1【出会いの春】~朝比奈航~
高校一年、春。航と浬が出会うお話。
「おーい、航! あった! こっちこっち!」
馴染みの声がして、航はその声の方へ振り返った。
冬の寒さが和らぎ、桜の花びらがくるくると風に舞う四月。高校一年生、朝比奈航は、今日この日、念願の市立船戸高校に入学した。
まだ着慣れない制服のせいか、あるいは緊張感からか、少し体がこわばっている。この船戸高の制服は中学の頃に着ていたような、学ランではなかった。ワイシャツにネクタイ、それにブレザー。それはどこか、ビジネススーツにも似ていて、身に着けたその瞬間から、自分がほんの少し大人になったような、不思議と身が引き締まる思いがした。
「なぁ、航! オレら同じクラスだったぜ! C組!」
そう言って、隣で歯を見せて笑ったのは、幼馴染の島津大地である。彼とは自宅が近所ということもあって、幼い頃からよくつるんでいた。暇さえあれば一緒に遊んで、いたずらをして、その後は決まって誰かしらに怒られる。航はそれを彼と呆れるほど繰り返してきた。もはや、悪友と呼んでもいいかもしれない。
「おっ、ほんとだ! やったな!」
航は大地と、廊下に張り出されているクラス表の前で、肩を組んで笑い合う。その後、連れ立って一年C組の教室へ向かった。
「いやぁ、航はいいよなぁ。スポ薦だもん、受験してないようなもんだろ?」
羨ましそうに大地は言う。航は頷いた。スポ薦とは、スポーツ推薦の略だ。その枠での受験はそう難しくはなく、落とされることはよほどの問題がなければない、と航は聞いていた。ただし、くれぐれもこれ以上成績を落とさないように、と注意は再三受けていたので、それに従ってそれなりに勉強はしていた。だが、それだけだ。
中学時代は勉強も適当に熟すだけで、たいしていい成績も取れなかったが、所属していた剣道部ではそこそこの成績を残していた。そのおかげで、航はこの学校をスポーツ推薦枠で受験することができ、こうして今日、入学できた、というわけだ。
「作文も書いたし、面接だってあったけどね」
「そんなの受験じゃねぇし。あーあ、オレも真面目に部活でもやるんだったかなぁー」
「お前なぁ、よく言うよ。部活は向いてないとか言って、一週間でサッカー部辞めたのはどこの誰だっけ?」
「だって汗かくし、面倒くせえんだもん」
運動神経は決して悪くないのに、大地は運動を嫌う。そのため、彼の能力を知っている者はこぞって部活の勧誘に来るのだが、大地はそれを受けたとしても、たいてい数日で退部することが多かった。そんなに嫌なら受けなければいいのに、と思うのだが、どうやらつい、目の前にぶら下げられたご褒美に、釣られてしまうらしい。
「お前はもう、その運動神経を誰かに譲ってやれよ」
「やだね。運動神経悪いなんてカッコ悪ぃじゃん」
「お前のステータス維持のために、神様はその運動神経をやったんじゃないと思うけど」
「あっ、ほらここだ! C組!」
大地は航の言葉を遮るかのように言う。呆れた航はため息を吐きながら、『1-C』と書かれた紙が貼ってある教室へ入った。
教室の中には、すでにたくさんの生徒がいた。みんな、あちらこちらで友達作りに励んでいるようだ。航は少し緊張しながら、大地とともに黒板に貼られた座席表を見て自分の席へ向かう。
「航、見てー。オレの席、向こう」
大地がニカッと笑って窓際を指差した。
「窓際の五番目か」
大地は二月生まれなので、生まれ月の順で並べられるクラス替えの直後なんかはたいてい窓際で、しかも後方の席が多い。一方、五月生まれの航の席はいつだって廊下側だ。ひどいときは教卓の真ん前になることもある。
航は自分の席を今一度、確認した。案の定、航の席は廊下から数えて二列目、前から三番目だった。席に着いて大地の方を見ると、大地は航に気付き、ピースを作って笑っている。
恥ずかしい奴だな……。小学生かよ。
彼の幼い行動にはすっかり呆れてしまったが、大地があまりにピースサインを送ってくるのをやめないので、航も仕方なしに、しぶしぶピースをし返す。
ところが、その時だった――。航はふと視線を感じて、目を大地のすぐ後ろの席へ移した。
そこには、ずいぶんと綺麗な顔立ちをした男子生徒が座っている。ふわっとした癖のある髪に、白い肌。ぱっちりとした目の色は薄く、どこか欧米人とのハーフにも見えた。
ん……?
ほんの一瞬、間違いなく目が合ったが、彼はすぐに航から視線を逸らした。妙な反応だ。その前から見られていたような気がするのは、おそらく勘違いではない。そう思えば不思議と目を離せなくなって、航はその男子生徒をじっと見つめた。
んん――?
「やぁ、おはよう! 新入生諸君!」
不意に、張りのある低い声が教室中に響いた。いつの間にそこにいたのか、今、教卓の前には担任らしき教師がいて、あいさつが始まるところだ。
航はハッとして、目線を自分の机の上に置く。教室に響き渡る担任教師の声は、一瞬にして航を我に返らせたが、その内容はまるで頭に入ってこなかった。
なんだ、あいつ。知り合い……じゃないよな?
航はもう一度大地の後ろの席をちら、と振り返る。
ひょっとして他校の剣道部員か……? 大会で見たことが――……いや、ないな。
どう見ても初めて見る顔だった。大会でよく見かける他校生徒の顔くらいは、だいたい覚えているつもりだ。それに、いくら男でもあれだけ容姿が整っていれば、印象も強く残るし、そう簡単に忘れはしないだろう。
ふと見れば、大地がその男子になにか話しかけている。どうやら、筆記用具を借りているようだ。航は眉を上げた。
大地に限って初日から物を忘れる、などということはないはずだ。いつもおちゃらけていて、飄々としている大地だが、ああ見えて案外しっかりしていることは、幼馴染である航が一番よく知っている。
大地の奴、絶対わざとだ。
昔からそうだった。人懐こいのはもちろん、誰とでもすぐ仲良くなるそのうまいやり方を、彼はよく知っているのだ。
さて、入学式が終わり、教室へ戻った後、担任教師の長い長いホームルームが終わると、航はすぐに大地の席へと駆け寄った。そうして、後ろの席に座る、例の男子生徒に目をやった。
彼はカバンの中をゴソゴソと漁ったり、ケータイの画面を見たりしている。航に見られていることなど、全く気にしていないようだ。
「なぁ、おい。お前」
「え? おれ……?」
「お前だよ。さっき、こっち見てたろ。どっかで会ったか?」
「え、えっと……」
話しかけてから、しまった、と航は思った。初めて話す相手だというのに、ろくに自己紹介もしないまま、なんて自分はぶしつけな聞き方をしたのだろう。彼も驚いたのか、ギョッとした顔でこちらを見つめている。しかし、すぐに罰が悪そうに目を伏せてしまった。
「そ、うだったかな……? ごめん、よく……わからない、けど……」
少し高い、かすれた声だった。その途端、大地がぶっと噴き出して笑った。
「航、今のなに……! もしかしてナンパのつもり?」
「な……っ!」
ナンパ、という言葉に顔が一気に火照っていく。ずいぶんと語弊のある言い方だと思った。そんなものはしたことも考えたこともない。だいたい、そういうものは一般的に、異性に対してするもののはずだ。そして今、目の前にいるのは、どう見たって男だった。
「バカ……! ナンパなんかするわけねえだろ。俺はな、さっきこいつが――」
そこまで言って口を噤んだ。『さっきこいつが俺の方を見てやがったんだ』なんて、またえらく失礼なことを言おうとしていた自分を、今度はなんとか抑えた。
「カイちゃんがどうかしたの?」
「カイ、ちゃん……?」
大地が『カイちゃん』と呼んだその男子は、頬をほんのりと赤らめている。なぜそういう反応になるのか理解できずに、航は眉をしかめた。しかし……。
どうでもいいけどこいつ……、案外しっかりした体してんだな……。
改めて彼を間近で見て、航はそう思わざるを得なかった。
肌はきめ細かく滑らかで細身。遠目から見た彼は、まるで女のようでもあったが、こうして見ると、その体つきは決して華奢というわけではなく、案外、筋肉質だった。もちろん、相手は男なのだから当然と言えば当然なのだが、なにもしないで得たにしては、均衡が取れている。ひょっとしたら、運動部なのかもしれない。日焼けしていないところを見る限りは、屋内競技だろうか。
航が彼をじろじろと見つめていたからか。大地が目の前でわざとらしく咳ばらいをして言った。
「ふふん、気になるなら紹介してやろう! このべっぴんさんはね、小笠原浬ちゃんといいます!」
なにを得意げになってるんだ、とそのテンションの高さに呆れながら、航は小笠原浬、というらしいその男子生徒にまた目をやった。彼はとても――恥ずかしそうに困り顔で笑みを零している。男でありながら『べっぴん』と言われては無理もない。しかし、それもまた事実ではあった。
「おがさわら? どこの中学だった?」
「船戸、南部中……」
「南部中かぁ。ん? ちょっと待てよ――」
航は顎に手をやって首を捻った。小笠原、という名前は聞いた覚えがある。いや、それ以上だ。一時は毎日のようにその名前を家で聞かされた記憶が、航にはあった。それを思い出すのは、若干うんざりしてくるくらいだ。
「お前もしかして――、南部剣の小笠原?」
浬は、どこか申し訳なさそうにこく、と頷いた。
「なーんだ、航。カイちゃんのこと知ってんの?」
知ってるもなにもない……。
小笠原、というその名前にうんざりするほど聞き覚えがあったのは、父親のせいだった。
航の父親、朝比奈良治は地元小学校の教諭を務めている。良治は非常に穏やかな人間に見えるが、実際はとても冷酷で、薄情だった。よく言えば真面目で冷静。感情の起伏の無い、穏やかな男。しかし、実はそこに思いやりや、優しさは存在していない。我が父親ながら航は思う。彼はそういった人間的な感情を失ってしまっているのではないか、と。
普段から口調が柔らかく、にこやかであるせいだろう。良治を知る人はたいてい、彼を気遣いのできる優しい人だ、と信じているはずだ。しかし実際のところ、彼は効率と自分に利があるかどうか。それのみで物事を判断しているだけだった。その証拠に、必要ない、自分に利がない、と思った物や人間、またはその関係に、良治は一切の興味を示さない。必要ない、と思った時点でなんでも即座に切り落とす。そこに感情は全くと言っていいほど乗らないわけだ。それは、家族だけが知っている朝比奈良治という人間の真の姿だった。
ただし、そんな彼にも唯一、感情的になる瞬間がある。地元で活動する船戸南部剣友会、通称『南部剣』の話をするときだ。彼はそこに所属する人間を好んでいなかった。特にその中でも会長を務めている小笠原志郎 という男を毛嫌いしているようだった。
以前、夜間にとある小学校で行われていた剣友会の活動に対して、近隣住民から苦情が出たことがあったらしい。その際に対応したのが当時、そこの職員だった良治であり、その剣友会というのが南部剣だったわけだ。聞いた話では、良治は小笠原志郎と真っ向から対立したのだそうだ。
その結果、南部剣は長年活動してきた小学校の夜間の使用をやめ、別の小学校の体育館を借りることになった。ただし、そこに落ち着くまでにも相当もめたのだろう。それ以来、良治は南部剣友会自体を悪く言うようになった。そのせいで、一時は航も剣道をやめさせられそうになったこともあるほどだ。
「そっか、浬……。南部剣の、小笠原先生んとこの――」
「うん……」
「じゃあ、剣道部だったのか?」
航の問いかけに、浬は弱々しくかぶりを振った。妙だと思ったのは、南部剣の小笠原と聞けば、すぐに顔も名前もわかるはずなのに、航は浬を知らなかったことだった。小笠原一家は剣道界の中でも有名だ。志郎とその妻、そして子どもたちもみんな、揃って剣道経験者なのだと聞く。
もちろん、父親が剣友会の会長であるのなら、それは自然なことだとも思える。つまり浬が志郎の息子だとすれば、浬もまた剣士であるのだろうし、中学では剣道部にはもちろん所属して、広く知られていてもおかしくはないはずだった。それなのに、航は浬を見たことも、その名前を聞いたことすらもなかったのだ。
「あのね、おれはその――、剣道はやってるんだけど、剣道部とかには入ってなくて……」
「へぇ」
「大会とかも、小さい頃は父さんに勝手に登録させられて出るしかなかったけど、中学からはもう、出てないんだ」
とても言いにくそうに言った浬を不思議に思いながらも、航は納得した。どおりでこれまで、彼を見かけなかったわけだ。航は中学から剣道を始めたので、ちょうど行き違ったような形になったのだろう。
「剣道、嫌いなのか?」
航が訊ねる。すると、浬は慌ててかぶりを振った。
「ちがっ、嫌いなんじゃなくて……。むしろその、剣道は楽しいし、好きなんだけど……」
「好きなんだけど?」
大地と声が揃った。その先をなかなか話し出さない浬を前に、航は首を傾げる。だが、ちょうどその時だった。
「あっ、いた! おーい、浬!」
突然、はつらつとした声が教室に響き渡る。三人は声のする方を見た。
ぶんぶんと手を振って、活発そうな短髪の男子生徒が嬉しそうに教室に入ってくる。彼は背は平均的だが、鼻すじの通った鼻と、切れ長の目を持った端正な顔立ちをしていた。だが航は、その顔を見た瞬間に顔を歪める。
「げ……!」
「北条……」
北条楓。中学時代、彼は船戸市立船戸南部中学校で剣道部に所属していた。そこは、航が在籍していた船戸第二中学校とはライバル関係にあった。ところが、なんの縁だろうか。彼は今年、航と同じく、この市立船戸高校に入学し、チームメイトとなっていた。
楓もまた航の姿を見るなり、途端に顔を歪めて見せた。彼とは春休みからこの船戸高剣道部の稽古に一緒に参加しているが、とにかく折り合いが悪かった。どうやらひどく嫌われているらしい。もっとも、それに心当たりはあった。
「うわ、なに……、お前。浬と同じクラスなの?」
「悪いかよ」
航は中学校最後の試合となった、夏の総合体育大会の市の個人戦と、県の個人戦の両方で、楓と当たっている。勝ったのは航だった。しかも航はあの時期、とてつもなく調子が良かったのだ。プライドの高そうな彼にまさか言えはしないが、楓は航の敵ではなかった。試合時間はわずか、一分足らずだった。
それを今も悔しく思っているせいなのかもしれない。楓は航に対してとにかく当たりが強かった。日々、なにげなく投げられる言葉もいちいトゲがある。今だってそうだ。それにはほとほとうんざりさせられていた。
「そっかぁ、楓は知り合いなんだもんね?」
暢気に明るい声を出した浬だったが、楓にキッと睨まれると、途端に眉尻を下げ、困ったように笑った。
「別にこんなの知り合いでもなんでもないし、同じ部活なだけ。浬! 早く部活行くぞ!」
楓は苛立って浬を急かし、腕時計などしていない左手首を、指でツンツン突いて見せている。しかし、彼の言動に驚いたことは言うまでもない。
「おい、ちょっと待てよ。小笠原は剣道部じゃないだろ?」
「うっせーな、浬はこれから入るんだよ」
楓は面倒くさそうにそう答えた。彼の口の悪さは相変わらずだったが、航はそれを気にも留めず、疑問を持つ。
「でも、中学ではやってなかったんだろ? なんでまた入ることにしたんだよ?」
「別にそんなの、お前に関係ねえじゃん」
「お前に訊いてるんじゃない。俺は小笠原に訊いたんだ」
航が浬に目をやる。すると、浬はやはり困ったように、だが、笑みを忘れずに作って頭を掻いた。
「あのね……、高校では部活、入ってみようかなって思って……。おれ、部活ってちゃんと入ったことないし、大学受験するときなんかもさ、役に立つかなぁ、とか――」
「そんなんで始めて、ついてこれるのか? うちの部、割と強豪だから稽古もきついし、楽しいばっかじゃないぞ」
航がそう言ったのを聞くと、楓はニヤリと口角を上げた。それから、まるで航を見下したように鼻で笑う。
「は……っ。お前は知らないだろうな。まぁまぁ、見てなって」
「ちょっと、楓……。なんでそう喧嘩腰なの。いい加減にしてよ……」
浬は困り顔でため息を吐いている。すると、それまで黙って聞いていた大地が口を開いた。
「ねぇ、ふたりはさ。中学の頃から一緒なの?」
その質問に真っ先に反応したのは楓だ。彼は、よくぞ聞いてくれた、と言わんばかりだった。
「オレとこいつは、赤ん坊の頃から一緒なんだ! 幼稚園、小、中、一緒で剣友会も一緒。切っても切れない兄弟みたいな感じなの。なー、浬!」
そう言って、楓は浬の後ろからぎゅっとその体を抱いている。
「へー、ラブラブなんだねぇ」
大地がそう言ったのはおそらくは冗談だった――と思う。しかし、ふたりは途端に真っ赤な顔をして体を離した。それが逆に不自然だった。
「ちっ、違うよ? 楓はただの幼馴染だからね!」
浬は慌てて否定した。それもなぜか、懸命に航の目をじっと見ているのだ。このふたり――特に浬は、冗談が通じないタイプなのかもしれない。大地はふたりを見て、けらけら笑っている。
「……わかってるって。今、大地が言ったのは冗談だよ」
「あ……」
「まぁ、まぁ、よろしく、ふたりとも! オレ、島津大地。オレと航も幼馴染なんだー!」
大地は急に目をキラキラさせ、満面の笑みでそう言った。楓は大地にペコッと頭を下げるだけして、浬の手を取る。
「浬、もう行こ。今日は早めに来いって先生に言われてたろ」
「あぁ、うん。じゃあ、おれは……そろそろ行くよ。あの、朝比奈くんと――」
「あー、ストップ。こいつは航でいいし、オレは大地でいいよ」
グッと親指を立てて言う大地に、浬は嬉しそうに笑みを綻ばせる。
「ありがとう……。それじゃあ、おれのことも良かったら下で呼んで。大地、また明日ね。えっと――、航はまた後で!」
浬はそう言って手を振ると、半ば楓に引きずられるようにして、教室を出て行った。航は無意識にその光景をぼーっと見つめていた。
「航? どうした?」
大地の声で、航はハッと我に返る。
「あ、いや。なんかあいつは、いい奴そうだなって思ってさ」
「そうね。あいつは、ね」
大地はそう言って、くす、と笑った。浬はあの性格のきつい楓の幼馴染とはとても思えないほど、毒のない少年だった。女子が顔負けするほどの綺麗な顔立ちと、優しそうな口調。それにあの柔らかな笑顔。どこを切り取っても彼の印象は実に好ましい。あのまま一時間でも話していれば、航は浬とすぐにでも仲良くなれる気がする。ただし、そこに楓が付いてくる、となるとそれは難しそうではある、とも思った。
「それにしても、この短時間でお友だちが一気に二人もゲットできるなんてオレらって優秀だよなー! このままいけば友だちご新規様百人もめじゃないぞ」
大地がにっ、と歯を見せた。一方で、航は苦笑するしかない。浬はともかくとして、楓とは当分お友だちになれそうにないからだ。
「お前は気楽だよなぁ……。俺は三年間、北条と一緒に稽古やるかと思うと今から萎えてくるよ」
航はそう言って、部活に行く準備を始めた。しかし、ふと思う。小笠原浬と同じ剣道部に所属し、仲良くなったとしたら、父である良治はどう思うのだろう。やはり「面白くない」と思うのだろうか。
父さん、機嫌悪くなりそうだな……。――いやいや、なんで俺がこんなことまで気にしなきゃならないんだ?
面倒な自分の家族を、ほとほと情けなく思う。なぜ、交友関係まで親の顔色を窺う必要があるのだろうか。それこそ、全く無駄なことではないか。
しかし、あの人間的な感情を表に出さない、まるでアンドロイドのような父親を、唯一感情的にさせるのが小笠原家だ。浬と友人だと言えば、彼の人間的な部分がまた少し見られるかもしれない。それにはちょっとだけ好奇心が湧く。ただし、高校に進学したばかりで面倒はごめんだ。
まぁ、いいか。とりあえず、父さんには秘密にしとけばいい。
「ふうん。でもさ、あいつあんなツンツンしてるくせに、カイちゃんにはべったりって感じだし、ちょっと冗談言ったら急に真っ赤になっちゃって、結構可愛いかったじゃん。うちのハリーにそっくり」
「そうか……?」
ハリー、というのは大地の家で飼っているハリネズミのことだ。去年の春、大地の母親が買い物ついでに突然買ってきたらしい。航は楓の顔を思い浮かべて、手の平サイズのハリーと比較してみる。
「いや。ハリーの方が絶対、可愛いと思う。……小さいし」
「……っ!」
ぼそりと呟いた途端、大地が噴き出した。目尻に涙を滲ませながら、げらげらと腹を抱えて笑って、彼は何度も頷いている。
「たしかに……! でもさ、からかい甲斐もありそうだし、面白そうじゃん」
「うーん……」
「オレは仲良くなってみたいけどなー」
「嘘だろ……。正気かよ?」
「正気、正気! ああいう奴ってさ、単純でわかりやすいと思うし、案外素直でイージーだったりすんだよ。ヤンキー気質っていうのかなぁー。頑固だけど、真っ直ぐで一途なの。絶対悪い奴じゃないって!」
引きつった笑みを浮かべ、かぶりを振った。あり得ない。単純でわかりやすいのは間違っていないと思うが、ちょっと攻撃的過ぎやしないだろうか。あんな一触即発人間のなにが好ましいと言うのだろう。
――だが。
「……どうでもいいけどお前、相変わらずの人間観察力だな」
「ミステリアスでカッコいいだろ?」
「……はいはい。さてと、俺もそろそろ部活行くわ。また明日な、大地」
「おう! ふたりによろしくなー!」
航は大地に手を振って教室を出る。長い廊下を歩き、角を曲がる。そこからすぐそばの階段を下り、足早に部室へ向かった。
……悪い奴じゃない、か。たしかに、今まで大地の分析が間違ってたことなんかないけど……。
それでも相手はあの一触即発人間だ。仲良くなるなんてとても考えられない。そう思い直して、航はかぶりを振った。ただし、このままチームメイトと三年間、毎日喧嘩腰というのも、非常に気が重い。高校へ入学したばかりだというのに、全く前途多難だ。
せめて大地が剣道部だったら、本当に助かったんだけどなぁ……。
航の幼馴染である大地は、実に様々な能力を持っている。運動は嫌いだと言いながら、体育の時間や球技大会には決まって誰もが目を瞠るほどの活躍を見せたり、マラソン大会では陸上部の生徒を抜いて入賞したり。さほど勉強をしなくても成績がそれなりに良かったり。初対面の人間とすぐに仲を深めることができるのも、彼の数ある能力の一部だ。しかし中でも、彼の人間観察力と分析力の高さはずば抜けていた。
――航! オレ、最後の自由研究は人間観察日記にする!
忘れもしない。小学六年生の夏、大地はワクワクした顔で航にそう言った。聞けば、数年前からそれをずっとやりたいと考えていたらしい。しかし、彼の家族を対象にしたその研究は、両親に猛反対されることとなった。結果、彼の計画していた『人間観察日記』は、『アリンコ観察日記』へと姿を変えることになったわけだが、そのクオリティの高さと視点の突飛さに、航は驚いたのを覚えている。彼はアリの巣を一つの会社組織として考え、やや擬人化して観察日記を付けていたのだ。その年、彼の自由研究は『自由研究コンクール』で最優秀賞を獲得した。
航は当時、一緒に育ってきたはずの幼馴染が、いつの間にか奇才と化していたことに戸惑った。人間観察が好きだと言う彼に、心の中を見透かされているように感じて怖くなったこともある。しかし、今ではそれにもすっかり慣れたし、そういう彼を、航はとても頼りにもしていた。
大地は航にとって、幼い頃から一緒にいる大切な幼馴染であり、親友だ。その大地が「楓は悪い奴じゃない」と言うのならそうなのかもしれないし、それを信じたいとも思う。しかし、航にとって楓は、歯をむき出して威嚇する番犬のようにしか見えない。可愛いとも、面白いとも思えなければ、とてもじゃないがいい奴だなんて思えなかった。ちなみにこの場合、飼い主は浬だ。航は、浬を守ろうとして吠えたてている番犬、楓の姿を頭の中に思い浮かべてみる。途端に、はあっとため息が出ていった。
んだよ……。あいつが犬なら、俺は猿か?
犬猿の仲、とはこういうことを言うのだろうか。チームメイトだというのに、これではまるで宿敵のようだ。再び重いため息が出て、静かな廊下に響く。すると、その時だった――。
「よう!」
背後で突然、声がした。航は思わず反射的に肩をビクッと震わせたが、聞き慣れた声だと気付き、すぐに振り返った。
「は……、羽柴先輩!」
「おう! なーんか辛気臭い奴がいると思ったら……。航だったか!」
そこに立っていたのは、羽柴洋輝。彼は、航よりも一つ年上の先輩で、航と同じ中学校の出身であり、剣道部にも所属していた。もちろん、この船戸高校でも、彼は剣道部で日々稽古を積んでいる。航にとって羽柴は、毎日一緒に汗を流しながら稽古をする仲間であり、その背中を追いかけてきた憧れの存在でもあった。
常に周りを気遣い、自分のことは後回しにしながら、みんなをまとめる力に長けている羽柴は、航をとても可愛がってくれている。中学校最後の公式戦でも、羽柴は自分の部活動が終わったその足で、航の応援に駆けつけてくれた。
「辛気臭くて、すみません……」
「なんだ、らしくないな。入学早々、悩みごとかよ?」
くすくす笑いながら、羽柴が言った。
「いや、なにかあったってほどのことじゃないんですけどね……」
「そうなの?」
楓との喧嘩や言い合いは、今や日常でもある。それがあるたびに、誰かに相談していたのではキリがない。ましてや、愚痴を零したところで解決するようなことでもなかった。
「はい……。羽柴先輩はこれから部室行くんですか?」
「そうなんだけど、織田先生に呼ばれててさ。先に教官室行くとこ。お前は? これから部室?」
「はい」
「じゃ、一緒に行こうか」
そう言うと、羽柴は航の肩をポンと叩いて、背中を軽く押した。我が市立船戸高校の剣道場は、体育館の真下にある。その隣が体育教官室だ。主に、運動部の顧問教師は体育教官室にいる場合が多かった。
今、羽柴が言った、織田先生というのは、剣道部顧問の織田壮一のことである。普段は優しい社会科の教師だが、部活となると途端に彼は熱くなる。生徒を叱るときには鬼のような形相になることから、『鬼人の織田』と揶揄されることも多かった。羽柴に促されるようにして歩きながら、航は訊く。
「そういや先輩、今日から新しい部員入るって聞いてます?」
「あぁ、聞いてるよ。あの小笠原一家の末っ子だろ? なんだっけ、名前……」
「浬。小笠原浬です」
「そう、そう。そうだった。航、よく知ってるね」
「俺、同じクラスなんですよ」
「へぇ、そうか。やっぱり剣道は抜群にうまいんだろうなぁ」
「でしょうね」
なんと言っても、あの、小笠原一家なのだ。うまい、というか強いに決まっている。打ち方だってきっと癖もなく、綺麗なのだろうな、と航は想像した。父親が道場の先生で、剣友会の会長。そんな家庭環境で幼い頃から竹刀を握らされ、稽古を積み重ねていれば当然だ。
「負けんなよ、航」
不意に羽柴がそう言って、航の肩をグッと掴む。航は苦笑いをして見せた。
「いやいや……。ちっちゃい頃から剣道やってる奴には敵いませんって。俺は中学からしかやってないし」
「なに言ってんだよ。おれだってちっちゃい頃から剣道やってんだぞ。なのに、お前と稽古してて打たれることだってあるだろ。お前は運動神経もいいし、打ち方も変な癖がなくて真っすぐだ。スピードだって、瞬発力だってほかの奴に全然負けてない」
「そう、なんですか……?」
「面付け始めたときから見てきて、一緒に稽古してきたおれが言ってんだぞ。お前は筋もいいし、強いんだ。ちゃんと自信持てよ」
羽柴は、いつもそうやって航に勇気をくれる。お前は強い、大丈夫だと、そう言ってくれる。その言葉がどれほど真実なのかはわからなくても、彼のくれる言葉は嬉しいものだった。
「ありがとうございます……」
「航の強さはみんなが知ってるし、織田先生だって一目置いてる。――いいか。あの北条だって、お前が強いから嫉妬して、ぶつかってくるんだからな」
「え――?」
「おれが気付いてないとでも思ったか?」
そうか……。羽柴先輩は、北条が俺にだけ突っかかってくること、気付いてたんだ……。
航はその事を、部内の誰にも話したことはなかった。いちいち突っかかってくる楓との言い合いは毎日絶えないし、攻撃的な性格は苦手ではある。しかし、航は楓が嫌いなわけではない。
また、同じ部内で誰かを嫌がり、悪く言えば、チームの雰囲気は悪くなり、絶対にまとまらない。航はそうなることだけは避けたくて、信頼する羽柴にも、楓と折り合いが悪いことは黙っていたのだ。
「まぁ――、あいつもさ、お前のことが嫌いとかそういうわけじゃないから。悔しい気持ちをぶつける所がないんだよ。今は腹立つこともあるかもしれないけど、とりあえず多めに見てやれ」
羽柴のくれた言葉に、航は一瞬で救われた。楓との問題が直接的に解決したわけではないが、それによって悶々としていた気持ちがほぐれていく感覚が確かにあったのだ。もしかすると、航の不安はとうに、彼に見抜かれていたのかもしれない。さすがは羽柴だ。
「……すごいですよね、先輩って。ほんとよく見てる」
「えっ?」
「みんなのことですよ。俺のこともだけど、みんなのこと、本当にいつもよく見てるんだなぁって」
「すごくなんかないよ。まぁ、なんというか――、そういう性分なだけ」
「でも、俺は救われてる部分デカいです。先輩追いかけて、船高来て、よかったです」
航がそう言うと、羽柴はたちまち頬を赤らめた。
「あのなぁ……、急にそんなに褒めても、なにも出ないからな」
「俺は本当のこと言ってるだけですって。羽柴先輩のみんなを気遣うところ、本当に尊敬してるんで!」
「航……。お前って奴はぁ……っ!」
そう言うなり、航は羽柴に背後から抱きしめられる。自分よりも少し高い背と、たくましい体格を持った羽柴だ。航はまるでプロレス技をかけられたように呼吸できなくなった。とてつもなく、強い力だ。
「ちょっ……、先輩、苦しいですって……!」
「悪い、悪い! だってお前が褒めちぎるから」
「俺は先輩の真似して、ほんとのこと言っただけですよ」
ふたりでけらけら笑いながら渡り廊下を歩く。だが、その先で航は足を止めた。ちょうど、胴着と袴姿に着替えた浬と楓が立っていて、こちらを見ていたのだ。
「あ――、浬!」
「航……」
「もう着替えたんだ? 早いな」
藍色の胴着と袴に身を包み、竹刀と手ぬぐいを持つその姿はどこからどう見ても経験者だった。その着こなしを見れば、浬がどれほど稽古を積んできたかは、だいたいわかってしまう。胴着は色褪せていて使い込まれている風合いが出ているものの、それを長く、大切に使っているのだということは一目瞭然で、袴にもきちんと折り目がついている。それは普段、丁寧且つ、正しい畳み方で仕舞われている証拠だ。
一方で浬の隣では、楓が不機嫌そうな顔を見せていた。もちろん、航に対して彼はあいさつもない。ただ今、向けられているのは、睨んでいると言ってもいいほどの、鋭い眼差しだけだ。
いや、俺、お前になにもしてないんだけど……。っていうか先輩にあいさつしろよ。失礼な奴だな。
なにやら今日は、普段よりも増して楓の機嫌が悪そうだが、理由はわからない。もしかしたら、たった今、航を視界に入れただけで、彼は不機嫌になったのかもしれなかった。その隣で、浬がぺこり、と頭を下げる。
「ハシバ先輩、こ、こんにちは。はじめまして……」
それには驚きを隠せなかった。航は思わず「えっ」と声を上げて、隣にいる羽柴を見た。羽柴もまた、きょとんとして、これはどういうことか、と言わんばかりに航を見つめる。
「えっと……、ハ、ハシバ先輩ですよね……?」
「そうです。どうも、はじめまして」
「浬……? 羽柴先輩のこと知ってんの?」
航がそう言うなり、浬は頬を真っ赤に染めてかぶりを振った。浬は今日、ここへは初めて来たはずだ。それなのに、羽柴が名乗り出る前に彼は羽柴の名前を呼んだ。妙だ。
「あっ、いや、あの……! 前に、大会で見かけたことがあるんです! 顔と、名前だけは覚えてました……」
「へぇ、そうなんだ。それは光栄だなぁ」
羽柴はそう言って照れくさそうに笑った。航も「なるほど」と納得する。すると、浬はすうっと息を吸い込んで、姿勢を正した。
「先輩! おれ、今日から剣道部に入部することになりました! 小笠原浬です! よろしくお願いします!」
張りのある声でそう言って、浬は頭を下げた。礼儀正しいことだ。さすがは剣友会会長の息子、と航は思わざるを得なかった。
剣道は武道であり、礼に始まり、礼に終わるスポーツである。それゆえ、部活動でも道場でも、竹刀を握る前から生徒たちは『礼儀』というものを徹底的に叩き込まれる。ほかのスポーツと少し違うのは、相手に勝っても負けても、礼儀を重んじる姿勢を示すため、「打たせていただいた」「打っていただいた」という気持ちでいなければいけない、と教えられることだろうか。
たとえば、一本を取ったときのガッツポーズは剣道では禁止されているし、過度な応援も厳重注意をされる場合がある。剣道とはそれほど、礼儀を重んじるスポーツなのだ。
しかし、浬があまりにいつまでも頭を下げているので、航の隣で、羽柴はくすくす笑っていた。
「羽柴洋輝です。さすが、礼儀正しいんだね。ほら、もう頭上げて」
すると、浬は航と羽柴を交互に見た。頬がまた真っ赤に染まっている。色が白い分、彼は赤くなると実にわかりやすい。
「羽柴先輩は、航と、仲がいいんですね……」
「えっ?」
「さっきすごく仲良さそうにしてたんで……。ふたりは、仲良しなんだなぁって、思って……」
「あぁ、航とおれは中学が同じだからね」
羽柴のその返事に付け足すようにして、航もまたその後に続いた。
「先輩にはずっと世話になってるんだよ。この人がいるから、俺はこの学校来たようなもんでさ」
「あ……、そうなんだ……」
浬はそう答えると、すぐに笑みを見せた。
「う、羨ましいなぁ、仲良くって! それじゃ、今日からよろしくお願いします――」
そう言うなり、浬はくるりと背を向けて、道場の方へ歩いて行ってしまった。楓は仏頂面のまま、最後まで航に睨みをきかせて浬の後を追う。残された航と羽柴は互いに顔を見合わせた。
「羨ましいってさ、航」
「はぁ……」
「素直で可愛い奴だな」
ふふ、と羽柴が言う。彼はちょっと嬉しそうだ。しかし、航は首を傾げた。
「先輩。俺、今、なんかまずいこと言いましたかね……?」
「まずいこと? 別にそうは感じなかったけど、おれは。なんで?」
「いや……、なんとなく……?」
気のせいかな……。浬、すっげえしょぼくれてたような気がする。
『あ……、そうなんだ……』と言ったあの瞬間。浬がどこか落胆したように航の目には見えたし、見せた笑みは力なく見えた。それが気のせいでなければ、おそらく航がなにか気に障ることを言ってしまったのかもしれないが、それには見当もつかなかった。
「気のせいだろ。じゃあ、おれは教官室先に行ってから部室行くから。いつまでもそんなとこに突っ立ってないで、お前も早く着替えて道場行けよ」
「あっ、はい……!」
羽柴にポン、と肩を叩かれる。ハッと我に返り、航は部室へ駆け込んだ。だが、それからしばらくの間、浬のどこか浮かない表情は航の頭から離れなかった。
「一年、小笠原浬です! 南部剣友会出身です! よろしくお願いします!」
その日の稽古は、浬の自己紹介からはじまった。やや緊張気味ではあったようだが、浬はやはり深々と頭を下げて、しっかりした口調で名前と、所属している道場名を名乗っていた。その後、一同は普段の開始時間よりも少し遅れて準備体操をした後、素振りに入った。
「正面素振り、三十本、はじめ!」
「はい!」
航は隣にいる浬にちらっと目をやった。浬の身に着けている防具はおそらくかなり良質なものだ。剣道の防具というものは、ピンからキリまで様々だが、それが高級品であることは間違いなかった。左胸に白い家紋が入れられているところを見る限り、値段は相当するはずだ。しかも、それも胴着と同じようにやや色褪せていて、使い込まれた感じがありありと見て取れる。いかにも稽古を多く積んだ剣士の姿だった。
「一! 二! 三! 四――」
また、素振りにしても彼は同じことが言えた。竹刀を振りかぶってから下ろし、目の前でピタッと止める動作や足さばきには、変な癖や無駄が一つもない。気合いの声も出し慣れているようだ。浬の声は少しかすれていて高めだが、実によく通る、いい声だった。
剣道では気合の掛け声を出すことが多いが、その出し方や声質は人それぞれであり、多様だった。そこに決まりがない分、剣士の数だけ掛け声の種類がある、といっても過言ではない。中には低い声を出す者もいるし、裏声を使ってやたらと甲高い声を出す者もいる。だが、浬の声は強さや迫力を感じる上に、耳障りなわけでは決してなく、よく通って響いていた。きっと、その場にいた誰もが同じことを思っていたに違いない。
その後、素振りが終わると、各自面を付けて基礎打ちの稽古が始まる。航は浬とペアを組むことになったが、浬はやはり航の――いや、みんなの期待を裏切らなかった。
「切り返し!」
「はい!」
まずは部長の一声で、全員が『切り返し』と呼ばれる稽古法を始める。それは基礎稽古の中の基礎稽古だ。構え、打ち、足さばき、間合いの取り方、呼吸法など、剣道に於いて重要な要素が、それには詰め込まれている。たいてい、どこの道場や部活動でも、この『切り返し』という稽古を一番最初に行うことが多い。航は浬が打ち込んでくるのをしっかりと受け止めながら、感心していた。
打突がしっかりしてる。ちゃんと重みがある――。
一本、一本の打突は強く、全くと言っていいほどその打ち方には癖がない。もちろん、無駄もない。足さばきだって完璧だ。技を打つスピードは速く、また打突は強く、その後の残心と呼ばれる、打った後の姿勢もまた美しかった。
すごいな……。浬は背はそんなに高くないし、体だってそんなにがっしりしてるわけじゃなさそうなのに。全然小さく見えない。というか、なんなんだ……。この威圧感は……。
浬の背は、おそらく百六十後半くらいだろう。少なくとも百七十はないはずだ。たしか身長は、大地が百七十ちょうどだと思ったが、浬は大地よりも背が低い。また、その体つきは決してひ弱ではなく、筋肉質ではあるものの、剣道部の男子の中では極めて細い方だった。それなのに、航は浬と対峙した途端に、その体中から溢れ出るような気迫を感じた。それは大会でもなかなか感じることのない、真に実力のある剣士のみから感じるものだった。
こいつは本物だ……。浬は部活に入っていなくても、ちゃんと稽古を積んできたんだ……。
まさに一目瞭然。楓が言った通りだった。ほんの数分見ただけで、航にはそれがわかってしまったのだ。
船戸高剣道部員としての、浬の基礎打ちの一本目。その相手をできたことを、航はこの時、とても嬉しく思った。
「おいっ……」
「ひぃ……っ!」
稽古が終わって面を外した時、航は隣で同じく面を外す浬の腕を思わず掴んだ。しつこいようだが、筋肉は付いていても、彼は細身ではあるし、小柄だ。この体のどこにあれだけ重みのある打突を生む力があるのか。航はそれが不思議で仕方なかった。
あの打突を……、こんな腕で……?
だが、これは航の悪い癖なのかもしれない。またなにも声をかけずに突然そんな行動を取ったものだから、浬は体中をビクッと震わせ、気の抜けた声を出した。
「あっ、悪い……。つい……」
「びっくりしたぁ……。どうしたの、いきなり」
「いや。腕がさ……、実はすっげえマッチョで硬いのかと思って」
「マッチョ……?」
浬はきょとん、として首を傾げている。
「だってお前、打突強いし、スピードもあるしさ。細く見えるのにすげえなって思って」
「そ、そうかなぁ。ありがとう……」
浬はたちまち恥ずかしそうな顔を見せて笑う。それから、すぐに続けて言った。
「航もさ……、すごく綺麗な剣道だよね。航は背も高いし、飛んで頭の上にズシンッて乗っかって来るみたいなあの面、本当にすごい」
「面、かぁ。俺はただ、そこそこの背丈があるってだけだよ」
「ううん、そんなことないよ! あのとき、航は飛んでるみたいだもん。本当に……」
「いや、それ言ったらお前だってさ――」
そこまで言いかけて、ハッとする。思わず口を噤んだ。なんだ、これは。ふたりでこうして褒め合っているのが妙に小恥ずかしい。いや、それに悪い気はしないのだが、くすぐったいようでもあり、照れくさいようでもあり、恥ずかしいようでもある。航はひとまず照れ隠しをするのに、あさっての方向を向いて、頭を掻いた。
「すげえ……、瞬発力ある打ち方、してるよ……」
「あ、ありがとう……」
見れば、浬もまた、同じことを感じているのかもしれない。彼は真っ赤な顔で頬を掻きながら、口元を緩ませている。だが、ふと。その頭を見て、航は思わず噴き出した。手ぬぐいを取った頭はくしゃくしゃで、ただでさえ癖毛なのに、今はひどい寝ぐせのようになっている。
「ははっ……。なんか浬の髪、すげえことになってんぞ」
笑いながら航が言うと、途端に浬はあたふたし始めて、後頭部や頭のてっぺんを手ぐしで直し始めた。
「あ……! お、おれ天パだからな……。この辺? こっち?」
「そっちじゃなくて、ほら。ちょうどここの――」
そう言って、汗で額に張り付いているカールした前髪を触ろうとした、その時だった。
「おい、気安く触んな」
低い声がした。目を向けると、同時に航をきつく睨みつける楓の目と視線がぶつかる。航は眉をしかめた。
「なんでお前にそんなこと言われなくちゃなんないんだ」
「……うるせえ。とにかく触るな。顔洗いに行くぞ、浬」
「わ……っ、ちょっと待っ……、楓!」
楓はあっという間に浬を連れて行ってしまった。ふたりを見送って、航はため息を吐く。なんだってああもつらく当たられなければならないのだろう。以前は確かに、ライバル校の面白くない存在だったかもしれない。航だってそれは否定しない。けれど、今は同じチームメイトではないか。
「なんだってんだよ、北条のやつ……」
重いため息を吐きながら防具を外して、片付ける。すると、羽柴が声をかけてきた。
「北条は今日も相変わらずか」
「先輩……」
「つらいと思うけど、今は辛抱しろ。同じチームメイトの中でギスギスして、ストレス感じるのはきっとあいつも同じはずだから」
「はい……」
「それに、チームがバラバラなうちは強くなっても限界がある。おれもそのうち話をしてみるけど、お前も歩み寄ってやってくれな」
羽柴はそう言うと、航の耳元でこそっと言った。
「悪いな、航。あいつ、お子ちゃまだからさ。ちょっとだけ……、大人になってやって」
その声が耳元に触れるように響いて、航は思わず耳を手でふさいだ。
「ちょ……っ、くすぐったいっす……!」
「そっか?」
けらけら笑いながら、羽柴は航の肩をポンと叩く。航はふっ、と笑みを零し、羽柴の背中を追った。だが、道場の入り口でじっとこちらを見つめる目があることに気付き、航は足を止める。そこに立っているのは、浬だ。
「……あれ。どうした? 浬」
「あ、あの、さっきはごめん。楓、航にひどいことばっか言って……」
「あぁ、いいよ。今に始まったことじゃないから。あいつ、春休みからずっとああなんだ」
苦笑いをして、頭を掻いた。航はどうすれば楓とうまくやれるのかさっぱりわからないし、彼を理解することも難しかった。しかし、今は羽柴の言う通り、感情的になっても仕方がない。おそらくこの問題は今後、航の一番の課題になりそうだった。
「楓のことは、おれがよく叱っとくから! あのさ、航。今日、一緒に帰らない?」
「俺はいいけど……、北条が嫌がるんじゃないか?」
「大丈夫――! だって、そんなのは楓のわがままだし、それにおれだって、航ともっと話したいよ……!」
浬の言葉も表情もあまりに必死なので、航は思わず噴き出してしまった。
「なんかおれ、変だった……?」
「いやいや……! ……そうだな、方向も途中まで一緒だし、三人で一緒に帰るか」
「やったぁ!」
満面な笑みで喜んだ浬を見て、「大げさだな」と航は笑う。すると、浬も照れたようにまた笑った。
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いなば海羽丸