、ですか?」
「ああ。建設省に依頼して、図書室や中庭の改修を正式に考えようと思っている。君に相談した結果、ブルーノやシャオンに協力を仰ぐ形にすれば、君がここで活動する正当な理由になるし、彼らの目も欺ける」
話が早いどころか、王子がすでに私の立場を守るための布石まで考えてくれていたことに、胸が熱くなる。
「……さすがです。そこまで細やかに考えてくださっていたのですね」
「君に負担をかけてしまうけれど、本命の工事は、皆が寝静まった夜に進めるしかないだろうから」
「はい。少しずつ日程をかけて、最も効率的で目立たない方法を練ります」
「よろしくね、バイオレット」
信頼に満ちた王子の微笑みに、私は力強く頷いた。二人だけの「秘密の作戦」が、いよいよ本格的に動き出そうとしていた。
「それから、地下へ行く時のことですが……。王や王妃以外の者たちに、私たちがこうして長時間、同じ部屋にいるのを見られたら、確実に関係を怪しまれますよね?」
懸念を伝えてふと見上げると、いつの間にか至近距離にいた王子の顔に、思わず心臓が跳ねた。しかし王子は至って自然な様子で、ふわりと優しく微笑んだ。
「ああ、ごめん。言っていなかったけれど、その辺りは大丈夫だよ」
「え?」
「実は……僕の部屋にも、ここから行けるんだ」
王子がさっと立ち上がり、棚を開けて魔法扉の横にある壁に腕をかざした。するとみるみるうちに、壁面に見たこともない精緻な装飾の扉が浮かび上がり、その先が王子の部屋のクローゼットへと繋がっているのが見えた。
「ええっ!? では、今までどうして……」
(お風呂だって、待っている間にご自分の部屋で入ればよかったんじゃ……?)
私の視線の意図を察したのか、王子は「あ……」と声を漏らし、一生懸命に言い訳をするように言葉を重ねた。
「ご、ごめんね。君が……気持ち悪いかと思って」
「……?」
「だって、いきなり『知らない男の部屋と繋がっている』なんて言われたら、絶対嫌だろう? ちゃんと君の信頼を得てから話すつもりだったんだ。驚かせてしまったかな?」
驚いている私に、王子は慌てたように言葉を継ぎ、まるで一生懸命言い訳をするように続けた。
「はあ」
正直、最初から教えてもらった方が誤解を招かずに済む方法が考えられたのでは……とも思ったけれど……。彼なりの気遣いなのかな……。
「次からはこちらの扉を使って出入りするよ。そうすれば、廊下で誰かに見られて誤解されることもないから」
「……はい。承知しました」
私はまだ少し不思議な気持ちだったが、深く頷いた。
「今日は、僕たちが急いで部屋に入るところを誰にも見られていないはずだから、僕は自分の部屋へ戻るよ」
「はい、わかりました」
私の顔色があまり良くないように見えたのか、王子はとても心配そうな顔で、こちらを気遣うように覗き込んできた。思ったよりも距離が近くて、思わず息を止めてしまう。
「あのね……本当に、大丈夫だから。夜中にこっそりこっちへ潜り込んだりなんて、絶対にしないからね」
「えっ?」
「ほら、今までだって一度も来なかっただろう?もう信用できるはずでしょう?」
「それは、まあ……」
「自由に行き来できるからって、僕が覗きに来るんじゃないかって心配かもしれないけど……誓ってそんなことはしないから! 信じてほしい」
必死に念を押し、手を合わせてまで、あたふたとしている王子の姿があまりに可愛らしくて、私は思わず吹き出してしまった。
「大丈夫です。そんな心配、これっぽっちもしていませんから」
「ええ……? 心配してよ、普通はするでしょうに……」
王子は解せないといった表情のまま、自分の着替えと髪を拭いた手ぬぐいを抱え、軽く挨拶をすると、魔法の扉の向こうへと消えていった。
その後、夕食の時間になると、彼はいつものように廊下側の正門から迎えに来てくれた。二人で静かに食事を楽しみ、密度の濃い一日は終わりを告げた。それからしばらくの間、私たちは午前も午後も、あえて別々に行動した。大広間や中庭、礼拝堂など、全く無関係な場所を熱心に調べて回り、図書室では何冊もの本を広げる。すべては監視の目を逸らすための「ダミー」の動きだ。そうして周囲を欺きながら、私たちはそれぞれの孤独な時間の中で、あの「鍵の謎」について深く思考を巡らせていた。




