6 解けた糸
王都でも評判のカフェ。
馬車から降り立ったヴァレリアは、白地のシンプルなドレスをまとっていた。
それでも通りを行く人々の視線は、次々と彼女に吸い寄せられる。
彼女はそれを気にすることもなく、侍女を連れて店に入り、使用人の案内で半個室の前に立った。
そっと胸元の翡翠のブローチに触れる。
カーテンが開かれ、部屋の中が見えた。
先に来ていたセドリック・ヴァーミリオンが席を立ち、静かに一礼する。
ヴァレリアの頬が、ほんのり紅に染まった。
「お待たせしてしまったかしら」
「いえ」
彼の背後には大きな窓。差し込む陽光が黒髪を柔らかく照らし、厚い眼鏡の奥の瞳を淡く光らせていた。
本当の瞳の色は――胸元のブローチと同じ、深い翡翠。
侍女を下がらせて部屋に入り、席につく。
店の使用人が紅茶を注ぎ、ヴァレリアの前にフルーツのケーキを置いた。
それは彼女の好物。セドリックが、いつも先に注文しておいてくれる。
ケーキを見たヴァレリアの唇が緩みそうになり、慌てて表情を引き締める。
婚約して三年。
こうして二週に一度、婚約者としての時間を過ごしてきた。
ヴァレリアにとっては宝物のような時間――けれど、本音を言えたことは一度もない。
「相変わらず、なよなよしいですわね」
――儚げな姿が素敵すぎます。
セドリックは眉を下げ、「すみません」と苦く笑う。
そして、コーヒーをひと口。
――コーヒーが飲めるなんて、大人ですわ……お兄様なんか全く飲めませんのに! どこまで素敵レベルを上げるおつもりですの!?
「貴方は紅茶はお飲みになりませんのね」
翡翠の瞳がヴァレリアを見る。
「……そうですね。僕はコーヒーの方が好きです」
「この国では、コーヒーを嗜む方は稀ですわ」
――そこがいいのです! セドリック様にコーヒーは似合いすぎます! ああ、淹れ方を覚えましょう! “美味しい”って言わせたいですわ! 帰ったら執事に相談ですわね!
「そうですね……」
セドリックは小さく息を吐いた。
「……僕は、この国には合わないのかもしれませんね」
「……え?」
ヴァレリアが瞬きをする。
セドリックはすぐに小さく首を振った。
「そちらのケーキ、季節の果物を使った限定だそうです。お口に合うといいのですが」
「そ、そうなんですの。いただきますわ」
――美味しい! 最高ですわ! セドリック様が選んでくださったものなら泥でも御馳走でしょうけれども!
「美味しゅうございますわ」
「良かったです」
セドリックの口角が、穏やかに上がる。
――笑ってくださった! 百点満点! いえ、一億点ですわ!!
「……あの、ヴァレリア嬢」
「はい」
――セドリック様のお声で紡がれる“ヴァレリア”ほど美しい音楽がこの世にありまして!?
セドリックは一度、視線を手元に落とした。
息を整え、顔を上げる。
「申し訳ないのですが――婚約を、解消させていただけませんか」
「……え?」
時が止まった。
耳鳴りがする。
ヴァレリアの指先からフォークが滑り落ち、皿の上で小さく音を立てた。
「やはり僕では、貴方の婚約者は務まりません。
三年も縛りつけてしまったこと、本当に申し訳なく思います。
正式に、貴女のご家族へ申し出をさせていただくつもりです」
「なぜ……なぜですの?」
震える指をテーブルの下に隠す。
セドリックは視線を落とし、小さく首を傾げた。
「貴女は誇り高き“戦乙女”。
それに比べて、僕は“ベルゼブブ”。
……悪魔は、美しい貴方には相応しくありません」
「そんなこと……」
セドリックは椅子を引いた。
「重ねて申し訳ありませんが、今日は先に失礼します」
深く頭を下げ、彼は静かに部屋を出ていった。
残されたのは、紅茶の香りと、彼の残り香だけ。
ヴァレリアは、彼が座っていた椅子を見つめたまま動けなかった。
「……嘘ですわよね?」
その小さな呟きは、誰の耳にも届かなかった。




