のど飴ひとつで魔石が輝く白い鉱山
「ああもう、運が悪い!」
私は部屋に帰り着くなり崩れ落ちた。
ずっと楽しみにしていた海外旅行へ行くはずだったのに、空港に着いて友人と二人で呆然とした。
ロビーは次から次へとやってくる人であふれ返っていたけれど、ゲートは一向に開かない。航空会社のカウンターは長蛇の列だ。
「どうなってるの?」
慌ててスマホで検索すると、システムの不具合というニュースがヒットする。
カウンターに向かって怒鳴る声も聞こえていたが、係員たちはひたすら頭を下げるばかりだ。
空港でずっと待ち、ようやく伝えられた言葉は復旧に数日かかるとのことで、暗くなってから家に帰ってきたのだった。
「本当なら今頃は、空の上だったのに」
数日も待たされては休暇がなくなってしまう。
仕事をやりくりしてやっとのことで予約したのに、こんな事態になってしまい残念だ。
「行きたかったなぁ」
普段とは違う異国の風景に触れ、現地の空気を肌で感じてみたかった。
ベルサイユ宮殿にルーヴル美術館、パリのオペラ座など、友人が組んでくれたコースは魅力的だった。
仕事に追われる生活の中に、少しだけ刺激が欲しかった。ずっと楽しみにしてたのに!
「……そう言えば」
以前、不思議な体験をしたことがある。
財布から転がり落ちた500円玉を追い掛けたら、別の世界に入り込んでしまった。
あの時のように、もう一度異世界へ行けないだろうか。
石畳の続く街、薄い髪色の人たち、そして――フィロ。
私は立ち上がり、小物入れに入れていた銀の指輪を取り出した。
異世界に行くのはちょっぴり怖い。もしかすると帰って来られなくなる危険性もはらんでいる。
けれど、海外旅行に行きたかったという気持ちが背中を押した。
違う世界の風を感じ、その場所のにおいを嗅いでみたい。
指にはめると、冷たい金属の感触が伝わってくる。
それだけで、あの凛とした空気が感じられた。
「――何も起こらないか」
目を開けたらあの白い建物が現れた――などと言うこともなく、見慣れた部屋が目に映る。
フローリングの冷たさが、足先から伝わってきた。
あの時の500円玉を取り出して転がしてみたけれど、結果は同じだ。
コロコロと転がって壁に当たり、パタリと倒れた。
「遊んでないで、もう寝よう」
そのままシャワーを浴びて、布団の中に潜り込む。
そっと左手の指輪に手を這わせ、その硬い手触りに、少しだけ期待を込めながら目を閉じた。
霧が晴れるように視界が開けていく。
宇宙を思わせる深い青空に、雪を抱く山脈が映えている。
そこから視線を落とすと、白い石で造られた街並みが現れた。
汚れた服を身につけて、大きなハンマーやシャベルを持った人々が行き交っている
冷たい風が頬を撫で、私はハッと意識を取り戻した。
「えっ、ここどこ? フィロのいた国じゃないの?」
確かセリアンと言っていた。芸術と学問の街で、少しイギリスに似た雰囲気があったはず。
でも今いる場所は違うようだ。
ゴロゴロと石が山積みに置かれ、鉱山のにおいが感じられた。
少し歩いて建物に近づくと、細い道のところどころに屋台が出ている。
豪快に肉を焼きスライスしている焼き肉屋、大きな鍋からは豆と野菜を煮込んだシチューの香りが漂っていた。
ずらりと並べられたパンを売っている店もある。
大きめの丸いパンが3Gだ。300円程度ということだろうか。
その他にも生活に必要な服や靴、バッグにアクセサリー。使い方のよくわからない工具などが売られていた。
「これは――」
私は並べられている小さなピアスに引き寄せられた。
スターの入った青い石に、銀の翼が着いている。
まるで今にも羽ばたいて、飛んで行きそうなデザインだ。
「お姉さん、オルディア鉱山は初めて? オレはキオ。よかったらこの辺を案内するよ」
アクセサリーに見入っていると、背後から声を掛けられた。
振り向くと、十歳ぐらいの少年が立っている。
茶色の髪に汚れた服。袖や膝は引っかけたように破れている。
着替えがなくて汚れたと言うより、仕事か手伝いをして、白い粉が付いてしまったという感じだ。
「この鉱山は有名だからね。世界中で使われてる魔石は、ここで採れる物が多いんだ」
少しかすれた声でそう言うと、人懐こそうににこりと笑った。
魔石って、ファンタジー小説に出てくるあの魔石?
疑問が顔に出たのか、少年はポケットから赤い石をひとつ取り出して見せる。
ルビーのように赤いけど、陽の光を浴びて蛍光しているように輝いていた。
「ねっ、どう? 損はさせないよ」
「ありがとう。でも私、お金を持っていないのよ」
身につけているのは、旅行用のマウンテンパーカーに、斜めがけのショルダーバッグだ。
パリ旅行用に用意したもので、中身もそのまま入ってる。
財布のお金は日本円で、とてもここで使えるとは思えない。
ピアスの値札にも70Gと書かれていた。
「お金じゃなくてもいいからさ」
少年は必死に食い下がる。その様子に根負けして、バッグの中を探ってみた。
「こんなものしかないけど、おひとつどうぞ」
彼の手にひとつコロリと乗せると、自分でも袋の中に指を入れ、ひとつ摘まんで口に入れる。フルーツの香りが鼻に抜けた。
「えっ、なにこれ……?」
赤くて丸い玉を手のひらに乗せたまま、彼は目を大きく見開いている。
先ほど私に見せていた赤い魔石とよく似ていた。
「のど飴よ。喉が痛い時に食べる飴なの。リンゴの味で、結構おいしいわよ」
そう勧めると、恐る恐る口に運ぶ。目を瞑り、コロコロと口の中で転がしている。
途端、パァと顔を輝かせ、満面に笑みを浮かべた。
「酸っぱいけどいいにおいでおいしい! こんな甘い物、初めて食べた。……あれっ?」
少年の声が本来の澄んだものに戻り、驚きの声を上げている。
「声が、治った!」
のど飴の消炎効果が効いたのだろうか。それとも喉が潤ったからかもしれない。
「ありがとう! お金はいらない。案内するぜ!」
そう言って私の手を取った。
「こっちこっち!」
駆けて行くキオの後を追い掛けて、山の近くまでやって来ていた。
道の周りにはずらりと箱が並べられ、うず高く石が積まれている。
坑道の入り口近くには、標本のように大きな赤、青、黄色の魔石が並べられていた。水色や灰色の小さなものも置かれている。
見張りなのか、入り口の番人なのか、屈強な男性が腕を組んで椅子に座っていた。
男性にジロリと睨まれ、キオは少し距離を取った。
けれど私を振り返り、標本を指す。
「すごいだろ。これがここで採れる魔石さ。火、水、光があるのはここしかない。少しだけど、風と土の魔石も出るんだぜ」
そう言って胸を張り、鼻高々に自慢する。
「えっとその、魔石って何かな?」
私は先ほどから気になっていた疑問を口にした。
彼は一瞬目を見開き、そんなことも知らないの? という顔をする。けれど「この世界の力の源さ」と教えてくれた。
「さっき見せた火の魔石は熱を出す。料理を作ったり、部屋を温めるのに使うんだ。貴族は魔石で動く列車に乗るんだぜ」
彼の視線の先にはSL機関車のような立派な列車が止まっている。
前一両は客車になっていて、後ろは鉱石を乗せるための貨物列車だ。
へぇ、これエネルギー源なのねと、身をかがめて魔石に目を向ける。
ガーネットのような結晶の形をしていて、磨かれた宝石のようにキラリと光を反射した。
「採掘坑はこっちだよ」
キオは大きなトンネルを指し示すと、危なげなく駆け込んで行く。
暗い。懐中電灯がなければ石につまずいて転んでしまうかもしれない。
私はスマホを取り出して、懐中電灯のアプリで足元を照らしながら、恐る恐る中へ入った。
「わぁ、きれい」
中は意外に明るかった。
天井近くの壁一面に黄色の光が点々と、まるでホタルのように坑道を照らしている。これが光の魔石だろう。
光の帯が途切れると、次は青い光が広がった。
青い光に包まれると、とても落ち着く。空気も清浄で、深呼吸をすると深い森の中にいるように清々しい。
ふと気づくと足元が濡れていた。
板が渡され、滑らないように道が作られている。
青い魔石から水が流れ出し、板の下に小さな水の流れができていた。
「この石から出てるの? 不思議ね」
「青い石は水の魔石だからね。小さな欠片を持ち歩けば、わざわざ水筒に水を入れなくてもいいから便利なんだ」
それはいい。水は結構重いから、夏の外出ではバッグを抱えているだけで大変だ。
「貴族たちは庭に池を作ったり、火の魔石と合わせて風呂に使ったりするみたいだよ」
「池まで? それはすごいわ」
雨の降らない砂漠地帯で利用できれば、その価値は計り知れないだろう。
作物も育たない不毛の土地が、緑豊かな農地に生まれ変わる。
「ちょっとこの先すごいんだぜ」
大きくカーブした道を抜けると広い空間があり、まるでこのトンネルの主のように大きな照明がキラキラと、様々な色を放って壁面を彩っていた。
「わぁ、シャンデリアじゃない。こんなものまで作るんだ」
てっきり魔石はエネルギー源だと思っていた。それがこんな豪華絢爛な装飾品になるなんて。
イルミネーションに少し似ている。違うのは、見ているだけでとても穏やかな気持ちなることだった。
「領主さまが客を集めるために作ったんだ。この山はもう掘り尽くされて石は出ないけど、これを見に人がやって来る」
私はすっかり感心してしまった。
鉱山は素材を掘り出すための工事現場だ。それを観光名所にしてしまうとは。
その先には光が落ちていた。トンネルの出口だ。闇に慣れた目に強い光はクラリとしためまいを引き起こす。
「ちょっと目を瞑って。壁に手を触れながらゆっくり歩いて。うん、もういいよ」
頬に風を感じる。水のにおいを含んで、爽やかに髪を撫でていく。
ゆっくり目を開けると、眼前に青い空と、雪を被った山々、それに素晴らしいコバルトブルーの湖が広がっていた。
私は何も言うことができず、ただ黙って湖を眺めていた。
壮大な風景に圧倒される。
しかも自然にできたものではなく、採掘の跡の人造湖だ。
人の手でこんな美しい景色が造られるなんて、価値ある物を追い求める人のエネルギーは、なんてすごいんだろう。
「お姉さん?」
黙り込んでしまった私にキオが心配そうに声を掛ける。
「あ、ありがとう。こんなきれいなものを見せてくれて」
「あっちに貴族の静養地があるんだ。この国の人たちは、みんなこの景色が大好きさ」
湖の畔にカラフルな屋根の建物が並んでいた。
心地よい風が吹くこの土地で、貴族たちは穏やかな夏をすごすのだろう。
戻ろうと歩き出したところで、コツンと靴に何かが当たった。
蹴飛ばしたものがコロコロと転がっていく。
よく見ると、水色の石だった。白い粉にまみれて汚れたそれを、指先で摘まんで拾い上げる。
「それ、風の魔石だよ! お姉さん、ラッキー」
「え、これが? もらっちゃっていいの」
指の腹で擦って汚れを落とすと、透明度の高いアクアマリンのような石が現れた。
小指の先ほどの大きさで、陽にかざすとキラキラと輝いている。
キオは素早く辺りを見回し「いいよ。見つけた人のものになるんだ。でも高価だから、盗まれないようにね」と、ささやいた。
次は湖を案内するからまたよろしくと、手を振っているキオと別れて、街まで戻った。
もう陽が傾いてきている。山に囲まれたこの土地は、陽が落ちるのも早いだろう。
見知らぬ土地でグズグズしているのはよくない。
キオに教えてもらった商業ギルド出張所へ向かい、木の扉をそっと開ける。
「あの、すみません。こちらで買い取りを行っていると伺ったのですが」
元の世界への帰り方がわからない。ならば先に安心できる場所を確保した方がいいだろう。
「いらっしゃいませ。私が担当させていただきます。本日はどのようなお品を見せていただけますか」
受付にいた女性が立ち上がった。
私は彼女の目の前の椅子に座り、バッグの中を探ってみる。
右も左もわからない異世界だ。まずは小銭を見せるのが無難だろうか。
財布に触れた手が、ふと止まる。
「こちらはどうでしょうか」
化粧ポーチの中から、銀色のコンパクトを取り出した。
天使が描かれていて、とても可愛い。クリスマスコフレの限定版で、デザインが気に入って購入したものだ。
「これは――どういったものでしょうか」
彼女は目の前に置かれた物を見て、困惑している。
きっと初めて見たのだろう。
「化粧品です。ファンデーション――おしろいで、女性の肌をきれいに見せます」
そう言いながら、ほっぺたを指さす。
そしてコンパクトをパチンと開けると、パフを手に取り、反対側の甲にファンデーションを塗りつけた。
「まぁ! 肌の色が均一になりました。白くなめらかで、なんてきれいに見えるんでしょう」
細かい皺もシミも消え失せて、現れた輝くような肌に女性は感嘆の声を上げる。
そして目を輝かせ、食い入るように私の手を見つめた。
どうぞと言って差し出すと、粉に触れてその感触を指先で確かめている。
「そう――ですね。こちらは素晴らしいものですが、お品としては骨董品扱いとなります」
あまり値が付かないということだろうか。
「あの、素材としてはどうでしょう。このおしろいはあなたにも作れると思うんです」
「わたくしにも?」
意外なことを言われたのか、彼女は目を見開く。
オイルなどの基礎化粧品ならともかく、メイク用品を素人が作り出せるとは思いも寄らないのだろう。
「さきほど坑道を見学しました。あの辺りの道の白い粉、あれはセリサイト(絹雲母)ですよね。それに赤と黄色の鉱物の粉を混ぜ合わせれば作れます」
実際に化粧品カウンターで作ってもらったことがある。
本人の肌の色を見ながら混ぜるので、ピッタリ合ったものが作れると評判だった。
女性は絶句して、手にしたコンパクトを息を呑んで見つめている。
これは画期的な商品の作り方だ。まさか一介の客から製造ノウハウまで聞けるとは、思ってもみなかったのだろう。
白い粉と使い終わった火の魔石、光の魔石を砕いて混ぜれば近いものが作れるのでは。
白い粉は溶かして布や板に塗れば、内装などに使えるかもしれない。
――などとつぶやいていた。
「あの」
声を掛けるとハッとしたように私を見る。
「そのようなお話を私などにされて、よろしいのでしょうか」
「こちらのコンパクトを、少しいいお値段で買い取っていただけるのでしたら、構いません。よろしくお願いします」
そう言って、私は彼女にニッコリと笑いかけた。
そう、今私に必要なのは宿代だ。
出し惜しみをしても仕方がない。
なにやら資料を引っ張り出し、確認をしている。石板に文字を書き込み、計算ができたのか顔を上げた。
「このお品、300Gで買い取りをさせていただきます」
そう言って足元から箱を出し、私の前に銀貨を3枚並べた。
私は頭を下げ、換金したお金を財布に入れて、バッグにしまう。
そして立ち上がり、歩き出したところでふと彼女を振り返る。
「すみません、このあと宿に泊まりたいのですが、どこかお勧めはありますか」
元の世界に戻れる保証はなかった。
前回はうたた寝から覚めると自分の部屋だったけど、今回もそうなるとは限らない。
「お客さまでしたら、正面から出て左へ真っ直ぐ行った先にある、赤い屋根の宿がよろしいでしょう。ベッドが描かれた看板が下がっていますから、すぐにわかりますよ」
宿泊費も先ほどのお金で十分お釣りが来ると教えられ、私は恐縮する。
こんな親切な人ばかりならまた来たい。――そう思った。
「ありがとうございました」
彼女に見送られながら店を出た。いい取引ができたので鼻歌交じりだ。
傾いていた陽はすっかり落ちている。山の稜線に名残の赤を残して、星々が空を飾っていた。
山から吹き下ろす冷たい風が、体温を奪う。吹き飛ばされてきた雪も混じっている。
私はパーカーのファスナーを首元まで上げた。
「そう言えば、あのピアス」
来た時に見かけたアクセサリー店を思い出した。
ふわりと浮かぶ丸い天使のようなピアスが、どうしても気になる。
あの店の方向に足を向けた。
少し歩いて戻ったけれど、辺りは暗く、照明も落とされてシンとしていた。
先ほどまで行き交っていた人々の姿もなく、建物の影が石畳に落ちるばかりだ。
残念。また明日、来てみよう。
そう思ってきびすを返し、宿への道を歩き出そうとしたその時だった。
「おら、金出せよ!」
ギャッと言う悲鳴とともに、土嚢が投げ出されるような音がする。
「命まで取ろうってんじゃねぇ。お前の財布に用があるんだよ」
柄の悪い男たちの声が聞こえ、私は思わず身を硬くした。
――強盗だ。もしくは酔っ払いの暴漢か。
平和な日本に慣れ、この地でも美しい景色と親切な人に出会ってすっかり気持ちが緩んでいたけれど、ここは見知らぬ異世界だ。
陽が落ちてから女一人で歩くなど、不用心にもほどがある。
バッグを服の内側に入れ、フードで顔を隠した。
そろそろと足音を立てないよう慎重に歩く。見つからないようにと願うばかりだ。
「おい、そこのお前!」
鋭い声が向けられ、私は思わず飛び上がる。
ゆっくりと振り向くと、伸び放題の髪に、だらしない髭で顔半分が覆われている、赤ら顔の男たちが目に入った。
「金目の物を置いていけば、痛い目には遭わねぇよ」
ヘヘッと笑いながら指をボキボキと鳴らしている。言っていることとやっていることが全然違う。
その瞬間、私は反射的に駆け出した。
「あっ、こら待て」
「追い掛けろ」
相手は大柄な男たちだ。恐らくこの鉱山の鉱夫だろう。そんな力仕事をしている男相手に、事務員の私がかなうはずもない。
石畳の街を走る、走る。すぐに息が切れ、肺が焼け付くようにうずいている。
硬い靴底で地面を蹴る音が近づいて、もうだめだと思った、その瞬間。
バッグから取り出した袋の中身を握りしめ、街灯の光の中へ放り投げた。
キラキラと赤い宝石が舞い踊る。
明かりに照らされたいくつもの赤い光が輝いて、地面に落ちて跳ね回る。
「おっ、火の魔石だ!」
「オレのだ」
二人は目の色を変えて赤い石を追い掛けた。
その隙に私は一目散に走り去る。
石畳の道がスニーカーの裏にゴツゴツと当たり、走りにくい。けれどそんなことは言ってられない。
振り向きもせず、真っ直ぐに、ただひたすら頭の中が真っ白になるまで走り続けた。
「はっ!」
目を開けると見慣れた天井が視界に飛び込んだ。
まだあの緊張が抜けきらず、心臓がドキドキと早鐘を打っている。
視線を動かし見回すと、自分のベッドの中だった。
「――危なかった」
大きく息を吐いてから、ゆっくりと身を起こす。
まだ足の裏に石畳の感触が残っているようだ。手のひらには甘いにおいの粉が付き、少しべたついている。
私はベッドから降り、洗面台へと歩いて行った。
「夢――じゃないよね」
ぬるま湯で顔を洗いながらそうつぶやく。白い鉱山の街に色とりどりの魔石、案内人の少年とギルドの女性、そして――暴漢。
ぶるりと身を震わせたけれど、薄いパジャマのせいだと思い込む。
夢の中での冒険は楽しかった。怖い思いもしたけれど、青い湖の風景が鮮烈に頭に貼り付いて離れない。
基礎化粧品を塗って、メイクをしようとショルダーバッグに手を伸ばす。
ポーチを開けて中を覗くと何か足りない。――コンパクトがなくなっているのに気がついた。
「えっ」
声を上げ、バッグの中身も確認してみると、のど飴の空袋が見つかった。機内は乾燥するからと、ジップロックにまとめて入った個包装ではないものを買い求め、バッグに入れておいたのにひとつもない。
「やっぱり、夢じゃなかったんだ」
財布を開いてみると、見慣れない銀貨が三枚入っていた。
500円玉と同じくらいの大きさだ。少し不格好で、書かれている文字は読めない。
私は立ち上がり、マウンテンパーカーのポケットに手を入れた。
小指の先ほどの大きさの小さな石が、コロリと出てくる。
アクアマリンによく似た水色の透明な石だ。キオは風の魔石と言っていた――。
それを右手で握りしめて目を閉じた。
ゆっくりと息を吐き、手の中の物に意識を集中させる。
髪の毛が重力に逆らって漂い始める。
体が持ち上がる感覚がして、ゆっくりと足の指先が床から離れ、ふわりと体が浮き上がった――。
「――なんてことは、ないか」
目を開けると、ハンガーの前でただ立っているだけだった。
空を飛べたら面白かったのにと、少し残念だ。
その時、机の上に置いていたスマホがチリリと鳴った。
「あっ、葵? 飛行機の代替便が取れたよ。なんと直行便! ミールクーポンももらえたから、シャンゼリゼ通りのレストランでディナーを食べよう」
弾んだ声で友人が嬉しい知らせを伝えてくれる。
壁の時計をチラリと眺め、すぐ向かうねと言って通話を切った。
送られてきたメールを見ると、9:20のフライトだ。今から出ても十分間に合う。
この季節に吹くというジェット気流に乗って、通常より数時間も早く着くらしい。これなら最初の経由便で行くのと大差ない。
私は慌てて支度する。
ファンデとのど飴は空港の免税店で購入しよう。
憧れのパリへ、ジェット気流に乗って――。
……もしかして、風の魔石が力を貸してくれたのかな。
そんなことを考えながら家を出る。
清々しい風に背中を押されながら、空港へと向かった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作は長編作品と同一世界観の短編です。
長編『異世界投資でゆとり暮らし始めます』も投稿しています。
よろしければそちらも覗いていただけると嬉しいです。




