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エピソード6 三鷹の牡蠣の釜飯


「今日は三鷹か……」


昼前、波田(はだ) は中央線の車窓から流れる景色を眺めながら、目的地を思い浮かべていた。


三鷹駅。吉祥寺の隣でありながら、観光地の喧騒とは無縁の落ち着いた街というイメージ。


駅の南口に広がるのは、ジブリ美術館へ向かう観光客の流れと、井の頭公園の豊かな緑。北口は閑静な住宅街が広がり、大きなビルも少ない。仕事で訪れる機会はそう多くないが、「住むにはいい街だな」と思わせる場所だ。


「さて、今日のクライアントは……」


波田はスマホでスケジュールを確認した。


現場は、三鷹にある音響スタジオ【STUDIO 384(ミツヤシ)】での打ち合わせだ。


ここは映画やアニメのアフレコ、ラジオ番組の収録などを手掛ける音響制作会社で、UBSラジオとも過去にいくつか仕事をしている。今回は新しく始まる番組のジングル制作についての相談だ。



駅を降り、南口の喧騒を抜けると、三鷹の街は一気に静かになった。大通り沿いのカフェや飲食店を横目に、住宅街へと足を踏み入れる。


 目指す【STUDIO 384】は、マンションの1階にひっそりと構えていた。表に看板はなく、入り口のドアに小さく【STUDIO 384】とだけ書かれている。


音楽やラジオ関係の仕事をしていると、こういう隠れ家的なスタジオに行くことも珍しくない。


 波田はドアを開け、中へ入ると、スタジオ特有のひんやりとした空気が迎えてくれた。


 「いらっしゃいませ、UBSラジオの波田さんですね?」


 受付にいたのは、30代前半くらいの男性。メガネをかけた物腰の柔らかいスタッフだった。


 「はい、よろしくお願いします」

 「お待ちしてました。ディレクターの宮坂が会議室で待っていますので、どうぞこちらへ」


 案内された部屋は、壁一面が吸音パネルで覆われた会議室。シンプルな机と椅子が並ぶ空間の奥に、一人の男が座っていた。


 「どうもどうも、UBSの波田さん、初めまして。宮坂と申します。」


名刺を受け取ると、肩まで伸びた髪を後ろで束ねたラフな格好の男がニヤリと笑った。


 「今日はジングル制作の件ですね。まずはUBSさんのイメージを聞かせてもらえますか?」


 「はい、今回の番組は……」


 波田は資料を広げ、打ち合わせを始めた。




「今回の番組は『THE GOLDEN TIME』という新番組でして、テーマは“夜を楽しむ大人の時間”です。」


波田は手元の資料を見ながら話を進めた。


「20時からの1時間番組で、ジャズやシティポップを流しつつ、リスナーの夜の過ごし方を提案するコンセプトです。なので、ジングルも都会的で落ち着いた雰囲気にしたいんですが……。」


「なるほどねぇ。」


宮坂は顎に手を当て、何度か頷いた。


「じゃあ、例えばベースラインがしっかりしたジャズ系のものにするか、あるいはエレクトロっぽく少し浮遊感のある音にするか……。」


「エレクトロ寄りも面白いですね。」


「シンセを効かせる感じもアリだけど、“深夜感”を演出するなら生楽器を活かした方が良いかもしれませんね。 例えば、ウッドベースを軸にして、ブラシでリズムを刻むドラムを入れるとか。」


「それ、いいですね!」波田は身を乗り出した。


「ジングルって短い尺ですけど、ちゃんと番組の“空気”を伝えられる音にしたいんです。UBSは生放送の番組が多いんで、リスナーが流れで聴き続けたくなるような繋がりを意識したいなと。」



「確かに、生放送はジングルの雰囲気が重要ですからね。」


宮坂は納得した様子でメモを取る。


「じゃあ、試しに2パターン作りますよ。ひとつはウッドベース主体のジャズ寄り。もうひとつはシンセとピアノで“夜の都会”をイメージしたもの。」


「ありがとうございます。収録日が再来週なので、それまでに方向性を決められれば。」


「了解です。こっちでも何案か試作しますよ。」


打ち合わせはスムーズに進み、30分ほどで大枠の方向性が決まった。



「波田さんはこのあとどこか飲みに行かれるんですか?」


「うーん、まだ決めてないですね。」波田は腕時計をちらりと見た。


「せっかく三鷹まで来たのでこのまま散策しながら良さそうな店を探そうかなと。」


「いいですねぇ。吉祥寺に行くのかと思いきや、あえて三鷹で飲むパターンですね。」


「そうそう。吉祥寺だと選択肢が多すぎて逆に迷うんで。」


「それ、わかります。三鷹は意外といい店ありますよ。駅の北側に、ちょっと面白い店があるんです。」


「おー、それは気になりますね。」


「詳しくは言いませんが……“知る人ぞ知る”系の店ですよ。」宮坂は意味深に笑った。



 スタジオを出ると、冬の空気が少し肌に刺さった。時刻は午後4時過ぎ。


 「だいぶ陽が伸びたなぁ。さて…どうするか……」


 三鷹駅へ向かう道を歩きながら、波田は考えた。



 「そういえば、三鷹で飲んだことないよな、もうちょっとこの街を見てみるか。」


 そう思い、駅へ向かう道とは逆方向に歩き出した。



 三鷹は、吉祥寺ほど賑やかではないが、それが逆に心地よい。 駅前にはチェーン店が並ぶが、少し歩けば古い商店や住宅街が広がる。


 ふと目に留まったのは、小さな古本屋。店先の棚に並んだ文庫本が、寒風に揺れている。


 「こういう店が残ってるのってほのぼのするな」


 立ち止まり、背表紙を眺める。昔読んだ小説のタイトルが目に入ると、どこか懐かしい気持ちになる。


 「ふらっと入って小説を買って、喫茶店でコーヒーでも飲みながら読むのもいいな……。」


 そう思ったが、波田はもう飲みモード。


「本はまた今度にしよう。」


 古本屋を後にし、さらに歩を進める。




 しばらく歩いていると、宮坂の言葉を思い出した。


 (駅の北側に、ちょっと面白い店があるんです)


 どんな店なのか、具体的には言っていなかったが……。


 波田は駅の北口方面へと足を向けることにした。


 三鷹の北口は、南口に比べて静かだ。住宅街が多く、飲み屋もぽつぽつと点在している感じ。



歩いていると、細い袋小路に目をやった。



「酒屋の奥に、立ち飲み?」


『酒のまつや』と書かれた古びた看板。


 普通の酒屋かと思いきや、その奥に小さな暖簾がかかっている。


 「ん? 立ち飲み屋か?」


 入口には「角打ちできます」と小さく書かれた張り紙。


 「へぇ……。酒屋の角打ちか。これは……アリだな。」


普段なら気付かずに通り過ぎてしまうくらい細い袋小路。波田の飲みセンサーが働いたのだ。



この場所は、まるで時間が止まっているような雰囲気。


表からは中の様子はよく見えないが、なんとなく雰囲気がいい。


 「宮坂さんの言ってた店って、ここなのか?」それとも、たまたま見つけた別の店か……?」


 「まあ、どっちでもいいか。」


波田はその店に入ろうとしたが立ち止まった。


奥の方に小料理屋【みさき】と書かれた小さな看板が、薄暗い路地の片隅に静かに灯っている。


表の引き戸は磨りガラスになっており、店内の様子はぼんやりとしか見えない。が、暖かい光と、ほのかに漂う出汁の香りが、心をくすぐる。


 「よし、ここにしよう!」


 波田はゆっくりと引き戸を開けた。



 「いらっしゃいませ。」


 落ち着いた声が響く。店内はこぢんまりとしており、L字のカウンターが7席ほど。奥には小さな厨房があり、白い割烹着を着た女性が立っていた。


 「こちらどうぞ」


 「はい。」


波田は頷き、カウンターの端に腰を下ろした。


 改めて店内を見回すと、壁には数枚の短冊メニューが貼られている。「おでん」「煮魚」「出汁巻き卵」と、どれも酒に合いそうなものばかり。


 「これは……当たりかもしれないな。」



 「何になさいますか?」


 店主が静かに聞く。50代後半くらいの女性で、派手さはないが、どこか品のある顔立ちをしている。


 「じゃあ……日本酒を。燗で。」


 「かしこまりました。」


 波田はコートを脱ぎながら、目の前のカウンターに目をやる。年季の入った木のカウンターは、長年の酒の染みが味わい深い。


 ほどなくして、小ぶりな徳利と猪口が置かれた。


 「お通しです。」


 店主がそっと差し出したのは、小皿に盛られた「菜の花の辛子和え」だった。


 「おっ、菜の花かぁ。春って感じだな。」


 波田は猪口を手に取り、ゆっくりと口へ運ぶ。


 燗酒の柔らかな香りが鼻をくすぐり、じんわりと身体が温まる。


 「ふぅ……。」


 思わずため息が漏れる。



 燗酒をひと口含み、ゆっくりと飲み下す。舌の上で広がる旨みが、菜の花のほろ苦さと相まって心地いい。


 「……いい酒だな。」


 ふと目を上げると、カウンターの向こうでママが静かに微笑んでいた。


 「お酒、お好きなんですね。」


 「まぁ、仕事柄ね。」


 「ラジオの方?」


 波田は少し驚いた。


 「どうして分かったんです?」


 「なんとなく。話し方が落ち着いてるし、言葉を選ぶ感じがね。」


 そう言うと、ママは燗酒の入った徳利を少し傾けた。


 「昔、うちの店にもラジオ局の人、よく来てたのよ。吉祥寺のスタジオの人とか、放送作家さんとか。」


 「へぇ、そうなんですか。」


 「でも、もう何年も前の話。最近は、そういう人も少なくなったわねぇ。」


 そう言いながら、ママは視線をホワイトボードに向けた。「今日のお品書き」と書かれたホワイトボードには、数種類の料理が書かれている。


 「おでんは食べます?」


 波田は頷き、ホワイトボードを眺めた。


 「是非、そしたら大根と……がんもをください。」


 「はい。」


 ママはゆっくりと立ち上がり、小さな鍋の蓋を開ける。湯気の向こうに広がるのは、黄金色に輝く宝の山だった。ふわりと立ち上る出汁の香り、長旅を終えた旅人が、やっと家の灯りを見つけたときのような、そんな安堵感が波田の心を包み込んだ。」



 店内には、もう一人だけ客がいる。カウンターの端で静かに酒を飲んでいる男性。新聞を広げ、時折ページをめくる音だけが聞こえる。


 「この静けさが、たまらなくいい。」


 吉祥寺の賑やかな飲み屋とは違う、三鷹の路地裏にある小料理屋。


 「こういう店で、ゆっくり飲むのも悪くないな。」


 ママは大根とがんもを取り出し、出汁をすくう。静かに注ぐ仕草が妙に心地よかった。


 「お待たせしました。」


 カウンターの上に、小ぶりな器が置かれる。透き通った出汁に浸った大根とがんもが、湯気を立てていた。


 「さて、いただきますか。」


 湯気の立つ器を前に、波田は箸を手に取った。


 まずは、大根。


 箸を入れると、スッと簡単に切れる。じっくり煮込まれた証拠だ。


 そっと口に運ぶ。


 出汁がじんわりと染みた大根が、舌の上でほどける。ほんのり甘みを感じる優しい味わい。 燗酒を含むと、出汁の風味がさらに広がった。


 「くぅ……うまい。」


 思わず、静かに息をつく。




静寂の中の、ゆったりとした時間


 店内は相変わらず静かだ。


 奥の客は新聞を広げたまま、時折酒を口に運ぶだけ。ママも、特に話しかけてくることはない。


 まるで、時間が少しだけ遅く流れているような感覚。



 次に、がんも。


 箸で押すと中からじんわりと出汁が滲み出る。ふわっとした食感の中に、ほんのりとした豆腐の甘みと、具材の旨み。


 噛むたびに出汁が染み出し、酒のつまみには最高だった。



 「……お口に合いました?」


 不意に、ママがぽつりと声をかける。


 「ええ。しみじみ美味しいです。」


 ママは微笑みながら、小さく頷いた。


 「よかった。」


 それ以上、特に会話は続かない。


 ただ、お互いに言葉はなくても、どこか穏やかな空気が流れていた。


 こんな静かで、じんわり心に染みるような時間も悪くない。


 波田はもう一口、ゆっくりと燗酒を口に含んだ。



おでんの大根とがんもをつまみながら、波田はふと正面のホワイトボードに目をやった。


 【おでん】【煮魚】【出汁巻き卵】【ぬた】【ほうれん草の胡麻和え】

 どれも酒に合いそうな料理ばかり。


 「さて、次は何を頼むか……」


 ふと隣の新聞の客を見ると、静かに盃を傾けながら何かをつまんでいる。豆皿に盛られた、それらしい肴がちらりと見えたが、ホワイトボードには載っていないようだ。


 「……ママ、これ以外に何かあります?」


 波田が訊ねると、ママは穏やかに微笑みながら、手に持っていた布巾でカウンターを拭いた。


 「そうねぇ。今日は、あん肝ポン酢と、〆鯖の炙りがあるわよ。」


 「あん肝ポン酢、〆鯖の炙り……!」


 どちらも魅力的な肴だ。燗酒にもぴったりだし、ここで頼まなかったら後悔しそうな一品。


 「どっちもそそられますね……。」


 ママはくすりと笑った。


 「そういう時は、両方頼むのが正解よ。」



 ママの言葉に、波田は思わず苦笑した。


 (確かに、どっちも気になるんだから、両方頼むのが正解か……。)


 「素直に従います、あん肝ポン酢と〆鯖の炙りをお願いします。」


 「はい。」


 ママはにっこりと微笑み、手際よく仕込みに入る。カウンター越しに見るその動作は無駄がなく、リズムが心地よい。




まずは、あん肝ポン酢


 ほどなくして、小さな陶器の器が置かれた。艶やかなオレンジ色のあん肝が、透き通るようなポン酢に浸されている。薬味には刻みネギと紅葉おろし。


 「おお……これはもう、見るからに酒のための肴だな。」


 箸でひと切れすくい、そっと口へ運ぶ。


 ねっとりとした舌触りのあと、濃厚な旨みが広がる。ポン酢の酸味がそれをきゅっと引き締め、後味は驚くほどすっきりしている。


 燗酒を一口。


 「……くぅ、最高だ。」



次に、〆鯖の炙り


 ママが炭を入れた小さなバーナーを取り出し、鯖の皮目にじゅっと火を入れる。


 脂が弾け、炙られた香ばしい匂いがカウンターの向こうから漂ってくる。


 「はい、お待ちどうさま。」


 目の前に置かれた皿には、表面がパリッと炙られた〆鯖の切り身が、均等に並べられている。わさびが添えられ、皿の端には藻塩。


 波田は、箸で一切れつまんだ。


 炙られた皮の香ばしさと、鯖の持つ甘みと酸味。わずかに残る脂の旨みが絶妙に絡み合い、口の中でほどけていく。


 「これは……間違いないな。」


 今度は塩で試してみる。ほんの少しだけ藻塩をつけて、口へ。


 塩が鯖の旨みを引き出し、さっきとはまた違う表情を見せる。


 「どっちも頼んで正解だったな。」


 ママは満足げに頷きながら、再びカウンターを静かに拭いていた。


 燗酒を飲み干し、ふぅと小さく息をつく。


 「まだ何かほしいな」


 腹の満足度はまだ五分といったところだ。つまみは最高だったが、もう少し何か食べたい気分が残っている。


 そんな波田の様子を見ていたのか、ママがふと声をかけた。


 「まだ、お腹すいてるんじゃない?」


 波田は少し笑いながら、素直に頷いた。


 「ええ、つまみは美味しかったんですけど、まだちょっと入りますね。」


 「じゃあ、釜飯があるけど、どう?」


 「釜飯……!」


 まさか、こんな小料理屋で釜飯が食べられるとは思わなかった。


 「いいですね。どんなのがあります?」


 「今日は、鶏ごぼうと、牡蠣の二種類。」


 (牡蠣の釜飯……!これはもう、頼むしかない。)


 「じゃあ、牡蠣の釜飯をお願いします。」


 「ちょっと時間かかるけど、大丈夫?」


 「ええ、もちろん。」


 ママは頷くと、厨房の奥へと消えた。



 釜飯が炊き上がるまで、まだしばらく時間がある。このまま待つのもいいが、せっかくならもう一杯、別の酒を楽しみたい。


 「ママ、日本酒の他に何かおすすめあります?」


 「そうねぇ……。」


 ママは一瞬考え、手元の酒瓶を眺めた。


 「芋焼酎はどう?これは香りが優しくて飲みやすいわよ。お湯割りがいいかしら?」


 「じゃあ、それをお湯割りでお願いします。」


 「はい。」


 ママが丁寧に湯を注ぎ、ゆっくりと焼酎を加える。ほんのりとした甘い香りが、ふわりと立ち上る。


 猪口を手に取り、ひと口。


 「なるほど、確かに優しい香りだ。」


 口当たりは柔らかく、先ほどの燗酒とはまた違った温かさが身体に染みていく。


 「これ、いいですね。」


 「でしょう? ちょっと珍しい焼酎でね、常連さんにも好評なのよ。」


 波田はうなずきながら、静かにお湯割りを味わった。外の寒さを忘れるほどの、心地よい温もりが身体に広がっていく。


釜飯が炊き上がるのを待ちながら、波田は焼酎のお湯割りをゆっくりと味わっていた。


 店内は静かで、落ち着いた時間が流れている。


新聞を読んでいた客も、盃を置き、ただぼんやりと座っている。


 そこへ、突然の怒号が外から響いた。




「なぁにが ‘偉いさん’ だよ!!調子に乗ってんじゃねぇぞ!!」


 店の外、斜向かいの居酒屋の前で、酔いに任せた怒鳴り声が響き渡る。


 「……嫌ねぇ。」


 ママがため息をつきながら、ちらりと外を見た。


 「またかしら。」


 「よくあるんですか?」


 「たまにね。あの店、安くて人気なんだけど、酒癖の悪い客も多いのよ。」


 「ちょっと、見てきます。」


 波田は湯飲みを置き、すっと立ち上がった。


 ママは少し驚いたように彼を見たが、止めはしなかった。



 「みさき」の引き戸を開けると、夜の冷たい空気が肌を刺した。


 居酒屋の前では、30代のチンピラ風の男が怒鳴り声を上げ、スーツ姿の60代の男性と対峙している。


 チンピラは派手なジャケットに金のネックレス、手首には大きな数珠にタバコを持っている。顔を真っ赤にして拳を握りしめている。


 一方、スーツの男は年齢の割に堂々とした態度だ。会社ではそれなりの地位にいるのだろう。だが、明らかに酒が入っており、目は座っている。


 周囲には野次馬が集まりつつあり、店の中からも何人かの客が様子を伺っていた。



 「お二人とも、落ち着いて……」


 波田が声をかけ、間に入ろうとした瞬間、60代のスーツの男が波田を強く突き飛ばした。


 「邪魔だっ!!」


 バランスを崩しながらも、波田はすぐに体勢を立て直す。


 「……これは、普通の仲裁じゃ収まらないか。」



 再び波田が前に出ようとした瞬間、チンピラの男が苛立ったように拳を振り上げた。


 「テメェ、関係ねぇだろ!ぶっ飛ばすぞ!」


 次の瞬間、チンピラの拳が波田に向かってくる。


 だが——


 波田は冷静に一歩引き、相手の腕を軽く流すと、その勢いを利用して相手の体勢を崩した。


 「うおっ……?!」


 チンピラはバランスを失い、体勢を立て直そうとするが、波田はすかさずその腕を軽く押さえ、静かに言った。


 「やめときましょう。」


 周囲の野次馬たちが息を呑む。


 一瞬で相手の動きを封じた波田に、チンピラもスーツの男も、驚いた顔を見せる。


 「……ふざけんな……!」とチンピラが再び動こうとするが、周囲の空気が変わったのを察したのか、歯ぎしりをして手を引っ込めた。


 60代の男も、波田の静かな目を見て、何かを悟ったように肩を落とした。


 「……わかったよ。もういい。」


 こうして、喧嘩は静かに収束した。




 波田が【みさき】に戻ると、ママがカウンター越しに彼を見つめていた。


 「……すごいわね、怪我はない?」


 彼女の目には、少しだけ熱を帯びた感情が宿っていた。


 波田は苦笑し、「大丈夫です。」


みさきの客も呆然としてた


 「ただの習い事ですよ。」


 「ふぅん……。」


 ママは口元をほころばせると、静かに釜の蓋を開けた。


 牡蠣の香りが、ふわりと立ち上る。


 「お待たせ。牡蠣の釜飯、炊き上がったわよ。」


 喧嘩の騒ぎがあったことが嘘のように、店内には再び穏やかな時間が戻っていた。


 波田は、箸を手に取った。


 「この時間が、やっぱり最高だな。」


波田は、目の前に置かれた釜飯を見つめた。


 ふっくらと炊き上がった米の上に、大ぶりの牡蠣がごろりと乗る。


 湯気とともに、出汁と牡蠣の濃厚な香りが立ち上る。


 「さて……いただきますか。」


 木のしゃもじをそっと差し込み、釜の底からすくい上げる。ほのかに焼き色のついた米粒が、牡蠣の旨みをたっぷり吸い込み、黄金色に輝いていた。



 まずは、炊きたての米をひと口。


 噛んだ瞬間、牡蠣のエキスがじゅわっと染み出し、米の甘みと溶け合っていく。


 「……うまい。」


 牡蠣の持つ磯の香りが、米の優しい甘さと見事に調和し、まるで波打ち際に打ち寄せるさざ波のように、じんわりと広がっていく。


 ただの米ではない。牡蠣の出汁をたっぷり吸い込んだそれは、ひと粒ひと粒が、小さな旨みの塊だった。


 次に、大ぶりの牡蠣を箸でつまむ。


 ふっくらとした身が、ぷるんと震え、口に入れる前から贅沢な食感を予感させる。


 ゆっくりと口に運び、噛みしめる。


 ぷりっとした弾力のあと、溢れ出るクリーミーな旨み。牡蠣特有のコクと潮の香りが一気に広がり、まるで海そのものを味わっているような感覚だった。


 「これは……贅沢だ。」


 噛むたびに、奥深い塩気と甘みが顔を覗かせる。


 今度は、牡蠣の身と米を一緒に口に運ぶ。


 濃厚な牡蠣の旨みと、じんわりと甘い米。異なる二つの味が、まるで長年連れ添った夫婦のように、ぴたりと息を合わせる。


 すかさず、お湯割りの焼酎をひと口。


 焼酎の柔らかな香りと温かさが、牡蠣の旨みを包み込み、じんわりと余韻を引き立てる。


 「くぅ……。」


 至福のため息が漏れる。


 最後に、しゃもじで釜の底をすくってみるとほんのりと焼き色のついた”おこげ”が顔を出す。


 カリッとした食感に、牡蠣の風味が凝縮された米の旨み。


 「これは……最後にとっておくべきだったな。」


 じっくりと噛みしめながら、最後の焼酎をゆっくりと流し込む。


 釜の中が空になったのを確認し、波田は静かに箸を置いた。


 「ごちそうさまでした。」


 「はい、どういたしまして」


 ママは眼鏡をかけて波田の計算をした。


波田はママの仕草にずっと見惚れていた。眼鏡をかけるところとかは、“仕事を終えて帰宅し、素に戻ったような” そういった部分を変に妄想し、波田は心を揺らした。


そしてママは笑顔で伝票を差し出した。


波田は財布を取り出し、ざっと合計額を見た。


 「……ん?」


 少し安いような気がする。


 燗酒、お湯割り、あん肝ポン酢、〆鯖の炙り、おでん……。そして釜飯。


 「ママ、これ……釜飯の分、入ってないんじゃ?」


 ママはカウンター越しに目を細め、さらりと言った。


 「お礼よ。そのかわり——また来てね。」



 波田は、しばしママの顔を見つめたあと、ふっと小さく笑った。


 「……じゃあ、お言葉に甘えて。」


 会計を済ませ、財布をポケットにしまう。


 「ありがとう。……また来ます。」


 ママは軽く頷きながら、静かにカウンターを拭いていた。


 波田は引き戸を開け、外へ出る。



 冷たい夜風が、少し火照った頬を撫でる。


 「三鷹で飲んだのは初めてだったが——悪くなかったな。」



”ふらりと立ち寄った店で、ちょっとだけ人生が変わることもある。いい店は、いいタイミングで現れるもんだ。”


 夜の静かな路地を歩きながら、波田はポケットに手を突っ込んだ。


 「また来るよ、ママ」


 波田はニヤつき三鷹駅へ向かって歩き出した。


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