12 戦乙女、運命を追う
興奮も冷めないまま帰宅したヴァレリアは、自室に入るなり視線を巡らせた。
侍女たちが着替えの準備をしているのを横目に、愛犬フェンリルを探す。
「フェンリルは?」
「お部屋にはいらっしゃいませんよ。お庭では?」
窓辺に寄り、庭を見渡す。しかし姿は見えない。
いつもなら、ヴァレリアが帰宅した瞬間に駆け寄ってくる子だ。
「フェンリルを探してくるわ」
「お嬢様、お着替えだけでも済ませてしまいましょう」
「……翡翠のワンピースがいいわ。今日はセドリック様にお会いできないもの……」
侍女がにこやかに微笑み、翡翠色のコレクションの中から季節に合う一着を選んだ。
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ヴァレリアは庭を駆け回った。
厩舎も、庭師小屋ものぞいて回る。だがフェンリルの姿はどこにもない。
裏庭で素振りをしているラインハルトを見つけた。
「お兄様! フェンリルがいませんの。見かけませんでしたか?」
「見てないな! 元軍用犬だ。訓練されてる。そのうち戻ってくるだろう!」
素振りを続けながら答える兄に、ヴァレリアはため息をついた。
足がわずかに震える。
セドリックを失いかけている今、フェンリルまでいなくなるのでは――そんな恐怖が胸の奥で膨らんでいく。
ヴァレリアは踵を返し、駆け出した。
「おい! ヴァレリア! どこへ行く!」
兄の声にも振り返らず、彼女は本能のまま屋敷を飛び出した。
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セドリック・ヴァーミリオンは、魔導飛空船から雲の上の飛行港へ降り立った。
ここからは小型の魔導空陸両用車で陸へ戻る。
大きなトランクを持ち上げ、並んだ魔導車の中から一台を選ぶ。
御者が荷台にトランクを積む間、セドリックは座席に腰を下ろし、鞄からノートを取り出した。
――隣国アークメル王国の師の研究所で、新型兵装の共同研究契約について話を聞いてきた。
待遇は悪くない。いや、今よりもはるかに恵まれている。
何より、あの国では彼が歓迎された。技術も理想も、理解されたのだ。
魔導車のエンジンが唸りを上げる。
ピストンが忙しく動き、背後の魔導管から白い蒸気が噴き出す。
窓の外では、街の黒い尖塔群が灰色の煙を吐きながら近づいてきた。
――帰りたくない。
――けれど、帰らなければ。
心の中でせめぎ合う声が、雲の間に溶けていく。
「……婚約は、いつ解消されるだろう」
解消され次第、師に連絡して契約を結ぶ。
後継者を指名し、引き継ぎを済ませ、新しい住まいも探さなければ。
「忙しくなるな……」
小さなつぶやきは、魔導エンジンの音にかき消された。
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飛行港駅に降り立ったセドリックがトランクを持ち上げた瞬間、背後から強い衝撃を受けて前につんのめった。
次の刹那、背中に重みがのしかかり、しゃがみ込んだセドリックの頬を温かいものが舐める。
「こらこら、やめなさい」
笑いながら振り返ると、白銀の巨犬――フェンリルがいた。
息を荒げ、舌を出し、セドリックの顔をまた舐めようとする。
両手でその巨大な頭を押さえて距離をとる。
「やめてって」
駅の人々は驚きつつも、彼の穏やかな笑みに安心したのか、何も言わずに通り過ぎた。
立ち上がったセドリックは、フェンリルの頭を撫でる。
「どうしてここに? 君のご主人様は?」
フェンリルは小さく「くぅん」と鳴いた。
――この犬、初対面で僕を噛んだのに。
それ以来、犬は少し苦手なんだけどな……。
なぜか、今日はやけに懐いている。
「困ったな……」
セドリックは髪をかき上げ、ため息をついた。
「一緒に、ハルトマン家に行こうか」
フェンリルは嬉しそうに尻尾を振り、彼の足の上にどっかり座った。
「えぇ……」
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その様子を、柱の陰から見ていたヴァレリアは、息をのんだ。
――セドリック様のあの優しい微笑み!
――よだれが出てしまいますわ!
ヴァレリアは首を左右に振る。
――いえ、こんなことしている場合ではありませんわ!
呼吸を整え、震える手を握りしめ、一歩前へ踏み出す。
フェンリルが彼女に気づいて立ち上がり、走り出す。
その動きを目で追い、セドリックは驚いて肩を揺らした。
「セドリック様」
「ヴァレリア嬢……? なぜここに?」
翡翠のワンピースの裾と金の髪が風に舞う。
「セドリック様、突然で申し訳ありませんが――
わたくしは決闘で勝ちたいのです!
どうか、一ヶ月間、わたくしの師となっていただけませんでしょうか!」
ヴァレリアは腰を直角に折り、深々と頭を下げた。
「け……決闘!?」
セドリックはただ立ち尽くす。
その間を、蒸気を含んだぬるい風が静かに通り抜けていった。




