エピソード8 青物横丁の1人焼肉
静まり返ったレストランの中に、一人。 店員も客も誰もいない。
波田 は、テーブルに座っていた。目の前には一枚の皿。だが料理はなく、ただの白い陶器のプレートがぽつんと置かれているだけだった。
厨房のほうを見やる。 暖色のライトが灯るカウンターの向こうには、食材が並んだ冷蔵庫。鍋がかかるコンロ。開かれたままのワインボトル。
誰もいない。
「……いいのか?」
恐る恐る椅子から立ち上がり、厨房へと足を踏み入れる。ガラス戸の向こうには、熟成肉らしき塊がいくつも吊るされている。横にはチーズが並び、その上には色鮮やかなパプリカやトマトが転がる。
開いてみると、中からは濃厚な香りが溢れ出した。
「こんなにあるなら、ちょっとくらい……」
冷蔵庫からハムとチーズを取り出し、ナイフでスライスする。小皿に並べ、傍らにあったバゲットにのせて口に運ぶ。 噛み締める。塩気と旨味が広がる。
「うまい……」
次に、鍋の中を覗く。 赤ワインで煮込まれた牛肉。香ばしいガーリックバターの香りがする海老のアヒージョ。 手に取って、次々と口に運んでいく。
ワインボトルを手に取り、適当なグラスに注ぐ。ルビー色の液体が揺れる。 一口。 芳醇な香りが鼻を抜け、舌にじんわりとした甘みと渋みが広がる。
だが——
何かが足りない。 どれだけ食べても、飲んでも、満たされない。
こんなに贅沢に好きなものを食べているのに、腹は減ったままだ。 まるで何かが抜け落ちてしまったような、ぽっかりとした感覚。
「なんだ……? なんなんだ、これ……」
そのとき——
「お客さん、お客さん」
誰かの声がした。
「お客さん!お客さん!」
「……ん?」
「お客さん!」
——バサッ。
波田は弾かれるように目を覚ました。 目の前には、タクシーの運転手が振り返っている。
「着きましたよ、天王洲アイルです」
車内は薄暗く、外からはビルの灯りが差し込んでいる。 耳を澄ますと、遠くで船の汽笛が鳴った。
「……夢、か……」
ぼんやりとした頭を振りながら、ポケットから財布を取り出し、運賃を払う。 ドアが開くと、冷たい夜風が吹き込んできた。
足元がふらつく。 寝不足と空腹が、じわりと現実に戻ってくる。
「まともな飯、食ってなかったから……そんな夢を見たのか」
タクシーを降り、夜の天王洲の街へと足を踏み出す。
今日はまだ長くなりそうだ——。
倉庫街だったころの名残を残しながら、オフィスビルやアートギャラリーが点在する天王洲アイル。再開発が進んで整然とした街並みになったものの、どこか寂しげな雰囲気がある。運河沿いにはレストランがいくつか並び、ライトアップされた水面が静かに揺れている。
人通りはまばらだ。観光地というわけでもなく、ビジネス街としての顔が強いこのエリアは、夜になるとひっそりとする。
「ほんと、何もないよな……」
ぼやきながら、スマホを取り出して時間を確認する。
仕事の現場までは、ここから徒歩五分ほど。
波田はコートの襟を立て、静かな街の中を歩き始めた。
目指すのは天王洲にある広告代理店のオフィスビルだ。ラジオ番組のCM枠の打ち合わせが目的で、相手の担当者はワインと牛肉が好きだという話を事前に聞いていた。
そこで、手土産に高級ビーフジャーキーと赤ワインを持参している。
「食い物と酒の話が合う相手なら、打ち合わせもうまくいくかもしれない」
そう思いながら波田はコートの襟を立て、静かな街の中を歩き始めた。
オフィスビルに到着し、受付で名前を伝える。すると、担当者が現れ、会議室へ案内された。
「どうも波田さん、杉本です。どうぞこちらへ」
すぐに会議室へ案内された。
「杉本さん、本日は宜しくお願いします。」
「こちらこそ、相変わらず忙しそうですね。」
「えぇ、お陰様で。あの、こちら、杉本さんのお好きだと聞きまして、」
波田は手土産を杉本に渡した。
「えー!そんなお気遣い、いやー、わざわざすみませんね。ありがとうございます。」
「お口に合いますでしょうか…。」
「嬉しいですよ、本当にありがとうございます。いただきます。」
そのあと二人は改めて名刺交換をし、すぐに仕事の話に移った
「さて…、さっそくですが、今回のCM枠ですね……」
話が進み、飲食チェーンの広告枠や、ナレーションの選定について具体的な議論に入る。
「今期は飲食関連のスポンサーが増えてましてね。グルメ特集も絡める形で進められればと思ってます」
杉本の言葉を聞きながら、波田はふと、さっき見た夢のことを思い出していた。
——好きなものを好きなだけ食べているのに、何も満たされない。
視線を落とし、ビーフジャーキーを見つめる。 杉本の話が遠のき、再び夢の中へ引き込まれていく——。
目の前に再び豪勢な料理が広がる。テーブルには、ローストビーフ、フォアグラのソテー、トリュフが散りばめられたパスタ。ワインのボトルは次々と空き、新しいグラスが並ぶ。
「食え、もっと食え……」
誰かの囁きが聞こえた。
ふと視線を上げると、白いローブをまとった人物がそこにいた。顔立ちはぼんやりとしているが、どこか威厳がある。
「お前は食に飢えているな」
「……誰だ?」
「この世のあらゆる味を知る者だ」
ローブの人物はワインのグラスを持ち上げる。
「だが、お前はただ食べるだけでは満たされない。何が足りぬと思う?」
波田は答えられなかった。確かに食べているのに、何も感じられないのだ。
「それはな——」
神の声が重く響く。
「波田、波田」
「なぜ神が俺の名前を……?」
「波田……、波田!!」
ハッと目を開けると、目の前には杉本が心配そうに覗き込んでいる。
「波田さん!波田さん!!」
「あっ !?すみません!」
波田は我に帰る。
「申し訳ございません、寝不足でつい……」と誤魔化しながらも、波田の意識はすでに別のところに向いていた。
「そんなに忙しいんですか?大丈夫ですか?」
杉本は心配そうな顔で話を続けるが、波田は空腹が限界で、時計をちらちらと確認する。
「夢の中で食べた肉が食べたい…。」
「なるほど、なるほど……」と波田は適当に相槌を打つが、杉本の話は止まる気配はない。
( 肉を食べなくては… ) 波田は決断した。
「よしっ」
「はい?」杉本は不思議そうに波田を見た。
「そうしましたら、その件は私の方ですぐにまとめておきますので!」
食い気が勝り、やや強引に締めに入った。
「えっ? あぁ、は、はぁ……了解…、じゃあ、また改めて」
杉本は、きょとんとした顔で波田を見送った。まるで何かに追われるような勢いで部屋を出る波田に「どうしたんだ?」という困惑が浮かんでいた。
しかし、今の波田にはそんな視線を気にする余裕はない。
もう、限界だ。
杉本を振り切るようにして会議室を出た。
廊下を歩きながらコートのポケットに手を突っ込む。腹が鳴った。空腹がここまで体を支配するのは久しぶりだ。
「肉だ、肉を食べるんだ。肉を食わないと、死ぬ。……」
その思考しか浮かばない。波田は店を目指して歩き始めた。
とりあえず北品川方面へ足を向ける。何かしら飲食店があるはずだ。しかし、歩けば歩くほど周囲はひっそりとしていく。
「……どこだ、ここ?」
ビルとビルの隙間をすり抜けるような細い路地を抜けると、ポツポツと明かりがついた店が見えてきた。だが、どれも違う。
ラーメン屋——今は違う。
寿司屋——そうじゃない。
オシャレなイタリアン——落ち着いて食べる気分じゃない。
焼肉屋が見当たらない。
焦燥感が募る。
足早に通りを進むが、何かが違う。自分がどこを歩いているのか、方向感覚が狂っている。
「クソ……いつの間にか逆方向か?」
ふと見上げると、「南品川」の文字が目に入った。北品川ではない。迷っているうちに青物横丁のほうまで来てしまったらしい。
だが、そのとき——
赤々と光る看板が視界に飛び込んできた。
【焼肉 オモニ屋】
焼肉だ。間違いなく、今の俺に必要なのはこれだ。
迷いはなかった。
空腹に支配された体が、勝手に店の扉を押し開けていた——。
店に入った瞬間、煙と肉の香りが一気に鼻腔を刺激する。目を閉じて深く息を吸い込んだ。
「あぁ……これだ。間違いない」
まるでゴールにたどり着いたかのような安心感に包まれる。
「お好きな席どうぞー」と店員に言われ、テーブル席に腰を下ろす。カウンターで静かに飲むのも悪くないが、今日は違う。しっかりと肉と向き合うための陣地が必要だった。
「まずはビールとキムチだな」
波田はメニューを開いて、即決する。
「この初搾りの生中と、キムチに特製サラダをお願いします」
「初搾りの中と、キムチ、特製サラダですねぇ…」
店員が注文を確認してオーダー票に書き、厨房へ向かう。波田は椅子の背もたれに寄りかかり、ようやくひと息ついた。
空腹のあまり意識が朦朧としていたが、ここに座った途端、じわじわと実感が湧いてきた。
「もうすぐ……もうすぐだ」
「お待たせしました、生中です!」
店員がキンキンに冷えたグラスをテーブルに置く。
波田は一気にグラスを持ち上げ、喉に流し込んだ。
「っくぅ……!!!」
叫びたくなるぐらいの美味しい生ビール。ただただ、五臓六腑に染み渡る感覚を楽しむのみ。
ビールを置くと、すぐさま店員を呼び、肉のオーダーに入る。
「上タン塩、特上カルビ、上ハラミ塩、上ロース、上ミノを!」
「かしこまりました!」
これで準備は万端。あとは肉が来るのを待つのみ……そう思っていた。
ふと、メニューに目を落とした瞬間、視界に飛び込んできた文字。
「石焼ビビンバ」
「……あっ」
すでに肉とビールで満足するつもりだったが、なぜかこのビビンバがやたらと魅力的に見える。焼肉にふさわしい一品。
「……いや、これはシメとして頼むものなのか? いやいやいや、そんなことはどうでもいい。ただ、いま俺はこれが食べたい。」
「すみません、やっぱり石焼ビビンバも!」
店員は少し驚いた表情を浮かべながらも、「かしこまりました!」と快く注文を受けた。
波田はメニューを置き、鉄板の前で腕を組んだ。
「さぁ、戦闘準備は整った……!」
ほどなくして、キムチと特製サラダが運ばれてくる。
キムチは色鮮やかな赤。しっかりと発酵された感じにとろみがある。見るからに辛味と旨味が凝縮されている。
一口。
「おお……!」
口に入れた瞬間、乳酸発酵のシュワシュワーっとした酸味と唐辛子の辛味、そして奥深いコクが広がる。
辛さの奥にしっかりとした旨味があるタイプのキムチだ。これだけでも酒が進みそうだが、今日の主役は肉。あくまでウォーミングアップにすぎない。
次に、特製サラダに箸を伸ばす。
レタス、千切りキャベツ、大根、キュウリが山のように盛られ、特製ドレッシングがたっぷりとかかっている。
「……ドレッシング、旨いな」
酸味と甘みのバランスが絶妙で、すりおろし玉ねぎの風味がしっかり効いている。
野菜のシャキシャキとした歯ごたえとともに、ドレッシングの旨味が広がる。
「なるほど、これは肉を食べる準備運動にちょうどいい」
そしてついに、主役が登場する——。
店員が大きなトレーを抱えながらテーブルに向かってきた。
その瞬間、波田の意識はすべて「肉」に向けられた。
「お待たせしましたぁ、こちらが上タン塩、特上カルビ、上ハラミ塩、上ロース、上ミノですねー!ごゆっくりどうぞ」
テーブルの上に次々と並べられる皿。
まるでフルコースのような豪勢なラインナップに、波田は思わず見惚れた。
——これが今から俺の胃袋に収まるのか。たまらんな。
上タン塩は、思っていたよりも厚みがあり、表面には絶妙な霜降りが浮かんでいる。
特上カルビは、脂が均一に入った霜降りで、照明の下で輝いているように見える。
上ハラミ塩は、赤身の旨味が凝縮されたような色合いで、筋肉質ながらしっとりとした質感が伝わってくる。
上ロースは、しなやかで肉の繊維が細かく、柔らかさが約束された一品。
上ミノは、適度な脂が乗りつつも、ぷりっとした弾力を感じさせる。
「……完璧じゃねぇか」
テーブルの上に広がる肉の祭壇を前に、波田は改めて焼肉の幸福を噛み締めた。
肉を前にして、何から焼くか——そんなのは決まっている。
「まずは、こいつからだ」
波田は、分厚めの上タン塩を箸でつまみ、鉄板の上に置いた。
ジュウゥゥ……ッ!!
厚みがある分、じっくりと火が通る。
表面がキツネ色に変わり、脂がじんわりと浮いてくる。
「……よし」
片面がいい具合に焼けたところで裏返し、さらに数秒。
仕上げにレモンを軽く搾り、一気に口へ運んだ——。
「……ッ、んんんッ!! 旨ンめーーー!!!」
空腹の体に、ダイレクトに旨味が叩き込まれる。
分厚いタンを噛み締めた瞬間、ザクッとした弾力のある歯ごたえ。
次の瞬間、閉じ込められていた肉汁が溢れ出し、ジュワッと舌の上に広がる。
「やっば……!」
肉の甘み、レモンの酸味、塩のシンプルな味付け。
この三位一体が、胃に空いた隙間を一気に埋めていく。
一口目でこれ。
もう、止まらない。
波田はグラスを持ち上げ、ビールを流し込む。
ゴクゴクッ——ッ、プハァ!!
「くぅぅ……ッ! 完璧じゃねぇか……!」
焼肉の最初の一口が、ここまで幸福なものだったのか。
もう一度、箸を伸ばし、次の一枚を焼く。
この夜は、まだ始まったばかりだ。
波田は迷うことなく、次のターゲットへと箸を伸ばした。
上ハラミ塩——。
先ほどのタン塩とは違い、しっとりとした赤身の質感が際立つ。
適度に霜降りが入り、肉の繊維が美しく並んでいる。
「ハラミは普段タレだが……、さぁどんな味か」
鉄板の上にそっと乗せる。
ジュウゥゥ……ッ!!
今度はタンとは違う、しっとりとした肉がじんわりと焼ける音。
表面がキツネ色になったら、裏返し、さらに数秒。
箸でつまみ、ゆっくりと口へ運ぶ——。
「うん!旨い!!」
ハラミ特有の柔らかな食感。
噛むたびに肉の繊維がほぐれ、溢れる肉汁が舌の上を支配する。
塩ダレのシンプルな味付けが、肉の旨味をダイレクトに引き立てる。
「塩もなかなかいいなぁ……」
そう思いながら、次の一枚に箸を伸ばそうとしたその時——。
「お待たせしました、石焼ビビンバです!」
熱々の石鍋をテーブルに置かれた瞬間、「ジュワァァァ……ッ!!」 という音が響く。
視界には、五色のコントラストが美しいビビンバ。
ナムルの色鮮やかさ、キムチの赤、牛ひき肉の香ばしさ、真ん中に鎮座する卵黄。
そして、石鍋の底ではご飯が香ばしく焼かれ、黄金色のおこげになりつつある。
「うわぁ……これはもう、反則級だろ……」
興奮を抑えきれず、すぐさまスプーンを握る。
「まずは混ぜないと……」
スプーンで底からすくい上げるようにかき混ぜる。
ジュウゥゥ……ッと、焼けたご飯が鍋肌を離れ、香ばしい香りが一気に広がる。
そのまま、ひとすくい口へ——。
「……ッ、くぁーー!!」
熱い! でも、うまい!!
ふんわりとしたご飯にナムルのシャキシャキ感、肉の旨味、キムチの辛味、そして卵黄のまろやかさが絡み合う。
さらに、噛み締めるたびにおこげの香ばしさが後追いでやってくる。
「こりゃ、ただのご飯じゃねぇ……」
焼肉の名脇役、いや、もはやもうひとつの主役といってもいい。
波田は一呼吸ついて、次の肉に手を伸ばした。
「特上カルビ」
脂の霜降りが美しく、見るからに濃厚な味わいが期待できる。
焼く前からすでに、旨さが約束されたようなビジュアルだ。
「こいつは、じっくりいこう」
鉄板に乗せると、タンやハラミとは違う、肉厚な焼き音が響く。
ジュウゥゥ……ッ!!
脂が溶け出し、表面が輝き始める。
焦る気持ちを抑えながら、じっくりと火を通し、裏返す。
「よし、いくぞ……!」
噛む前から、すでにとろけそうな柔らかさ。
口に入れた瞬間、カルビの脂が爆発的に広がる。
「……これこれ、これだよ……!!」
甘く、濃厚な肉の旨味が、口の中を一瞬で支配する。
脂のコクがガツンと押し寄せるが、くどさは一切なく、ただただ旨い。
ここで——ふと、視界に石焼ビビンバが入る。
「こいつを一緒にいったら……絶対ヤバいな」
特上カルビをひと口噛み締めた瞬間、すぐさまスプーンでビビンバをすくい、同時に頬張る——!!
「ッッ!!!」
言葉にならないほどの幸福感。
肉の脂とビビンバの香ばしさ、甘さ、酸味、辛味、すべてが融合して、ただただ「完璧な味」として完成する。
「やばい……これ、終わらせたくない……!」
至福の瞬間を噛み締めながら、波田は次の一口を急いだ。
特上カルビと石焼ビビンバの最高の組み合わせを堪能し、波田は満足感に浸りながらも、次なるターゲットに目を向けた。
上ロース——。
先ほどのカルビとは違い、赤身と脂のバランスが絶妙な美しい肉だ。
「よし、いくか……」
鉄板の上に静かに置く。 ジュウゥゥ……ッと、ゆっくりと脂が溶け出し、焼き目がついていく。
一口目は、シンプルに。軽く炙る程度で焼き上げ、口へ運ぶ。
「……ああ、これはこれで最高だ……」
噛むとじんわりとした肉の旨味が広がる。カルビほどの脂の主張はないが、しっかりとした赤身の旨さと、しっとりした食感が心地よい。
だが——。
波田はふと、思いついてしまった。
「……これ、レア気味にして石焼の底にぶち込んだら、どうなるんだ?」
そんな食べ方は聞いたことがない。 むしろ、やっちゃいけない行儀の悪い食べ方だ。
しかし、やらずにはいられなかった。
2枚目の上ロースを、鉄板の上でほんの数秒だけ炙る。中はまだレアの状態。 それを、スプーンで少しずつ焦げついた石焼ビビンバの底へ押し込んでいく。
ジュワッ……。
熱々の石鍋が、じわじわと肉に熱を伝え、レアだった肉がゆっくりと変化していく。
「……これは、絶対にヤバいだろ……」
波田はスプーンで大胆にかき混ぜ、一口。
「……っ、ヤバい……!!」
レアだったロースが、石焼の熱でじっくりと火が入り、ちょうどいい食感になっている。 それと同時に、ビビンバの香ばしさと肉の甘みが一体となり、今までに食べたことのない味わいになっていた。
「御法度かもしれんが、これは革命だな……」
波田はそう呟きながら、さらにもう一口食べる。 焼肉屋でこんな食べ方をする人間がどれほどいるだろうか。 しかし、これほどまでに理にかなった組み合わせがあるだろうか。
そうしているうちに、最後の一品——上ミノに手を伸ばした。
ホルモンの中でも特に歯ごたえのある上ミノ。見るからに弾力のありそうなその肉片を、鉄板の上に乗せる。
ジュワッ……ジリジリッ……
脂が溶け、焼ける音が小気味よく響く。 ゆっくりと表面がこんがりと焼け、適度な焼き目がついた頃合いで箸を伸ばす。
タレにつけ、一気に口へ。
「うん、これだよこれ。」
カリッとした表面の香ばしさ。そして、その後にくる独特のコリコリとした弾力。 噛むほどに染み出すホルモンの旨味が、口の中にじんわりと広がる。
「やっぱ、焼肉にはこれが必要だな……」
波田は満足げに頷いた。
だが——ここで終わるはずがない。
気づけば、また箸が動いていた。
「……よし、最初に戻るか」
そう呟くと、再び上タン塩を手に取る。
ジュウゥゥ……ッ!!
焼ける音が響く。箸を持つ手に迷いはなかった。
タン塩を焼いたかと思えば、ハラミを追加し、ロースを追い、カルビを並べる。 もう順番など気にしない。ただただ、焼き、食べる。焼き、食べる。
生ビールをおかわりし、グラスを持ち上げる。 ゴクゴクッ……ッ! プハァ!!
「……もう誰にも俺を止められない。」
燃料を得たエンジンがトップギアに入ったかのように、波田の食欲は加速していく。
焼肉という戦場で、理性など不要だった。
鉄板の上から肉が消え、最後の一切れを飲み込んだ波田は、グラスを持ち上げ、残ったビールを一気に流し込んだ。
ゴクッ……ゴクッ……プハァ!
まるで長い戦を終えた戦士が武器を置くように、箸をそっと置く。
「……食った、食った」
満腹感がじわじわと体を満たしていく。
すると、隣のテーブルで店員が何かを運んでいる。 白い湯気が立ちのぼる丼。スプーンで掬った客が、ふうふうと息を吹きかけている。
コムタンスープだ。
じんわりとした牛骨の旨味が広がるあれを見てしまったら、スープを頼まないわけない。
波田はメニューを開く。
そこに目に入ったのは、「卵スープ」。
「……これだな」
「すみません、卵スープをください」
「はい、かしこまりました!」
しばらくして、運ばれてきた卵スープ。
透き通ったスープに、ふんわりと浮かぶ卵。 熱々の湯気が立ちのぼり、ほんのりとごま油の香りが漂う。
レンゲですくい、口へ。
じんわりと、優しい旨味が体に染み込んでいく。
「……あぁ、いいなぁ。」
焼肉の締めくくりに、完璧な選択だった。
波田は心の中で隣のお客に感謝した。
スープを最後まで飲み干し、ゆっくりと息を吐く。
「ごちそうさまでした」
波田は満足げに、店をあとにした。
外に出ると、夜の冷たい空気が心地よく感じる。 胃の中でじんわりと広がる満足感とともに、ふっと肩の力が抜けた。
見上げると、都会の夜空にぽつりぽつりと星が浮かんでいる。
「……最高だったな」
静かな夜道を歩きながら、波田はポケットからスマホを取り出し、時間を確認する。
「さて、帰るか……」
夜風が頬を撫でる。
”ふらりと立ち寄った店で、ちょっとだけ人生が変わることもある。
いい店は、いいタイミングで現れるもんだ。”




