第一話 「孤独の翼」 ~牧草畑でつかまえて~
この地方では、男は空を飛ぶことに魅入られる。
具体的にどのくらいかって?
女と交わるよりも飛ぶことを選ぶ、……それくらいだ。
後ろから煽ってくる車がいる、最近耳にするようになった荒っぽい運転をする奴だ。
偶然だが僕もこの男の噂を知っている。
まともに仕事にも着かず、飛ぶこともできずに、車を走らせては周りを煽り散らす、そんなことで日々を紛らせている、哀れな男だ。
ぴたりと自分の車の後ろに付かれる、だが慌てない。
僕は緩やかに加速しながらエレベータを調整する。
速度だけなら向こうが上だろう、だがそれだけだ。
カーブを抜け直線で追い越しにかかろうとしている、だが僕は付き合わない。
身体に浮遊感を感じる、……風に乗った。
軽くハンドルを引く、当然ながら車のハンドルは前後には動かない。操縦桿のイメージで意思を伝える。すると、……ふわりと車体は浮き上がる。
奴の驚いた顔が見える。
僕はそのまま力強く飛び立つ。
ぐんぐん上昇する、村の景色が眼下に広がる、高度は300ftくらいか。
翼も計器もない、ただの車を技術と意思だけで「飛ばして」いる、僕にはそれができる。
空を飛ぶことで気持ちが晴れ、高揚感を感じる。
だけど──、こうじゃない。
速度が速い…、これくらい速くないと揚力が出ない。だが、それでも無理矢理飛ばしている。
飛ぶことは気持ちがいい、身体に掛かる旋回荷重が心地よい。
だけど、……こういうんじゃない。
もともと僕は、速いのも高いのも苦手だった。いや、今だって苦手なはずだ。
だけど飛ぶことをやめられない、飛ことは恐怖だが同時に快感だ。気持ち良さが勝るのだ。
そしていつの頃からか、恐怖のことは忘れてしまった。
魅入られている──
つまりそういうことだ。
速度も高度も苦手な僕が、どういうわけか他の男より飛ぶことに優れていた。
まるで、お話の中の英雄のように。
だが僕はそんな男ではない。飛ぶこと以外は平凡で人付き合いが大の苦手だ。
せいぜい、便利で器用な奴、くらいのものだ。
だがそれでいい、役に立てる場所があるなら、僕はそこで生きていける。
空が飛べるなら、他に欲しいものはそれほどなかった。
昨日で仕事も終わり、早朝に出発して出張先から地元へ帰ってきたところだ。
陽の位置が頂点から少し傾いたくらい、そんな時間だ。家に入るにはまだまだ早いが、さりとてなにかをするには時間が足りないし段取りもできていない。
しょうがないので、少し遠回りしつつ分団の屯所に寄って飛行舟に乗って時間を過ごそうか。そう考えて、我が村に差し掛かったところで、さっきの奴に絡まれた。
仕事の疲れと、地元に戻ってきた安心感と、間の悪い遭遇と、そんなあれこれと絡まった気持ちを吹き飛ばしたい気持ちで、衝動的に「飛ばし」てしまった。
あまりいい振る舞いではない、さっきの奴と同次元になってしまったような後悔が、飛んでいるのに気分を重くする。
高度をさげて、森の木の梢のすれすれを飛ぶ。
このくらいの高度でゆっくり飛ぶのがいいのだが、あいにく今は翼のない車だ。速度を落としたらたちまち揚力を失う。
思わずため息をつく。
森をひとつ飛び越えてしまったため、適当に考えていた帰宅ルートがさらにめちゃくちゃになってしまった。村内でもあまり足を運ばない方向に来てしまったのだ。
どこか降りられるところを探さなければ……
──ぐらり
そう思った矢先、車が意思を離れて高度を下げ始める。
これは、まずい…!
道路はあるが道幅が狭い上に対向車がいる、すぐ脇の牧草地に下ろすしかない、幸い地形は平坦だ。
ハンドルに意思の力を送り車の隅々まで行き渡らせる。弱々しいが、手応えがある。
車の着陸姿勢を整えゆっくり高度を下ろそうとする。牧草地の端に農機搬入用の砂利道が見える。うまくそこまで届けばそのまま走行して帰れる。そう思った──、だが速さが足りなかったようだ。予想したよりも早く接地してしまい、そのまま、……がたがたと短く滑走した後、車は止まってしまった。幸い車にダメージはなさそうだ。草に車輪を取られなければこのまま走れるかも知れない。
周りを見回し現在地を頭の中で割り出す。大体の場所はわかっているが、問題はこの牧草地だ。私有地ならば少々面倒だ。
農業者以外には牧草地などは空き地くらいの感覚でしかないだろうが、牧草は作物、牧草地は農地、どちらも立派な財産だ。無断で立ち入ったり傷めたりしていいものではない。
下手に自分で車を動かすより、事情を話して牽引してもらった方が地主とのトラブルが少ないだろう。そう思ったが、気付くと車の火が落ちている。起動スイッチを押してみると、エラー警告ランプが点っている。
なんのことはない燃料切れだったようだ……。飛んでる最中にガス欠を起こしていたのだ。飛行舟乗りにあるまじき失態である。翼のあるものならそれでも飛ばせるのだが、ガス欠の車が相手ではさすがの「飛ばし屋」でもどうにもならない。
さて、歩いて帰るか、助けを呼ぶか。いずれにしてもあまりいい状況ではない。
幸いなのは、今日これからの予定が全く無いことだ、時間はある。
だが、車を降りようとすると強烈な目眩のようなふらつきと倦怠感が襲う。仕事帰りで疲れているところに「飛ばし」を使ったために身体が悲鳴を上げているのだ。
考えてみたら出張先でも大いに飛ばした、飛ばしまくったと言っていい。それが仕事だったから。この類の疲れは、自覚もないまま蓄積するので気付いたときには動けなくなっていることもある。
困った、しばらく横になっていればいくらか回復するだろうか。
座席を倒し、目を閉じる。
深く息を吐いて、心を落ち着ける。
今日中に家に帰ることができれば、御の字だな。そう思って、僕はゆっくり目を開ける。すると、フロントガラス越しにこちらを覗き込む顔がある。
──若い人妻だ、上品な顔立ち、柔らかな線の身体。
大丈夫?と表情だけで聞いてくる。
あまり大丈夫ではないかもしれないが、大騒ぎするほどでもない。しかし、こんな牧草地に車を落としておいて、大丈夫というわけにもいかないだろう。
くるくると手動の窓ハンドルを回し窓を開け、すみません、……と言おうとしたところで先に人妻の方から声をかけられた。
「動けないんでしょう?」
ああ、はい、…ガス欠で。
そうと言うと、人妻はふふっと笑って。
「ううん、あなたの方。」
……?不思議に思い、改めて人妻の顔を見る。
瞳の奥の深いところから、なにかを感じる、温かく柔らかいものだ。
人妻は窓から手を差し込み僕の手を握る。
「……あぁ、ほらやっぱり…。思ったよりずっと足りないわ。」
ああ…、そうか。
この人は「癒し手」なのか。