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エピソード9 南新宿のラムキーマとバターチキンカレー


午前中、UBSラジオの社内はいつも通りの忙しさだった。企画会議に出席し、スポンサーとの調整を済ませると、時計の針はすでに昼を回っていた。


「さて、南新宿か…」


赤坂駅から千代田線に乗り、代々木上原で小田急線に乗り換える。電車に揺られながら、波田はスマホで目的地を確認した。新宿駅の隣、降りるのは南新宿。これまであまり縁のなかったエリアだ。


新宿の喧騒とは一線を画す静かな街並み。オフィスと住宅が混じるこの一帯に、新しくオープンした トークメインのスタジオ兼Bar があるという。


今回の目的は、そのスタジオの下見だった。


「ラジオの生収録もできて、しかも酒が飲めるスペース…なかなか面白そうじゃないか」


SNSで話題になり始めているこの場所は、全国的に有名な実業家がオーナーという噂だった。合理的で頭の回転が早く、論理的な語り口が特徴で、こういう人物とは質問の内容が幼稚だと不快にさせてしまう事もあるので、安易な質問はできない。


「まぁ、前々から準備はしてるが……緊張するな」


波田は電車の窓の外を眺めながら、久々にワクワクしている自分に気づいた。


 南新宿駅に到着し、改札を抜けると、新宿の雑踏とは違う落ち着いた空気が広がっていた。駅前の道路は思いのほか静かだ。


「さて、どんな場所なのか…」


 波田はスマホの地図を頼りに、目的のスタジオへ向かって歩き出した。


 駅前から西参道の方へ少し歩くと、こぢんまりとしたカフェやベーカリーが点在し、昼下がりの時間帯とあってテラス席には数組の客が腰を落ち着けている。その横を、オフィスワーカーらしき男性がコーヒー片手に足早に通り過ぎていった。


「意外とこういう場所もあるんだな」


 通りを進むと、昔ながらの佇まいを残した定食屋だったり、蕎麦屋が目に入る。近くには古書店やギャラリーもあり、ただのビジネス街とは違う文化的な空気が漂っていた。


 スマホの地図を頼りに路地を一本曲がると、目的のスタジオが入るビルが見えてきた。外観はシンプルだが、エントランスにはスタイリッシュなサインボードが掲げられ、モダンな雰囲気を醸し出している。


 ビルに入り、エレベーターで指定のフロアへ向かう。ドアが開くと、広々としたエントランスが目に飛び込んできた。アート作品が飾られた壁、落ち着いた間接照明、そして奥にはバーカウンターのようなスペースが見える。


すぐにスタッフらしき人が笑顔で迎える


「こんにちは!」


「こんにちは、UBSラジオの波田と申します。」


「波田さん、お待ちしてました。 ここの受付の内藤と申します。 どうぞ中へ。」


「はい。」


 案内されるままにスタジオへと進むと、そこには最新の音響機器が整然と配置され、収録スペースと一体化したバーのカウンターが印象的だった。大きなガラス窓越しには、明治神宮御苑と代々木公園が望める。


波田はスタジオの中央に設置された椅子に腰掛け、しばらく周囲を見渡した。落ち着いた照明、整然と並ぶ音響機材、そしてバーカウンター越しに並べられた酒瓶の数々。ラジオのスタジオとは思えない洒落た空間だ。


 しばらくして、静かだったスタジオの扉が開く音がした。


 テレビで聴いたことがある声が響いた。振り向くと、カジュアルな服装ながらも鋭い眼差しを持つ男


「お待たせしました、衛門えかど 彫文ほりふみです。」


衛門は手を差し出し、にこやかに微笑んだ。波田も握手を交わしながら応じる。


「こちらのスタジオ、素晴らしいですね。ラジオの生収録とバーが融合した空間なんて、なかなか珍しい。」


「いいですよね?音声メディアも形を変えるほうがおもしろいし、ここなら収録しながらリスナーも楽しめる場所になりますからね。」


 衛門はバーカウンターの方を指さしながら言った。


「収録終わりにそのまま酒が飲めるし、むしろ収録中に飲めますから。ゲストも肩の力抜いて話せるし、リスナーも直接交流できる。」


「確かに、リラックスした雰囲気でのトークは盛り上がりそうですね。」


「そうそう。ラジオはもっと自由であっていいと思うんです。形式にとらわれ過ぎると、本来の魅力が薄れてしまいますから。」


衛門は腕を組みながら言った。合理的で頭の回転が早いタイプの人間で、どこか抜け目がない。それでいて、熱量のある話し方が妙に説得力を持っている。


「ステージそのものがラジオでいう収録ブースみたいな感じだから、防音性能も自然な会話の響きを活かすために、壁材や天井の設計もしっかりしてますよ。」


 波田はステージ全体をじっくり見回した。吸音パネルが整然と配置され、椅子に座ると、音の反響が抑えられた心地よい静けさが広がる。


「へぇー。収録しながらすぐ側にはバーカウンター、そしてリスナーと交流できる。個人的にも訪れたいですね。」


「来てくださいよ。ここは会員制だけど、波田さんもよければ会員制の資格カード差し上げるので是非。」


「ホントですか?! ありがとうございます!」


波田は嬉しそうに会員カードを受け取った。


「リスナーも、単に受け手ではなく、リアルタイムでコンテンツに関われる形を目指しています。それに、収録後にゲストとスタッフが一緒に飲める場があるのも魅力です。」


 波田は感心しながら、バーカウンターへと歩を進めた。棚には種類豊富なウイスキーやワイン、クラフトビール、日本酒が並んでいる。


「ここは、僕が好きなお酒も集めているんです。 ちょっと喉乾いたからビール飲みますね。」


「えっ?」


波田は衛門の行動にビックリする


「波田さんも飲みます?」


「いやっ、まだこのあともあるので、次回来た時に飲ませていただきます」


(日本のみならず、世界に股をかける偉大な実業家というのは、いい意味で自由奔放というか、さすがだなぁ。)


波田は、テレビで見たままの衛門に対して、関心と同時に、少し嬉しそうに微笑んだ。


「あっ、そうだ!このIPAはおすすめですよ。僕が長野でプロデュースしている日本酒作りの酒造があって、サロンメンバーと協力して作ったクラフトビールなんです。香りが華やかで、めちゃめちゃ旨いですよ」


「収録だけでなく、お酒の種類の楽しみもあるわけだ。」


「うん。ラジオを単なる音声コンテンツではなく、体験として提供できればと思いまして。」


 衛門の言葉には、一貫したコンセプトがあった。ただのスタジオ経営ではなく、新しいメディアの形を模索するその姿勢に、波田は共感を覚えた。


スタジオを後にした波田は、エレベーターで一階へ降りると、ふと時計を確認した。思ったよりも時間が経っていたが、夜はまだまだこれからだった。


「せっかくだし、どこかで軽く飲んでいくか…」


 スタジオの建物を出ると、南新宿の静かな夜風が心地よかった。新宿の中心とは違い、人通りも少なく、落ち着いた雰囲気が漂っている。ビルの隙間からはオレンジ色の街灯が差し込み、店の灯りが静かに夜の街を照らしていた。


 波田はポケットからスマホを取り出し、なんとなくグルメサイトを開く。候補はいくつかあったが、どれもピンとこない。


「うーん…せっかくなら、ちょっと変わった店に行きたいな。」


 波田は西新宿方面に向かい歩き始めた。



 南新宿は住宅街であり道が狭い。その中でもこぢんまりとした立ち飲みのBarや、居酒屋もあり、そしてその先にはおしゃれなカフェもある。どれも魅力的ではあるが、今の気分ではない。


 しかし、夢中に店探しをしている波田だが、慣れない土地で散策をしてしまったせいで南新宿の迷路にはまってしまった。


「あれ?行き止まりだ。」


波田は再びスマホを取り出しマップを見るが、どの位置に自分がいるのかわからない状態に陥ってしまった。


「ここが行き止まりだから…、ここを歩いて…、あれ?おかしいな。」


街灯が少ない住宅地。やみくもに歩くしか方法はないように思えた。が、そんなとき、住宅地の中に一軒だけ妙な灯りを見つけた。


「なんだ?カフェではないようだが。」


外観はスウェーデンスタイルな一軒家で外の看板には「Curry Craft Sisters」と書かれてあった。シンプルなロゴデザインに、「クラフトビールとスパイスカレーの店」と書かれている。


「クラフトビールとスパイスカレーか…いいじゃないか。」


 そこで波田はふと思った。


「考えてみれば、さっき衛門さんがスタジオでIPAを勧めていたなぁ。」


偶然のような、必然のような流れに、波田はひとり苦笑した。気がつけば、自然と足が店の方向へ向かっていた。


 扉を開けると、スパイスの香りがふわりと漂い、食欲を刺激した。カウンターには数人の客が座り、それぞれの時間を楽しんでいる。奥のテーブル席では、グループがクラフトビールを片手に談笑していた。


「いらっしゃいませ。」


 店員の明るい声に迎えられ、波田はカウンター席の一つに腰を下ろした。


店員は30代前半くらいの男性で、カジュアルなエプロン姿に黒縁のメガネをかけている。無造作にセットされた髪と、落ち着いた口調が特徴的だ。


メニューを手に取り、クラフトビールのラインナップに目を通す。


「まぁまぁ種類あるんだな。」


 メニューには個性的な銘柄が並び、それぞれに詳細な説明が添えられている。苦みの強いIPA、フルーティーなホワイトエール、そして馴染みのない宇宙ビール。どれも魅力的だった。


しかし、衛門の話を思い出したのもあり、選択に迷いはなかった。


「最初はやっぱりIPAにするか。」


 波田は店員を呼び、注文した。


「IPAですね、かしこまりました。」


すぐに店員はグラスに注ぐ。


「お待たせしました、こちらIPAでございます」


ビールは黄金色に輝き、細やかな泡が美しく立っている。


「やっとこの瞬間がきた。」


一口含むと、爽やかな香りとともに、ほんのりとした甘みと酸味が広がった。


「くぅ…うまいな。」


グラスを置き、ゆっくりと余韻を味わう。スパイスの香りとビールのフルーティーな風味が、店内の空気と調和して心地よい。


「おつまみもいくつかありますので、もしよければどうぞ。」


「そうなんですね。でもまずはカレーを頼もうと思って。」


「カレーのおすすめは日替わりで色々あるのですが、今日のおすすめは、ラムキーマとバターチキンです。」


「ラムキーマとバターチキンか…、名前からしてどちらも捨てがたいな」


 迷う波田。さらにメニューをめくると、角煮カレーやチキンチャーシューカレーの文字が目に入り、ますます決められなくなった。


「うーん、どれも良さそうですね…」


 そんな波田の様子を見て、店員がさらりと言った。


「ハーフ&ハーフもできますよ。」


 なんと素晴らしい気配りだ。悩みすぎて決められないときに、こういう提案をしてくれる店はいい店だ。


「それなら、ラムキーマとバターチキンのハーフ&ハーフでお願いします。」


「かしこまりました。少しお時間いただきますね。」


 店員はキッチンに向かい、波田は再びグラスを手に取る。ビールをゆっくりと傾けながら、カレーができるのを待つ間、店内の雰囲気を楽しむ。


 カレーのいい香りが漂い、調理の音が微かに響く。隣の客はクラフトコーラを片手にスマホを眺め、奥のテーブル席では談笑する声が心地よく響いていた。


 波田はゆっくりとビールを味わいながら、これからやるべき仕事のことを少し考えた。だが、考えすぎても仕方がない。今はこの一杯と、これから来るカレーを楽しもう。


 グラスの中のビールが半分ほど減った頃、カウンターの向こうから店員の声がした。


「お待たせしました、ラムキーマとバターチキンのハーフ&ハーフカレーです。」


大きなプレートに盛られたカレーは、それぞれの個性を放っている。ラムキーマは粗びきのラム肉がゴロゴロと入り、ルーの中にホールスパイスがちらほらと見える。湯気とともに立ち上る香りは力強く、食欲をそそる。


一方のバターチキンは、鮮やかなオレンジ色のルーがたっぷりとかかり、見るからにクリーミーだ。カスリメティの香ばしい香りが漂い、まろやかさの中に深みがありそうだ。


 波田はまずラムキーマを一口。スパイスの香りが広がり、ラムの旨味がじんわりと押し寄せる。適度な辛さが後を引く。


「うん、スパイスが効いててうまい。」


 次にバターチキンを口に運ぶ。トマトの酸味とバターのコクが絶妙に絡み合い、口当たりがまろやかだ。


「こっちはまろやかで甘みがあって、また違う良さがあるな。」


 ビールを口に含み、スパイスの余韻を楽しむ。ビールをおかわりしたくなる気持ちが湧き上がるが、今日は仕事も残っている。


「……ここは我慢だな。」


 スプーンを進めるごとに、ラムキーマのスパイスの刺激がじわじわと舌に残り、バターチキンの甘みがそれを優しく包み込む。途中、少しライスをビールで流し込むと、IPAのフルーティーな香りがスパイスと絶妙にマッチする。


「これは、ホワイトエールだったらまた別の楽しみがあるだろうなぁ…」


 一瞬、追加の注文を考えるが、今日は我慢だ。スプーンを置き、深く息をつく。口の中に残るスパイスの余韻をじっくりと楽しみながら、最後のひとくちをゆっくりと味わった。


食べ終えたタイミングで、店員がカウンター越しに笑顔を向けた。


「食後のデザート、いかがですか? チャイプリンと、マンゴーラッシーもあるんですが」


 カレーの余韻が残る口の中に、スパイスのデザートが加われば面白そうだ。波田は少し考えて、頼むことにした。


「そしたら、チャイプリンとマンゴーラッシーをお願いします。」


「ありがとうございます。」


 ほどなくして運ばれてきたプリンは、カラメルの代わりにほんのりスパイシーなソースがかかり、シナモンとカルダモンの香りがふわりと立ちのぼる。一口すくって口に運ぶと、濃厚な甘みとスパイスの刺激が絶妙に調和していた。


 チャイプリンを一口食べたあと、マンゴーラッシーのストローをくわえて軽く吸う。


「ハァ、……やっぱり、ラッシーは旨いな。」


 インド料理レストランでランチをする際には、必ず頼む定番のドリンク。程よい酸味と甘みがスパイスの余韻を優しく包み込んでくれる。


「うん…これはいいな。」


 ゆっくりとプリンを味わいながら、マンゴーラッシーを飲み干す。食事を締めくくるにふさわしい満足感が広がった。


「ごちそうさまでした。」


波田は席を立ち、帰る準備をして、笑顔で店員に声をかけた。


「ごちそうさまでした、お会計お願いします!」


「どうも、ありがとうございます。」


店員も笑顔で応え、食器を洗っていた手を止めて、レジの方に向かった。


 会計の際、店員がふと棚に並べられたパウチを指さした。


「当店のカレールー、お持ち帰りもできますよ。お土産やご自宅用にいかがでしょう?」


 ふと手に取ると、ラムキーマとバターチキンのルーが小分けにされたパックが並んでいる。


「へえ、これはいいですね。」


「レンジで温めるだけで、お店の味がそのまま楽しめます。」


 職場のUBSのスタッフ、そして衛門さんにも差し入れすれば、きっと喜ぶだろう。波田は軽く笑いながら、それぞれ一つずつ購入することにした。


「じゃあ、これください。」


「ありがとうございます!」


 会計を済ませ、手にカレールーの袋を持ちながら店を出る。


「これは、いい手土産になりそうだ。」


ふと外の看板のメニューに目を戻すと、他にも気になるメニューが並んでいる。豚角煮カレー、チキンチャーシューカレー…それに、トッピングのラインナップも豊富だ。温泉卵や粉チーズ、ほうれん草、トマト、ナッツのトッピングもあるらしい。


「次は、角煮カレーに温泉卵と、粉チーズトッピングとかも試してみたいな…」


そう思いながら、波田は肝心なことに気付く。


「そうだ、道に迷ってここに来たんだった。」


すぐに店に戻る波田。


「すみません、駅まではどう行けば?」


「この道をまっすぐ行って、二つ目の角を左に曲がれば駅ですよ。」


「ああ、そうですか。ありがとうございます。」


危ないところだった。これでまた迷路に迷い込んだら洒落にならないな。


店員さんの言われた通りに歩いていくと、程なくして見覚えのある大通りが見えてきた。


「あ、やっと分かった。」


カレールーを片手に、波田はほっと一息つき、改札をくぐり、電車へと乗り込んだ。



”ふらりと立ち寄った店で、ちょっとだけ人生が変わることもある。


 いい店は、いいタイミングで現れるもんだ。”


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