第1話:伝説の悪魔
◯都内ホテル・大宴会場(昼)
無数のフラッシュが、祝祭の光となって弾けては消える。
都内最高級ホテルの大宴会場は、新作ドラマ『硝子の恋』の制作発表会見に集まった報道陣と関係者で、いきいきとした熱気に満ちていた。金屏風の前に並ぶのは、この物語を彩る選ばれしキャストたち。その中央に座る男、西園寺レン(25)は、この世の寵愛を一身に浴びるために生まれてきたような存在だった。
司会者
「主演の西園寺レンさん、4年ぶりの恋愛ドラマとなりますが、いかがでしょうか!」
マイクを向けられたレンは、眩しい照明にも億劫そうな素振りも見せず、完璧な角度で微笑む。その笑顔ひとつで、会場の空気が甘く色めくのを彼は知っていた。
レン
「ええ。最高の脚本と、そして何より、こんなに素敵な共演者に囲まれて…僕の俳優人生を代表する作品になる。そんな予感がしています」
計算され尽くした王子様のコメント。だが、誰もそれを気にはしない。彼が放つ圧倒的なスター性の前では、陳腐な言葉さえも特別な響きを持つのだ。
彼の隣で、ヒロインの星野あかり(22)は、背筋を伸ばして固くなっていた。大きな役に恵まれた喜びと、一流の現場にいるというプレッシャーが、その初々しい表情に混在している。
司会者
「さて、皆様!本日は重大な発表がもう一つございます!この豪華キャスト陣を率いる監督が、本日、この場で初めて発表されます!」
会場のざわめきが、一段と大きくなる。業界の噂では、超大物監督が名を連ねていた。レンも初耳だったのか、隣のプロデューサーに「聞いてないですよ」と楽しそうに囁いている。その横顔には、どんな大物が来ようとも、自分こそがこの現場の王であるという揺るぎない自信が満ちていた。
司会者
「その監督は、役者の奥底に眠る才能を根こそぎ引きずり出すとまで言われる、伝説のヒットメーカー!それではご紹介しましょう!」
壮大なファンファーレが鳴り響き、ステージ袖にスポットライトが突き刺さる。
キャストたちの期待、記者たちの興奮。誰もが固唾を飲んで、伝説の登場を待っていた。
しかし、光の中に現れたのは、およそその場の誰の期待にもそぐわない男だった。
ヨレたツイードのジャケットに、覇気のない猫背。眠そうな目をした無精髭の中年男が、眩しそうに眉をひそめながら、時間の流れから取り残されたように、ゆっくりと歩いてくる。祝いの席に迷い込んだ野良犬のようなその佇まいに、会場は水を打ったように静まり返り、「……誰?」という無言の困惑が満ちていく。
男は気にする風もなく、キャスト陣の前に立つと、興味なさそうに会釈した。
プロデューサー
(慌ててマイクを取り、その静寂を打ち破るように)
「ご紹介が遅れました!本作の監督を務めていただきます、神宮寺わたる監督です!」
「じんぐうじ……わたる……?」
記者席から漏れたその名。
その瞬間、まるで禁忌の呪文を聞いたかのように、俳優たちの表情が凍りついた。
数秒前まで完璧な笑顔を浮かべていたレンの顔から、血の気が引いていく。完璧な仮面が音を立ててひび割れ、その下から信じられないものを見た人間の、素の驚愕と恐怖が覗いた。
隣のあかりは、蛇に睨まれた蛙のように硬直し、息をすることさえ忘れている。その瞳には、伝説への憧れと、それ以上に、生贄にされる羊のような純粋な怯えが浮かんでいた。
司会者
(場の異変に気づかず、台本通りに)
「は、はい!それでは神宮寺監督、本作への意気込みを一言、お願いいたします!」
マイクを渡された神宮寺は、鳴り続けるシャッター音を心の底から疎ましげに聞き流しながら、キャストたちの顔を一人、また一人と、品定めするように見渡していく。その視線は、彼らの美しい外面を透過し、その奥で震える虚栄心や不安を、まるでレントゲンのように暴き出していくかのようだった。
やがて、その視線が主演のレンに突き刺さる。
神宮寺
「……面白いものになるかは、俺次第じゃない」
ボソリと呟かれたその声は、マイクを通して会場の隅々まで不気味に響き渡った。
神宮寺
「そこに座ってるあんたたちの、**“嘘”**を……俺がどこまで剥がせるかに、かかってる」
それは意気込みなどではなかった。冷徹な診断であり、これから始まる手術の執刀宣言だった。会場の華やかな空気は完全に切り裂かれ、刃物のような緊張感が支配する。
レンは、神宮寺の視線から目を逸らすことができない。金縛りにあったように、ただその深く昏い瞳を見つめ返すことしかできなかった。
無数のフラッシュの光の中、神宮寺の眠たげだった瞳が、初めて獲物を見つけた獣のように、鋭く光った。
◯テレビ局・大会議室(数日後・昼)
華やかな会見とは打って変わり、無機質な長机が並ぶだだっ広い会議室には、張り詰めた沈黙が漂っていた。最初の読み合わせ(本読み)が始まろうとしていた。
キャストたちは、数日前の会見での衝撃をまだ引きずっているようだった。特にレンは、終始腕を組み、不機嫌そうな顔で窓の外を眺めている。
プロデューサー
「えー、では監督、よろしくお願いします」
神宮寺は、分厚い製本台本をパラパラとめくり、興味なさそうに頷いた。
神宮寺
「じゃ、頭から」
その一言を合図に、読み合わせが始まった。
最初は、滞りなく進んでいった。プロの俳優たちだ、声だけで演じることには慣れている。あかりも、緊張しながらも、必死に役に入り込もうとしていた。
あかり
「(セリフ)お願い、行かないで! あなたがいないと、私……!」
そのセリフを言い終えた瞬間だった。
神宮寺
「……星野さん」
それまで黙っていた神宮寺が、初めて口を開いた。その静かな声に、あかりの肩がびくりと跳ねる。
あかり
「は、はい!」
神宮寺
「今のは、恋人を引き留める女のセリフじゃないな」
あかり
「え……?」
神宮寺
「それは、大勢の前でセリフを間違えまいと必死になっている、ただの星野あかりさんの声だ。役は、どこにもいない」
鋭利なメスのような指摘だった。会議室の空気が凍る。
あかりの顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。図星を突かれた羞恥心で、声も出ない。
次に、レンの番が来た。彼はこの屈辱的な空気を払拭するように、自信に満ちた声で、恋人への甘いセリフを紡ぎ出す。その声色、間の取り方、感情の込め方、どれをとっても完璧だった。さすがは西園寺レンだ、と誰もが思った。
だが、神宮寺は、レンが読み終わるのを待ってから、静かにこう言った。
神宮寺
「……上手いな、西園寺くん」
一瞬、レンの口元に笑みが浮かぶ。
しかし、その言葉は続かなかった。数秒の沈黙の後、神宮寺は決定的な一言を放った。
神宮寺
「上手いが、空っぽだ。綺麗にラッピングされてるだけで、中身が何もない。だから、誰の心にも届かない」
レンの表情が、凍りついた。
全身の血が、頭のてっぺんから足先へ、そしてまた逆流するような、強烈な屈辱。
これまで彼の演技を否定した者など、誰もいなかった。それを、こんな冴えない中年男に、いとも容易く、ゴミ屑のように一蹴された。
レン
「……どういう、意味ですか」
声を絞り出すのがやっとだった。
神宮寺は、そんなレンの怒りなど意にも介さず、台本に視線を落としたまま答える。
神宮寺
「言葉通りの意味だ。君は、泣き方と笑い方のパターンを百通り知っているだけ。そこに君自身の痛みも喜びもない。だから、全部“嘘”に聞こえる」
神宮寺はパタン、と台本を閉じた。
神宮寺
「やり直しだ。あんたたちが“嘘”のつき方を忘れるまで、何度でもな。……じゃ、今日はここまで」
そう言って、神宮寺は一人、会議室から出て行ってしまった。
残された俳優たちは、誰一人として動けない。レンは、拳を握りしめ、カタカタと震えていた。その瞳には、屈辱から生まれた、暗く激しい敵意の炎が燃え上がっていた。
これから始まるのは、ドラマの撮影ではない。
伝説の悪魔による、魂の解剖だ。
そのことに、彼らはまだ気づいていなかった。
(第1話・了)