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身代わりの花嫁は死神帝に愛される

作者: 鳥柄ささみ

「クズ。これ、代わりにやっておいてちょうだい」


 唐突に呼ばれて顔を上げると、投げ捨てるように放られる紙束。拾い上げて見てみると、それは女学校で出された手習いの課題のようだった。


「美津さま。これは先日おっしゃっていた女学校で行われる競技会の課題では? 私がやってよろしいのでしょうか」

「はぁ? クズのくせに私に口答えするの? 私はあんたと違って忙しいの。私がやれって言ったらつべこべ言わずにあんたはやればいいのよ。それとも何? クズの分際で私の言うことが聞けないっていうの?」

「い、いえ、そんな滅相もありません。承知しました。すぐにやります」

「私の評価に関わるんだから、完璧に仕上げてよね。手を抜いたら承知しないから」


 クズと呼ばれた少女の本当の名は葛葉。齢は十六で、口減らしのため六年前に親から人買いに売られ、その後華族である菱田家に引き取られて奉公をしている。


 葛葉は同い年で菱田家の長女である美津の側仕えをしているのだが、美津はとても美人ではあるものの非常に気性が荒く、ワガママで傍若無人であった。


 けれど、美津は菱田家の長子として溺愛されていたため、菱田家には美津を咎める人が誰もいなかった。

 それゆえ、彼女の傲慢な態度は年々酷くなるばかり。今も美津は帰ってくるなり女学校の手習を全て葛葉に丸投げし、当人はすぐさまどこかへ行ってしまった。


 しかも、丸投げは今回だけではない。


 生け花や裁縫など、美津にとって面倒な課題は全て葛葉が肩代わり。また、舞踊や琴などの習い事も面倒だからと全て葛葉に代理で出てもらい、美津はその間に新しいカフェーに出向いたり芝居を観に行ったりと、連日遊び呆けてばかりいた。


 やりたいことしかしない姿勢は由緒正しい名家として目に余るところがあったが、指摘すると美津が癇癪を起こして手がつけられなくなるので、結局誰も何も言わずに彼女の好きにばかりさせていた。


 尻拭いは全て葛葉に。


 美津のやらかしは全て葛葉に押しつけられていた。美津が何かやらかすごとに葛葉が菱田家の人々から叱責され、罰を与えられ、躾と称して殴る蹴るの暴行を加えられる日々。葛葉は立場柄、抗うこともできずにただただ受け入れることしかできなかった。



 ◇



「クズ! クズ!」

「はい、美津さま。何かご用でしょうか?」


 パーン!


 今日も女学校から帰ってくるなり葛葉を呼びつける美津。葛葉がすぐさま向かうと、飛んできたのは平手だった。


 勢いよく打たれた頬は、一瞬で燃えるように熱くなる。あまりに急な出来事で、葛葉は受け身を取ることすらできず、勢いのままにその場に崩れ落ちた。


「あー、スッキリした! なんか虫の居所が悪かったのよね〜。……何よ、その目。何か文句があるの?」

「……いえ。何もございません」

「そうよね。クズごときが私に文句を言えるわけがないわよねぇ? 下賎で、卑しくて、芥のような存在だもの」

「……っ」


 散々な言われようだが、反論はできない。したら最期、折檻されて捨てられるだけだ。そうしたら身寄りのない葛葉は野垂れ死ぬしかない。


「はい。その通りでございます」

「うふふ。わかればいいのよ、わかれば。さて、私はこれから観劇に行くから、今日も手習いの課題よろしくね。私の評価に繋がるのだから、しっかりと丁寧にやるのよ。きちんとやらなかったら、食事抜きだから」

「はい。承知しております」


 葛葉の恭しい態度に満足すると、美津はにんまりと勝ち誇ったように笑って部屋を出て行った。

 残された葛葉は内心小さく溜め息をつく。


(痛い……なぁ。私、死ぬまでずっとこんな生活しなくてはいけないのかしら)


 葛葉は美津にとってていのいい鬱憤の捌け口であり、何をしても許される都合のいい玩具であった。


 それが深く重く、葛葉の胸に沈み込む。


(私、何のために生きてるのかしら)


 美津の機嫌に振り回されて、玩具のように弄ばれたり意思もなくただ使われたりするだけ。肯定のみしか受け入れられず、彼女の意に沿わなければ躾と称しての折檻が待ち受ける。

 現状の今の生活を振り返ってみて、葛葉は生きる意味を見出せなかった。


「ってダメダメ、考えては。今は与えられたことをしっかりとやらないと。美津さまの機嫌を損ねてしまったら、ご飯抜きにされてしまう」


 挫けそうになる心を自ら鼓舞してやり過ごす。

 葛葉は打たれた頬を摩りながら、これ以上もう何も考えないように頭を振ると、放られた美津のカバンを拾い上げるのだった。



 ◇



「えー! 絶対に嫌よ! 父さま、断って!」


 美津が幼子のように大きな声で叫ぶ。

 だが、困ったように眉根を寄せた美津の父は、いつものように彼女の言葉に頷くことはなかった。


「それは無理だよ、美津。相手は帝さまだ。こちらが断れば我々の首が飛ぶ」

「そんな! 酷いわ! 父さまは私が可愛くないわけ!?」

「そんなわけがないだろう。美津は目に入れても痛くないほど愛しいと思っているよ。……だが、こればかりは美津の言うことは聞けないんだ。もし断ったら我が家が取り潰されてしまう」

「でも、だからってあの残忍で悪逆な死神帝のとこに嫁げだなんて、私は死地に向かうようなものじゃない!!」


 十六の娘とは思えないキンキン声で美津が喚く。

 だが、それも無理はなかった。

 なぜなら、美津が嫁げと言われているのは冷酷で有名な帝の元だからだ。


 噂では、既に嫁いだ娘は数知れず。いずれも嫁いでからすぐに早世するため、陰ながら死神帝と呼ばれていた。


「こら、不敬だぞ。口を慎みなさい」

「でも、だって……っ! あ! いいこと思いついた! クズ……葛葉を私ということにして死神帝のとこにやればいいじゃない!」


 先程までの不機嫌さはどこへやら。

 自分の思いつきに、なんて自分は賢いのだと言わんばかりに目を輝かせる美津。


「だが、しかし……さすがにバレるだろう。もし帝さまにそのことがバレたら、我々の首が飛ぶどころの話じゃなくなってしまう」

「大丈夫よ! 死神帝には私の顔を知られてないのでしょう? だったら、きっとバレないわよ」

「とはいえ、葛葉が帝さまを騙せるほど教養があるとは……」

「それなら大丈夫。私が手習いとか舞踊とか仕込んでるから、教養面では問題ないはずよ!」


 美津は、葛葉に自分の代わりに課題をさせてることを上手く誤魔化し、さも自分が葛葉に仕込んだのだから大丈夫だと父を言いくるめる。


 元々美津と帝の結婚をよく思っていなかった母親もそれに便乗するように、「そうですよ。わざわざ死神帝のところに大事な美津をやる必要なんかありませんわ。葛葉は貧相な見た目だけど、当日さえ上手く着飾ってやればそれなりにはなるでしょう。ですから、美津の身代わりに葛葉を差し出せば、うちの面子も潰れずに済むのでは?」と口添えした。


「まぁ、そうだな。バレなければいいのだものな」

「そうよ、父さま! ふふふ、私ってば本当に賢すぎて困っちゃうわ」


 高らかに笑う美津。

 両親だけでなく、帝の要望さえも自分の意志でねじ伏せられることに、美津は密かに悦に浸るのだった。



 ◇



「あの、もしバレたら……」

「は? バレないようにするのがあんたの役目でしょ。あんたはこれから代々続く由緒正しい名家である菱田家の娘、美津として死神帝に嫁ぐの。この私の代わりに嫁ぐのよ? 失敗が許されるわけないでしょう。もしバレたら死ぬのと同義だと考えなさい。いい? わかったわね」

「……っ、はい。わかりました」


 美津の言葉に震え上がりながらも、身支度を整える葛葉。

 今日はいよいよ帝に嫁ぐ日。

 葛葉に拒否権があるはずもなく、美津に何度も脅され言い含められて本日を迎えたのだった。


(ずっと虐げられる生活も嫌だったけど、これからはずっと欺く生活だなんてもっと嫌。だけど私に拒絶する権利はない)


 輿入れ準備のために不相応な白無垢、化粧、鬘をつけられて、葛葉はいよいよ逃げられないと悟りながらも、それでもできることならここから今すぐ逃げ出したかった。


 殴られたり食事を抜かれたり美津の機嫌に怯えながら生活するのも嫌だったが、美津として帝のところに嫁ぐということは一生帝を欺き続けなければならないということで。

 その生活を死ぬまで続けなければならないと思うと、葛葉は想像しただけでも吐き気を催すほど嫌だった。


(もしバレたら……私は即刻打首。それでも許されなかったら……菱田家のみならず、実家にまで罰が及ぶかもしれない。一族郎党皆殺しなどにでもなったらどうしよう……っ)


 悪いことばかりを想像して真っ青になる葛葉。

 自分の立ち居振る舞いだけでなく、言動全てに気を張り続けなければならないと思うと、目の前が真っ暗になる。


 しかし、美津にはどれだけ葛葉にとって心身に負担がかかっているかなどわかるはずもなく、青褪める葛葉を尻目に冷ややかな眼差しで見下ろしながら大きく溜め息をついた。


「はぁぁ。仕方がないこととはいえ、あんたがこんな上等な打掛を着せてもらえるだなんて腹立たしいわね。本当は私が着るはずだったのに」


 苦虫を噛み潰したような表情で()めつける美津。その顔は酷く歪んでいた。


「ま、私と比べたらかなり見劣りするから、それでバレないようにせいぜい気をつけなさいよ」

「…………」


 黙り込む葛葉に気をよくしたのか、ニィッと口の端を大きく歪ませると、美津はそのまま踵を返して軽やかな足取りで部屋をあとにした。


「葛葉、行くぞ。帝さまの前で絶対に粗相をしないようにな。それから、この家を出たらお前は美津だ。菱田家のために最期まで尽くせよ」

「……はい。承知、致しました」


(進むも地獄退くも地獄。けれど、自死する勇気もない私は意気地なし)


 菱田家当主に促され、覚悟も何も決まっていないまま、葛葉は重い身体を引きずって部屋を出ていくのだった。



 ◇



(すごい……)


 さすが帝の御所である。

 あまりにも豪奢な造りに葛葉は度肝を抜かれた。


 派手さはないものの何もかも造りが大きく、それでいてとても広い。それなのに隅々まで掃除が行き届いているようで、塵一つなく眩いくらいに綺麗なことに葛葉は圧倒される。


(掃除が大変そう。いつもここまで綺麗にしないと帝さまに叱られてしまうのかしら)


 つい普段の癖でそんなことを考えてしまう葛葉。美津として嫁いできてる以上、恐らく掃除をすることはないだろうが、それでも職業病みたいなもので、つい裏方のほうへと意識が向いてしまう。


(死神帝と噂されるくらいだし、帝さまってきっととても怖い方よね。今まで婚姻相手が病死してるって言われてるけど、本当はどうだかわからないし。なるべく機嫌を損ねないようにしないと)


 聞いた情報の先入観で、悪い考えばかりが頭をよぎる。思考を巡らせれば巡らせるほど悪いほうへと思考が向いていき、想像すればするほど気分が悪くなっていく葛葉。

 必然的に足取りも重くなり、だんだんと歩調がゆっくりになっていった。


 すると、「ぼんやりしてないで、さっさとこっちに来い」と菱田家当主に小声でせっつかれて、葛葉は慌てて着いていく。


 けれど、慣れない白無垢。

 重い打掛を羽織らされて、元々覚束ない足元がさらに追い討ちをかけられてしまえば、転ぶのは必至だ。

 葛葉は見事に裾を踏んでしまい、前のめりに思いきり転んでしまった。


「へぶっ」

「何をしているんだ!」

「も、申し訳ありませんっ」


 叱責されて慌てて立ちあがろうとするも、焦りと纏う布が多いせいで上手く立ち上がれない。もちろん、菱田家当主が葛葉に手を貸すはずもなく、今にも泣きそうになりながら必死ものがいていると、不意に誰かから手を伸ばされた。


「大事はないか?」

「……っ! あ、ありがとうございます」


 差し出された手を掴むと勢いよく引かれる。そのまま力強く抱きしめられて、葛葉は訳がわからず狼狽した。


「貴様は、我が子が救いの手を求めているというのに見て見ぬ振りをして放置か。これが寵児への所業とは、聞いて呆れるな」


 葛葉が顔を上げると、そこにはキリッとした顔立ちの美丈夫がいた。その凛々しさ、香の芳しい香りにくらくらしながら、下手に動いて粗相などしないようにと葛葉は大人しく彼の腕の中に納まっておく。


「み、帝さま……! これは、その……っ」

「……まぁいい。そなたも気をつけよ。せっかくの晴れの日にその美貌を傷つけたらかなわんだろう?」

「え、あ、はい……っ! ご芳情賜りまして厚く御礼申し上げますっ」


 帝から離れ、すぐさま葛葉が恭しく頭を下げると、ふっと口元を緩める帝。その姿は想像していたよりも優しく、冷酷さなど微塵も感じないものだった。


(この方が帝さま……)


 聞いてた印象とは全く違う。その落差に戸惑いつつも、帝から美貌と言われて恥じらう葛葉。


 普段から美津にブスだの醜女だの言われ続けていた葛葉は、初めて容姿を褒められて困惑するも、とにかく礼を尽くさねばと必死に頭を下げながら感謝の言葉を述べた。


「初々しいな。そう固くならずともよい。これから夫婦になるのだからな。本日の儀は形式的なものだ。後日民衆の前で大々的な披露宴を行うが、今日はそこまで気を張らずともよい」

「あっ、はっ、はい! 承知しましたっ」


 緊張しすぎて目を回しながらも、深々と頭を下げる葛葉。それを見て目を細めながら、帝は「では、またあとでな」と踵を返してそのまま行ってしまった。


「全く。まさかこんなところで帝さまに遭遇するとは……心象が悪くなってしまったらどうしてくれる」

「申し訳ありません……」


 ぶつぶつと文句を言いつつも、ここは御所。

 葛葉は建前としては美津として来ているため、下手に口や手を出して悪印象を持たれたら困ると菱田家当主はそれ以上何もできず。


 けれど、苛立ちは隠せず、「早く来い。だが、これ以上粗相をするんじゃないぞ」と小声で釘を刺しながら葛葉を急かした。



 ◇



「……全く。帝とはいえ、いつまで待たせるつもりだ」


 何もない和室に通され、ここで従者から待っているように言われたあと、待てど暮らせど誰も来ない。

 葛葉は大人しく待っていたが、せっかちな当主はいよいよ我慢ならぬと部屋から出ようと立ち上がりかけたときだった。


「お待たせ致しました」


 突然の声に当主がギョッとして慌てて居住まいを正すと、開かれる襖。その後、祭司を筆頭にぞろぞろと次から次へと女官が入ってきて、その手には見たこともないような豪華な結納品の数々を携えていた。


「こちら、結納品です。お納めください」

「はっ、ありがたく頂戴致します」


 目の前に並べられた品々は、目が眩みそうなほどの金や豪華な宝飾品ばかり。

 奉公人である葛葉にさえその価値が凄まじいものだとわかるほどに輝くそれらを見て、先程までの不機嫌さはどこへやら、隣にいる菱田家当主は目の色を変えてほくほくとした表情をしていた。


「では、以上で結納及び婚姻の儀を終了致します」

「は? あの、帝さまにお目通などは……?」

「なりません。結納品をお持ちになって、菱田さまはそのままどうぞお帰りください。美津さまはどうぞこちらへ」


 もっと大仰な儀式があると思っていた菱田家当主はあまりにもあっさりした婚姻の儀に「ですが、帝さまにきちんとご挨拶がまだ」と食い下がるも、「先程偶然とはいえ、お目通は済まされているはず。どうぞお引き取りください」と祭司に凄まれてそれ以上何も言えず、何か言いたそうにしているものの気が弱い当主はそのまま口を引き結び大人しく引き下がる。

 後ろ髪を引かれるように葛葉を見るが、葛葉は葛葉で女官に手を引かれてそれどころではなく、ろくな挨拶をしないまま葛葉は別の部屋へと連れて行かれるのだった。



 ◇



「やーっとお嫁さんが来たわー!!」

「あ、あの……!?」


 部屋に着くなり、女性から勢いよく抱きつかれておろおろと狼狽える葛葉。

 何がなんだかわからないでいると、なぜかその女性が葛葉にくっついたまま今度は急にえぐえぐと泣き出して思わずギョッとしてしまった。


「もう、誰もお嫁さん来てもらえないと思ったから……っ、本当に嬉じいー!! 美津さん、来てぐれてありがどうー!」

「母上、大袈裟すぎます。美津さんが困っております」


 いつのまにか隣に帝がいてギョッとする葛葉。そして、自分に抱きついて泣いているのが帝の母……つまり皇太后だとわかり、緊張で今にも失神しそうだった。


「大袈裟なんかじゃないわよ! 貴方が今まで婚姻は嫌だとか、形式だけで結構だとか言ってるからこんなことになってるのでしょう!?」

「多少のワガママではありませんか。公務など、やることはきちんとこなしているのですから、母上に文句を言われる筋合いはありません」

「何を言いますか、大アリですよ! 聞いてよ、美津さん! この子ったら人嫌いで結婚したくないからって、一緒に住まなくて済むように病弱の娘ばかりと結婚してたのよ!? そのせいで次から次にお嫁さんが亡くなるから、民から死神帝とかいう不名誉なあだ名をつけられているの。信じられる!? このあだ名のせいで、今の今まで縁談の話は全て断られているのよ!?」


 自分を挟んで交わされるやりとりに目を白黒とさせながら、死神帝の由来を知って内心驚く葛葉。

 まさかそんな理由があったなど知らなくて、葛葉は自分の愚かな先入観を恥じた。


「でも、よいではないですか。こうして美津さんが我が家にいらしてくれたのですから」

「ま、確かに。それもそうね。聞いてた話とは違うけれど、想像よりもすごくよいお嬢さんのようでよかったわ! とても可愛らしいし、これからも息子共々仲良くしてちょうだいね」


 先程まで泣いていたはずなのに、葛葉を見るとけろっとした表情のあとニッコリと微笑む皇太后。その美しさについ見惚れてしまう。


「……え、っと、はい。お褒めいただき恐縮です。あっと、こちらこそ不束者ですが、どうぞよろしくお願いします」

「ふふふ。謙虚で可愛らしい。あ、できればでいいのだけど、孫はたくさん欲しいわ! 男の子はもちろんいたほうがいいけど、女の子も捨てがたいからたくさん産んでちょうだいな」

「ぜ、善処します」


 皇太后のあまりの勢いに圧倒され、狼狽える葛葉。赤子のことなど考えたこともなかったせいで、頭が真っ白になる。


 すると、すぐさま帝が皇太后から遮るように葛葉の前に立ちはだかった。


「母上。いい加減にしてください。いらして早々に美津さんに負担をおかけして。すぐに離縁でもされたらどうするおつもりですか?」

「え、やだ。離縁!? それはダメだわ! わかりました。これ以上は何も言いません! とりあえず、美津さんはお疲れでしょう? 部屋へと案内しましょうか」

「それは余が致します」

「あら、あらあらあら。ふふふ、そうね。これから夫婦になるのだものね。お邪魔虫は引っ込んでるわ」


 帝の言葉に気をよくしたのか嬉しそうに微笑みながら下がる皇太后。それを確認すると「では、こちらへ」と帝に手を引かれてまた別の部屋へと連れて行かれるのだった。



 ◇



「ここが我々の私室だ。物が多くて済まないが、楽にしてくれ」


 私室だと案内された部屋は綺麗に片付かれた御所のイメージから一転、巻物や書物が部屋の隅に積まれていたり卓の上に書きかけの書があったりと生活感が溢れる雑多な雰囲気だった。


「驚いたか?」

「い、いえ。でも、少し意外でした。どこもかしこもお綺麗にされていたので」

「母が綺麗好きなのだ。余としてはこれくらいのほうが落ち着くのだがな」


 そう言うやいなや、ごろんと雑に床に寝そべる帝。その姿は冷酷さの欠片もない無防備な姿だった。


(帝さまも寝転がるのね)


 どんどん当初のイメージとはかけ離れていくが、いい意味で親近感がわく。


 丹精な顔立ちと冷ややかな雰囲気で先程までは近寄りがたかった印象だったが、こうした様子を見ると自然と肩の力が抜けていく。


「あの、帝さま……」

「余の名は、(おおやけ)に悠久の悠と書いて公悠(きみはる)だ。二人のときは名で呼んでくれ」

「あ。えっと、公悠、さま」


 名を呼ぶと、ふっと綻ぶ公悠の表情。その顔は先程の皇太后によく似ていた。


「疲れたろう? 母は民の前で気を張っているせいか、私生活ではあのような調子でな。悪い人ではないのだが」

「いえ。気さくに接してくださり、ありがたい限りです」


 本音だった。

 今まであのように気軽に接してくれる人がいなかった葛葉にとって立場柄恐縮していたものの、とても嬉しく思っていた。


「そうか、そう言ってもらえてよかった。……それで、美津……いや、そなたの本当の名は何と言う?」

「え!? あ、いえ、その、えっと、私」


 突然の指摘に驚き、狼狽える葛葉。

 まさか来て早々にバレるとは思わず不敬罪で罰せられるのではと言葉が出ずに青褪めていると、なぜか優しく頭を撫でられた。


「誤魔化さずともよい。これでも帝ゆえ、それなりに事前調査はしておる。そもそも、先程の菱田の様子を見てもすぐにわかったがな」

「も、申し訳ありま……っ」

「謝るな」


 グイッと後頭部を引き寄せられて、帝の胸に飛び込むような形で倒れ込む。葛葉が慌てて起きあがろうと試みるが、公悠の力が強くて動けなかった。


(あ、心臓の音……)


 胸板に頭を押しつけられたことで、聞こえる公悠の心音。どくんどくんという力強くも悠然としている鼓動に、心が安らいでくる。

 当たり前ではあるが、帝である公悠も同じ人として生きているのだと改めて気づかされた。


「余はそなたの偽りのない、本当の名が知りたい」


 耳元で囁かれて顔を赤らめる葛葉。吐息混じりに耳朶を伝う言葉に、胸が早鐘を打った。


「……葛葉、です。葛餅の葛に葉っぱの葉で、葛葉と申します」

「そうか、葛葉か。よい名だ。それで、どうして葛葉がここに来たか。いや、葛葉の生い立ちが知りたい」

「私の、ですか? ですが、公悠さまに聞いていただくなど畏れ多いです」

「余が聞きたいと言っているのだ」


 頬に触れられ、向き合うように上向かせられる。その手はとても優しく、大きく、温かかった。


「葛葉の全てが知りたい。菱田が身代わりの花嫁を立てたことを含めて大概のことは承知しておるが、葛葉の口からどういう状況であったのか、どういう経緯があったのかを聞かせてほしい」

「承知、致しました」


 既に全て承知した上での公悠直々の命とあれば、葛葉はもう隠し立てることはできなかった。


 そして葛葉は、口減らしとして菱田家で奉公人をしていたこと、美津から不当な扱いを受けていたこと、美津の身代わりとしてここに嫁いだことなど、全て洗いざらい白状した。



 ◇



「なるほど。そういう経緯があったのか」

「申し訳ありません。ですから、私は本来であれば公悠さまにお目通すら叶わぬ下賎の者です。それなのに公悠さまを欺き、謀り……どんな謝罪の言葉を尽くしても足りないほどのことをしでかしたと承知しております。どんな罰でも受けます。ですが、どうか罰は私だけに……っ」


 公悠から離れ、頭を畳に擦るように深く下げれば「面を上げよ」と頭上から声が降ってくる。


「罰は与えん」

「え? ですが……っ」


 顔を上げると目の前には公悠の顔。

 慌てて逸らそうにも、顎を掴まれまっすぐに見つめられる。


「そなたは美津としてここに来た。体裁も整っている。それに余は葛葉のことを気に入った。葛葉は己れを卑下するが、その佇まいや仕草、振る舞いはとても雅で、誰もそなたが后に相応しくないとは思わないだろう。そもそも、それを身につけるために葛葉は弛まぬ努力をしたのではないか?」

「で、でも……それはただ美津さまの身代わりとして身につけただけで。私は公悠さまのお側にいられるような者では……」

「そうか? 志としては十分相応しいと思うが。虐げられていたというのに腐らず、投げ出さず、今日(こんにち)まで前向きに生きてきたというのは賞賛に値する」

「……っ」


 公悠にまさかこんなにも褒められるとは思わず視線が泳ぐ。そこで、今まで貶されたことは多々あれど、褒められたことが皆無だったことを思い出した。


「でも私、ただ死ぬ勇気がなかっただけで」

「だが、今葛葉はここにいる。逃げ出さずに覚悟をしたからこそ、ここにいるのではないか? それを勇気と呼ばずして何と呼ぶ?」

「そ、れは……」

「そなたはとても気高い。だからそう己れを蔑まず、もっと頑張りを認めよ」

「公悠さま……」


 ぽろりと涙が溢れる。

 今まで労いなどされたことがなかった葛葉。実の家族でさえも葛葉を利用することが当たり前だと考えていたというのに、初めて公悠から慰労されたことで、今まで張り詰めていた感情が決壊し、堰を切ったように涙と共に溢れ出した。


「泣かせたかったわけではないのだがな」

「申し、訳……っ」


 身体を引き寄せられ、そのまま抱きしめられる。そして、包み込むように抱擁されながら優しく背を撫でられた。


「よい。謝るな。今は思う存分泣け。ここには余しかおらぬからな」

「ありがとう、ございます」


 公悠はその後も葛葉が泣き止むまで、彼女の背を撫で続けるのだった。



 ◇



「ほう。葛葉は良い字を書くのだな」

「ありがとうございます」


 字を褒められ、素直に感謝すると微笑まれる。


 婚姻の儀からかれこれ数週間。

 葛葉は公悠との生活にだんだんと慣れ、実家や菱田家にいたときには考えられないほどとても快適な生活を送っていた。


 一応、(おおやけ)には美津として振る舞わなければならないが、こうして公悠と一緒にいるときだけは葛葉としていられる。このことは二人だけの秘密だと誓い合い、葛葉と公悠はそれはそれは仲睦まじく暮らしていた。


「手紙を出すときは葛葉に代筆をお願いしようか」

「私が公悠さまのお力になれるのでしたら喜んで」


 お互い見つめ合うと唇がゆっくりと重なる。

 既に何度もしているはずなのに葛葉が恥じ入ると「相変わらず初々しいな」とさらに深く重ねられた。


「公悠さま……」

「母に言われたからではないが、早く赤子が欲しいな。葛葉との愛の証が。……いや、でももう少し二人きりで睦んでいるのも悪くない」


 ゆっくりと身体を押し倒される。

 唇を何度も重ねながら、葛葉がゆっくりと縋るように公悠の背に手を回したときだった。


「美津さーん! 今ちょっといいかしら〜! お披露目の衣装のことなのだけどー!」


 遠くから皇太后の声が聞こえ、二人で固まる。


「……全く。相変わらず邪魔が入るな」

「そうおっしゃらないでください。皇太后さまは私のためにお声かけしてくださっているのですから」

「わかっている。だからこそ、葛葉の取り合いをしているようで歯痒い」


 不貞腐れたように呟く公悠。それがなんだか可愛らしくて葛葉がそっと公悠の背を撫でると「愛いな」と再び軽くながらも唇を重ねられるのだった。



 ◇



 一方、菱田家では葛葉がいなくなってからというもの、全てが上手くいかなくなっていた。


「あー、暇だわー! 女学校に行かなくてもよくなったのはいいけど、どこにも行ってはダメだなんてつまらないわ!!」


 美津はぶーぶーと不平を言いながら、畳の上で転がってジタバタとする。その振る舞いは十六の華族令嬢とはとても思えないものだった。


「美津。はしたないですよ」


 普段、美津に甘い母も彼女を咎める。

 さすがに裾をはだけさせ、足をバタつかせる姿はみっともなく、華族令嬢として使用人に示しがつかないからだ。


「そうは言っても母さま〜! カフェーも芝居も活動写真も見に行けないだなんて、つまらないわ!」

「仕方ないでしょう。世間には美津は嫁いだことになってるのだから。貴女が外を出歩いてあらぬ噂でも立てられたら困るもの。死神帝に嫁ぐよりマシなのだから我慢なさい」

「でも、つまらないものはつまらないもの!」

「つまらないと言うのなら、華族としての美津を知らないところで遊びなさいといつも言ってるじゃない」

「そうじゃないのよ! 華族じゃないただの美津としてじゃダメなのよ! 母さまのわからずや! もういいわっ」


 不機嫌さを露わにしながら、わざとバタバタと足音を鳴らしながら自室へと向かう美津。


 というのも、葛葉を死神帝にやったはいいものの自分の身代わりとして嫁がせたため、本来の美津自身に制限が課されることをあとあと気づき、美津はかなり不満を募らせていたからだ。


 元々は華族令嬢としての立場であった美津だが、葛葉を身代わりにしたことで自由に出歩くことすらできず。友人が少なかったこともあって呼べる遊び相手もおらず、ただ家で腐す日々。

 母からは華族令嬢の美津として接しなければ外出してもいいと言われてはいるものの、華族令嬢という肩書きがなければ変なナンパ以外異性同性問わず誰からも相手にしてもらえないため、今までのようにちやほやされないというのは美津として屈辱であった。


(こんなにつまらない生活なら、死神帝に嫁いで死ぬのと変わらないじゃない)


 自分の浅慮で招いた結果だということを棚に上げ、鬱憤を溜める美津。

 遊びに行けない、八つ当たりできる相手もいないで、美津の我慢は頂点に達していた。


「あーもー! 最悪! 全部全部全部クズのせいだわ! あいつ、いつになったら死ぬのかしらっ!」


 全ての恨みつらみを葛葉にぶつけるように、不謹慎なことをわーわーと喚く美津。

 その顔は美人とは程遠いものであった。


「美津。今よいだろうか」

「父さまっ! 帰っていらしたのねっ」


 自室の戸を開け、すぐさま父に抱きつく美津。

 先程の憎悪の顔から一転、父の帰りに美津はパッと顔を明るくさせた。


「今日は議会に出席なさっていたのでしたっけ?」

「あぁ、そうだ。そこで耳にしたのだが、どうやら来月末に帝さまの婚姻のお披露目会があるらしい」

「え!? ということは、葛葉もそこに?」

「あぁ、そうだ」


 父の言葉に驚きつつも、美津は心の中でほくそ笑む。


(あんな見た目も悪い出来損ないのクズが死神帝に嫁いだのだもの。きっと粗が多くていびられているに違いないわ)


 葛葉が虐げられている姿を夢想して、悦に浸る美津。今どんな哀れな姿をしているのか想像するだけで、先程まで溜まりに溜まっていた鬱憤が晴れそうなくらい、美津の気分はよくなっていた。


「ねぇ、父さま! 私もそれを見に行ってもいいわよね?」

「ん? あぁー……そうだなぁ。うーん」


 言葉を濁し、煮え切らない態度の父に「お願〜い」と甘えた声を出して身体を寄せてひっつく美津。美津はこうおねだりすれば、父がどんなお願いでも許してくれるのを承知していた。


「……まぁ、たくさんの人が来るだろうし、人混みに紛れれば気づかれないだろう。葛葉は一般人からは遠目でしか見られないから、美津さえバレなければきっと問題ないはず。美津もここのところ閉じこもってばかりではつまらないだろうから、たまには気分を一新するのもいいのではないか?」

「やった! 父さま、大好き!」

「私も、可愛い可愛い美津が大好きだよ」


 父から抱きしめられながら、美津は密かに意地の悪い笑みを浮かべるのだった。



 ◇



 帝の披露宴当日。

 御所の周りでは開催の時間よりも遥か前から多くの人だかりができており、美津が来たときには既に多くの民衆がそこにいて、前が全く見えないほどの賑わいを見せていた。


「すごい人」

「帝さまの披露宴だからな。特にいつもよりも大々的に開催されているから、そのぶん人が多いのだ」

「ふぅん」


 周りは老若男女問わず数多の人々が押し寄せていて、帝夫婦を一目でも見ようと押し合いへし合いで酷いありさまだった。


「もう、ぎゅうぎゅうで苦しいわっ! 全く、身内だってのに、どうして我が家は披露宴に一席設けてもらってないのかしらっ」

「そう文句ばかり言うな。これはあくまで帝さまのお身内のみのお式だからな。我々が出る幕ではないのだよ」

「えー! 帝さまってケチね」

「美津、不敬ですよ。口を慎みなさい」

「はぁい」


 母から嗜められ、不服ながらも口を閉ざす美津。

 不満はあれど、さすがにこの場で不敬罪でしょっぴかれるなどまっぴらごめんだからだ。


「おっ! いよいよ、お出ましだそうだぞ」

「お相手は美津さまと言うんだそうだ」

「とても美しくて気立てのよい華族令嬢らしいぞ」

「まぁ! 早く見たいわ」


 周りから聞こえる声に内心ほくそ笑む美津。

 民衆からの期待の声が上がれば上がるほど、葛葉を見たときの落差を考えると口元が自然と緩んでくる。


「帝さまよ!」


 誰かの声と共に視線が一点に集中する。

 そして、そこには衣冠束帯を身につけた帝だけでなく五衣唐衣裳を綺麗に纏った葛葉もいた。


「帝さまー!」

「美津さまー! お美しいですー!」


 大衆からの大きな歓声と共に迎えられ、仲睦まじそうに見つめ合い寄り添う二人。それを見て、さらにわっと一際大きく沸く民衆たち。


「キャー! 素敵!!」

「帝さま、いつになく幸せそうね」

「死神帝とかいう胡乱な噂もあったが、ありゃデマだな!」

「ずっと死別だったのだもの。美津さまとは末永く幸せに暮らしていただきたいわ」


 キャアキャアと黄色い声援。二人を見ての賞賛の声が一斉に湧いて響き渡る。


(どういうこと……? 何で賞賛を浴びてるの? あれは、私じゃないのに! あそこにいるのはクズなのに!!)


 葛葉がお披露目されたとき、てっきり落胆の声が上がると思っていた美津は想像とは違った民衆の反応に納得できなかった。

 美津にとって、自分よりも何もかも劣っているはずの葛葉が賞賛の声を受けるなどあってはならないことだった。


「これから美津さまが舞を披露されるそうよ!」

「それは楽しみだな!」

「しっかり見ないと!」

「押すなよ! オレだって美津さまの舞を見たいんだ!」


(はっ! クズの舞だなんて大したことないわ。私の代わりとして稽古に行ってただけなのだもの。この大勢の人々の前でせいぜい恥をかけばいいわ!)


 口にはしないものの、心の中で葛葉を見下し笑い者になればいいと蔑む美津。稚拙で下手くそな舞を見れば、この賞賛は一気に地に堕ちるだろうとほくそ笑む。


 だが、またもや美津の思い通りにはならなかった。


「まぁ! あんなにお美しいのに、舞まで踊れるだなんて!」

「とても優美で素晴らしいわ」

「これほど遠目だというのに、上品さと繊細さが伝わってくるわ」

「さすがは帝さまがお見初めなさった華族令嬢ね〜」


 これまた聞こえてくるのは賞賛の嵐。周りの誰からも、美津が想像していたような貶める言葉も毒づくような言葉も全く聞こえてくることはない。

 そこで美津の苛立ちは頂点に達した。


「どいつもこいつもバカばっかり! 私が本物の美津よ! あんなクズより私のほうが美しいのに、なぜ偽物だってわからないのっ!」

「こらっ、やめなさい!」

「口を慎みなさいっ!」


 人だかりの中だというのに、一際大きな声で真実を喚く美津。隣にいた両親は同時に顔を真っ青にし、すぐさま美津を止めるように口を押さえる。

 周りにいた人々は、美津の叫びに似た喚き声に一瞬驚いて彼女のことをじろじろと見つめたあと、ドッと一斉に美津の声よりも大きく嘲笑し始めた。


「やだ、この子。美津さまと張り合っているの?」

「不敬にもほどがあるわね」

「どこが美津さまより美しいっていうのよ」

「恥知らずな子」

「頭大丈夫か? 不敬罪でしょっ引かれる前に、さっさと家に連れて帰ったほうが身のためだぞ」


 人々から口々にバカにされ、さらに腑が煮え繰り返るも、その場から逃げるように父から強引に腕を引かれてしまう美津。

 引っ張られる力が強すぎて美津は周りの人々に抗議しようにも抗議できず、「父さま! この私が侮辱されたのよ!?」と声を上げるも「いいから、来なさい!」とそのまま無理矢理連行されてしまうのだった。



 ◇



 自宅へと引きずるように連れ帰られる美津。

 だが、その瞳は怨嗟の火が灯ったまま。未だに先程の一件に納得していない様子だった。


「美津、落ち着きなさい」

「落ち着く? 落ち着けるわけがないじゃない! 華族の私が平民風情に侮辱されたのよ!? 本物の美津は私なのに!!」

「それはそうだが。とはいえ、身代わりのことは美津が望んだことだろう?」


 確かに、美津が言っていることは正しい。

 けれど、今はそういう問題ではないということが美津は理解できていなかった。


「そうだけど! でも、そもそも死神帝が美丈夫だなんて知らなかったもの! 嫁いだらあんなに幸せそうになれるだなんて聞いてないわ!!」

「美津。そうは言ってももう全てが今更だ。もう取り返しがつかないんだよ。時間は戻せないのだからもう諦めておくれ」

「嫌よ! 絶対に嫌!」

「美津!」

「あの衣装を本来着てたのは私だったはずなのに! クズじゃない、私があの場所にいるはずだったのよ! クズのあの顔を見た!? みんなからチヤホヤされて、祝福されて、幸せそうに……! あぁ、憎い! 憎たらしい! 絶対に許せないわ!!」


 癇癪を起こし、幼な子みたいに絶叫する美津。

 死神帝に嫁いでさらに不幸になっている姿を見て嘲笑うはずが、予想とは全く異なる状況に怨恨を抱く。

 その嫉妬と憎悪に塗れた顔は、ひどく醜いものだった。


「クズなんかがあそこにいちゃいけないのよ。クズのくせに、私より幸せになるだなんてあってはならないことだわ!」

「美津。気持ちはわかるが、もうどうしようもないんだ」

「どうして!? 私の頼みなんだから、父さまどうにかしてよ!」

「いくらなんでももう無理だよ、美津」

「信じられない! 父さまのくせに使えないわね! もういい!!」

「こら、美津! お父さまに対して何て口の聞き方を!」

「美津! どこに行くんだっ」


 美津はそのまま家を飛び出す。

 そして、髪の乱れも服の乱れも気にせずに無我夢中で走っていった。



 ◇



「はぁ。はぁ。はぁ。私が、本物の美津よ。クズなんかに、奪われて、たまるもんですか……っ」


 美津が目指した先は帝の御所だった。

 既にお披露目は終了し、先程までごった返していた民衆も綺麗にいなくなっていて、辺りは静けさを取り戻していた。


「クズはこの中ね」


 御所の門の前に立っている守衛を見つけて、バレないようにとキョロキョロ辺りを見回す。

 さすがに正面から入ろうとすれば、不審者として拘束されてしまうだろうことは美津にもわかっていた。そのため、どうにかバレずに御所の中へと侵入しようと、正門以外に侵入できそうな経路を探す。


 すると、ちょうど奥まった塀のところの近くに大きなクスノキを見つけた。


「これに登れば……」


 華族令嬢の私がなぜこんなことをしないといけないのと憤りながらも、美津の頭の中では今すぐに葛葉を見つけ出すことしか考えてなかった。

 葛葉を見つけ出せさえすれば、今の状況から逆転し、本来自分が得られるはずだった幸せを取り戻せるのだとそう思い込んでいた。


「クズさえ見つけられればいいのよ。クズさえ見つけられれば……私は幸せになれるの……! クズになんて、私の幸せは奪わせないわ!!」


 慣れないながらも必死に木を登って塀に上がる。そして、どうにか降りられそうなところを探すと、ちょうど梯子がかかっている場所を見つけた。


「やった。運も私の味方をしてるってことね」


 美津はニヤリと笑むと、周りに人がいないことを確認し、すぐさまその梯子を降りて木陰に身を潜める。


「クズはどこ!? 絶対どこかにいるはず! クズさえ見つけたらこちらのものよ」


 葛葉さえ見つけたら事態が好転するのだと盲信する美津。その眼は血走り、般若の顔つきになっていた。


 そんなとき、渡り廊下から出てくる人影が見える。それを美津はまじまじと見ると、目を大きく見開いた。


「クズ!」

「っ!? み、美津さまっ!? どうしてここに……っ」


 驚きに満ちた表情を浮かべるのは間違いなく葛葉であった。やはり運は自分に味方していると美津は確信しながら、すぐさま葛葉に駆け寄る。


「クズ! やっと見つけたわ! さぁ、もうあんたの役目は終わったの! だから早く私と入れ替わりなさい!」


 美津が葛葉に大きな声でいつも通り命令する。

 けれど、葛葉はいつもの様子とは違っていた。驚いた表情から一転、すぐさま佇まいを正すと、「今更無理ですよ」とまっすぐ落ち着いた様子で美津を見据えて言った。


「はぁ!? クズの分際で私に楯突く気!?」

「……楯突くも何も、もう今更どうしようもないのがわかりませんか? もうお披露目も済んでいますし、美津さまがどうこう言おうと今更また入れ替わるなんてできませんよ」

「何を言ってるのよ! 私が決めたのよっ!? 私がすると言ったらするのよ!!」


 地団駄を踏む美津。

 美津にとって、自分の思い通りにならないことなど今まで何もなかった。そして、これからもそんなことはあってはならなかった。


 だから、何が何でも自分の言い分を押し通そうと幼児のように癇癪を起こす。


「美津さま。いい加減聞き分けてください。そのようなことができる段階はとうに過ぎました。ご自身のことではなく、菱田家のお立場をお考えください。今ならまだ間に合いますから、どうかこのまま大人しくご自宅にお引き取りください」

「はぁ!? クズのくせに私に指図する気? いいわ、上等じゃない! そっちがその気なら力づくでその立場を奪うまでよっ!」


 葛葉が言うことを聞かないとわかるやいなや、美津は葛葉に飛びかかる。しかし、すんでのところで葛葉はひらりと躱すと、その腕を掴んだ。


「おやめください! ご自分の今の立場をまだおわかりになっていないのですか?」

「煩い! 離して! クズのくせに! 私に命令するなっ」


 今度こそ葛葉を捕らえようと美津が手を伸ばした瞬間、美津の身体が床に叩きつけられる。

 痛みと重みで「ぎゃあああああ! 痛い痛い痛い!」と叫びながらもがくも、美津は全く身動きが取れなかった。


「美津さま、ご無事ですか!?」

「この不届者が! 美津さまに危害を加えようなどと!」


 美津があまりにも騒いだため、あっという間に集まってくる守衛。彼らは葛葉を守るために、美津が動けないよう力いっぱい押さえつけた。


「痛い痛い痛い痛い! 美津は私よ! そいつは偽物なのよっ!」


 地べたに伏せった状態ながらも、必死にジタバタと暴れて抗議する美津。その髪や服は乱れ、無惨な姿になっていた。


「……ほう? その話はまことか?」

「公悠さまっ」


 騒ぎを聞きつけた公悠が奥からやってくると、美津の視界から遮るように葛葉の前に立つ。それを美津は地べたに伏せった状態で睨みつけた。


「えぇ、本当よ!」

「貴様! 帝さまの御前であるぞ!」

「口を慎め!」

「ぐふっ! 痛い痛い痛い! 死んじゃう! やめてよ!」


 勝手に喋る美津を咎めるようにさらに床に押しつける守衛。美津は重みと痛みでギャアギャアと喚いた。


「よい、会話を許す。それで? 貴様は何者だ?」

「私が美津よ! 菱田家の一人娘である本物の美津は私よ!!」

「そうか。……だそうだが、それはまことか? 菱田」


 公悠が声をかけると、美津の背後から菱田家当主が現れる。美津を追いかけてここに来たようだが、その顔は真っ青でガタガタと震えていた。


「父さまっ! 助けに来てくださったのね! さぁ、早くこいつらをどけてちょうだい! そして華族である本物の私を侮辱し、暴行したことを土下座で謝らせてちょうだい!!」


 美津は父の登場に希望を見出し、一層大きく騒ぎ出す。けれど、当主はそのまま何も言わず、突っ立ったまま全く動けずにいた。


「と申しているが? 菱田。こやつが言うことはまことか?」

「そ、それは……っ」

「もしこの小娘が言うことが真ならば、貴様は余や民を欺き、謀ったということになるが。帝に忠誠を誓った華族ともあろう者が、まさかそんなことをするまいな?」


 公悠の静かながらも憤怒の籠った声音に震え上がる当主。ちらっと美津を見れば、何も理解できていないのか、目をキラキラと輝かせてこちらを見ていた。


 己れの地位と娘が両天秤にかかっている状態。

 どちらかしか選べず、どちらかは切り捨てなければならない。


 究極の選択を迫られ、当主は今にも発狂しそうだった。


「ぞ、……ません」


 小さく、もごもごと歯切れ悪く口籠る当主。身体は震え、今にも泣きそうなほど顔はぐちゃぐちゃだった。


「何? もっと大きな声ではっきりと述べてみよ」

「……っ、私は……ぞ……っ」

「よく聞き取れないな。貴様の口は飾りか?」


 公悠が圧力をかける。

 その声音はまさに死神帝の名に相応しいほどの冷酷さを滲ませていた。


「〜〜っぐ! っ、その者を私は存じ上げません!」

「……そうか。とのことだが?」


 公悠の問いに屈し、当主がはっきりと声を張り上げる。その顔は真っ青を通り越して色がなくなっていた。


「は? そんな……父さま……嘘よ! ふざけないで! 私は貴女の大事な娘でしょう!? ねぇ! 父さま! ご冗談はよして!! 私が美津だと言って!」

「煩いな。この者をただちに兵に引き渡せ」

「はっ! ただちに」

「やだっ! 嫌よ! 父さま! 父さま!! 助けて! 父さま!!」


 連れ去られていく美津の絶叫が御所内に響き渡る。当主は何も言えないまま俯くのみ。

 それを何とも言えない表情で見つめる葛葉の耳と目をそっと塞ぐように、公悠は彼女を抱きしめた。


「公悠さま。申し訳ありま「謝罪はいい。そなたの責ではないからな」」


 すぐさま謝罪を口にする葛葉に対し、それを遮る公悠。葛葉が困ったように眉を寄せると、「そなたが無事で本当によかった」と耳元で囁かれる。葛葉は美津のことで動揺しながらも、心配してもらえることの嬉しさで静かに涙を溢した。


「……さて、菱田。先程身内を探してると話していたそうだが。身内とやらは見つかりそうか?」

「っ、どうやら、ここへは……来ていないようです」

「そうか。それは残念だったな」


 公悠が一瞥すると、竦み上がる当主。今にも倒れそうなほど顔色はなく、尋常じゃないほどの汗をかいていた。


「で、では、失礼致します。お騒がせ致しました」

「……菱田。愛娘への挨拶はいいのか?」


 公悠の言葉に身体をびくりと震わせたあと、菱田家当主はぺこぺこと頭を下げるとそのまま脱兎のごとく逃げ出す。公悠は「躾を怠り、娘を助ける気概もなく、ただ保身にのみ走るとは。なんと薄情なやつよ」と小さく溢すと、それを呆れ顔で見送るのだった。



 ◇



 その後、美津は不敬罪や反逆罪などにより収監された。


 収監されてからは、無味な生活や味気ない食事、強制的にさせられる労働が嫌だと大暴れするも誰からも相手にしてもらえず。さらに身内の誰も面会に来ることなく孤独になり、何もかも思い通りにならない美津はこの世の全てを罵りながら、食事を含む生活の全てを放棄し、結局飢餓からくる衰弱によって亡くなった。

 その最期はかつての美貌は欠片もなく、家族と葛葉に呪詛のみを吐く醜い姿であったらしい。


 また、自身の可愛さと華族という地位を捨てられなかった菱田家当主は美津を切り捨てたことで妻と仲違いし、離縁。

 後継が美津しかいなかったことや華族という地位を笠に着て傲っていたのも相まって他の華族などからすこぶる評判が悪かったせいで当主は再婚することもできず、菱田家は没落の一途を辿るのだった。



 ◇



「悪阻は大丈夫か?」

「えぇ。だいぶ落ち着きました」


 身重の葛葉はゆっくりと縁側に腰かけようとすると、それを支えるように公悠が腰に腕を回す。

 腰を下ろすと、ぴったりと隙間なく寄り添いながら引き寄せられた。


「ととさまー! かかさまー!」

「よそ見をすると転びますよ」

「大丈夫ですよー! かかさまは心配性だ……うわぁ!?」


 言ったそばから転ぶ息子を支えようと慌てて立ち上がろうとする葛葉を、公悠は制止するように彼女の手を引く。

 そして葛葉が少し浮かせた腰を元に戻して子供達の方を見ると、娘が既に転んだ息子の手を引いているところだった。


「もうっ、あにさまったら! ははうえに言われたばかりでしょう!?」

「だって」

「だってじゃありませんっ」


 兄が妹に叱られる姿を微笑ましく思いながら見つめる葛葉。もう親が手助けをしなくても、お互いがお互いを支えられるまで成長したのだと思うと感慨深かった。


「成長したな」

「えぇ、本当」


 公悠も同じ想いを抱いていたようで嬉しくなる。葛葉が公悠を見つめると、公悠もまた優しい眼差しで葛葉を見つめていた。


「ととさまとかかさま、またイチャイチャしてる」

「しっ! あにさま静かに! そういうのはぶすいと言うのですよ」

「聞こえているぞ、お前たち」


 公悠がすくっと立ち上がると、葛葉の頭を優しく撫でたあと子供達の方へ行く。


(あぁ、幸せ)


 公悠と子供達が戯れる姿を見つめながら、過去の自分には想像できないほどの幸福を感じる葛葉。

 途中で命を投げ出さず、諦めず、生きていてよかった。そう思いながら、葛葉は新しく得たかけがえのない自分の家族を優しく見守るのだった。




 終

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