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第2部 第1話:悪魔のオーディション、再び

◯テレビ局・オーディション待合室(昼)


二年という月日は、多くのものを変える。

今日のオーディションの待合室にいるのは、もはや無名の若手ではない。誰もが一度はスクリーンやテレビで見たことのある、実力と人気を兼ね備えた俳優ばかりだった。その中でも、ひときわ強いオーラを放つ二つの影があった。


西園寺レン(27)は、静かに目を閉じ、精神を集中させていた。

かつての傲慢な王子様の面影はない。二年前のドラマ『硝子ガラスの恋』での覚醒以降、彼はオファーされる役柄のすべてで、見る者の魂を揺さぶる生々しい演技を見せつけ、今や同世代のトップランナーとして誰もが認める存在となっていた。彼の周りには、尊敬と、畏怖が入り混じった空気が漂っている。


もう一人は、部屋の隅で、深く帽子をかぶった星野あかり(24)だった。

彼女の隣では、マネージャーが必死の形相で声を潜めている。


マネージャー

「あかりさん、本気ですか!? 来月クランクインする主演映画を蹴ってまで、刑事ドラマの端役なんて……! 事務所の社長、倒れますよ!」


あかり

「分かってる。でも、このドラマを撮るのが、あの人じゃなかったら、私もここにはいない」


彼女の瞳には、かつての怯えではなく、確固たる意志の光が宿っていた。

硝子ガラスの恋』以降、彼女は一躍スターダムを駆け上がり、今や主演女優として不動の地位を築いている。だが、彼女の心の中心には、常にあの現場があった。あの監督がいた。


その時、待合室のドアが開き、レンが静かに立ち上がった。彼が呼ばれたのだ。

すれ違い様、二人の視線が交差する。


レン

「……やっぱり来たか、お前も」


あかり

「レンさんこそ。主役、譲る気ないでしょ?」


レン

「当たり前だ。あの人の現場は、主役じゃなきゃ意味がない」


その言葉には、あの監督の指導の深さを骨の髄まで理解した者だけが持つ、重みがあった。

レンは、決戦の場へと向かう騎士のように、オーディションルームの扉を開けた。


◯オーディションルーム(昼)


部屋の中央には、審査員席が設けられている。プロデューサーや脚本家が並ぶ中、その中心には、二年という月日がまるで止まっているかのような男が座っていた。

ヨレたジャケットに、眠そうな目。神宮寺わたる(50)だ。


神宮寺

「……始めろ」


レンは、課題脚本のページを開いた。

今回彼が狙うのは、正義感に燃える若き刑事・柴崎。相棒のベテラン刑事と衝突しながらも、事件の真相に迫っていく、もう一人の主人公だ。

レンは、深く息を吸った。

次の瞬間、そこに西園寺レンはいなかった。

目の前で仲間を失い、怒りと無力感に打ち震える刑事・柴崎がいた。技術ではない。彼は、あの雨の夜に教わった通り、自分の中の「痛み」――正義が踏みにじられることへの純粋な怒り――を解放し、役にぶつけた。

それは、誰が見ても完璧な演技だった。プロデューサーたちは、感嘆の声を漏らし、脚本家は自分の書いたセリフが命を得たことに感動していた。


レンは、静かに神宮寺を見つめた。どうだ、これが俺の二年間だ、と。

神宮寺は、長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。


神宮寺

「……上手くなったな、西園寺くん。実に、綺麗にまとめるのが、上手くなった」


その言葉に、レンの背筋を冷たいものが走った。「綺麗」――それは、二年前、彼が最初に否定された言葉だった。


神宮寺

「だが、それだけだ。守りに入ったな。傷つき方を知って、安全に傷つく方法を覚えただけだ。……あの雨の中で、みっともなく泣いてたお前の方が、よっぽど面白かった」


それは、宣告だった。

お前は、再び「空っぽ」になったのだ、と。

レンは、頭を殴られたような衝撃に、言葉を失った。


神宮寺

「……ご苦労さん。次」


非情な声が響き、レンは呆然と部屋を後にするしかなかった。

入れ替わりで、あかりが部屋に入ってくる。彼女は、レンのただならぬ様子に息をのんだが、すぐに覚悟を決めた顔で審査員席に向き直った。


あかり

「星野あかりです。本日は、女刑事・谷口美波役のオーディションに参りました。よろしくお願いいたします」


彼女が挑むのは、二人の男性刑事をデータ分析で支える、冷静沈着な女性刑事の役だった。

課題は、血気にはやる柴崎を、上司として、そして仲間として、静かに諭すシーンだ。


あかり(谷口役)

「(セリフ)待って、柴崎くん。気持ちは分かる。でも、今あなたが行ったら、犯人を取り逃がすだけじゃなく、あなた自身の命も危ないわ。あと5分……5分だけ待てば、応援が来る」


あかりの演技は、完璧だった。声のトーンは理知的で、それでいて相手を気遣う優しさが滲んでいる。プロデューサーたちは「さすが星野さんだ」と満足げに頷いている。これ以上ない、模範解答だった。

彼女が演じ終えると、部屋には称賛の空気が満ちた。だが、神宮寺だけは、つまらなそうにテーブルに肘をついていた。


神宮寺

「……星野さん。君は、いつからそんなに『上手い』女優になったんだ?」


その問いに、あかりの心臓が冷たくなる。それは、レンに向けられたものと同じ種類の、失望の言葉だった。


神宮寺

「完璧だ。非の打ち所がない。だが、ちっとも面白くない。二年前、泥だらけで俺に食らいついてきた君は、どこに行った?」


神宮寺は、おもむろにテーブルに置いてあった、レンが使った柴崎役の脚本を、一冊、あかりの方へと滑らせた。

「星野さん。今度は、そっちをやってみろ。相手役は、俺がやる」

神宮寺はそう言うと、静かに立ち上がった。その背中には、すでにベテラン刑事・村井の気配が漂っていた。

あかりは覚悟を決め、柴崎として神宮寺と向き合った。


神宮寺(村井役)

「(セリフ)……追うなと言ったはずだ、柴崎。あいつはホシじゃない」


あかり(柴崎役)

「(セリフ)あんたの“刑事の勘”ってやつですか? 俺は、俺の目撃した事実しか信じない!」


その声の切実さ、瞳に宿る意志の力が、性別という記号を軽々と凌駕していく。

次の瞬間、あかりは叫びと共に、神宮寺の胸ぐらを掴み上げた。


あかり(柴崎役)

「あんたのせいで、あいつは……っ!」


その瞳から、悔しさと怒りに満ちた涙が、一筋こぼれ落ちる。

神宮寺は、胸ぐらを掴まれたまま、静かにあかりの目を見つめていた。やがて、彼はふっと息を吐き、元の監督の顔に戻った。

「……結構だ」


彼はプロデューサーたちの方を向き、宣告した。

「主役の刑事・柴崎は、彼女でいく」


プロデューサー

「か、監督! お言葉ですが、柴崎は男の役です! 主演女優に男役など、前代未聞ですよ!」


神宮寺

「だから面白いんだろう。俺が撮りたいのは、男の刑事じゃない。正義に殉じようとする“魂”だ。その魂を演じられるなら、性別など関係ない」

彼は、プロデューサーたちの抗議を遮ると、あかりに鋭い視線を向けた。

「……だがな、星野さん。今の君は、柴崎という魂の『器』としては、あまりにも脆すぎる。刑事はな、足音ひとつ、肩の動きひとつで、その人間の生き方が滲み出るんだ。走れ。殴れ。男の喧嘩を学べ。刑事の歩き方を、その骨格に叩き込め。次の本読みまでに、俺の前に『女優・星野あかり』を連れてくるな。『刑事・柴崎』を連れてこい。できなければ、この話はなかったことになる。代わりは、いくらでもいる」


プロデューサーたちが「本当に彼女でいくんですか!?」と尚も食い下がろうとした、その時。


神宮寺

「……西園寺くんを、呼び戻せ」


その場にいた全員が、耳を疑った。

数分後、レンが困惑した表情で再び部屋に入ってきた。自分がなぜ呼び戻されたのか、全く理解できていない顔だった。


神宮寺

「西園寺くん。あんたは、若き刑事・柴崎を演じるには、牙を失った。だから、柴崎役としては不合格だ」

レンの顔に、再び屈辱の色が浮かぶ。

「だがな」と、彼は続けた。「牙を失い、理想と現実の間で擦り切れた男なら、この脚本にもう一人いる。柴崎の相棒、ベテラン刑事の村井だ。今のあんたなら、そっちの役の方が、よっぽどリアルに演じられるんじゃないのか?」


それは、侮辱であると同時に、最後のチャンスだった。

神宮寺は、あかりを部屋の中央に呼び戻した。

「あんたが村井で、彼女が柴崎だ。……始めろ」


レンは、深く、深く息を吸った。プライドも、主演への執着も捨てた。ただ、この監督の現場にいたい。その一心で、彼は脚本のページをめくった。目の前に立つあかりは、もう星野あかりではなかった。自分が失ったはずの、正義の炎をその瞳に宿した、若き相棒・柴崎だった。


あかり(柴崎役)

「(セリフ)あんたの“刑事の勘”ってやつですか? 俺は、俺の目撃した事実しか信じない!」


レンは、ゆっくりと顔を上げた。その目には、もうスターの輝きはない。長年の捜査で光を失い、それでも若き才能を守ろうとする、ベテラン刑事・村井の、深く、哀しい瞳があった。


レン(村井役)

「(セリフ)……その真っ直ぐな目が、いつかお前を壊さんきゃいいがな、柴崎」


その一言で、部屋の空気が決まった。二人の間には、確かに年の離れた二人の刑事の、複雑な絆が見えた。

神宮寺は、それ以上何も言わせず、短く言った。

「……決まりだ。この二人でいく」


◯テレビ局・廊下


部屋を出たあかりは、隣を歩くレンの顔を盗み見た。彼は、まだどこか信じられないという表情をしていた。


あかり

「……レンさん」


レン

「……ああ」


あかり

「私、どうしたら……。男の刑事なんて……体を作り変えろ、なんて……」

不安そうな彼女に、レンは立ち止まり、真っ直ぐに向き直った。その目には、新たな役への覚悟が宿っていた。


レン

「……やるしかないだろ。あんたが柴崎なら、俺は、もうあんたを“女”としては扱わない。スクリーンの中では、あんたは俺の生意気な相棒で、俺が守るべき後輩で……そして、俺がかつて失った情熱を思い出させてくれる、眩しい光だ」


その言葉は、二人の新たな関係の始まりを告げていた。

一人は、肉体の限界を超えるという試練へ。

もう一人は、かつての自分とは真逆の役を演じ、愛しい存在を「男」として見つめ続けるという、精神の試L練へ。

悪魔の采配は、再び二人の役者人生を、誰も予測できない領域へと導こうとしていた。


(第1話・了)

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