エピソード4 石神井公園の皿うどんと最高の生ビール
朝の石神井公園駅は、普段の通勤ラッシュを過ぎ、穏やかな空気が流れていた。
駅のホームに降り立つと、冷たい空気の中にどこか優しい日差しが差し込んでいる。
「ラジオイベントの朝としては、ちょうどいい天気だな」
波田 響 はそう呟きながら、改札を抜けた。
「森山一郎・スタンドアップ! 祝放送9000回 石神井公園で会いましょう!」
そう、今日は入社以来、何度もこの番組の広告営業を担当してきたが、気づけば放送9000回。1990年4月に始まった頃、自分はまだ4歳だった。
ラジオを聴く習慣なんてなかったし、小学生の頃はテレビのバラエティ番組やアニメに夢中だった。中高生になってもラジオを意識することはなく、大学に入ってからもそれは変わらなかった。
そんな自分が、いまラジオ業界の営業マンとして、このイベントに関わっている。不思議な巡り合わせだと思う。
歩きながらスマホを取り出し、時刻を確認する。9時32分。
イベント開演は14時だが、営業としての仕事はもっと前から始まる。会場となる石神井公園区民センターへ向かいながら、波田はふと森山一郎のことを思い出していた。
森山一郎は、いわばラジオの「顔」だった。
温かみのある落ち着いた語り口、気取らないトーク、そしてリスナーとの距離の近さ。森山さんの声には、不思議と安心感があった。どんなに忙しい日でも、スタンドアップの番組を流していると、時間の流れが少しだけ穏やかになる。
「ラジオは “時間” を共有するメディアなんだよ」
そう語っていた森山一郎さんの言葉を、波田はいまでも覚えている。
ラジオの営業は、スポンサーとの交渉がすべてだ。新規スポンサーを獲得し、番組との相性を考え、広告枠を提案する。
時には番組の企画を立案し、企業とタイアップすることもある。
だが、入社間もない頃の波田には、それがどうもうまくいかなかった。
スポンサーの前では緊張するし、プレゼンもうまくできない。
自分の話に手応えがないまま、営業の帰り道で落ち込むことも多かった。
そんなある日、番組の打ち合わせの場で森山一郎がこう言った。
「波田くん、君はラジオが好き?」
不意を突かれた。営業の数字の話でもなく、企画の話でもない。ただ単純に、「ラジオが好きか」と聞かれたのだ。
「……好きです」
そう答えると、森山一郎は柔らかく微笑んだ。
「だったら、その気持ちを言葉にすればいい。スポンサーだって、結局は“人”だからね」
その時はよく意味がわからなかったが、何度も営業を重ねるうちに、その言葉の意味がわかってきた。ラジオを売るのではなく、ラジオの魅力を伝えること。それが営業という仕事なのだと。
森山さんには何度も助けられた。
ただ、それはあくまで仕事上の話で、プライベートで飲みに行くことなどなかった。
彼は決して偉ぶらず、誰にでも穏やかに接する人だったが、同時に、どこか線を引くような距離感を保っていた。
それが彼の流儀だったのかもしれない。
石神井公園区民センターの入口に着くと、すでにUBSラジオのスタッフが動き始めていた。
イベント設営の朝は、どの現場も同じような活気に満ちている。
ホールには、パイプ椅子が並べられ、ステージにはまだ音響機材が運び込まれている途中だった。スタッフたちはテーブルを組み立てたり、ケーブルを床に這わせたりと、慌ただしく動き回っている。
イベント担当の小野寺(30代後半の女性)が、腕時計を見ながら波田に気づき、手を振る。
「波田さん、おはようございます! ちょうどよかった、ちょっと手伝ってもらえます?」
「……俺、営業なんだけどな」
そうぼやきながらも、結局手を貸すのが波田の性格だった。
波田は慣れた手つきでダンボールを持ち上げる。ラジオのイベントでは、営業も雑務をこなすのが当たり前だった。
「スポンサーのブース、もう設営終わった?」
「まだ途中です。あとで担当の人が来るので、それまでにテーブルの配置を決めないと」
「了解」
波田はパンフレットの箱を運びながら、会場の様子をざっと見渡した。
物販ブースには、番組のオリジナルグッズが並ぶ予定で、トートバッグやTシャツの見本がすでにテーブルに置かれていた。
楽屋の奥では、音響スタッフがマイクのテストをしている。「チェック、ワン、ツー、チェック、ワン……あーー、あーー、へーーー、チェックチェック…」
「この調整が毎回大変なんだよな」
波田は内心そう思いながら、スポンサーのブースへと向かった。
イベント会場の一角に、企業ブースが設置されている。ここでは番組のスポンサー企業が自社の商品をPRする予定だ。
テーブルの上には、すでに並べられたパンフレットやサンプル商品。スタッフがディスプレイを調整しながら、配置を整えていた。
そこへ、一人の男性が現れた。スーツ姿で、手に名刺を持っている。
「おはようございます。UBSラジオ営業の波田です」
「おはようございます。ハピネス食品の田辺です。本日はよろしくお願いします」
田辺は40代後半の営業担当で、穏やかな笑みを浮かべながら名刺を差し出した。
「今日は、うちの商品も少し試食できるように持ってきたんですよ」
「それはありがたいですね。こういうイベントでは、試食ってかなり効果ありますから」
「ええ、やっぱり直接手に取ってもらうのが一番ですからね」
ブースには、ハピネス食品の新商品が並んでいる。最近話題になっているレトルト食品や、手軽に食べられる軽食系の商品が目を引く。
「この商品、番組のプレゼント企画にも使えそうですね」
「そうですね、リスナーの方々に知ってもらえるいい機会になると思います」
田辺はそう言いながら、パンフレットを整えた。
波田はひと通りブースをチェックし、スタッフと簡単に打ち合わせを済ませると、腕時計をちらりと見た。
時刻は10時40分。
そろそろ森山一郎と近藤妙子が到着する時間だった。
控え室に向かって歩いていると、ホールの入り口付近でスタッフが何やら話しているのが見えた。その中心にいるのは、落ち着いた佇まいの男性――森山一郎だった。
グレーのジャケットに黒のパンツ、派手さはないが、長年ラジオの世界に身を置いてきた人間ならではの存在感がある。
波田が近づくと、森山一郎がふと視線を向け、柔らかく微笑んだ。
「おはようございます、森山さん」
「波田くん、朝からご苦労さま」
「ありがとうございます。準備も大詰めってところです」
「そうか。スタッフの皆さんも忙しそうだね」
森山一郎は会場をゆっくりと見渡した。設営中のステージ、パンフレットを並べるスタッフ、音響チェックのためにスピーカーから流れる試験音。
「いい会場だね」
「ええ、石神井公園、なかなか雰囲気ありますよね」
「そうだね、こういう静かな場所で、みんなと直接会えるのは嬉しいよ」
森山一郎は穏やかにそう言うと、「少し控え室で準備してくるよ」と軽く手を上げて歩き出した。
波田はその背中を見送りながら、9000回という節目の重みを改めて感じていた。
森山一郎が控え室に入ってから10分ほど経った頃、会場の入り口に軽快な足取りで近藤妙子が現れた。
明るめのカーディガンに細身のパンツというシンプルな服装だが、彼女の持つ快活な雰囲気が自然と周囲を和ませる。
「おはようございます!」
スタッフに笑顔で声をかけながら進んでくる姿を見て、波田も自然と会釈した。
「おはようございます、近藤さん」
「あら、波田くん。今日も朝からバタバタ?」
「ええ、まぁ、イベントの準備っていつもこんな感じですから」
「大変ねぇ。でも、こういうのもラジオイベントならではよね」
近藤妙子はそう言いながら、ステージを見上げる。まだ仕上がっていないが、スタッフがせわしなく動く様子を見て、何かを思い出したように微笑んだ。
「昔、初めて公開収録をやったとき、機材トラブルでマイクが全然入らなくてねぇ」
「そんなことが?」
「ええ。でも、森山さんがすごく冷静で。『こういう時は、いつも通りやればいい』って。それで、マイクなしでそのまま喋ったのよ」
「マイクなしで?」
「そう。ステージから直接、みんなに話しかけたの。そしたら、お客さんが自然と静かに聞いてくれて……ラジオとは違うけど、あれも良い時間だったわ」
波田は、なるほどと思いながら頷いた。
「やっぱり、長年一緒にやってきたからこそできることですね」
「そうね。森山さんのそういうところ、尊敬してるの」
近藤妙子はそう言いながら、控え室へと向かった。
波田は、その背中を見送りつつ、ふと時計を見た。
イベント開始まで、あと二時間。
時刻は12時半。開演まであと1時間半となり、会場の空気が次第に引き締まっていく。
スタッフがステージ周りの最終チェックを進め、スポンサーのブースでは「はぴねす食品」の担当者がパンフレットを並べ直していた。波田は物販コーナーを一通り確認し、イベント担当の小野寺に声をかける。
「準備は大体整いましたね」
「うん、あとは開場を待つだけ。スポンサー対応もバッチリ?」
「問題なしです」
その時、控え室のドアが開き、森山一郎が現れた。
「そろそろ始まるね」
「ええ、もうすぐ開場です」
森山一郎はホールを見渡し、ゆっくりと頷いた。
「よし、じゃあ行こうか」
その言葉とともに、イベントが動き出した。
時刻は14時。会場が暗転し、軽快なジングルが流れると、ざわめきが次第に収まっていった。
ステージに登場したのは、UBSラジオのアナウンサー。落ち着いた声でマイクを握ると、開演のアナウンスが始まる。
「皆さん、本日はお越しいただきありがとうございます! UBSラジオが誇る長寿番組、『森山一郎・スタンドアップ!』が、ついに放送9000回を迎えました!」
ホールに大きな拍手が広がる。アナウンサーは一呼吸おいて続けた。
「この30年以上にわたる歩みを、今日は皆さんとともに振り返り、楽しんでいきたいと思います! それでは、お待たせしました。本日の主役のお二人をご紹介しましょう!」
会場の期待が最高潮に達する中、ステージ袖から二人が登場する。
「森山一郎さん、そして近藤妙子さんです!」
拍手がさらに大きくなり、森山一郎がゆったりとした足取りでステージ中央へ。近藤妙子も軽やかに続く。
森山一郎は、一歩前に出ると静かに会場を見渡し、穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございます。今日は、たくさんの方に来ていただいて嬉しいです」
近藤妙子がマイクを持ち、笑顔で続ける。
「この番組がここまで続いたのは、ひとえにリスナーの皆さんのおかげです! 今日は思い切り楽しんでいきましょう!」
観客席から「おめでとう!」の声が飛び、また拍手が巻き起こる。
その後、番組の思い出を振り返るトークや、リスナーからの質問コーナーが続く。笑いもあり、しみじみする場面もあり、会場は終始温かな空気に包まれていた。
そして、イベント終盤。
「ラジオは、声を通じて皆さんと“時間”を共有するものです」
森山一郎が、ゆっくりと会場を見渡しながら言う。
「これからも、日常の中でそっと寄り添える存在でありたいと思います」
再び拍手が湧き、イベントは温かい余韻を残して幕を閉じた。
リスナーたちは満足そうに会場を後にし、スタッフたちは設営撤去に入る。
作業を進めホールにはまだ余韻が漂っていたが、波田は一つ息をつくと、スマホを取り出して時間を確認した。
18時10分。
区民センターを出ると、空はすでに夕闇に包まれていた。昼間の活気とは打って変わって、静かな石神井公園の空気が広がる。
「せっかくここまで来たんだ。ちょっと散策してみるか」
駅の方へ向かうのは後にして、まずは石神井公園の池の周りを歩いてみることにした。
公園の入り口を抜けると、すぐに池の水面が目に入る。昼間は家族連れや散歩する人々で賑わっていたが、今はひっそりとした雰囲気が漂っている。
池のほとりには、わずかに残る夕焼けの名残が映り込み、風が吹くたびにゆらゆらと揺れる。水鳥が静かに浮かび、時折 "ポチャン" と水面を跳ねる音が響く。
「いいな、こういう静けさ」
東京に住んでいると、こういう“都会の静寂”を味わえる場所は貴重だ。仕事帰りの余韻に浸りながら、ゆっくり歩くにはちょうどいい。
ベンチに腰掛け、しばらく風に吹かれていると、ふと小腹が空いていることに気づいた。
「そろそろ店を探すか」
池の周りを一通り歩いた後、駅へ向かおうとしたが、その前にふと目に入った店があった。
住宅街の一角、目立たない細い入口の奥に、地下へと続く階段がある。木のフレームに囲まれた小さな看板が立っており、そこには「まかないや長崎」と書かれていた。
「隠れ家みたいな店だな……」
もう一つの木のフレームには手書きのメニューが貼られており、【皿うどん】【長崎ちゃんぽん】【角煮】などが並んでいる。
「長崎料理の店か……」
ちょうど、温かいものが食べたかった。これは当たりかもしれない。
表通りに大きく看板を出すでもなく、ひっそりと地下に佇むこの雰囲気。
波田は軽く喉を鳴らし、階段をゆっくりと下りていった。
地下へ降りると、木製の扉があり、そこにはシンプルに「営業中」と札が掛かっている。
扉を押すと、ほんのりとした灯りに包まれた落ち着いた空間が広がった。
「いらっしゃいませ、お一人様ですか?」
奥のカウンターの方から波田と同年齢くらいの女性店員が案内してくれた。
「はい」
「こちらのカウンター席にどうぞ」
木のカウンター席が数席と、小さなテーブル席。店内には静かにジャズが流れ、奥では店主らしき男性が調理をしている。
「これは……いい店を見つけたかもしれない」
軽く息をつきながら、カウンター席に腰を下ろし、店内をさりげなく見渡す。
温かみのある木のカウンター、壁に掛かった手書きのメニュー、ゆるやかに流れるジャズ。静かで落ち着いた空間だ。
だが、目の前の店主を見た瞬間、波田は軽く驚いた。
ごつい。
腕は太く、日に焼けた肌、短く刈り込まれた髪。まるで土木作業員のような風貌で、どう見ても料理人というより現場仕事の職人にしか見えない。
しかし、その手元は驚くほど繊細だった。無駄のない動きで包丁を研ぎ、調理器具を整えていく。まるで「料理」という作業に無駄な要素を一切入れない、そんなストイックさを感じさせる。
カウンターの奥では、もう一人の女性が皿を並べていた。店主の奥さんだろうか。
彼とは対照的に、落ち着いた物腰で、丁寧に準備を進めている。店の雰囲気を作っているのは、この二人のバランスなのかもしれない。
奥さんはすっとカウンターに置かれたグラスを手に取り、波田の方を向いた。
「ご注文お決まりでしたら、お伺いします」
「じゃあ、生をお願いします」
奥さんは静かに頷き、冷えたジョッキにビールを注ぐ。
その注ぎ方がまた、驚くほど丁寧だった。
グラスの角度を絶妙に調整しながら、クリーミーな泡をしっかりと作る。泡が粗くならないよう、最後の一滴まで慎重に注ぎ分け、ほんの少し時間を置いて安定させてから、静かにカウンターへと置いた。
「どうぞ」
波田はグラスを手に取り、喉が鳴るのを感じながら、ゆっくりと口をつけた。
「……っ!」
思わず声が漏れる。
「ここの生、旨いな……ッ!」
泡は驚くほどきめ細かく、口当たりがまるでシルクのようになめらか。炭酸の刺激が強すぎず、喉を優しく撫でるように流れ落ちる。麦の香りとほのかな甘みが広がり、後味はスッと消えていく。
「ビールって、こんなに違うもんか……」
ただの生ビールではない。注ぎ方、温度、グラスの管理、すべてが揃ってこその一杯。
「……もう一口」
もう一度グラスを傾け、じっくりと味わう。喉を潤すだけのビールじゃない。これは、一杯の料理だ。
満足げに息をつくと、波田はメニューに目を落とした。
ビールの余韻を楽しみながら、波田は改めてメニューを眺めた。
「角煮」「皿うどん」「長崎ちゃんぽん」「アジの南蛮漬け」……
どれも魅力的だが、まずは定番を押さえることにした。
「すみません、角煮と、アジの南蛮漬けをお願いします」
店主は無言で頷くと、静かに調理に取り掛かる。
鍋の中から、トロリと煮込まれた角煮を取り出し、包丁で丁寧にカット。甘辛いタレの香りがカウンター越しに広がる。
続いて、揚げたアジを特製の酢だれにくぐらせ、薄くスライスした玉ねぎとともに皿に盛り付ける。
その間、奥さんが小皿や箸を準備し、無駄のない動きで提供の準備を整えていた。
「はい、角煮とアジの南蛮漬けです」
店主が静かにカウンターに置いた皿を見て、波田は思わず息をのんだ。
角煮は、箸を入れるだけでホロリと崩れるほど柔らかく、ツヤのあるタレがたっぷりと絡んでいる。
南蛮漬けのアジは黄金色の衣をまとい、甘酸っぱい香りが食欲をそそる。
「……これは、期待以上かもしれない」
角煮の脂身と赤身が美しく層をなし、タレがじゅわっと染み込んでいるのが見て取れる。
「これは……」
ひと口、口に運ぶ。
柔らかい。
肉の繊維がほろほろとほどけ、甘辛いタレが舌の上で広がる。脂のコクはあるが、くどさはなく、旨味がじっくりと押し寄せる。
「……これは、酒が進むな」
グラスを手に取り、再び生ビールをひと口。
角煮の甘みとビールの苦みが絶妙に絡み合い、喉を心地よく流れていく。
「最高の組み合わせだ」
次に、アジの南蛮漬け。
箸で持ち上げると、サクッとした衣にしっとりと酢だれが染み込んでいる。玉ねぎのシャキシャキとした食感が加わり、見た目にも食欲をそそる一品だ。
ひと口食べると、酸味の効いた甘酢がじんわりと広がる。アジのふっくらとした身と、カリッとした衣のコントラストが絶妙で、噛むたびに旨味が増していく。
「……これは日本酒でもいけそうだな」
そう思ったが、ここはもう一度、生ビールを味わいたい。
「すみません、生、もう一杯お願いします」
奥さんが軽く頷き、再びグラスに丁寧にビールを注いでいく。細かくクリーミーな泡が、まるでシルクのように整えられていく様子を眺めながら、波田は自然と喉が鳴るのを感じた。
「お待たせしました」
置かれたジョッキを手に取り、どんどん飲み干す
「……ぷはぁー、やっぱり旨いな、ここの生は」
生ビールの余韻を楽しみながら、波田はふとカウンターの上に並べられた日本酒の瓶に目を留めた。ラベルには見慣れない銘柄が並んでいる。
「せっかくだから、日本酒も試してみようかな」
波田は店主に声をかけた。
「すみません、おすすめの日本酒をいただけますか?」
店主は静かに頷くと、冷蔵庫から一本の瓶を取り出した。ラベルには『長珍 特別純米酒』と書かれている。
「こちらは、燗でコクが増す特別純米酒です」
店主は丁寧に徳利に酒を注ぎ、温度を確かめながらお燗をつけてくれた。程よく温まったところで、波田の前に猪口とともに差し出される。
波田は猪口を手に取り、香りを楽しんだ後、ゆっくりと口に含んだ。
「……うまい」
口当たりは柔らかく、米の旨味がじんわりと広がる。角煮や南蛮漬けとの相性も抜群で、料理の味を一層引き立ててくれる。
「やっぱり、日本酒もいいな」
波田は満足げに微笑みながら猪口を傾け、最後の一滴まで日本酒を味わう。
そして波田はふとメニューを見返した。
【皿うどん】
パリパリの細麺に、野菜や魚介の餡が絡む長崎名物。締めにふさわしい一品だ。
「すみません、皿うどんを一つお願いします」
「かしこまりました」
店主が中華鍋を取り出し、コンロに火をつける。強火で一気に鍋が熱せられ、ジュッと油が跳ねた。
まずは野菜を投入。キャベツ、もやし、人参、キクラゲ、ネギ、そしてエビやイカ、豚肉が次々と加えられ、豪快に炒められていく。
ジュワッ……と中華スープが注がれると、店内に立ち込める香りが一気に深まる。そこへ片栗粉でとろみをつけ、黄金色の餡が完成した。
別の鍋では、パリパリに揚げられた極細麺が準備されている。
「お待ちどうさま」
カウンター越しに置かれた皿を見て、波田は思わず唸った。
こんがりと香ばしく揚がった細麺の上に、たっぷりの餡がかかっている。野菜と魚介の旨味がギュッと詰まった艶やかな餡が、キラリと光を反射する。
「これは……間違いないな」
箸で一口すくい、パリパリとした麺の一部を崩しながら餡と絡める。
口に入れた瞬間、香ばしさと旨味の波が押し寄せた。
パリッ。モチッ。ジュワッ。
麺の食感が楽しい。餡のコクと、炒めた野菜の甘み、スープの旨味が合わさって、まるで五感を刺激する一皿だ。
「……うまい」
最初はパリパリだった麺も、餡を吸うことで徐々にしなやかな食感に変わっていく。
「しなぁっとした麺と絡む餡が、また旨いんだよな」
変化を楽しみながら、箸が止まらなくなる。
カウンターに置かれたウスターソースとからしに目をやる。
「皿うどんといえば、これだよな」
小皿にウスターソースを注ぎ、からしを少し溶かす。
ソースを少しかけた麺を口に運ぶと、甘みとコクがさらに増し、全体の味わいが引き締まる。からしのピリッとした刺激が絶妙なアクセントを加える。
「……完璧だ」
残りの麺もあと少し。
(いや、やっぱりこの店の生、もう一杯飲みたいな)
ここで飲んだビールがあまりに旨かった。最後にもう一度、あの泡のきめ細やかさを味わいたい。
「すみません、生をもう一杯ください」
奥さんが静かに頷き、冷えたジョッキを用意する。
店主がサーバーを操作し、絶妙な角度でグラスにビールを注ぐ。泡のきめ細かさ、黄金色の液体の輝き——これをもう一度味わえる喜びを感じながら、波田はグラスを手に取った。
皿うどんの最後のひと口を食べ終え、ビールをひと口。
「……やっぱり、これだよ」
生ビールのクリーミーな泡が舌を包み込み、喉を心地よく潤す。日本酒とはまた違う、飲みごたえのある一杯。
皿うどんの余韻とともに、最高の締めくくりになった。
最後の一口までじっくり味わい、皿を綺麗に平らげた。
「ごちそうさまでした」
カウンター越しに伝えると、店主は軽く頷き、低く落ち着いた声で言った。
「ありがとうございました」
奥さんがレジを打ち、静かに会計を済ませる。
財布をしまいながら、波田はカウンターの奥に目をやった。
「いい店だな……」
雰囲気、料理、酒、そして店主と奥さんの絶妙なバランス。派手さはないが、じっくりと味わいたくなる空間だった。
「また来ます」
そう言って、静かに店を後にする。
外に出ると、夜の空気がひんやりと肌を撫でる。ほんのりとした酔いを感じながら、ゆっくりと駅へ向かう足取り。
ふと夜空を見上げ、満足げに息をついた。
”ふらりと立ち寄った店で、ちょっとだけ人生が変わることもある。
いい店は、いいタイミングで現れるもんだ。”
心地よい余韻を胸に、波田は石神井公園の夜道を歩いていった。




