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2【繋がる心】~小笠原浬~

航と試合稽古をする、浬のお話。

市立船戸高校の試合稽古の風景も併せて、お楽しみください!

 市立船戸高校へ入学し、初めて剣道部員として稽古をした日。浬が家に帰ると、玄関では待ち構えている影があった。扉を開ける前から家の灯りのせいでそのシルエットがはっきりと見えている。浬はたまらずに(まゆ)を上げ、ため息を吐いた。


 そこで仁王立ちをしているであろう、小柄な男の影。それは間違いない。父親の志郎(しろう)だ。玄関扉の前に立って、浬は一度深呼吸をしてから、勢いよく扉を引いて開ける。


「ただい――」

「おかえり!」


 思った通りだ。そこにいるのは志郎だった。彼は上半身に白い剣道着を着て、下半身にはなぜかジャージを穿いている。実に奇妙な姿だった。


「変な格好して……。なにやってんの」

「お前の帰りを待っていた!」

「あ、そう……」

「今日は部活の初稽古だったんだろう? どうだったんだ」

「どうって……」


 この質問をされることは端からわかっていた。彼は今日、それを浬に(たず)ねるためにここで待っていたのだ。


どうでもいいけど、何時からここにいたんだろ……。


「別に普通だよ」

「チームメイトはどんな感じだ? レギュラーになれそうか?」

「父さん、あのねぇ……。まだ三年の先輩たちだってみんな残ってるんだから。そんなの無理に決まってるじゃん」


 ため息混じりにそう答えた。すると、志郎は突然声を荒らげる。


「バカもん! お前がそんな甘っちょろくてどうする! もっと心を強く持ちなさい!」


 また始まった。浬はジトッと父親の顔を(にら)む。(げき)を飛ばす彼の説教だかエールだかわからない言葉は、すでに聞き飽きていた。


「そもそも、だ。一年であろうと三年であろうと関係ない! レギュラーは強い人間が選ばれると決まってるんだ!」

「わかってるよ。だから、おれは強くないから――」

「強くないだと!」

 

 さらに声を荒らげる志郎を無視して、玄関で靴を脱ぎ、そのまま階段へ向かう。全く(わずら)わしい。


「浬! お前が強くないなら、いったい誰が強いんだ!」

「うるさいなぁ、ついてこないでくれる?」


背後から追いかけてくる志郎の声は、家中に響いていたのだろう。奥の部屋から母親の洋子が出てきて、エプロンで手を拭きながら言った。


「お父さん……! やだ、もう大きな声で……。ご近所に丸聞こえじゃない……!」

「ふん、ご近所中に聞いて回ったっていいんだぞ! 父さんがみんなに聞いてやる! 母さん、こいつはな、レギュラーになるのに先輩がどうのこうのと――」

「はいはい、もうわかったから! 浬、着替えてきなさい。ごはん、できてるから」

「うん……」


 志郎には下唇を突き出して見せてから、浬は階段を駆け上がった。そのまま部屋に入り、カバンを置いて、制服を脱ぐ。


 中学時代、父親である志郎に「剣道部に入れ!」としつこく言われてはいた。だが浬は、一度もそれに対して首を縦に振らなかった。

 小笠原家は、地元では有名な剣道一家だ。剣友会会長を務める父親をはじめ、母親の洋子、二人の兄たちもみんな、剣道ありきの人生を送っている。長兄は大学を卒業後、警視庁に入り、今も剣道を続けているし、次兄は一昨年、教師になるべく大学へ進学した。将来は中学校の教諭になって、剣道部を顧問したいのだそうだ。そのせいで、浬はどこへ行っても言われてしまう。「あぁ、あの小笠原家の――」と。


 小笠原家の人間だから……。だから、おれは剣道をやってる。父さんが会長で、母さんも兄ちゃんたちもやってて……、おれも剣道をやるのが当たり前で、やらなきゃいけないんだって、ずっとそう思ってた。でも――。


 剣道を好きだと思ったことも、剣道をやりたいと思ったことも、もうここ数年はなかった。それは小笠原家にとって生活の一部であり、当たり前のことだったのだ。好きなのも当たり前。頑張るのも当たり前だった。

 しかし、浬は中学に上がったとき、ふと思ったのだ。自分はなんのために剣道をやっているのか。家族の中で、当たり前になっている剣道をなぜやるのか。そもそも、本当に、心からやりたいと、楽しいと思っているのか。

 

 小笠原家の人間だからって理由だけで、剣道をやりたくなかった。そればっかりになるのも嫌だった。剣道一家とか、小笠原家とか、いつもひと(くく)りにされて剣道をやるのなんか、おれはまっぴらだったんだ――。


 小笠原家の人間で、剣道をやっていても自分は自分。家族とセットにされ、評価されることだけはどうしても我慢できなかった。それに悩むうち、浬は無性に剣道と距離を置きたくなった。当然、学校の剣道部にも入る気にもならなかった。

あの頃は完全に自分自身を見失っていた。いつの間にか剣道の楽しさを忘れ、当たり前に(かよ)っていた剣友会の稽古をやるのにも億劫(おっくう)になり、仮病を使うことも増えた。それが志郎に気付かれて、大目玉を喰らったこともあった。


 ――修行が足りないんだ、お前は! いい加減に剣道部に入れ!


 何度そう言われたことか。しかし、否が応でも浬は剣道部に入らなかった。もう親の言いなりでいたくない。自分の意志で物事を決めたい。小笠原家の人間だからといって、当たり前に決められたように、強制的に、剣道なんか二度とやりたくない。浬はそう思っていたのだ。

 それなのに、あの夏――。それまで固く閉ざされていた浬の気持ちは、驚くほど呆気(あっけ)なく開き、動いてしまった。


 誰かの剣道を見て、あんな気持ちになったことなんかなかった。誰かと一緒に稽古をしたい、一緒に戦いたい――なんて。


 凛とした眼差しと、目鼻立ちの整った端正な顔つき。目を細くして笑う柔らかな笑顔。また、スラリとした高い背丈も印象的だったが、おそらく去年よりも彼の身長は伸びている。もしかしたら今は百八十センチくらいあるのかもしれない。


朝比奈、航……。


彼の剣道を初めて見たあの夏の日、浬の心は震えた。どんなに大勢の人間が相手に味方しても決して諦めず、果敢に攻める彼の姿は、まるで揺るがない炎のようだった。炎といっても、派手に燃え盛るような激しさとは違う。静かに、着実に燃え続ける、青い炎。そんな彼に浬は一目で惹かれ、憧れたのだ。


 ――お前、船高来るんだろ? リベンジしろよ。

 ――はい! 絶対行きます!


 あのときの航と羽柴の会話を聞いた数時間後、総合体育館から帰る電車の中で、浬の気持ちは決まった。自分も船高へ行きたい。そして、航と一緒に、同じチームメイトとして剣道をやりたい、と。


 それは、これまでに感じたことのない気持ちだった。ひと目惚れのようだった、と自分では思っているが、恋と呼ぶほど儚いものではない。もっと衝撃的だった。本能で強く惹かれ、囚われ、長いこと探して来た同志をようやく、見つけたようでもあった。

 

 たぶんおれは――、航に出会って、航の剣道と、航自身に惹かれたんだ。人間として、男として、一人の剣士として、憧れてるんだ。


浬は幸いなことに、勉強はそれなりにできる方だったから、この学校への入学はわけなかった。浬は航に出会い、ともに剣道をやるために市立船戸高校に進学したのだ。ただし、まさか彼と同じクラスになれるとは夢にも思っていなかったが。


ほんと、今朝はびっくりしたなぁ……。まさか航と一緒のクラスになれるなんて思っても見なかったから……。


 浬にとって、航は憧れであり、目標でもある。唯一無二の特別な存在だ。その彼が自分のいる教室にふらりと入ってきたものだから、浬は驚き、思わず凛としたその姿に魅入ってしまった。当の本人には実に怪訝(けげん)そうな顔をされてしまったが、おかげで彼とは友だちになれた。なにはともあれ、結果オーライだ。


 明日もあさっても、しあさっても、毎日教室に行けば航がいる。部活へも一緒に行ける……。一緒に稽古ができるんだ……!


 それを想像しただけで、胸が高鳴った。浬は航をもっと深く知りたいと強く思っている。長年の幼馴染や、彼の憧れの先輩のように、信頼関係を結びたい、と。いや――、彼らを退(しりぞ)けてしまうほどの近い存在になれたら、と。


 いつか……航と信じ合って戦える、仲間になりたい。同じチームで戦って、あの日みたいに決勝の舞台へ行って、それで――……全国へ行く……!


 心の中の自分の声に、浬はハッとして目を見開いた。思わず手の平を見つめ、ごくん、と生唾を飲む。


 おれ、こんなこと思ったの、はじめてだ……。全国なんて……、剣道で勝ちたいなんて、思ったことなんかなかったのに……。でも――……。


 航と一緒に戦って、あの日「ほら見ろ」と笑った観客を、当然のように勝った相手を、審判を、アリーナにいた全員を見返してやりたい。浬は今、インターハイ県予選、決勝の舞台に、彼と一緒に立つ事を望んでいる。そのために、航と一緒に稽古をして、航という人間を深く知り、一緒に強くなる。一緒に戦う。そして、勝利したときの彼の姿を、一番近くで見てみたいのだ。

 

 一方で志郎は、当時の浬の心情など知るはずもないので、しぶしぶ楓の応援に行って帰ってきた浬が「高校では剣道部に入る」と、突然言い出したことに驚いていた。もうそれからは大変だ。志郎は万々歳で、入学式当日まで大騒ぎしていた。なにしろ彼は今朝、玄関先で大旗を振って声を上げ、浬を見送ったのだから、本当に困ったものだった。


 本当にあの旗振りには困るよなぁ……。


 今朝の大騒ぎを思い出し、苦笑いを浮かべた。何事に対しても熱く、やや過干渉な父親の志郎が、浬はちょっと苦手だ。ここ数年は少しでも顔を合わせるとなると、とにかく気が重くなる。そうは言っても、同じ屋根の下に住んでいるのだから、彼を()けられるはずもなかった。

 浬は部屋着のスウェットに着替え、おそるおそる扉を開けて階段を下り、一階のリビングへと向かう。だが、そこには母の洋子がいるだけだった。


「あぁ、やっと下りてきた。お父さんがうるさいから、またへそ曲げちゃったのかと思ったわよ」


 安堵(あんど)した様子で、洋子はご飯茶碗に白米をよそってくれる。テーブルの上には湯気の立っている夕飯と箸が(そろ)えられて置かれていた。リビングはテレビが点いているだけで静かなものだ。浬はふと部屋中を見渡して()く。


「父さんは――?」

「今日は南部剣の日でしょ。さっき稽古行っちゃった」

「え……、さっきの恰好で行ったの?」

「まさか……! (はかま)くらいちゃんと穿いてったでしょ」


 テレビを見ながら、洋子はけらけら笑う。「はい」と手渡されたご飯茶碗からは、ほかほかの湯気が立っている。今日のおかずは浬の大好物。目玉焼き付きのハンバーグだった。味噌汁も、一番好きなネギと油揚げ。浬は手を合わせて「いただきます」と言ってから、まずはじめに味噌汁をすすった。


「ねえ、浬」

「ん……?」

「父さんさ、最近ちょっとうるさいでしょ」

「うん」


 罰が悪そうに、「ごめんね」と困り顔で洋子は笑った。彼女はもうここ数年間、なにかと衝突することの多い浬と父親の仲介役だ。ただし、洋子は浬の抱えている悩みや、気持ちを一度も(たず)ねなかった。おそらくだが、彼女は感覚的に理解してくれているのだ。浬が剣道に関して悩んでいることや、小笠原家の人間として窮屈に思っていることを。


「でも、我慢してやって。きっと浬が剣道やるって、剣道部に入りたいって言ってくれたこと、お父さんすごく嬉しかったんだと思うから」

「わかってるよ、それくらい。今朝の大旗振ってるの見たら」

「そっか、そうだよね」


 洋子は今朝の大騒ぎを思い出しているのか。ダイニングテーブルの向かいの席に着き、頬杖をつきながらくすくす笑っている。


「それに母さんもね、嬉しいと思ってるよ」

「おれが剣道部に入ったこと?」

「うん。だって浬、このまま剣道嫌いになっちゃうのかと思った」

「嫌いになっちゃダメなわけ」


 頬張ったハンバーグをごくんと飲み込み、浬は口を尖らせる。だが、洋子はかぶりを振った。


「ううん、そういうわけじゃないけどさ、この家で剣道嫌いになっちゃうのはちょっとつらいでしょ。だから、嫌いにならないでくれたなら、よかったなぁって」

「ふうん……」

 

 洋子はやはり、決してそれを深くは聞かない。いったい、浬の心を動かしたのは誰なのか。どんな出来事がきっかけだったのか。それを明らかに知りたがっているのに、絶妙な距離感で放っておいてくれる。そのせいだろうか。浬はあえて洋子には話したくなった。


「母さん。おれ、今日さ。剣道、楽しかったよ」

「へえ」

「今、船高には一緒に稽古したいって思う人がいるんだ」

「あらま。楓くんじゃなくて?」

「楓は道場でいつも一緒だったからなぁ。そばにいてくれると安心はするけど」


 楓の場合は、どうも慣れ過ぎてしまっているのだ。稽古のとき、同じ環境に彼がいることで、浬は無条件に安心感を得られる。彼とはいわば兄弟のようなものだから、剣道に限らず、浬が楓と一緒にいることは当たり前で、自然なことだった。

 ただし。高校へ上がってから、楓は航に対して当たりがすこぶる強い。そのせいで、浬が楓と一緒にいて得ていた安心感は今、不安感に変化しつつある。


「その子、なんて子なの?」

「朝比奈。朝比奈、航っていうの。すっごい強いんだ。中三んときの総体で県の個人戦準優勝だったんだから」


 まるで自分のことのように得意げになって、浬は言った。すると洋子は「はて」と(あご)に手をやって、首を傾げる。


「朝比奈くんて……、母さん、なんか聞いたことある気がする」

「やっぱり、有名なんだ。剣道部でも一緒だけど、おれ今、同じクラスなんだよ」

「ふうん。じゃあさ、今度遊びに連れてきたら? そんなすごい子なら、お父さんきっと喜ぶんじゃない?」

「……絶対やだ。どうせなら父さんがいないときにする。また大騒ぎして迷惑かけそうだし」

「それもそうだね……!」


 洋子はそう言ってくすくす笑う。浬は頬を(ゆる)めた。そのうち、いつか今よりももっと仲良くなったら、彼がこの家へ遊びにやってくることもあるだろうか。浬はその頃には、今よりもっと、彼に近づくことができるだろうか。


 航と同じチームで、剣道がやりたい。大地や羽柴先輩みたいに、おれももっと航を知って、近づきたい。それから――。いつかあの舞台で、航と一緒に戦いたい……!


 浬が目指すのは、インターハイ県予選、団体戦決勝の場。もっと言えば、そこで優勝を飾りたい、と思う。浬が剣道部に入った動機として、それはもしかすると、不純だと言われてしまうのかもしれない。けれど、止められない。なぜなら浬は今、久しぶりに楽しいのだ。


「明日も頑張んなきゃな――」


 心の中の声が、口から漏れた。すると、洋子がまた笑みを零す。


「頑張りなさい、少年」





 それから、ひと月が経った五月。市立船戸高校剣道部の稽古は、ほぼ休みなく行われていた。おかげで、部活動で剣道をするということや、その環境にも浬はだいぶ慣れてきている。強豪校の厳しい稽古に体力が持つかどうかは不安があったが、それにもなんとかついていけそうだ。その部分に関しては、顧問の織田もかなり気にしてくれているようだった。


「姿勢を正して……黙想ーーっ!」


 しん、と静まり返った道場に、部長の声が響く。今日も放課後から稽古が始まった。それはまず、準備体操と素振りから始まる。その後、全員で整列、正座をして、黙想をしてから面を付けて切り返し、基礎打ち、技稽古と続き、それが終わった後は試合稽古に入る。ここまでは、いつも決まった流れだった。


「十分後から試合」

「はい……!」


 織田の指示に、全員が(そろ)って返事をする。試合稽古とは、審判を立てて、実際の試合と同じような形式で行われる稽古のことだ。たいていの場合は個人リーグ戦が多く、一年生から三年生まで一緒くたに参加する。当剣道部に女子部員はいないため、ひとたび試合稽古となれば、剣道場にある二箇所の試合スペースでは同時に熱い男同士の戦いが延々と繰り広げられた。


 顧問の織田は今、道場の壁に設置されている黒板に、手早くリーグ表を書いている。道場の下座側の壁際には畳が一列に並んでいて、部員はみんな、そこで面の取り外しをしたり、休憩を取ったりするのだが、黒板はそのちょうど中央付近にあった。

 ちなみに、畳の上での並び順は一応決まっていて、上座から部長、副部長と続き、その後は比較的ランダムで決められている。ただし、上座から三年生、次に二年生、その後に一年生が並ぶ。これは絶対だ。一年生は上座から航、浬、その後には楓の順で並びが決まっていた。


 やがて、水分補給を終えた三年生の四人が面を付け始めた。市立船戸高校剣道部には、現在三年生が四人いる。彼らはたいてい、一番初めの試合に立つことが多い。特に決められているわけではなかったが、暗黙の了解でそうしているようだ。


 審判には、現在、怪我の治療のため、マネージャーの仕事を(にな)ってくれている二年生の佐伯(さいき)千樫(ちかし)が上座側の試合場を担当し、立ってくれる。下座側はその他、手の空いた二、三年生がランダムで立つことになる。

 さらに、手の空いている者――、これはおもに一年生の仕事だが、ストップウォッチで時間を計ったり、黒板に結果を書き込んだりする。ただし、それらは基本的に誰がやると決まっているわけではない。あくまで気付いた者がやる、というルールだ。

 細かいルールは決めずに、自分から率先して動くように生徒に(うなが)す。おそらくはこれが、織田の指導の仕方だった。


 さて今、目の前の試合場では三年生の部長、浅井(あざい)市鷹(いちたか)と、副部長の浅井(あざい)将鷹(まさたか)が最初の試合を始めるところだった。彼らは双子の兄弟だ。体格も声も彼らはよく似ている。強さもまた、互角だった。

 ふたりが同時に試合場に入る。一礼をして白線で止まる。その場に蹲踞(そんきょ)をして合図を待つ。さすがは双子だ。まるで鏡のように、息がぴったりと合っている。

 ちなみに蹲踞(そんきょ)とは、(ひざ)を折り立てて腰を落とし、立膝(たてひざ)をついた座法のことを言う。剣道では試合開始の合図を、定められた白線の位置で蹲踞(そんきょ)をした状態で待つのがルールだ。


「……はじめ!」

「うらぁぁあ!」

「せぇやぁぁあ!」


 紅白の審判旗を持つ佐伯のひと声で、市鷹と将鷹は立ち上がり、互いに間合いを詰め、攻め始めた。市鷹が一本を取れば赤い旗が、将鷹が取れば白い旗が上がる。双子の兄弟である彼らの勝率は今のところ、兄の市鷹の方が僅差(きんさ)だが、勝っていた。

 竹刀をパンッ、と払う乾いた音が道場に響く。ほどなくして、隣の試合場でも試合が始まった。対峙しているのは、三年生の毛利(もうり)晴也(はるや)伊達(だて)寿(ひさし)だ。 


 浬は市鷹と将鷹の試合に目を向けた。このふたりの試合は実に慎重なのに、大胆さもあって面白いのだ。互いに知り尽くしている相手であるせいか、普段は使わないような変わった技が多く出るし、激しい打ち合いになることも珍しくない。

 市鷹と将鷹は構えた状態での間合いの取り合いを続けている。足を動かしながら、わずかに攻めているのは、市鷹の方だった。しかし、それはどこか、将鷹が誘い込んでいるようでもあった。


「メンッ、面だぁあああっ!」

「小手ぇぇええーーっ!」


 間合いを詰めた市鷹が飛ぶように面を打つ。兄をうまく誘い込んだ将鷹は、ここぞとばかりにその出鼻を狙って小手を打った。しかし、わずかに鍔元(つばもと)だ。佐伯は一瞬、白い旗を上げかけたが、すぐに手を下ろし、左右に振った。この技は無効、ということである。


「うわぁ……! 今の惜しかったなぁ……、マサぁ……!」


 上座に座って試合を眺めている織田が、悔しそうに(ひざ)を叩いて言う。タイミングはバッチリだったが、狙った場所が少し()れてしまったようだ。その直後、市鷹と将鷹は至近距離で激しく打ち合った。


「いつ見てもすごいな……」


 隣で、航が呟く。航もまた、このふたりの試合稽古を見るのを楽しみにしていたのかもしれない。特に毎度行われるこの打ち合いには目を奪われる。

 瞬時に相手の隙をつき、空いている所を狙って打つ。つまりこれは、互いに連続技を出し続けながら、相手の繰り出す数々の技を防いでいるわけだ。それが数秒の間にいったい、何回繰り返されることか。浬には計り知れない。目にも止まらぬ速さで、ふたりの打ち合いは続いた。ところが――。


「……メーーーンッ! 面だぁぁぁあああ!」


 一瞬の間があってから、市鷹の声と同時に、バクンッ、と鈍い音がした。市鷹は竹刀を高く掲げた状態で後方へ素早く下がり、将鷹から離れて残心(ざんしん)を取る。引き面、という技だ。将鷹が慌てて市鷹を追う。

 

「面あり!」


 しかし、市鷹の引き面は見事だった。赤い旗が上げられ、佐伯の声がした途端、将鷹は天を仰ぐ。悔しそうなその表情は、面金の間から覗いている目を見ただけで十分に伝わってきた。やられた、といった感じだろうか。静かに開始線へと戻っていくふたりの様子を見ながら、織田は口角を上げ、「さすが」と言わんばかりに頷いていた。


さて、これは剣道ならではのルールであるが、有効打突の部分に当たっただけの技は、決して一本にはならない。一本にするには、強い打突のほかに、しっかりとした気迫のある声と、残心(ざんしん)と呼ばれる姿勢を取らなければならない。


残心とは、剣道だけではなく、武道全般に共通するもので、技を決めた後も心身ともに油断をしない姿勢を取ることを言う。

実戦では、たとえ相手が完全に戦闘力を失ったかのように見えても、それは擬態である可能性があり、油断した隙を突いて反撃されることが有り得る。完全なる勝利を得るためには、それを防がなければならない。相手と距離を取ったり、あるいは気を抜かず、また体勢を崩さないことで、完全なる勝利へ導かなければならない。これが、残心である。


つまり、一本を取ったと思い込んで声をしっかり出さなかったり、簡単に竹刀を下ろし、相手に背を向けてしまった場合は、どんなにしっかり打った技でも残心が取れていないとされ、一本とは認められないわけだ。


「……二本目!」

「せぇやぁぁああああ!」


 二本目が始まった。あと一本取れば、市鷹の二本勝ち。このまま制限時間が来ても、一本勝ちになる。一方で将鷹はもう後がない。一本取ってやっと五分。取りに行かなければ、黒星だ。

 そのため、将鷹はさきほど以上に攻め込んでいた。隙を見せずに間合いを詰め、おそらくはなにか作戦を練った上で、狙っているのだろう。その光景を、浬は夢中になって見つめていた。しかし不意に、隣に座っている航に胴着の袖をくいくい、と引っ張られる。


「浬」

「なに? 航」

「マサ先輩が狙ってるのさ、きっと突きだぞ」

「え……っ」


 突きとは、喉元を剣先で貫くように当てる技だ。外れたときの危険性が高いため、小、中学生までは、その技を使うことは禁止されている。また、突きはほかの面、小手、胴に比べて、有効打突の面積が極めて狭い。一本にするのは非常に困難な技の一つである。

 しかし確実に一本を取りにいきたいのに、そんなに難しい技を選択する必要があるのだろうか。浬は首を傾げた。


「なんで?」

「イチ先輩はさ、もう一本取ってるだろ。ここから二本取りに行ってもいいけど、マサ先輩は一本取り返そうとしてガンガン攻めてくるもんだから、多少は守りに入る。しかも、相手は自分の分身みたいな存在のマサ先輩だ。ここで必死になって二本目取りにいくよりも、一本勝ちで終わった方が安全に決まってる」

「たしかに……。それで?」

「イチ先輩はマサ先輩の得意技が面だって知ってるから、それを予想してるはずだ。だからイチ先輩は、間合い取りたがって後ろに下がる。そこを狙うんだよ」


 航が言った通り、将鷹の得意技は面だ。彼の面打ちのスピードは市鷹よりも速かった。ならば当然のこと、市鷹は、我が弟なら一番自信のある武器を使ってくるはず、と考えるだろう。しかし――。


「でも、なんで突きなの?」

「イチ先輩は、間合いを取って下がった状態で攻め込まれたとき、首をほんの少し後ろに引く癖があるから。俺ならそこを狙う」


 航はそう言った後、「まぁ、俺の突きじゃまだ下手過ぎて当たらないけどさ」と自分を嘲笑するかのように付け足した。それからまた、市鷹と将鷹の試合へ目を戻す。将鷹はやはり、先ほどと同じくしきりに市鷹に攻め入っていた。だが、剣先がやや下がっているところを見ると、小手を狙っているように、浬には見える。今度は浬が、航の胴着の袖を引っ張った。


「マサ先輩は小手狙いなんじゃない? 剣先がちょっと下がってるし、さっきも出小手惜しかったし」

「でも、もうイチ先輩がさっきみたいに面にすっ飛んでくることは、そうないはずだよ。イチ先輩はもともと構えがしっかりしてて、なかなか崩れないから。出小手はもう狙いにくいだろ」

「あ、そっか……」


 また互いにそれぞれ、試合に目を戻した――、その時だった。将鷹はひと際、前に攻め入った後、やはり剣先を一瞬下げた。だが、次の瞬間――。


「ツキぁぁあああ!」


 航の推測通りだった。将鷹は剣先を下げながら、さらに攻めたかと思いきや、市鷹の喉元を真っ直ぐに突いたのだ。竹刀はその一瞬、わずかに湾曲したように見えた。しっかりと有効打突の部分に当たった証だ。それは市鷹の読みを当て、なお且つ、彼の癖を利用した、将鷹の見事な一本だった。


「……突きあり!」

「おおぉーっ! お見事!」


 白い旗が上がった直後、織田が声を上げる。今度は市鷹が天を仰いだ。剣道場全体の空気がざわついたように感じて、浬は思わず肩をすくめる。突きという技が一本になった所を初めて見た興奮で、全身の肌はぞわぞわと粟立(あわだ)っていた。

 佐伯もまた、滅多に一本にならない技を口にするのにも少々戸惑っているのか、はたまた我が剣道部内最強である兄弟の戦いを目の前にして、魅せられてしまったのか。その声はやや震えていた。


「……勝負っ!」


 佐伯が声を張る。ここからは一本勝負だ。泣いても笑っても最後。先に一本を取った方が勝利を得る。市鷹と将鷹は互いに攻めながら、決して隙を見せなかった。


「せぇやぁぁああ!」

「うらぁぁぁあああ!」


 将鷹の気合いの声に、市鷹がまるで応えるかのように声を出す。来るなら来い、と言わんばかりだ。浬はその様子を固唾(かたず)を飲んで見守った。もちろん、右隣に座る航もそうしていた。

 突きで一本を取り返し、勢いづいた将鷹が攻める。市鷹は少し彼を警戒しているようだった。だが、足を止めずに、将鷹の剣先を繰り返し払っているのを見て、浬は思い直し、確信する。


 違う。警戒してるんじゃない……。イチ先輩は、待ってるんだ。


 将鷹はおそらく、今度こそお得意の面を狙っている。それを市鷹はわかっていて待っているのだ。しかし、あの将鷹の面に、バカ正直に面で対応するのは危うい。かと言って、出小手もまた、その威力に潰されてしまう可能性が高い。


 なにを狙うつもりなんだろう……。


 市鷹のことだ。もっと確実に一本を取れる策があるのかもしれない。浬は必死で考えた。もし、自分が彼だったらなにを狙うだろうか、と。


 速い面に対して……、確実に一本を取れる方法……。


 ふと見ると、時間を計っている楓がストップウォッチへ目線を落としている。残り時間が少ないのかもしれない。そう思った時、航が小さく呟いた。


「胴かな……」

「え……?」

「返し胴」


 将鷹が間合いをじりじりと詰めている。彼はおそらくここで勝負に出るつもりなのだ。ふたりの竹刀の剣先は触れ合いながら、さらに距離が縮まっていく。――次の瞬間、将鷹が飛んだ。


「メンだぁぁあ――」


 将鷹が飛んだ直後、パシッ! と音がした。さらにその後、市鷹は体勢を低くしながら体をひねり、将鷹の右の腹を斬るようにして打ち込む。パァァンッ! と乾いた音が響き渡る。


「ドォォオーッ!」


 市鷹が声を上げた。同時に、打ちこまれた面を竹刀で受け、瞬間的に完全に無防備になった将鷹の右胴を打ち、彼の横をすり抜けて残身を取る。それは返し胴、という技だ。タイミング、打突、声、残心。すべてが完璧な一本だった。


 あいかわらず、イチ先輩とマサ先輩の試合はすごいけど……。ふたりの技を予想して当ててる航もすごい……。おれは、まだまだだなぁ……。


 浅井兄弟の本日の勝敗は決した。部長である市鷹が勝利を獲得し、将鷹は惜しくも敗れてしまったが、実に内容の濃い、見応えのある試合だった。市鷹と将鷹は、ふたり(そろ)って織田のそばへ駆け寄り、正座をして頭を下げている。これは教えを乞うためだ。


「お願いします!」


 こういった場合、たいてい、織田はアドバイスをくれ、良質な試合をすれば褒めてくれる。悪い試合をすれば説教をされる。しかし当然ながら、今日の浅井兄弟の試合に余計な言葉は必要なかったようだ。


「ふたりともお見事! それだけだ。次、行け」


 織田は満足げだ。市鷹と将鷹は「ありがとうございました! 失礼します!」と言って、下座側の畳に戻ってくる。将鷹は悔しそうに肩を落としていた。それに気付いているのだろう。市鷹は彼の健闘を(たた)えるように防具を付けたまま、無言で将鷹の肩を一度だけ、ポン、と叩いた。すると、それに応えるようにして、将鷹も右手を上げる。


 彼らは兄弟であり、チームメイトであり、良きライバルなのだ。日頃から切磋琢磨し、互いを認め合い、高め合う存在。どちらが勝っても負けても、たとえ勝率が(かたよ)っていようとも、その関係が壊れることはないのだと聞く。浬はそれを聞いたとき、彼らと彼らの関係に深く心酔し、憧れと尊敬の念を(いだ)いた。


 さて、試合場では二年生の羽柴と、同じく二年生の斎藤(さいとう)永太(えいた)の試合が始められるところだった。


「なぁ、浬。次、行ける?」

「おれ?」

「うん。試合、行こうぜ」

「オッケー!」


 不意に航から声をかけられ、浬はそれに応える。航はすでに面を付け始めていた。面金の間から見えている彼の目が一瞬、細くなる。その表情を見た途端に、浬の胸は高鳴った。


浬は頭に手ぬぐいを巻いて被り、急いで面を被る。固く結んだ面紐を、後頭部の辺りでしっかりと締め、整える。


 航とは試合稽古でもう何度か手合わせをしているが、実はまだ一度も勝敗がついていない。航に一本を取っても、取り返されて引き分けで終わり、一本を取られてなんとか取り返しても、もう一本はなかなか打たせてくれない。


 羽柴や佐伯はそんな航と浬を「互角だ」と言うが、浬はそれとは少し違った感覚でいた。浬は思うのだ。航とは決して互角なわけではない。むしろ実力は自分の方が(おと)っているような気もしている。しかし、航と試合をするとき、浬がいつも感じているのは、航との一体感だった。互いに攻め、相手を負かそうと戦っているはずなのに、自分は相手を探り、知ることに楽しさを感じている。それは互いに気持ちを確かめ合っているようでもある。

 試合場という空間の中で、航とひとつになっている。浬はそう感じているのだ。それは、剣道を長く続けて来た中でも例の無い、不思議な感覚だった。


「メーーーンッ!」

「面あり!」


 羽柴が斎藤を相手に一本を取る。ほんの一瞬、動きが止まった斎藤の隙を、彼は逃さなかった。文句なしの面だ。それを見て航と浬は顔を見合わせ、同時に立ち上がった。これはあくまで推測だが、制限時間はおそらく残り一分を切っているはずだ。

 ある程度の経験を積んでいれば、時間の感覚はそれなりに(つか)めるようになるものだが、航は経験年数がまだわずか三年でありながら、経験年数十年の自分と同じ感覚や技量を持っている。浬はそれに深く感心し、航を尊敬してもいた。彼は運動神経がただ、いいというだけではなく、確実に剣道のセンスがあるのだ。


 やがて、時間を計っていた楓がストップウォッチを掲げて、「時間です!」と声を張る。試合は羽柴の一本勝ちで終わった。二年生の中では、おそらく羽柴の右に出る者はいなかったが、斎藤は時たま、とてつもなく調子のいいときがあって、羽柴に勝つこともあった。ただし、今日はうまく調子が出なかったようだ。


「勝負あり!」


 佐伯が赤旗を上げて言ったのと同時に、羽柴と斎藤が蹲踞(そんきょ)をして、竹刀を収め、試合場から出る。いよいよ浬と航の番だ。航は浬を一瞥(いちべつ)すると、赤旗の方へ向かっていった。


「はじめ!」

「やぁぁああああ!」

「うらぁぁああああ!」


 審判旗を持つ、佐伯の声が試合開始を告げた。浬は航と上座側の試合場で対峙している。立ち上がり、気合いの声をめいっぱい上げた浬に、航も息を合わせて立ち上がる。その声に負けじと気合いの声を上げる。

 面金の間から航の真剣な目が(のぞ)いている。刺すような(するど)い視線がこちらへ向けられている。だが、浬も負けてはいない。その視線を受け止め、やはり(するど)く航を見つめる。


 航……。なにを考えてる……?


 じりじりと間合いを詰めながら、高鳴る胸を鎮めて、航の思考を読む。彼の竹刀の剣先に中心を取られないようしっかりと構え、体勢を崩さないようにしながら、半歩入り、攻める。

 しかし、航も下がることはしないまま、剣先が触れ合った。その瞬間、浬は剣先でもって航の竹刀をぐっと押さえ、そのまま面に飛び込んだ。


「メーーーンッ!」


 パシンッ、と音がする。航が浬の面を竹刀で防いだ。そのまま距離が近づき、自然と(つば)()()いになる。面金と面金がぶつかりそうなほどの至近距離で、航と目が合った。その目はこの体のすべてを観察しているようだ。もちろん、浬も同じである。

 航が浬の手元を崩し、大きく振りかぶる。浬は反射的に面を守ろうとして手元を上げた。だが、航は打ってこない。彼は引き面を狙っているのか。それとも、今のはこちらの様子を見るための『フリ』だったのか――。


 たぶん、今のはフェイクだな……。


「やぁぁさああああ!」

「うらぁぁあ!」

 

 幾度か、航は浬の体勢を崩そうとするが、浬は懸命にそれに()えた。そうしながら、航がどう動くのかを見つめ、機会を待つ。


やっぱり、打ってこない……。


たぶん、航もこちらの反応や出方を観察しているのだ。浬が一瞬でも体勢を崩して隙を見せれば、彼は無防備になった場所を必ず狙ってくるだろう。

 

 なら、思い切って……仕掛けてみるか。


 浬は自ら引き技を仕掛けてみることにした。さっき航にされたように、浬は彼の手元を押して崩す。身長差はある。力の差もある。ならば、それをも利用すればいい。浬は不意にわざと力を抜き、半歩引いた。その瞬間、航の体勢がほんの少し崩れた。面の横が空く。そこを空かさず狙った。


「メーーンッ、面だぁぁあああッ!」


 当たった感覚はあった。だが、航はわずかに()けていたようだ。浬は残心を取りながら素早く後方へ下がり、彼と距離を取る。当たりはしたものの、打突が弱い。これでは一本にはならない。

 航が間合いを詰めて追ってくる。彼は、浬が残心を取るのに(かか)げたこの竹刀を下ろす瞬間を、おそらくは狙っていた。たしかに、ここはすでに試合場のライン(ぎわ)。航にとっては絶好のチャンスに違いなかった。だが、そうはいかない、と浬はその数秒で考えを巡らせた。


 この勢いで航が飛んでくるなら、面だ……。


 今は彼にとってみれば有利な状況だ。きっとあの大砲のような面を打とうとしているに違いない。浬は手元を下ろした瞬間に飛んでくるであろう彼の面打ちに対して、小手を狙うことにした。出小手(でごて)、という技だ。


 ――今だ。


「小手ぇぇえええ!」

「……メーーンッ!」


 速い――!


 手元を下ろした瞬間、やはり飛んできた面打ちに対応せんと小手を打ち込んだがしかし、浬の小手打ちは、航の面打ちにまるっきり間に合わなかった。要するに、あまりのスピードとその威力に浬の技は潰されてしまったわけだ。しまった、と思ったその直後、脳天にはずしん、と重い打突が乗った。航がしっかりと残心を取る。タイミング、打突ともに、文句のつけようのない一本だった。


「面あり!」


 佐伯の声が響く。浬は悔しさを覚えながらも、開始線に戻った。技は読めていた。思考はたしかに合っていたのだ。しかし、航の面の威力に浬は勝てなかった。


 さすがは航――。おれが去年、初めて航を見たときの、あの大砲みたいな面だ。


 一度狙いを定められて打たれれば、決して逃れられない大砲。彼の面打ちはまさにそういう技だった。自らそれを打たれ、その威力と迫力、スピードを知って、浬は興奮していた。やはり彼の面は大砲だ。まともに勝負をしたら勝てる気がしなかった。だが、このままでは初黒星となってしまう。


まだだ……。まだ、できることはある。時間だって、あと半分は残ってる。


 航の面打ちに対応するのは、今の浬には無理かもしれない。しかし――。


「二本目!」


 航に負けない技だって、おれにはある。互角に戦える……!

 

 二本目の合図の直後、浬はすぐに航に攻め入った。航は先に一本を取っていることで余裕を持ち、冷静さを保っている。彼の構えは崩れることがない。それは想定内だった。

浬はダンッ! と右足を一度、踏み鳴らし、彼に打ち込もうとする――フリを見せた。航はそれに反応し、ふっと手元を上げる。

 

 ここだ……。狙える……!


 もう一度、右足をわざと強く踏み込む。ダンッ! と音が鳴る。また、航の手元が少し上がる。


 よし、今だ!


 浬はすうっと航の間合いに攻め入って自ら手元を上げた。すると、先ほどと同じように航の手元が上がる。その一瞬を、浬は(とら)えた。右に大きく振りかぶって、相手の左胴を斜めに斬るように打った。その瞬間、パァンッ! と乾いた音が鳴り響く。


「ドォオオオーーッ!」

「……っ!」


 それは逆胴(ぎゃくどう)、という技だ。通常、胴打ちは相手の右側を打つ技だが、フェイント等で相手の体勢を崩し、左胴にできた隙を狙って打つ。これが逆胴である。


「おおぉ……っ!」


 織田の声が聞こえた。しかし、佐伯の旗は視界の(すみ)でまだ上がっていない。浬は残心を取り、必死にアピールをする。


 そんな……。一本にならない――?


 わずかに失望しかけた時、再び織田の声が聞こえた。


「チカ! 胴!」


 チカ、というのは佐伯のことだ。ふと目を向けると、織田は(あご)をしゃくり、左手を上げている。おそらくそれは「今のは胴ありにしろ、一本だ」という意味だった。


「ど、胴あり!」


 佐伯は慌てて左手に持っている白旗を上げて声を張った。ホッと安堵(あんど)しながら、浬は開始線に戻る。浬の前で、航は悔しそうに片目を(つぶ)った。彼はゆっくりと開始線に戻ってきて、構える。しかし、次に目が合った時、彼の目は一層、(するど)さを増していた。


『また五分だな――』


 航がそう言った――気がした。浬は頬を(ゆる)める。『そうだね』と応えるように、静かにこく、と一度、頷いて見せる。すると、航もほんの少しだけ、頬を(ゆる)めた。


『相変わらず、手強いな』

『そっちこそ』


 そんなやり取りが頭の中に浮かぶ。足下から脳天へ、なにかが這い上がっていくように全身が粟立(あわだ)って、興奮が一気に増した。不思議だ。声なんか出していないのに、彼の言葉が聞こえてくるような気がする。


 これだ――。この感じ。


 試合中は基本的に、しゃべってはいけない、というルールがある。だから、浬はもちろんのこと、航だって言葉を、声を、口にしているはずがないのだ。それはまるでテレパシーで話しているような感覚だった。互いに相手を知ろうとする気持ちが重なっているせいだろうか。


『行くよ……、航!』

『来い、浬!』


 (するど)く航を見つめれば、彼は負けじとこちらを見つめ返す。言葉はないが、やはり浬と航は気で通じ合い、思いを交わしている。それは確信に近かった。

 静まり返った試合場で、航の息遣いが聞こえた。それに合わせて呼吸をしながら、佐伯の合図を待つ。


「……勝負!」

「ぃやぁさぁぁああ!」

「うるぁぁああああ!」


 残り時間はおそらく、一分を切っていた。彼と勝負ができるチャンスはすでにそう多く残っていないはずだ。浬は気合いの声を出し、間合いをグッと詰めた。ほぼ同時に、航もこちらへ攻め入ってくる。互いに一歩も譲らず、攻防を繰り返す。浬は技を仕掛けては打ち込むが、それはすべて航に見抜かれ、()けられてしまった。

 やがて「時間です!」と誰かが声を上げる。浬は航と目を合わせたまま、肩で大きく息をして、開始線に戻った。


 くそ――……。


「引き分け!」


佐伯の声が響く。決着は、また今日もつかなかった。





 その日の帰り道――。浬と航は自転車を漕いで帰る途中、ファストフード店へ寄った。これは念願叶っての寄り道だ。時々、三人でここへ寄ろうとすると、楓がたちまち面白くない顔をするので、寄り道もできなかったのだが、しかし。今日、楓は用事があると言って、早々と支度をして一人で帰ってしまった。

 

「あいつ、今日元気なかったよなぁ……」


 ハンバーガーとポテト、それにドリンクのセットを頼んでおきながら、まだ少しも口をつけないで航はボーッとしている。どうやら楓が妙にしおらしかったのが気になるようだ。


「どうせ不貞腐(ふてくさ)れてんじゃないのかなぁ……? たまには静かでいいよ」


鼻を鳴らして、浬は答えた。楓がいると、浬は航とほとんど話ができない。楓が航に突っかかってばかりいるからだ。正直なところ、本当はもっと航とゆっくり話をしたい浬は今日、楓が先に帰ってしまったことに多少なりともホッとしていた。しかし、航は違うようだ。彼は今、目の前で心配そうにため息を漏らしている。


不貞腐(ふてくさ)れてるのかもしれないけど……明らかにいつもよりしょぼくれてた気がするんだよなぁ、あいつ。いつもは絶対、浬と一緒に帰るのに、今日はさっさと帰っちゃうしさ」


 頬杖をついてそう言ってから、航はやっとポテトを口に入れている。すっかり冷めてしまっているだろうそれを口に入れた途端、航は顔を(ゆが)め、ナゲットに付いていたケチャップを付けて再び食べ始めた。


「試合稽古で、航にまた勝てなかったからじゃない?」

「そうなのかな」

「楓、入学してから航にはまだ一勝もしてないし、今日は二本負けだったじゃん」

「そうだけどさ……。なんかこう、思い詰めてる感じしなかったか?」

「まぁ、言われてみれば……」


浬は航を見つめながら、ふと疑問に思う。いや――。これはそもそも、ずっと浬が航に対して不思議に思っていることだった。 


「ねぇ。航はさ、楓に散々強くあたられてるのに、一緒にいるの嫌じゃないんだね?」


 お人好しなのだろうか。普段から、楓がいくらトゲのある言葉をぶつけても、航は決して彼に対して怒ったりしなかった。それなりに言い返すことはあっても基本的に航は冷静なので、決して喧嘩にならないのだ。ただし、楓はそれが余計に気に入らないらしい。まったく、彼は子どもだ。航は、浬が投げかけた疑問に苦笑する。


「うーん……。嫌じゃないかって聞かれたら、嘘かもな。でも、羽柴先輩に言われたんだ」

「羽柴先輩に? なんて?」

「あいつに、歩み寄ってやれって。部内でギスギスしてるのは嫌だけど、向こうもたぶん、同じだけそれを感じてるからってさ」

「でも、勝手なことばっか言って、突っかかるのは楓だよ。ギスギスするのだって自分のせいじゃん」

「そうだけどな。ただ、それはあいつなりになにか理由があるのかもしれないだろ。話すタイミングがあればいいなって思ってるんだけど、なかなかないんだよなぁ」

「話す、タイミング……」


 浬はハッとした。今まで、楓がどうして航につらく当たるのか、それの理由なんて浬は聞こうとしなかった。なぜなら彼の態度は、単純に航への嫉妬やライバル心、好き嫌いだけだと思っていて、楓が精神的に子どもであるせいだ、と思っていたからだ。

 だが、もしかすると、なにかもっとまともな理由があるのかもしれない。そうだとすれば、長年一緒にいる幼馴染である楓を放っておくことはできない。


 可能性は低いと思うけど……。でも――。


「航、おれになにかできることあれば手伝うから。なんでも言って」

「ありがとう、浬」


 航は眉尻(まゆじり)を下げて笑みを(こぼ)す。表面では笑みを見せていても、航だってきっと、毎日嫌な思いをしているだろうし、本当は感情的に怒ったりもしたいかもしれない。それでも冷静さを失わない航は、浬の目に本当に大人びて見えた。


「航は大人だよね。いつも冷静で落ち着いてるし、やっぱりすごいや」

「目標にしてる人が大人だからじゃないかな。俺なんかまだまだ、ガキンチョだよ」


 航はそう言うと、やっとハンバーガーを頬張った。航の話すそれが誰なのか、浬はもう知っている。


「それって、羽柴先輩?」

「うん。あの人は俺の憧れだから」

「そっか……」


 ほんの少し、羽柴を羨ましく思った。ただし、そうは言っても、別に浬は航の憧れの存在になりたいというわけではない。ただ、航にそれだけ慕われ、信頼されている、ということが羨ましくてたまらなかった。


「羽柴先輩と航って、本当に仲良しだもんね」

「まぁ、おんなじ中学だしな。中二のときにさ、俺、散々あの人に世話になったんだよ。――あれ。浬には話したことなかったっけ、この話」


 浬は首をひねり、かぶりを振る。すると、航はゆっくりと話し出した。


「俺が中二の頃、船戸二中の剣道部はさ、一度廃部になりかけたんだ」

「廃部……?」

「うん。でさ、そのときにすげえ助けてくれたのが、羽柴先輩だったんだよ」

ここまでお読みいただき、ありがとうございます!

ぜひ、続きをお楽しみください。


いなば海羽丸

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