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エピソード7 赤羽の厚揚げおでんとホッピーセット


赤羽駅のホームに電車が滑り込み、扉が開いた。湿った空気とゾクリとするような冷気が肌を刺す。


雨だ。それも、冷たい冬の雨。


 ホームに降り立つと、雨粒がコートの肩を打ち、じわりと冷たさが染み込んでくる。空はどんよりとした灰色で、昼間だというのに妙に薄暗い。息を吐けば白く曇り、冷えた指先をポケットの中でギュッと握りしめた。


中央改札へ向かう人々は、皆うつむき加減に歩いている。傘を差していても、しとしとと降り続ける雨は容赦なく襟元を濡らし、体温を奪っていく。


 天井のスピーカーからは「本日は雨の影響で一部列車が遅延しております」というアナウンスが流れていたが、この寒さの前では、そんな情報もどうでもよく思えた。



 改札を抜けると、目の前には赤羽の雑多な街並みが広がっている。駅前のロータリーにはタクシーが数台止まり、乗客を待っていた。小雨に濡れたアスファルトが、ネオンの光を反射して鈍く輝く。居酒屋の看板がすでに灯っている店もあり、雨の日でも赤羽の活気は変わらないらしい。



「寒い…」


思わず口に出してしまう。手袋を持ってこなかったことを後悔しながら、コートの襟を立てて肩をすくめる。こういう日は、どこか温かい店に飛び込みたくなるものだが、まずは仕事が先だ。


波田(はだ) は、傘を広げながら駅前を歩く。これから向かうのは赤羽にある食品メーカー。


「せっかくだし、取引先への手土産を買っていこう。」


改札を出てすぐのデパートの入り口を見つけ、足早に中へ入った。


 エントランスに足を踏み入れた途端、ふわりと甘い焼き菓子の香りが鼻をくすぐった。ショーケースには和菓子や洋菓子が整然と並べられ、どれも手土産に良さそうだ。シンプルにどら焼きにするか、それとももう少し洒落たものがいいか——少し迷う。


「すみません、人気のある手土産ってどれでしょう?」


店員がニコリと微笑み、棚を指さす。


「こちらの『東京あんバターサンド』が人気ですね。しっとりした生地に、餡子とバターの塩気が絶妙に合うんですよ」


(あんバター ‼︎ 俺の好物じゃないか。いや、むしろこういうものは喜ばれるかもしれない。)


「それをお願いします。」


会計を済ませ、紙袋を手に取る。デパートを出ると、雨はまだ止んでいなかった。傘を広げ、取引先へと向かうため、歩き出した。



 デパートを出ると、再び冷たい風が頬を打った。建物の中のぬくもりに慣れた体が、一気に寒さを思い出す。傘を広げる指先がかじかんで、わずかに震えた。


 外は相変わらずの小雨。だが、風があるせいで降っている以上に冷たく感じる。道路の端には、排水溝へ流れきれなかった雨水が細い川のように溜まり、コートの裾に跳ねそうになる。


これだけ冷え込むと、温かいスープでも飲みたくなってくるが、仕事前に寄り道するわけにもいかない。


 目の前には、赤羽の雑多な街並みが広がる。飲み屋街を横目に見ながら進むと、暖簾の奥から焼き鳥の煙が漂ってくる。ふと、暖色の灯りに引き寄せられそうになるが、すぐに意識を戻した。今は飲む時間じゃない。


そんな時、視界の端にバイクが滑り込んできた。


 小さなラーメン店の前で、ヘルメットをかぶったままの男が紙袋を手渡している。配達員だ。背中には大きな保温バッグを背負い、肩口にはしずくが垂れていた。


「出前か…冬の雨の中、大変だな。」


冬の雨の出前はまるでマッチの火を絶やさずに進む兵隊みたいに見える。


温かい料理を届けるために、自分は寒さに耐える。

まるで、仕事とはそういうものだと言わんばかりに。


バイクは再びエンジンを唸らせ、雨の街へ消えていった。


それを見届けた後、傘を握り直し、目当ての食品メーカーへと向かう。


目的地の『赤羽屋食品』は、駅から10分ほど歩いた場所にあった。やがて、目的地である食品メーカーの看板が見えてきた。


 創業50年の老舗で、もつ煮や赤羽コロッケを製造・販売している会社だ。地域密着型の企業として、地元の飲食店とも深い繋がりがある。赤レンガ造りの建物に、小さく会社のロゴが掲げられている。ドアの前で足を止め、一度深呼吸する。


温かい屋内に入れる安堵と、これからの商談への切り替え。


傘を閉じて、コートの水滴を軽く払い、扉を押した。



中に入るとほんのり暖房の効いた空気が迎えてくれた。指先がじわじわと温まっていくのを感じながら受付へ向かうと、女性が穏やかに迎えてくれた。


「お世話になっております。UBSラジオの波田です。本日はよろしくお願いします。」


案内されたのは、こぢんまりとした会議室。壁には創業当時の写真や、地元の商店街とのイベントポスターが飾られている。古き良き時代の赤羽の風景が感じられた。


数分後、扉が開き、小柄な社長が姿を見せた。推定60代後半、白髪混じりの短髪で、作業着姿のままだ。いかにも現場主義といった風格がある。


「いやぁ、雨の中ありがとうございます。ようこそ、赤羽屋食品へ。」


「いえ、とんでもありません。本日はお時間をいただきありがとうございます。」


名刺を交換し、挨拶を交わしたあと、打ち合わせが始まった。


「実はね、うちの赤羽コロッケをもっと広めたいと思ってましてね。最近は若い人にも人気で、観光客にも手に取ってもらいたい。そこで、ラジオCMを使えないかと考えていてね。」


社長はそう言いながら、デスクの上にコロッケの試作品を並べた。薄衣のカリッとしたコロッケが、小皿に乗せられている。どうやら、話を聞く前に味を知ってほしいということらしい。


「せっかくだから、召し上がってください。」


「ありがとうございます。それでは、失礼して…」


 箸でひとつ割ると、中からホクホクのじゃがいもが顔を出す。衣のカリッとした食感と、じゃがいもの甘みが絶妙だ。ひと口かじると、ほのかに香ばしい風味が広がった。


「…これは、美味しいですね。衣のサクサク感と、じゃがいもの甘みがいいバランスです。」


「でしょう? ただのコロッケじゃなくて、うちは赤羽の味を大事にしてるんだ。」


社長の熱い語りを聞きながら、ラジオでどんなプロモーションができるかを考え始める。


「なるほど、確かにこの味なら、赤羽の魅力として打ち出せそうですね。」


打ち合わせはスムーズに進み、ラジオCMの構成案について意見を交わした。途中、社長が冗談交じりに「CMの最後に"赤羽のコロッケ、食べにこいや!"って入れたらどう?」と提案し、思わず笑ってしまう場面もあった。


「そのフレーズ、なかなかインパクトがありますね。」


「いいでしょ? でもまあ、そこはお任せしますよ。ラジオのことはプロに任せます。」


こうして、赤羽屋食品との打ち合わせは無事に終わった。



時計を見ると、ちょうど昼下がり。


 赤羽屋食品を出ると、相変わらず冷たい雨が降っていた。だが、午前中よりもわずかに小降りになっているようだった。傘を開きながら、一度深く息を吐く。冷たい空気が肺を満たし、さっきまで室内にこもっていた体が再び外の世界へ馴染んでいくのを感じる。


時計を見ると、まだ昼過ぎ。帰るには早い時間だし、せっかく赤羽まで来たのだから、軽く一杯飲みたいな… いや、赤羽にいるんだから飲まなきゃな!


「よし…。」


そう呟きながら、駅の方向へ向かう道を歩き出した。


道沿いには、雑居ビルの一階に小さな居酒屋が並んでいる。雨の日でも、赤提灯の灯りが滲んで見え、昼間から暖簾をくぐる客の姿もちらほらと見える。


「やっぱり、すごい街だな…」


 赤羽の飲み屋街は、昼夜の境目がない。働き終えた人もいれば、これから仕事に向かう人もいる。中には、単純に酒を飲むためだけにこの街にやってくる者もいるのだろう。


 商店街のアーケードに入ると、雨を気にせず歩けるのがありがたい。駅前の商店街はどこか昭和の香りを残していて、活気のある青果店、昔ながらの精肉店、そして総菜屋の揚げ物の香りが混ざり合っている。その中に、立ち飲み屋や大衆酒場がひっそりと混ざっているのも赤羽らしさかもしれない。


「さて、どこに入るか。」


すると、視界の隅に大鍋の湯気が立ち上るのが見えた。


「ここは……丸坊水産か。」


赤羽に詳しくない人でもこの店の名前は耳にしたことがあるくらい。名物のおでんと、出汁割りが名物の立ち飲み屋だ。派手な看板もないが、暖簾の奥から立ち昇る湯気と、出汁の香りが何よりの目印になっている。


入口のガラス戸の向こうには、立ち飲み客たちがカウンターで静かにおでんをつついている姿が見える。寒さで強張った体をほぐすには、ここしかない。


傘を閉じ、店の戸を引いた。



 店の扉を引くと、もわっとした湯気とともに、ふわりと出汁の香りが鼻をくすぐった。さっきまで冷えていた体が、この瞬間だけでほんの少しだけほぐれるような気がする。


カウンターには、年季の入った大きなおでん鍋が堂々と鎮座している。だし汁の表面に薄く膜が張り、ふつふつと静かに揺れている。そこに浸かる大根やちくわぶ、はんぺん、玉子たちがじっくりと煮込まれ、しっかりと味を染み込ませているのが一目でわかった。


「いらっしゃい。」


店主が短く声をかけてくる。白い割烹着を着た五十代半ばの男性で、無駄な愛想はないが、どこか安心感のある表情をしている。


店内は、カウンターがメインの立ち飲みスタイル。店の奥には、数人の常連らしき男たちが黙々とおでんをつつきながら、日本酒をあおっている。その姿を見ているだけで、喉の奥がうずいた。


カウンターの隅に立ち、まずは注文することにした。


「すみません、大根とちくわぶ、あと厚揚げください。」


「はい、飲みもんはどうします?」


「出汁割り、お願いします。」


「はいよ」


店主は手際よくおでんを器に盛る。次に、燗をつけた日本酒のコップを出し、そこにおでん鍋の出汁をゆっくりと注ぎ込んだ。


ほのかに湯気が立ち上る。


コップを手に取ると、じんわりと温もりが指先に伝わった。


「いただきます。」


そっと口をつけると、まずはおでんの出汁の優しい旨みが広がり、その後にふわりと日本酒の香りが鼻へ抜けていく。日本酒の辛さと出汁の甘みが絶妙に混ざり合い、喉の奥へと流れていった。


「……沁みるなぁ。」


思わず呟く。冷え切った体に、じんわりと温かさが染み込んでいくのがわかる。


続いて、大根に箸を入れる。


ほとんど力を入れずとも、スッと箸が通った。中までしっかりと出汁が染み込み、じゅわっと汁が溢れ出す。そっと口に運ぶと、熱々の大根が舌の上で崩れ、優しい甘さが広がった。


「……これだよ、これ。」


頬を緩ませながら、次にちくわぶを口に運ぶ。もちもちとした独特の食感がたまらない。小麦のほのかな甘みと、染み込んだ出汁の風味が混ざり合い、酒を進ませる。


「お兄さんはここ初めて?」


隣の席にいた男が、ふと話しかけてきた。年の頃は五十代半ば、作業着姿の男で、すでに顔はほんのりと赤い。


「ええ、でも、噂は聞いてました。」


「だろう? ここのおでんの出汁は何十年も、ずーっと継ぎ足しで作られてるからね。」


「なるほど、確かに奥深い味ですね。」


「そうそう。それで、出汁割りを飲んじまうと、もう他の酒が飲めなくなるんだよなぁ。」


そう言って、男はくいっと出汁割りを飲み干した。その表情は、幸せそのものだ。


こちらも負けじとコップを傾け、喉の奥にじんわりと染み渡る感覚を楽しむ。


つぎに厚揚げ。箸で持ち上げるがずしんとした予想外の重たさがある。外はふんわり、中はジューシー。

波田はゆっくり厚揚げを噛むと、ジュワッと出汁が溢れ、思わず目を細める。


「厚揚げ旨ぇ〜、……これは絶品だな。」


とろりとトロけるような絹どうふの厚揚げだが、汁をしっかり吸っている。出汁の一滴まで計算し尽くしたかのような完璧な仕上がりだ。


出汁割りを飲み干し、ふうっと息を吐く。


丸坊水産でちょうどいい具合に温まったせいか、もう少しだけ飲みたくなった。せっかく赤羽に来たのだから、ここで帰るのはもったいない。もう一軒だ。


「ごちそうさま、お会計お願いします。」


波田は勘定を済ませ、店の戸を引くと、先ほどよりかは小降りになっていた。


「さて、次はどこに行くかな。」


そんなことを考えながら歩いていると、ふと目に入ったのが 「立ち飲み 一本」の赤提灯だった。


「一本…か。」


その潔さがいい。余計な飾り気のない、一本筋の通った名前。その佇まいも、どこか無骨で渋い。迷いなく、扉を開いた。



すぐにカウンターが目に入る。店の奥には年季の入った木のテーブルがいくつか並び、すでに何組もの客が談笑していた。


「いらっしゃい!」


威勢のいい声が飛んでくる。店の中は意外と広く、天井近くの棚にはずらりと一升瓶が並べられていた。


カウンターの隅に立ち、壁のメニューを眺める。手書きの品書きには、定番のもつ焼き、煮込み、揚げ物から、刺身、焼き魚まで揃っている。


まさに食の日本代表スターティングメンバーと、いったところか。


「まずはどの選手を起用するか…。うーん。」


(さっきは燗で温まったからビールかサワー系だよな。すると、揚げ物ともつ焼き…、いや待てよ。もつ焼きならホッピーもありだな。)


「よしっ。」


すると、優柔不断な波田は決意表明をしたかのように注文をする。


「すみません!ホッピーセットと、もつ焼きの塩、そして、ハムカツください!」


注文を伝えると、波田は小さくガッツポーズをした。


そしてすぐにホッピーのセットが目の前に置かれる。グラスには氷がたっぷり入り、中にはなみなみと注がれた焼酎。そこへ自分でホッピーを注ぎ、軽く混ぜる。


「いただきます。」


口をつけると、キンと冷えた焼酎のパンチが喉を駆け抜け、後からホッピーのほのかな甘みが広がる。さっきの出汁割りとは正反対の、キリッとした飲み口。


「ふぅ…いいな。」


そう呟いたタイミングで、もつ焼きとハムカツが運ばれてきた。


目の前に置かれたもつ焼きは、こんがりと焼き色がつき、絶妙に焦げた脂が香ばしい。ネギが添えられ、塩のシンプルな味付けが見た目からして食欲をそそる。


「これは、間違いないな。」


一本手に取り、口に運ぶ。


噛んだ瞬間、じゅわっと脂が弾け、肉の旨みが広がる。弾力のある食感が心地よく、噛むほどに味が増していく。そこへホッピーを流し込むと、脂のコクがすっきりと切れ、次の一口が欲しくなる。


「もつ焼きには、やっぱりホッピーだな。」


続いてハムカツ。


分厚くカットされたハムが、きつね色の衣に包まれている。表面はサクッと揚がり、中から肉のジューシーな香りがふわりと立ち昇った。


「これは、絶対にうまいやつだ。」


軽くソースを垂らし、一口。


ザクッ。


衣の食感の後に、ハムの肉汁と塩気が広がる。ソースの酸味がアクセントになり、口の中でちょうどいいバランスを生み出していた。


「……くぅ、たまらんな。」


もつ焼き、ホッピー、ハムカツ。この三つを交互に楽しみながら、ゆっくりと時間を過ごす。


「兄ちゃん、赤羽は初めてか?」


丸坊水産と同じで隣の客が話しかけてきた。作業着姿の男性で、すでにホッピーのジョッキを二杯は空けている様子だった。


「いや、何回か来てますけど、この店は初めてですね。」


「そうかい。ここはさ、変に飾らねぇのがいいんだよ。」


男はそう言いながら、自分の串を指でつまんだ。


「俺はさ、余計なもんがある店は苦手でな。こういう一本筋の通った店が、一番落ち着くんだよな。」


「わかります。その感じ、店の名前にも出てますね。」


「だろ? 一本。いいだろ? 余計なことはしねぇって宣言してるようなもんだ。」


たしかに、この店には余計な装飾も、洒落た演出もない。ただ、うまい酒とうまい肴がある。それだけで、十分なのかもしれない。


「いい店ですね。」


そう言ってグラスを掲げると、男もにやりと笑い、ホッピーをぐいっと飲み干した。


ハムカツを頬張りながら、ホッピーを飲み干す。ちょうどいい具合に酔いが回ってきたが、もう一杯いきたくなった。


「すみません、梅割り焼酎ください。」


「おっ、兄ちゃん、なかなかいいチョイスだな。」


店主がニヤリと笑いながら、焼酎のグラスを準備する。


 梅割り焼酎――赤羽界隈ではお馴染みの一杯だ。コップになみなみと注がれた焼酎に、梅シロップをほんの少し垂らしただけのシンプルな飲み物。 甘さはほんのり、だが中身はほぼ焼酎そのもの。度数の高さも相まって、知らず知らずのうちに酔いが回る危険な酒だ。


「へい、お待ち!」


目の前に出されたグラスは、表面張力ギリギリまで注がれている。まるで「これが限界値だ」と言わんばかりの一杯。


「これは…なかなかの量ですね。」


「まぁ、ここの常連はこれを軽々飲むんだから大したもんだよ。」


隣の客がクスリと笑う。


ひと口飲むと、まずは梅のほのかな甘みが舌をかすめる。そしてその後、ズシンとくる焼酎の強烈な刺激が喉を駆け抜けた。


「くぅ…!」


思わず眉をひそめると、カウンターの奥で店主がククッと笑う。


「いい顔してるな、兄ちゃん。もう一品くらい、何かつまむか?」


「そうですね……じゃあ、ポテサラとしめ鯖をお願いします。」


「おっ、わかってるねぇ。いい組み合わせだよ。」


 すぐに出されたのは、小鉢に盛られたポテサラ。マヨネーズのほのかな酸味に、粒マスタードがアクセントとして効いている。ジャガイモはゴロッとしたまま残り、しっとりとした口当たりが絶妙だった。


「これは…確かに、ひと味違うな。」


梅割り焼酎をちびちびやりながら、ポテサラを口に運ぶ。ほのかな酸味が焼酎の強さを和らげ、意外にも相性が抜群だった。


 続いて、しめ鯖。程よく締められた身が、青魚特有の脂と旨みを引き出している。醤油をほんの少し垂らし、わさびをちょこんと乗せて口に運ぶと、酸味と塩気、脂のコクが一体となり、梅割り焼酎のキレとぴたりとハマった。


「やっぱり、この店はただの立ち飲みじゃないな。」


料理の一つひとつが丁寧で、シンプルながらも、酒に合うよう計算されている。


隣の客がまた声をかけてくる。


「一本はさ、派手さはないけど、"ちょっとした旨さ"を楽しむ店なんだよな。」


「なるほど…確かに、そうですね。」


「余計なものはいらねぇ。ただ、うまいもんとうまい酒があればいい。だから"一本"なんだよ。」


そう言って、男は焼酎をぐいっと飲み干す。


なるほど。この店名には、そういう意味も込められているのかもしれない。


カウンターの向こうでは、店主がゆったりとした手つきで酒を注いでいる。その動作一つひとつが、無駄なく洗練されているのがわかる。


「本当に、いい店だな。」


梅割り焼酎を飲み干し、最後のしめ鯖をゆっくりと噛み締める。

店内のざわめきが心地よく耳に残る。


「ごちそうさまでした。」


波田はカウンターにお金を置き、店主に軽く会釈した。


「おう、また来な。」


扉を開けると、すっかり雨は上がっていた。

路面はまだしっとりと濡れているが、アスファルトに反射する街灯の光が、さっきよりも暖かく感じる。


赤羽の夜はまだまだ賑わっていた。

どの店からも笑い声がこぼれ、ネオンの灯りがぼんやりと雨上がりの空気に滲んでいる。


「さて、帰るか。」


駅へ向かって歩き出しながら、ふと頭をよぎるものがあった。


「あっ…そういえば "一本" って、何のことだったんだろうな。」


"一本"。立ち飲みの一本。

シンプルで、無駄がなく、まっすぐな響きの店名。


「 "一本筋が通っている" ということなのか? "一杯飲んでいけ" という意味なのか?それとも、他に何か由来があるのか…。」


考えてみたが、答えは出ない。

だが、それがいいのかもしれない。


店の魅力も、酒の余韻も、説明できるものではなく、"感じるもの" なのだろう。


「また来たときに、聞いてみるか。」



”ふらりと立ち寄った店で、ちょっとだけ人生が変わることもある。

いい店は、いいタイミングで現れるもんだ。”



そう思いながら、赤羽駅の改札をくぐった。


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