第一話 死亡保険
読もうと思って下さり、ありがとうございます。
ある心地良い雨上がりの朝。爽快に晴れ渡った空とは違い、道は泥のせいで足を取られ思うように動けない。しかし、そんな道を気にしてられないといった様子で、風のように駆ける馬が一頭。
「それは誠か!」
その馬が止まったのはジェアル伯爵家の屋敷。そして、伝えられた情報に思わず立ち上がる男がいた。赤みがかった茶髪を短く切り揃え、青く澄んだ目。眼鏡の奥には、いつも人の機嫌を伺うような臆病さが見え隠れしている。その男はジェアル侯爵家当主、ギネア・ジェアル。
「は、確かにそのように聞いております」
「ふふふ……そうか、そうか。あの小娘が死んだか。天は私に味方をすると」
思わず心からの笑みが漏れる。もし、この空間にこの家の者で無い者がいたら決して笑ったりはしない。しかし今は自分と、自分の部下しかいない。そんな状況でこの感情を抑えられる訳が無かった。
「ああ、可哀想に!」
それを言い終わると、声を上げて笑う。愉快この上無いという程に。
「その情報を中立派の者共に知らせてこい。尻尾を降ってこちらに降りるだろう。それからあの小僧にもな。きちんと伝えてやれよ?『ウェルリンテ・スクルビアは崖から落ちて無様にも死にました』とな」
「承知しました」
部下はそっと出ていく。興奮が冷めぬまましばらく呆けていると、ドタドタと走る音がして勢い良く扉が開いた。
「お父様。あの女が死んだとは本当ですか!」
入ってきたのはギネアの娘、ミル・ジェアル。父ギネアと同じく赤みがかった茶髪に、青く澄んだ目。豊満な胸とどこか子供らしさの残るその顔に、男なら守ってやりたい思ってしまう。
「確かな情報だそうだ。視察からの帰り、何者かに襲撃され逃げる途中馬車ごと崖から落下。死体は原型を留めて無い。」
それを聞いたミルは満足するような、初々しく恥じらいを残すような顔をしてからこう言った。
「いつも傲慢で尊大な態度に天罰が下ったのです。それよりもお父様。あの女が死んだということはつまり……」
「ああ、スクルビア家の財産と地位は全て私達の物になる。勿論、殿下との婚約もお前に取り付けよう」
「やった。お父様、大好き!」
ミルの顔は、今度は恋する乙女のような恍惚とした表情になる。うっかり、これが誰かの不幸の上で成り立っているのだと忘れそうになるほど。
「あなた、ウェルリンテが死んだそうよ……って、もうその話をしていたのね」
再び扉が開き、背の高い女性が入ってきた。赤い髪を腰辺りまで伸ばし、手には何本もの指輪。ドレスには大小様々な宝石が散りばめられ、装飾品に見るからにお金をかけている。ギネアの妻であるカルレイ・ジェアル。
「今日はやけに明るい声だな」
声が明るい理由なんて目に見えて分かっていたが、ギネアはあえてカルレイに聞く。カルレイと言うと、悪戯がバレた子供のようなお茶目な顔をした。
「もう、あなただって分かっているでしょ?スクルビアの財産が私達の物になるのよ!そうすれば今までの借金だって全部消えるし、私だって我慢していた宝石を買えるのよ。最初にあの宝石を買って、それから新作のドレスを……」
「お母様の宝石の話は一旦よしておきましょう。日が暮れてしまいますわ」
「それもそうだな」
「もう、ミルだけでなくあなたまで」
一同、和やかに談笑を続ける。まるで、届いた知らせは誰かのおめでたい知らせであったかのように。自分達の親戚が死ぬという普通なら哀しむべき知らせであったなど微塵も感じさせない。
彼らの心の中は、勝利への確信しか無かった。
◆ ◆ ◆ ◆
「アルトノーベル、貴方が最後ですね。はい、これが退職金と紹介状です。これさえあれば大体どこでも置いてくれますからね、働き口には困らないと思いますよ。では、今までありがとうございました」
スクルビア家の屋敷の中。普段なら聞こえてくる使用人達の活発で元気な声はどこにもなく、今は侍女長レイラと執事のアルトノーベルしかいない。そして、レイラからアルトノーベルに金貨30枚と紹介状が渡されたことは、遂に明日からはレイラしかこの屋敷にいないことを意味する。
「侍女長。先代からお使えしてきたのはもう、貴女と私だけです。ですから、お嬢様のことは良く存じております。」
今まで厳しく前を見据え、決して言葉を発そうとしなかったアルトノーベルが遂に声を出す。ゆっくりと、言葉を選ぶような感じで。うっかり感情が爆発しないように。しかし、その声は既に泣き出す寸前だった。
「だから、だから……これはあんまりじゃないですか!ご両親が亡くなられた時も、他の貴族共にこの家を奪われそうになった時も、懸命に頑張ったお嬢様がっ……どうして、あんな薄汚い連中共にっ」
アルトノーベルは思わず紹介状をギュッと握りしめた。普通の人からすれば、スクルビア家からの紹介状というのは千金に値する価値のあるもの。しかし、アルトノーベルにとっては考えるに値しない程どうでも良いものであり、レイラもそれは分かっていた。
アルトノーベルはひとしきりその場で泣いた後、最後になるであろうレイラとの会話を惜しむようにしながら言った。
「侍女長はこの後どうする予定ですか?どこかの貴族にまた仕えたりするのですか?」
「今後の予定……ですか。他の者達のことで一杯で全然自分のことは考えていませんでした。そうですね、旅にでも出ましょうか。この国にいると辛いことを思い出してしまうかもしれませんしね」
「そう……ですか」
「まあ、ひとまずこの屋敷が他の誰かの物になるまではずっとここにいます。私の役目はスクルビア家に仕えることですから。埃一つ落としません」
そう笑いかけるものの、誰しもが無理して作った笑いであることは見て取れた。ただ、最もウェルリンテを愛していたのはレイラだということを考えると無理は無かった。
「では、本当に今までありがとうございました。ここで仕えていたことは一生涯忘れません」
屋敷の扉を開けながらアルトノーベルがそう言って深々と御辞儀をする。
「来世でも忘れないで下さいね」
最後の最後で、レイラは泣かないようにわざと冗談を言う。そのかいあってか、静かに閉められたその扉に涙が落ちることは無かった。
「ふー、ではやりますか」
誰もいなくなりガランとしたこの屋敷の中、レイラは箒を手に取り1人で掃除をする。話し相手が誰もおらず、掃除は体が勝手に覚えているので考え事をする余裕はあった。そして、考えることなど、1つしか無かった。
勿論、彼女の主であるウェルリンテ・スクルビアのこと。
ウェルリンテ・スクルビア。この名を知らない者は貴族ではいないと言っても過言では無い。それは『天才』という名をつけてもなお、言い表せない程の頭の良さから。
スクルビア家は由緒ある公爵家。代々スクルビア家の当主達は、民のことを考えてくれる名君が多い。そして、前当主であり、ウェルリンテの父親レスティア・スクルビアも同じく名君と呼ばれていた。
しかしある日街の視察の帰り、馬の暴走により馬車は横転。結果、夫婦どちらも死んでしまう。それを聞いた時点での貴族達の感想は「遂にスクルビア家も終わるのか」というもの。
その時にスクルビア家には男児がおらず、子供はウェルリンテ・スクルビアのみ。そんな1人の令嬢が家など守れるわけが無い。どこかの分家がいずれ乗っ取るであろう、と。そう思われていた。
『この家は、私が命に代えても守ります』
様々な貴族が、スクルビア家の財産をどうにかして少しでも貰おうと屋敷に押しかけた時にウェルリンテが放った言葉。当時10歳のウェルリンテ。普通そんな子供が『命に代えても』という言葉を言ったとて、社会を知らない小娘が、など鼻で笑われるのが関の山である。
しかし、その10歳の少女というか細い体の上にのしかかる重圧を感じさせず、更には何もかも射抜いてしまうような鋭い眼光を持ったその瞳に、そこにいた大人達は一様に黙ってしまった。
そして、ウェルリンテは実際にそれをやってのける。この国の法律で25歳になるまでは家の当主となることは出来ない。故に当主不在のまま、たった1人の令嬢が家を守り続けた。
治水事業や農地改革。様々な革新的なアイデアと行動力から、スクルビア家は衰えるどころか発展する。それを評価され、第一王子の婚約者となったのが3年前。ウェルリンテ自ら選んだ養子を分家からとることで、スクルビア家自体も安定となり、全てが順風満帆に進んで行っている筈だった。
『ウェルリンテ・スクルビア。レイティナ地方からの視察の帰り、何者かに襲撃され逃げる途中に崖から落ちて死亡』
レイラは自分の服のポケットから取り出したその便箋をじっと見る。掃除をサボったことなど一度も無かったレイラだが、今は手を止められずにはいられなかった。
ここの所は忙しいせいで忘れていた感情が、この静かな空間のせいで思い出された。
「お嬢……様」
先代が死んだ時から、自分の命よりもスクルビア家を。そのスクルビア家よりもウェルリンテのことを第一に考えてきた。そんなレイラにとって、この訃報は何もかも奪っていくような気がしたのだ。死ぬことすら面倒だと感じる程。
ゴン、ゴン、ゴン
玄関の扉を叩く音が不意に聞こえ、レイラは我に返る。慌てて涙を拭き、箒を拾い上げて玄関に向かう。多分、アルトノーベルが忘れ物を取りに来たのであろう、と。
「早いお帰りですね」
レイラは涙を誤魔化そうと、明るい声を上げながらその来客を出迎えた。
「こんな小説に3万字も読む時間なんか無い!」という方。
あまりお勧めはしませんが、一応7話と8話を読めば大体のストーリーが分かります。良ければ、そちらだけでもどうぞ。