4 ベルゼブブの夜
日が暮れた頃、セドリック・ヴァーミリオンは白衣を脱ぎ、紺のコートを羽織った。
王立魔導工廠・第二実験棟の正門をくぐり、石畳の通りに出る。
蒸気管の吐息が街の空に混じり、青白い魔導街灯が風に揺れていた。
角を曲がったその先で、足を止める。
街灯の下に、体格の良い三人の若い男が立っていた。
青白い光の中で、彼らはまるで影のように無言のままセドリックを睨みつけている。
じりっと一歩下がったところで、男の一人に肩をつかまれた。
「おい、ベルゼブブ伯爵」
その呼び名に、セドリックの眉がわずかに動く。
自分が陰でそう呼ばれていることは知っている。
だが、面と向かって口にされるのは久しぶりだった。
書類ケースを持つ手に力がこもる。
「僕に、何か御用ですか?」
精一杯睨み返すが、瓶底眼鏡が街灯を反射し、彼の瞳は光の向こうに隠れた。
「お前はいつ、婚約を辞退するつもりなんだ?」
「え?」
「お前のような男に“戦乙女”は分不相応だと、分からないのか?」
セドリックは視線を石畳に落とす。
そんなこと――自分が一番よく分かっている。
「我らが第一騎士団には、彼女にふさわしい男がいる。
とっとと婚約者の座を明け渡さないか」
「……僕の一存で決められることでは」
言葉を言い終える前に、顎を掴まれ、顔を上げさせられた。
「お前がまず声を上げなきゃ、どうにもならんだろうが。
“戦乙女”は健気に耐えているんだからな」
「耐え……てる、ですか」
か細い声が漏れる。
雑に顎を放された衝撃で、セドリックはよろめいた。
三人は舌打ちを残し、闇の向こうに消えていく。
青白い灯の下、ひとり取り残されたセドリックは、しばらくその場に立ち尽くした。
「……そうか。ヴァレリア嬢は、我慢してるのか」
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寮の部屋に戻ったセドリックは、灯りもつけずに扉を閉めた。
コートを脱ぐことも忘れたまま、机の上の封書を手に取る。
ジーッ、と時計の歯車が規則正しく刻む音だけが、部屋に響く。
封を開くと、見慣れた筆跡が目に入った。
――師からの手紙だ。
今、前線で使われている魔導兵装のほとんどは、個人の魔力量や素質に合わせて調整されている。
誰にでも扱える兵装など存在しない。
セドリックはその常識を覆したかった。
彼が求めていたのは、“選ばれた者”だけが戦う世界ではなく、誰もが生きて帰れる戦場だった。
だが、その理想は、この国では異端と見なされていた。
魔導兵装は恐れられ、忌避される。
彼の名を聞いて顔をしかめる者も多い。
国外の師は、幾度も彼を誘ってきていた。
「お前の研究を、正当に評価できる場所がここにある」と。
「……潮時かな」
セドリックは息を吐き、封書を伏せた。
思い浮かぶのは、青い瞳の婚約者。
あの婚約は、国に留めるための鎖にすぎない。
美しすぎる彼女の存在は、ただただ重荷だった。
会うたびに放たれる鋭い言葉。
その一言一言が、胸の奥に刺さって離れない。
卓上の魔導ランプに手をかざすと、青白い光がともる。
セドリックはペンを取り、静かに書き始めた。
紙を走るペンの音と、時計の音だけが響く。
窓の外では、青白い月が滲んでいた。




