異世界雑巾しぼり
地元で負け知らずの俺なんだが、目が覚めたら地元じゃない所にいた。
俺は森の中で目覚めていた。
確か、午後の授業をサボって何するかなぁ、とか適当に考えながら学校の屋上で横になっていたはずなんだけどなぁ。
背中に感じていたはずのコンクリートの床面が、次に目を開けた時には草地になってチクチクしていたわけだ。
どういう事だか、状況がさっぱり読めない。
「ゲへへ……ゲへへ……」
「……え? 誰?」
目覚めたばかりの俺に、「何者」かがいやらしい目を向けていた。
「ゲへェ……ゲヘナゲヘナ……」
え? ゲヘナって言った? 鳴き声ですか?
バッと身体を起こすと「奴」がいた。
グロテスクな見た目。その瞳は、バリっと音のしそうなほど見開いていて血走っている。口元は、どぅるんどぅるんというオノマトペが似合いそうなヨダレまみれ。
時々舌なめずりなんかしちゃってるし、これはあれだな。
ファンタジーな物語のなんたらクエストとかで見掛けるような奴だ。
「わかった! お前は不審者だ!」
「ゲへ……エ?」
「気持ち悪いからな! 簡単にわかった!」
「ゲへへ? ゲヘヘッ! ゲへッ!」
俺が指を差して名前を言ってやると、奴は首を横に振った。
言語がわかるのか? それに、俺の言い分に何か不満があるのか、表情が曇り気味だ。
「あっち行け。俺は今この辺を散策する必要があるんだ。目が覚めたばっかりで、何が何だかさっぱりわかんねぇよ」
汚い物を毛嫌うように、俺は手で軽く払う真似をする。
しかしその動作が癪に障ったのか、次の瞬間。
「ギシャアアアアアアッ‼」
「うわっ、急になんだよ? ガチギレしてるじゃん。怖いんですけど」
――ドガバギドゴッ‼
「グッ……ハァ……!」
「へぇ。すごいじゃんお前。俺のパンチを受けて立っていられるとか、地元でもあんまり居なかったのに」
「グフエェ……ゲへへ……」
小さい鬼のような姿をしていたそいつは、一向に俺の周りから離れない。
俺が今、正義の鉄槌を数発食らわせてやったってのに、頭が悪いのか懲りていないらしい。痣のできた顔で尚、俺の近くにいる。
「ゲヘェ……。ゲヒィッ?」
「動くなよ。いきなり殴ったりして悪かったからよ。ちょっと診てやる」
「ゲヒィーン……」
「馬みたいな鳴き声を出すなっ」
手当といっても、応急処置できるような物すら無い。
とりあえず傷口を診てやろうと思い、このちびっ子の額に触れる。
じっくり見てもグロテスクである。
暗い緑色の頭。黄ばみ切った汚らしい小角と歯。
目はガンガンに見開いていて、薬でもキメてるのかと思った。
「お前はどこから来たんだよ?」
「ゲヒィ!」
「なるほどな。お前、名前は?」
「ゲヒヒィッ!」
「ふむふむ。そういう事か」
どうやらこいつは、「ゲヒィ」という町からやってきた「ゲヒヒィッ」という名前の奴らしい。
町と奴の名前が若干似ているが、これは仕方ない。地名性みたいなものだろう。
俺がボコボコにしてしまったからか、もう攻撃してくる意志は無いようだった。
案外、素直な奴じゃないか。
「で、とりあえずこの森はなんなんだ? そしてここから出たいんだけど、ゲヒヒィッ、俺はどうすればいいんだ?」
「グゲゲヒーッ」
奴の言語は難しい。
正直、今の声も「グゲゲヒーッ」ではない。
だが、もっとも近い音を日本語で示せと言われると「グゲゲヒーッ」になるのだから仕方ない。
俺は俺で必死だが、こいつもこいつで必死である。
俺が頭上にはてなマークを浮かべている事を雰囲気で察しているのか、懸命に意思の疎通をはかろうとする。
身振り手振りもなかなかの物だ。
そのおかげか、出会って数分だが、このちびっ子の言葉の特徴がそれとなく掴めてきた。
特筆すべきは、言語の音だ。
基本「ガ行」と「ハ行」がよく使われている。
襲う時に用いた「シャ行」だけは、特殊なのかもしれない。
色々聞いてみたが、その中でも「ホ」と「ゴ」は使われない。
なるほどな、聴くだけ無駄だった。ああ、もうお手上げだ。
加えて、声を聴かせてもらうたびに唾が飛び散っていた。
そのせいで、俺の顔はちびっ子の唾でデコレーションされていた。
「ひどいなぁ……」
「ゲヘェゲヘェッ!」
「ん? なんだよ? ついてこいって?」
「ゲヒッ! ゲヒヒィッ!」
言ってる言葉の意味は理解できないが、手を掴んで引っ張ってる様子からして、「ついてこい」という事らしい。
ちなみに、このちびっ子の手は自動販売機の冷た~いの温度感くらい冷たい。
ボコボコに殴ってきた相手に対して、よくまだ絡もうとするなぁ、と俺は関心した。
手を引かれ、導かれるまま森を進む。
辺りからガサガサと不気味な音が聴こえてくる。それでも未だ手を引かれ、進み続ける。
しばらく森を進んでいくと、綺麗な沢のような場所に出た。
底の浅い川が、傾斜地に沿うように流れている。
「ハゲゲヘェ~ッ」
ちびっ子は俺の手を引いたまま、川の脇道を進む。
調子の良さそうな鳴き声だったので、多少ご機嫌なのだろう。
「ゲッハ、ゲへへ~」
「うわ! ちょ、待てよ! そっちはダメだ! お、俺が行けないだろ⁉」
ちびっ子は、倒木の上を平均台の要領で歩いていった。
倒木は川の両岸を橋渡すように架かっていて、この通りに進めばまぁ向こう岸に着く。
それにしたって幅ですよ、幅。
俺が進むにはちょっと狭すぎるんじゃないか?
両足を揃えてギリギリはみ出さない程度の直径だ。
落ちても川底は浅いが、靴は一発でぐしょ濡れになるだろう。
「あっ! たったった!」
「ゲッヘェ~」
ちびっ子に手を引かれるがまま、俺は倒木の上を歩いていった。いやもう走ってるなこれ。
「そんな! 早い! 早い早い早いいいぃ!」
「ゲヒイ、ゲヒイ、ゲヒイイイィ!」
俺は、倒木を慌てて渡り終えた。
その慌てっぷりが面白かったのか、ちびっ子は笑顔を見せていた。
不細工な顔だが、笑顔は少しマシなものである。
「あ、早い早いって真似したな? もういいわ! ついていってやんないからなっ⁉」
「ゲヒィ⁉ ゲヒヒィン……」
俺がそう言って手を振り払うと、ちびっ子はとても寂しそうな顔をする。
「なんだよ」
「……ゲヘヒンッ」
不細工な顔だが、しょんぼりした顔は余計に不細工なものだ。
「……」
「……」
「ん? なんだ? これ」
黙り込んでいた俺達の間に、何か木の実のような物が落ちてきた。
野球のボールくらいある松ぼっくりのような実だった。
ひと目で食べ物ではないな、とわかる。
「……木の実?」
俺はそれを拾い上げ、落ちてきた頭上を見上げた。
「ゲヘヘッ♪ ゲヘゲヘッ♪」
「ん? なんだよ。これがほしいのか?」
こんな食べられそうにない物がほしいのか。
不思議な生命体だなぁ、ほんと。
「ゲへッ♪ ゲへッ♪」
両手をあげて、リズミカルに片足ずつ浮かせたりしている。
「いらないからあーげるっ」
ポンッ、と軽くその木の実を放ってやる。
「あっ」
すると、力加減を誤ったようで、木の実はちびっ子の後ろの方まで飛んでいってしまった。
「ゲヘヘッ! ゲヘヘ~ッ!」
俺が投げた木の実に反応したのか、ちびっ子は急いでその木の実の元へ駆け寄った。
草地に投げられたその木の実を拾うと、ちびっ子はすぐに俺の元へ戻ってきた。
「ゲヘヒ~ッ ゲンヒッ!」
「ん? なんだ、俺にまた戻すのか?」
ちびっ子は、拾ってきたその木の実を、もう一度投げてほしいと言わんばかりに手渡してきた。
「ふふっ。なんだかおかしな奴だな、お前。はいっ」
「ゲヒヒッ!」
俺がもう一度木の実を投げる。
それを見たちびっ子は、またその木の実を追いかけていった。
「……あっ」
だが、今度は上手くいかないようだった。
投げた木の実が、一度斜面の方へ行ってしまい、そこからコロコロと転がり落ちる。
転がった木の実は、すぐ横に流れていた川へ、そのまま落ちてしまったのだった。
「ゲヒィー……」
ちびっ子は、川に落ちた木の実をじっと眺めていた。
その表情はとても寂しげだった。
「……」
川面に落ちたその木の実は、ぷかぷかと浮かび、川の流れの赴くまま、ゆっくりと下っていったのだった。
「……」
流されていった木の実を見続けるちびっ子の背中は、名付けようもない雰囲気を漂わせていた。
「ごめん」
「ゲヒィ……」
俺はちびっ子の肩にそっと手を置いてやった。
木の実はもう流されて見えなくなっている。
俺達のすぐ横を流れる川は、まるで何事も無かったかのように流れているだけだった。