7 朧月の下で
家には帰りたくなかった。
ヴァレリアは足の向くまま、王立魔導工廠の研究者たちがよく立ち寄る書店へと入った。
魔導力学の棚の前に立つ。
真っ先に目に入る――セドリック・ヴァーミリオンの名。
彼の著書は、すべて持っている。
――なぜ?
――そんなの、分かってる。
――わたくしが素直になれないから。
――彼を支える力が、わたくしにはまだないから。
――彼を引き留める魅力が、足りないから。
背表紙に伸ばした指先が震える。
視界が滲み、文字が霞んで見えなかった。
ヴァレリアは結局、何も手に取らず店を出た。
石畳の上を、ふらりふらりと歩く。
侍女は黙って、その背を追った。
足を止めたとき、背後で侍女が小さく息を呑むのが分かった。
顔を上げると、近くに若い男性が立っていた。
彼女の顔を見た瞬間、彼は驚いたように目を見開き、すぐに落ち着いた声を出す。
「失礼。ハルトマン嬢、あちらにベンチがあります。木陰になっていて人目も少ない。よければ、少しお休みを」
ヴァレリアが侍女を振り返ると、心配そうな目で頷かれた。
言葉も出ず、彼女はその誘いに従う。
男性が差し出した手に、自分の手をそっと重ねた。
噴水公園のベンチ。並んで腰を下ろすと、男は穏やかに名乗った。
「俺は、ラインハルトさんの同僚のアレク・フォン・リーベルです。何度か顔を合わせたことがありますが……覚えておいででしょうか」
覚えがなかったが、ヴァレリアは曖昧に頷いた。
アレクは懐からハンカチを取り出し、彼女に差し出す。
「ハルトマン嬢。涙を」
ヴァレリアは頬に触れて、初めて濡れていることに気づいた。
小さく頭を下げ、ハンカチを受け取って目元を押さえる。
――人前で泣いてしまうなんて……。情けないわ。
「何か、悲しいことがあったのですか?」
「……さぁ、どうでしょうか」
アレクは無理に踏み込まず、空を見上げた。
「ご覧ください。もう白い月が出ています。朧月ですね」
ヴァレリアもつられて視線を上げる。
「明日は、雨かもしれませんね」
「……はい」
「でも、明後日はきっと晴れますよ」
「そうでしょうか」
「うーん、じゃあ明々後日は晴れるかもしれません」
「……ふふ。適当ではありませんの」
ヴァレリアが思わず小さく笑うと、アレクも穏やかに微笑んだ。
「ほら、少し晴れたでしょう? だから、きっと明日は晴れです」
ヴァレリアは息を吐く。
「お気遣い、ありがとうございます。助かりましたわ」
「いいえ。貴女が笑ってくださったなら、俺の方こそ光栄です」
「ハンカチは洗って、兄を通してお返しいたします」
「そのままでも構いませんよ」
「それは申し訳ないですわ」
アレクは立ち上がり、手を差し出した。
ヴァレリアはそれを取り、ゆっくり立ち上がる。
「お帰りになりますか? 送りますよ」
「実は、馬車を待たせておりますの」
「では、そちらまでご一緒に」
並んで歩く。
言葉は交わさなかったが、沈黙がやさしかった。
やがて王立魔導工廠の正門が見える。
明日も、あそこへ行かなくてはならない。
どんな顔をしていけばいいのか――。
ヴァレリアは小さく息を吐いた。
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その少し前。
先にカフェを出たセドリックは、一度ラボに戻っていた。
やりかけの仕事を片づけ、机の上を整える。
いくつかの書類をバッグに詰め、静かに正門を出た。
王立魔導工廠の近く――噴水公園。
ベンチに腰かける美しい金髪の女性が目に入る。
つい、足が止まった。
隣には、見目の整った若い男。第一騎士団の制服が、月光に白く光っている。
――“我らが第一騎士団には、彼女にふさわしい男がいる。”
――そうか。あの男のことか。
二人が並ぶ姿は、まるで絵画のようだった。
セドリックは視線を落とし、踵を返す。
朧月が、静かに空に浮かんでいた。




