エピソード10 博多のもつ鍋とごまさば
羽田空港を飛び立ち、約一時間半のフライトを終えて福岡空港に降り立った。ターミナルを抜けると、湿り気を帯びた暖かい風が頬を撫でる。東京の空気とは違う、どこかゆったりとした時間の流れを感じさせる空気だ。
地下鉄へ向かう通路は観光客や出張族で賑わっていた。券売機の前では地図を広げて行き先を確認する外国人の姿も見える。自動改札を通り、エスカレーターを降りると、地下鉄空港線のホームが広がっていた。
ほどなくやってきた電車に乗り込むと、車内はビジネスマンと旅行者が入り混じる独特の空気感。
スーツケースを足元に置いた年配の男性が、「おー、最近どげんしとったと?そっちは雨降りよる?」と、電話の相手に話す馴染みのない方言が聞こえた。たった一駅、わずか五分の乗車時間だが、福岡に来た実感がじわじわと湧いてくる。
博多駅に到着し、改札を抜ける。駅の広場には観光客が溢れ、大型ディスプレイには地元グルメを紹介する映像が流れていた。ふと顔を上げると、目の前には大きな駅ビルがそびえ立ち、その中には飲食店や土産物屋が軒を連ねている。
荷物を軽く持ち直し、駅前の通りを歩き始めた。広々とした道路の両脇には、博多名物の店が立ち並んでいる。昼間から開いている居酒屋もちらほら見え、「昼飲み歓迎」の看板が妙に心をくすぐる。だが、今は仕事が先だ。
少し歩いたところで、波田はタクシーを拾うことにした。 手を挙げると、すぐに年季の入った黒い車がスッと寄ってきた。ドアが自動で開き、運転手が軽く会釈する。
「すみません、『はぴねす食品』の本社までお願いします」
「はぴねす食品の本社ですね」
タクシーはスムーズに流れに乗り、街の景色が窓の外を流れていく。
「出張ですか?」
「ええ、ラジオの仕事で」
「ラジオかぁ、夜によー聴くばい。博多はうまいもん多いけん、食い倒れにならんごつ気をつけんとですね」
「そうですよね。福岡に来たら、まず何を食べるのが正解ですかね?」
「うーん、定番はモツ鍋やけど、俺が推したいのは焼きラーメンですばい。中洲に行ったらぜひ食うてみんしゃい。 あと、串焼きも外せんですね」
運転手の話し方はテンポが良く、話しているうちに自然と気持ちがほぐれてくる。
「焼きラーメンですか、なかなか食べないですね」
「屋台の定番メニューで、鉄板で焼いた豚骨ラーメンみたいなもんですばい。酒のアテにもなるし、締めにもなる。夜中に食うと最高ですたい」
福岡の食文化が、すでにこのタクシーの中で始まっているような感覚だ。
「中洲の屋台もいいですが、今日はどこかおすすめの居酒屋あります?」
「お客さん、海鮮系好きですか?」
「ええ、大好物です」
「じゃったら、『博多屋 ごまさば』っちゅう店がええですよ。ゴマサバが新鮮で、あと、いい日本酒がよう揃っとる。福岡の地酒も楽しめますけん」
すでに今夜の予定が楽しみになってきた。
やがてタクシーは大通りを抜け、オフィス街へと入っていく。
「さっ、着きましたばい。お仕事頑張ってください」
「ありがとうございます。今夜、焼きラーメンとゴマサバ、試してみます」
「それはよか! うまかもん食うて、福岡を楽しんでいきんしゃい」
タクシーを降りると、目の前には「はぴねす食品」の本社ビルがそびえていた。
今回の出張の目的は、はぴねす食品が開発した新しい即席食品の試食会と工場見学。それに加えて、新商品のプロモーションをラジオ番組とどう絡めるかの打ち合わせも含まれていた。
しかし、波田はまだ知らなかった。UBS社内だけでなく、はぴねすの社員たちの間でも「波田響=食通」として認知され、彼がラジオ番組で語るグルメ話や、営業先での食へのこだわりが、なぜか福岡本社にまで伝わっていたということが…。
「実は、波田さんの意見をぜひ聞きたくて…」と、先方の担当者に言われた時、波田はプレッシャーを感じずにはいられないだろう。
果たして、期待に応えられるのか——。
そんなことは知らない波田は、はぴねす食品本社のエントランスへと足を踏み入れた。
エントランスホールは清潔感のある白を基調としたデザインで、受付カウンターの奥には大きなガラス窓が広がり、自然光が差し込んでいる。
壁際には、はぴねす食品の歴史や企業理念を紹介するパネルが整然と並べられており、その一角には、新商品の展示スペースが設けられ、パッケージデザインの試作品やサンプル品が美しく並べられている。
「ようこそ、はぴねす食品へ」
受付にいた女性が、にこやかに挨拶を交わす。その横から、スーツ姿の男性が現れ、名刺を差し出した。
「UBSラジオの波田さんですね?お待ちしておりました。私は広報部の村上と申します」
「こちらこそ、お世話になります」
名刺を交換し、軽く会釈を交わす。村上の後ろには、さらに数名の社員が控えていた。彼らは一様に期待の眼差しを向けており、まるで何か特別な客人を迎えるかのような空気を感じる。
「では、まず工場をご案内します。その後、試食会に移る流れです」
「よろしくお願いします」
波田は内心、この厚遇ぶりに違和感を覚えつつも、表情を崩さぬように気を引き締めた。
エントランスの奥へ進むと、廊下にははぴねす食品のこれまでの歩みを記した年表が並び、その横には、これまでに発売された商品のパネルが並んでいた。どれも見覚えのある商品ばかりだ。
「弊社は創業以来、『食卓に笑顔を』をモットーに、安心安全で美味しい食品を提供してまいりました。今回の新商品も、その理念に基づいて開発したものです」
村上の言葉を聞きながら、波田は静かに頷いた。
「なるほど。具体的に、どんな商品になるんでしょうか?」
「今回ご試食いただくのは、四つの名店の店主が監修したフリーズドライの味噌汁、レンチンするだけでお店クオリティの冷凍白胡麻担々麺、そしてじっくり煮込んだ冷凍モツ煮込みです」
「どれも気になりますね」
「実は、波田さんの食へのこだわりを社内でも話題にしておりまして……ぜひ、率直なご意見をいただきたいと考えています」
「……え?」
思わず、足を止める。
「波田さんは、ラジオ番組で食について語る機会も多いですよね?そのコメントがいつも的確で、私たちも参考にさせていただいています」
「……そうなんですか」
軽い気持ちで来たつもりが、どうやら想像以上に期待されているらしい。プレッシャーが肩にのしかかるのを感じながら、波田は意識を切り替え、工場見学へと足を進めた——。
工場エリアへと移動すると、白衣と帽子を身につけたスタッフたちが忙しなく作業をしていた。ガラス越しに見えるのは、巨大な機械がずらりと並ぶフロア。フリーズドライの味噌汁を製造するラインでは、丁寧に具材が並べられ、特殊な乾燥技術で一瞬にして水分が抜かれていく。
「ここでは、素材本来の風味を極力損なわず、旨味を閉じ込める製法を採用しています」
案内係の説明を聞きながら、波田は興味深げに工程を眺める。規則正しく動く機械と、職人たちの細やかなチェック。最新技術と職人の目が融合した現場に、思わず唸った。
「担々麺の工場もすぐ隣です。ご案内しますね」
冷凍担々麺のラインに移ると、もちもちの麺が均等に計量され、濃厚な胡麻スープが絡むよう工夫されている様子が見えた。
「スープは高温加熱後、瞬間冷却することで風味を損なわずに封じ込めています。実際に食べていただくと、その違いがよくわかるかと」
次に向かったのは、モツ煮込みの製造ラインだった。大鍋でじっくりと煮込まれ、深いコクのあるスープが湯気とともに立ち上る。肉の柔らかさを保ちつつ、臭みを一切感じさせない製法がこだわりらしい。
「こちらは、火加減を細かく調整することで、最適な食感を引き出しています」
波田はふと、タクシーの運転手が言っていた『食い倒れにならんごつ気をつけんとですね』という言葉を思い出した。ここまでしっかり作り込まれた商品、試食会では腹を括らねばならない。
工場見学を終え、社員たちとともに試食会場へと向かう。
長テーブルの上には、三種類の試食品が並べられていた。フリーズドライの味噌汁は湯を注ぐと具材がふわりと広がり、冷凍担々麺は湯気を立てながら、見るからに濃厚なスープをまとっている。モツ煮込みは、味が染み込んだぷるぷるの食感が見て取れた。
「では、波田さん。 まずは味噌汁からお願いします」
社員全員が静かに波田を見つめている。
波田はゆっくりと味噌汁の椀を手に取った。湯気が立ち昇り、ふんわりと出汁の香りが鼻腔をくすぐる。ひと口、ゆっくりと口に含む。
——これは……。
驚愕した。まるで、店で出される味そのものだ。
「……すごい。本当にお店の味と遜色ないですね」
言葉に嘘はなかった。フリーズドライ特有の軽さが一切なく、具材も歯ごたえをしっかりと残している。口の中で出汁の旨味が広がる。
「クオリティが高すぎてびっくりしました……」
社員たちが誇らしげに頷く。波田は改めて、はぴねす食品の本気を思い知らされた。
「では、次に担々麺とモツ煮込みを召し上がっていただきます」
テーブルの上には二つのカップが並べられ、波田の目の前に置かれた。村上が続ける。
「実はこの二つ、ひとつは冷凍からレンチンしたもの、もうひとつは瞬間冷凍する前の出来立てのものです。目隠しをして、どちらが出来立てか当ててみてください」
「なるほど……面白いですね」
波田はアイマスクを受け取り、目を閉じた。そして、スプーンを手に取り、まずは担々麺のスープを一口すする。
——これは……。
胡麻の香りが濃厚で、口当たりが滑らかだ。次にもう一つのカップのスープを口に運ぶ。風味の深みや舌触りの違いを感じ取りながら、波田は慎重に考えた。
だが——。
「……ギブアップです。」
社員たちが一瞬、驚いたように波田を見つめる。
「どっちも旨すぎて、違いがわかりません……。冷凍の方が少し味が落ちるかと思ったんですが、ここまで品質を下げないとは思わなかった」
社員たちの顔に笑みが広がる。
「それが、はぴねす食品のこだわりです」
波田は、改めて目の前の食品の完成度に圧倒されたのだった——。
「では、正解を発表しますね」
村上がゆっくりとカップを指し示す。
「こちらが瞬間冷凍前の出来立て。そして、こちらが冷凍後にレンジで温めたものです」
波田は、しばらくその二つを見比べた後、もう一度レンゲを手に取った。
「なるほど……改めて食べてみます」
まずは出来立ての担々麺のスープをすすり、続けて冷凍されたものを口に含む。意識して味の違いを感じ取ろうとするが——。
「……やっぱりわからないな」
社員たちがくすくすと笑う。
「少し違いがあると思ったんですが、ほとんどないですね。普通なら、冷凍すると風味が若干落ちたり、舌触りが変わったりするものですが……正直、どっちもお店で出されても気づかないレベルです」
波田は、レンゲを置きながら感嘆のため息をついた。
「すごいですね……このクオリティを冷凍で維持できるのは、相当な技術と試行錯誤の賜物でしょう」
村上が誇らしげに頷く。
「はい。弊社の冷凍技術にはかなりのこだわりがありまして、いかに出来立ての状態を再現できるか、何度も試作を重ねました」
「納得です。これは、普通に冷凍食品の概念が変わりますね」
社員たちが満足げに頷く中、波田は再びレンゲを取り上げた。
「いや、ちょっと待ってください。本当にどっちも同じなのか、もう一回試してみます」
再びスープを口に運ぶ。しかし——。
「……やっぱりわかんないな」
試食会場に笑いが広がる。
「よし、次のモツ煮こそは絶対に当ててみせます!」
「では、次はモツ煮込みですね」
村上が新しい器を波田の前に置いた。
「今回は少し趣向を変えまして……。先ほどと同じく出来立てと冷凍の二つがありますが、今回は片方にだけ、ある”秘密の仕掛け”を施しています」
「仕掛け?」
波田は眉をひそめた。社員たちは期待に満ちた表情でこちらを見つめている。
「今回は目隠しはせず、純粋に味と食感で違いを感じ取っていただければと思います」
「よし、今度こそ……!」
波田は器を持ち、まず一方のモツ煮を口に運ぶ。
——濃厚な味噌の香りが鼻に抜け、じっくり煮込まれたモツが口の中でとろける。
「うん、これは……さすがの仕上がりですね。臭みが全然ない」
次にもう一方の器に手を伸ばし、一口含む。
「……ん?」
何かが違う。だが、それが何なのかわからない。
「どちらも美味しいんですが、違いが微妙すぎる……」
社員たちはニヤリと笑う。
「実は、一方には”隠し味”としてほんの少しだけ特製の味噌を足しています」
「えっ……それだけ?」
波田はもう一度、二つを交互に食べる。
「……わからない」
「つまり、どちらも完璧に仕上がっているということですね。」
村上が満足げに頷く。
「はぴねす食品、恐るべし……」
波田は、器を置きながら心からの称賛を込めて呟いた。
試食会が終わると、社員たちが笑顔で見送ってくれた。
「本日はありがとうございました。波田さんの率直な意見、大変参考になりました」
村上が深々と頭を下げる。他の社員たちも、どこか誇らしげな表情を浮かべている。
「いや、こちらこそ貴重な体験をさせてもらいました。冷凍食品に対する考え方がガラッと変わりましたよ」
「そう言っていただけると嬉しいです。また機会がありましたら、ぜひ次の商品開発にもご意見をいただければと」
波田は苦笑しながら頷いた。
「光栄です。でも、次回はプレッシャーがすごそうですね……」
社員たちはくすくすと笑いながらも、「またぜひ!」と口々に声をかける。
エントランスを出ると、すでに日は傾き始め、福岡の街は夕暮れ色に染まっていた。
「さて……夜の福岡を楽しまないとな」
博多の町並みを歩きながら、店の灯りがぽつぽつと点き始めるのを眺める。活気のある屋台の準備をする姿や、仕事終わりのサラリーマンたちが酒場へと吸い込まれていく光景が目に入る。
「やっぱり、博多に来たなら屋台は外せないな……」
そんなことを考えていると、ふと思い出したことがある。
「そういえば、タクシーの運転手が言ってたごまさばも食べたいな」
波田は、運転手が勧めてくれた店をスマホで検索する。『博多名物のごまさばは、鮮度が命。醤油と胡麻ダレに漬けた鯖の刺身をアツアツのご飯にのせて食べると最高だ』とのこと。
「中洲の方かな?」
波田は深呼吸をし、軽く背伸びをすると、中洲へ向かった。
中洲の繁華街へ入ると、辺りは一気に賑やかさを増す。提灯が揺れる屋台の準備が進み、ネオンの光が川面に映って幻想的な雰囲気を作り出していた。
「確かこの辺だったはず……」
小さな路地へ入ると、目的の店が見えてきた。赤い暖簾に「博多屋 ごまさば」とある。 だが——
【本日、臨時休業】
扉に貼られた紙を見て、波田は思わず肩を落とす。
「なんてこった……せっかく楽しみにしてたのに」
仕方なく踵を返し、次の店を探すことにする。
博多の路地を歩きながら、いくつかの店を見ていく。屋台の準備が進む中、観光客向けの大きな看板を掲げた店や、地元の常連が集まりそうな隠れ家風の居酒屋が並ぶ。
ふと目に留まったのは、少し奥まった場所にある店。木の温もりを感じる控えめな看板に「もつ鍋 辰巳」とある。
店の外には数人の客が出てきて、満足げな表情で談笑していた。
「ここにしよう」
引き戸を開けると、ふわりと広がる出汁の香り。店内はカウンター席と小上がりの座敷があり、落ち着いた雰囲気だ。木のテーブルにレトロなポスター、壁には「創業三十年」の文字が誇らしげに飾られている。
「いらっしゃいませ!」
店主らしき男性が威勢のいい声で迎え、カウンターの一席を示した。
「ここ、お願いします」
席に腰を下ろし、手元のメニューを開く。
もつ鍋は醤油、味噌、塩の三種類。その他にも、酢もつや明太子、馬刺しなど、福岡らしいつまみが並ぶ。
「……ん?」
目を疑った。メニューの一角に、見慣れた文字があった。
「ごまさば」
「マジか……!」
まさかここでごまさばが食べられるとは思わなかった。落胆していた気持ちが、一気に高揚へと変わる。
「すみません!もつ鍋の醤油ベースと……ごまさばをお願いします。それと、生ビールを」
「かしこまりました!」
店主が元気よく返事をし、奥へと注文を伝えに行く。
カウンター越しに厨房の様子が見える。鍋の準備を進めるスタッフが、手際よく食材をさばいていく。その間、店内の空気を改めて感じる。
仕事帰りのサラリーマンが隣の席で楽しそうに杯を交わし、奥の座敷では観光客らしきグループがメニューを広げながら談笑している。店全体に、どこか居心地の良い温かさがあった。
「お待たせしました、生ビールと、こちらお通しです」
ビールとともに、小鉢に入ったお通し。中には、酢の効いた春雨サラダと、さっと炙った明太子が盛られていた。
「よし、まずは…」
波田は目をギラギラさせながらジョッキを持ち上げ、一口。
「……くぅ、うまい」
このために生きていると言っても過言ではない瞬間だ。
「おつかれ、俺」
東京から福岡まで飛行機で2時間、タクシーや電車の時間も入れると合計で約3時間30分。移動の大変さもある仕事だからか、波田は自分を労った。
半分まで飲んだビールのジョッキを置いて箸を取り、炙り明太子を一口頬張る。ビールの苦味と、ピリッとした辛さが口の中で混ざり合い、最高の組み合わせだ。
「よし、これは期待できるぞ……」
波田は改めて、これから始まる福岡の夜に胸を躍らせた——。
ほどなくして、ごまさばが運ばれてくる。
皿の上には、胡麻ダレにたっぷり漬かった鯖の刺身が美しく並べられている。白ごまと青ネギが散らされ、ツヤのある身が光を反射していた。
「お待たせしました、ごまさばです」
箸を持ち、そっと一切れを口へ運ぶ——。
脂ののった鯖の旨味が、甘みのある胡麻ダレと絶妙に絡み合う。舌の上でとろけるような滑らかさ。そして、ほんのり香ばしい胡麻の風味が余韻を引く。
「……うん、これはたまらん」
思わずジョッキを持ち上げ、ぐいっとビールを流し込む。だが——。
「この旨さには、日本酒が欲しくなるな……」
波田はカウンターに視線を向け、酒の品揃えを確認する。
「すみません、日本酒ください。おすすめで」
「そうですね……ごまさばに合うのは、すっきりした純米酒か、ほんのり甘みのある吟醸系ですね」
店主が数本の瓶を取り出し、ラベルを見せながら説明を続ける。
「これは地元・福岡の純米酒で、キレが良くて魚の脂をさっぱり流してくれます。こちらの吟醸酒はフルーティーで、ごまの風味と相性がいいですよ」
波田はしばし考え——
「純米酒、お願いします」
店主が頷き、小さな徳利とお猪口を用意する。
ごまさばをもう一切れ口に運び、続けて日本酒をひと口。
「……くぅ、合うな」
胡麻のコクと、鯖の旨味が純米酒の辛さと絶妙に絡み、さらなる幸福感をもたらしてくれる。
すっかりごまさばを堪能し、日本酒の杯を置いた頃——
「お待たせしました、もつ鍋です!」
店主が笑顔で土鍋を運んできた。
目の前に置かれた鍋から、グツグツと煮え立つ音が響く。ニラとキャベツがたっぷりと盛られ、モツの脂が溶け出したスープが、食欲をそそる香りを放っていた。
「火が通るまで、あと少し待ってくださいね」
店主の言葉に頷きながら、波田は鍋を見つめる。
スープの表面にはじんわりとモツの脂が広がり、野菜から染み出た甘みが絡み合っている。ニラの青々とした香りが、湯気とともにふわりと漂う。
「こいつは……期待以上かもしれない」
ぐつぐつと煮える鍋を前に、波田の期待はさらに高まっていくのだった——
鍋の中で、もつがぷるぷると揺れ、キャベツやニラがスープの中でしんなりとしてきた。
「そろそろ食べごろですよ」
店主の声に頷きながら、波田はお椀を手に取る。
お玉を使って、熱々のスープをそっとすくい、お椀へと移す。黄金色のスープの表面には、じんわりと広がったもつの脂がきらめき、湯気とともに濃厚な香りが立ち昇る。
「これは……、間違いないやつだ」
波田はそっとお椀を口元へ運び、まずはスープを一口すする。
熱い。だが、それ以上に——。
「……くぅ……っ」
思わず唸る。
濃厚な醤油ベースのスープに、もつの甘みとコクが溶け込み、深みのある旨味が舌にじわりと広がる。キャベツやニラの甘さも合わさり、絶妙なバランスを生み出している。
「こりゃ……やばいな」
心の底からこぼれた言葉。
スープの余韻を楽しみながら、次はいよいよ主役のもつに箸を伸ばす。
湯気が立ち昇る鍋の中から、ふっくらとしたもつを一つ掬い上げる。ぷるんとした弾力のある質感に、期待がさらに高まる。
「いただきます……」
ゆっくりと口に運ぶと——。
噛んだ瞬間、とろけるような脂の甘みが口いっぱいに広がる。もつ特有の弾力のある食感がありながらも、噛むごとに旨味が溢れ出し、スープとの相性が抜群だ。
「これは……たまらんな」
箸を止めることなく、次の一口を求める。
今度はキャベツと一緒に頬張る。クタクタになったキャベツの甘みが、もつの濃厚な脂と合わさり、一層旨味が引き立つ。
「……最高かよ」
思わず一人呟く。
スープをすすり、もつを食べ、キャベツを噛みしめる。その繰り返しが、無限に続きそうなほど心地よい。
目の前の鍋は、今まさに至福の瞬間を提供してくれているのだった——。
さらに、卓上の薬味を見つめる。
「お好みでどうぞ」
店主が微笑みながら差し出したのは、柚子胡椒とすりおろしニンニク、そして一味唐辛子。
波田は柚子胡椒をほんの少しスープに溶かし、もう一口。
「……うん、これもいいな」
柚子の爽やかな香りとピリリとした辛さが、もつの甘みと絶妙に絡み合い、まったく別の味わいへと変化する。
さらに、一味唐辛子をひとふり。スープに溶け込む赤い粒が、食欲をさらに刺激する。
「おお、これは……また違う表情になるな」
唐辛子の辛さが、もつの脂の甘みを際立たせ、後味に心地よい刺激を残す。
最後に、すりおろしニンニクを少量加えてみる。
「……ガツンとくるな」
香ばしいニンニクの風味がスープに深みを加え、一口ごとに食欲が加速していく。
もう箸が止まらない。暴走機関車のように、次から次へと鍋の具材を口に運んでいく。スープを飲み干し、もつを噛みしめ、キャベツを絡めて頬張る。当然、酒も進む。
「すみません、ハイボールください」
店主が即座に頷き、炭酸が弾ける音とともに、冷えたハイボールが運ばれてくる。
黄金色の液体に氷がカラカラと揺れ、グラスを傾けると、炭酸の刺激とともにウイスキーの香りが広がる。
「くぅ……最高」
もつの脂をハイボールがスッと洗い流し、再び新たな一口を迎え入れる準備が整う。
完全にスイッチが入った。
エンジンは高回転のまま、もつ、スープ、酒、薬味の組み合わせを無限に試し続ける。
「こんなに楽しいもつ鍋、久しぶりだな……」
しばし黙々と食べ進め、ようやく一段落ついたところで、波田はお腹の具合を確かめながら、店主に声をかける。
「すみません、ちゃんぽん麺、お願いします」
「かしこまりました!」
店主が手際よく鍋に追加のスープを注ぎ、ちゃんぽん麺を投入する。
スープをたっぷり吸い込んだ麺が、鍋の中でゆらゆらと泳ぐ。
「最高の締めになりそうだ」
波田は満足げに、最後のひと口まで楽しむ準備を整えていた——。
箸を伸ばし、麺をすくい上げると、湯気とともに濃厚なスープの香りが立ち上る。
「これも……間違いないな」
ずるずるっと一口すすると、もちもちとした麺の食感が舌に絡み、スープの旨味をしっかりと吸い込んだ麺が、口の中でほどけていく。
「……うまい」
スープの染みた麺は、最後の一滴まで楽しめる極上の締め。
箸が止まらず、一気にすすり込む。
最後にレンゲでスープをすくい、ゆっくりと口に運ぶ。
「……はぁ」
鍋の最後の一滴まで楽しみ尽くし、波田は満足げに息をついた。
「いやぁ、最高だったな……」
締めのちゃんぽんまでしっかり堪能し、満腹感と幸福感に包まれながら、ゆっくりと席を立つ。
「お会計、お願いします」
店主がレジを打ち、金額を告げる。
「ありがとうございました!」
店を出ると、福岡の夜風が心地よく肌を撫でた。
「さて……どうするか」
このままホテルへ帰るか、それとももう一軒軽く飲むか。
お腹は満たされたが、せっかくの博多の夜をもう少し味わいたい気もする。
そんなことを考えながら歩いていると、ふと足を止めた。
薄暗い路地に、小さなネオンがぼんやりと光っている。店名は『BAR 間の巣』。
「……こんなところに、バーなんてあったか?」
少しばかり不思議な気持ちになりながらも、波田は引き戸をそっと開けた。
店内は静かで、ほんのりジャズが流れている。カウンターの奥に、黒いスーツに身を包んだ男が座っていた。
「おやおや……これはこれは」
ふと、その男が波田に視線を向け、笑った。
ふくよかな体型に、丸い目。にやりと口角を上げたその顔には、どこか得体の知れない雰囲気が漂っていた。
「あなた、なかなか面白そうな顔をしている」
男は手招きをし、隣の席を示した。
「せっかくだ、一杯付き合ってくれませんか?」
断る理由もない。波田は静かに席に着いた。
「お飲み物は?」
マスターが低い声で問いかける。
「じゃあ……ウイスキーのロックで」
琥珀色の液体がグラスに注がれ、氷が静かに揺れる。
「いいですねえ、ウイスキー。長い時間をかけて熟成されたその味わいは、まるで人間の人生のようです」
男は自分のグラスを傾けながら、にやりと笑う。
「ところで……あなたの将来の夢は?」
「夢?」
波田はグラスを回しながら、少し考え込んだ。
「うーん……営業なんで。まあ、適度に仕事して、好きなときに飲み歩ければ、それでいいかな」
「なるほどなるほど」
男は興味深そうに頷く。
「では、私があなたの未来をお見せしましょう……」
「え?」
男がグラスを掲げると、周囲の景色がぐにゃりと歪んだ。
男は興味深そうに頷く。
「では、あなたがそのまま歳を重ねたらどうなるか…覗いてみますか?」
「どういう意味です?」
男は静かに微笑むと、グラスを掲げた。
その後の記憶は、あまりはっきりしていない。
* * *
目が覚めると、波田はホテルのベッドの上にいた。
「うっ……飲みすぎたか……?」
頭を軽く押さえながら、ぼんやりと天井を見つめる。
昨夜の出来事を思い出そうとするが、どうにも曖昧だ。
「あのバー……何を話してたっけ?」
財布を開くと、レシートが一枚。
『BAR 隠れ月』
「……バーには行ったんだな」
波田は苦笑しながら、ふぅっと息をついた。
「まあ、考えても仕方ないか」
そう言いながら、ベッドの上で大きく伸びをする。
このとき、彼は気づかなかった。
ベッドの下に、一枚の名刺が落ちていることに。
そこには、達筆な文字でこう書かれていた。
『BAR 間の巣 宗方 玲司』
そして、その名刺の裏には——
「未来は、いつでも選べる」
窓の外からは、福岡の朝日がゆっくりと差し込んでいる。
「……いい朝だ」
波田は立ち上がり、軽く背伸びをした。
「さて……今日も、うまい酒に出会えるといいな」
”ふらりと立ち寄った店で、ちょっとだけ人生が変わることもある。
いい店は、いいタイミングで現れるもんだ。”
「波のまにまに巡り酒」、波田の旅はまだ続く。




