9 泣いてなどいられませんわ!
白い指が、白銀の毛並みを撫でていた。
それはまるで月の草原のように光を弾き、神々しく柔らかい。
「フェンリル……。わたくし、どうしたらいいのかしら……」
ヴァレリア・ハルトマンはベッドの上に蹲り、愛犬フェンリルの背に顔を埋めていた。
フェンリルは元軍用犬――いや、ほとんど狼と呼んでいい巨体の獣だ。
“戦乙女”と呼ばれる彼女にふさわしい相棒だった。
「はぁ……セドリック様……」
その呟きが消えかけた瞬間――
「ヴァレリアぁぁああああ!!!」
轟音とともに扉が開いた。
「ヴァレリア! 兄だ!」
ヴァレリアは気だるげに顔を上げ、フェンリルの背に顎をのせたままつぶやく。
「……お兄様、女性の部屋に入る時はノックをしてくださいませ」
「おう! それは悪かった!」
ラインハルト・ハルトマンは大股でずかずかと近づき、腰に手を当てて妹を見下ろした。
「妹よ! もふもふしている場合ではないぞ!」
ヴァレリアは再びフェンリルに顔を埋める。
フェンリルは青い瞳を細め、穏やかに兄妹を見比べていた。
「……お兄様。ヴァレリアは今、人生最大級の挫折を味わっているのです。放っておいてくださいませ」
ラインハルトはフェンリルの顎をぽんぽんと撫でてから、妹の前にしゃがみ込んだ。
「まだ婚約は正式に解消されていない! 多分、父上が止めてくださっている!」
「でも……セドリック様が……婚約解消したいと……おっしゃって……」
ヴァレリアの瞳に、じわりと涙が溜まる。
ラインハルトはため息をつくと、妹の肩を掴み、ぐいっとフェンリルから引き剥がした。
「ハルトマン家の“戦乙女”よ! そんな弱気でどうする!
うかうかしていたら、セドリックは国外へ行ってしまうぞ! 本当に、二度と会えなくなる!」
「……国外へ?」
「そうだ! 以前からそういう話が出ていたらしい!」
ヴァレリアの涙が一粒、頬を滑り落ちる。
「……セドリック様が国外へ行かれてしまったら……もう、お姿を拝見することもできませんわ……」
「そうだ! 優しいお兄様が入手したセドリック直筆メモのコレクションも増えなくなる!」
ヴァレリアは兄を見上げた。
ラインハルトは真剣な顔で妹を見つめる。
「ヴァレリア! 欲しいものは、自分で手に入れろ!」
「……はい」
ヴァレリアはぎゅっと瞳を閉じ、涙を落としきった。
そして、もう一度目を開けたとき、その青い瞳には光が戻っていた。
「お兄様。わたくしは、セドリック様をお慕いしています」
「知っている!」
「どうすれば……セドリック様をお引き止めできますの?」
「……知らん!」
ヴァレリアの瞳に再び涙が盛り上がる。
「泣くな泣くな! 一緒に考えよう!」
「……はい!」
フェンリルは小さく身震いし、二人の前に伏せた。
大きなあくびをひとつして――
その青い瞳に、どこか「やれやれ」と言いたげな光が宿っていた。




