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10 素直になる練習

「セドリック様! ご、ごきげんよう!」


 王立魔導工廠・第二実験棟プロメテウス・ラボの中庭。

 蒸気管の吐息と鳥のさえずりの中、ベンチで本を読んでいたセドリックが顔を上げる。長い前髪がさらりと揺れた。


 ヴァレリアは優雅に彼の隣に腰を下ろす。

 締まりきらない白衣の下には、藍色のシンプルなワンピース。体の線を隠しているのに、不思議と目を引く。


「ごきげんよう。ヴァレリア嬢」

 分厚いレンズの奥で、翡翠の瞳が細められる。それだけでヴァレリアの胸はきゅっと締めつけられた。


 ――天使降臨ですわ!!


 兄ラインハルトとの作戦会議の結果、セドリックに並び立つ実力をすぐにつけるのは無理。

 まずは「素直になること」から始める――そう決めたのだ。


 ヴァレリアは頬を染めたまま、唇を震わせる。

 セドリックは小首を傾げ、穏やかに見つめた。


 ――その仕草は反則ですわ! 心臓が破裂してしまいます!!


「あ、あの……何をお読みですの?」

「これは、魔導回路について書かれた本です。

 《エーテル導路の共鳴干渉と流束安定化理論》――という題名でしてね。

 魔力を蒸気圧と同調させる際の、回路抵抗の数式が中心です」


 ――なんとなく分かりますが、結局分かりませんわ! 悔しい!


「そうですの……。わたくし、セドリック様著書の入門書でさえ四苦八苦しておりますのに……。す、す、す……」


 ――素敵ですわ!! 尊すぎますわ!!


 言葉が出ずにうつむくヴァレリア。金の髪が頬にかかり、表情を隠す。

 セドリックはきょとんとし、遅れて穏やかに笑った。


「読んでくれているんですか。嬉しいな。分からないところがあれば、気軽に僕に聞いてください」


 その一言に、ヴァレリアは両手で顔を覆った。


 ――お兄様! ごめんなさい! ヴァレリアは今日が命日ですわ!!


 セドリックは様子のおかしい彼女を気にせず、また本に視線を戻した。

 ヴァレリアは指の隙間から彼をそっと見つめる。ページをめくる指、わずかな息遣い――その全てが胸を締めつける。


 ――また微笑んでくださらないかしら……。


 ふと、セドリックが顔を上げ、目が合った。

 困ったように微笑む。


 ――神はいた……!!


 ヴァレリアは息を飲み、深く吸い込んで――放った。


「あのっ!!」


 思いのほか大きな声が出て、セドリックの肩がびくりと震える。

「……はい。どうしましたか?」

「あ、あの……。騎士団の親睦ガーデンパーティーに、わたくしも参加するのです。……セドリック様もご一緒にいかがですの?」

「……いつですか?」

「六日です」


 セドリックは本を閉じ、少しだけ眉を下げた。

「申し訳ないのですが、予定を入れてしまっていて……」

「あ……そ、そうなのですね。いえ、急にお誘いしたわたくしが悪いのですわ!」


 しどろもどろになるヴァレリアを見て、セドリックも慌てて両手を振った。

「いえ、そんな! まだ、曲がりなりにも僕は貴女の婚約者です。

 パートナーが必要な時は、ぜひお声がけください。極力、参加しますから」


 ヴァレリアの呼吸が止まる。


 ――“まだ”……。

 ――やはり、婚約解消は前提なのですね……。


「……はい」


 蒸気笛が鳴り、鉄の鐘が響いた。

 セドリックが顔を上げ、本を抱えて立ち上がる。


「休憩時間が終わりましたね。僕は戻ります」


 丁寧に頭を下げ、彼は静かに去っていった。

 残されたヴァレリアは唇を噛みしめる。


「……お慕いしています。……なんて、とても言えませんわ」


 風が吹き抜け、白衣の裾が揺れた。

 ヴァレリアもベンチを立ち、見習い部屋へと急いで戻る。

 その小さなつぶやきは、風に攫われていった。

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