第五章
翌週の月曜日。完璧に快方した正孝は元気に出社した。正孝は自分のデスクにつき、まずはえりかの存在を確認した。えりかはいつものように既に仕事に取りかかっていた。
「よう。まさ」
隣のデスクから優磨がひょっこりと顔を出した。
「おっす」
正孝は軽く返す。
「体調は大丈夫なのか?」
「ああ。万全だよ。迷惑をかけて悪かったな」
「何のその。そう言えば、永先輩がえらく心配してたぜ」
「そ、そうか」
金曜日のことを思い出してしまい、少し気恥ずかしかった。
「良かったな」
優磨がにやりと笑った。
「何が良いんだよ。こんな大事な時期に体調を崩した部下なんてって呆れてるかもしれないだろ」
そんなわけないのだが、あえてそう言っておいた。
「いや、そんな人じゃないだろ。それにあの表情は本気で心配してたぜ。まるで、恋人を心配するような顔だった」
出し抜けに優磨がとんでもないことを言い出したので、正孝は動揺してカバンから取り出した筆記用具を落としてしまった。
「な、何、馬鹿なこと言ってんだよ。あの高嶺の花の先輩が俺なんか相手にするわけないだろう」
「高嶺の花ねぇ」
優磨は呟くようにいった。そして、続けてこんなことをいった。
「高嶺の花って俺達が勝手に決めつけてるだけで、先輩みたいなタイプは案外正孝みたいな素朴な相手が好みだったりするかもしんねぇぜ?」
「んな訳あるかよ。その気になれば大会社の社長夫人にだってなれるような人だぜ。選り取り見取り出来るから、逆に慎重になってるだけだろ」
その話しに嘘はなかった。正孝達が入社する数年前のことらしいが、えりかが取引先の会社の社長に見初められて、プロポーズを受けた話しがあった。その会社は美星堂に引けを取らない程の会社で、もし引き受けていれば今頃社長夫人として何不自由無い暮らしをしていたことだろう。だが、えりかはそのプロポーズを断った。何故、断ったのかは誰も知らない。えりか自身その話しをされるのを嫌がっているのも皆知っているので、誰も聞いてないのだ。噂ではその時は恋人でも居たのではとなっているが真偽のほどは定かではない。しかし、正孝だけはその答えに気付いていた。恐らく、涼一の存在が関係しているだろうと思っている。えりかがやっとの思いで絶った涼一への想いを正孝だけが知っている。無論、その事を誰にも話すことはない。例え、優磨であっても話すことはできないと思っていた。
「まぁ、そう言われるとそうとも言えるかもな」
優磨は不承不承といった感じでいった。
「とにかく、先輩の恋愛事情なんて俺達が気にしたって仕方ないことだろ。今はプロジェクトを成功させることだけを考えようぜ」
「そうだな。よし、今日も頑張るか」
優磨は顔を引っ込めた。
正孝は今一度えりかの方をみた。今は大原部長と何か真剣に話していた。ふいに、えりかが正孝の方を見た。正孝は少し胸が高鳴った。えりかは微かに頷いた。恐らく、挨拶のつもりだったのだろう。正孝はペコッと頭を下げた。えりかはそれを確認するとまたすぐに大原部長とのやり取りを始めた。正孝は自分も頑張ろうと気合いをいれた。
プロジェクトの緊急会議が午後に開かれた。何でも、えりかが新商品のプランを思いついたということだった。プロジェクトメンバーに送られてきたメールにはこれならば必ず成功するという旨の言葉が書き添えられていた。計らずも、プロジェクトチームのリーダーが練り上げたプランだ。プロジェクトメンバーは期待をせずにはいられなかった。会議は午後13時にから7階の会議室で始まることになっていた。既にえりか以外のメンバーは座って待っていたが、肝心のえりかは遅れていた。15分程してからえりかが入ってきた。
「遅れてごめんなさい」
誰も叱るものなどいない。えりかが何故遅れたのかを誰もが承知しているからだ。
「先輩大丈夫ですよ。文句は社長に言いますから」
優磨の言葉にメンバーが小さく笑った。
「そうしてくれると助かるわ。ただし、どうなっても私は知らないわよ」
えりかが皮肉を飛ばす。
「と、楠木が言ってました」
「お、おい」
そんなやり取りにメンバーの笑いが会議室に響いた。
「さてと、後輩たちの漫才は終わりにして、早速会議に取りかかりましょう」
えりかの一言でメンバーの表情が引き締まった。
「今日の会議はメールでも送ったように、新商品のプランに関することです。発表した後に、皆さんの意見を聞いてから、そのプランを進めるかを判断します」
えりかはパソコンにUSBを差し込んだ。目の前にあるプロジェクターにパワーポイントが開かれた。表紙にあたる一枚目に書いてあったのは、新商品カラーコンタクトレンズだった。
「カラーコンタクトレンズ?」
メンバーの一人が呟やいた。
「そうです。カラーコンタクトレンズ。略してカラコン。今回の新商品プロジェクトの商品はカラコンにしようと思っています」
えりかが自信に漲った声でいった。
誰もが意表をつかれた表情になっていた。それもそのはずである。カラコンは美星堂のラインナップには存在しない。
「あのー」
遠慮がちに一人の男が手を上げた。猫背のヒョロリとした中年の男だった。名前は土橋という。土橋はえりかよりも7年上の先輩だった。見た目は気弱で冴えなそうに見えるが、プロジェクトメンバーに選らばている以上優秀な人材だった。
「どうぞ土橋さん」
えりかは発言を促した。
「カラコンは化粧品と言って良いのでしょうか?」
土橋の質問は誰もが気になるところだった。
「もちろんです。むしろ、美星堂が今までカラコンに手をつけてこなかったのが不思議なくらいです。今やカラコンの市場は化粧品関連でもかなり上位を占めています。カラコン市場の開拓は間違いなく我が社への利益に確実にプラスをもたらすはずです。今、手をつけてなかったと言いましだが、訂正します。手をつけることが難しい。カラコン市場で売れる商品ほぼ決まりつつあります。新規に出しても他との優位性を見出だせなければすぐに衰退することでしょう。逆に、それを克服すらことが出来れば、今回のプロジェクトのメインターゲットである中高生の顧客獲得も大いに期待できます」
えりかの一つ一つの言葉がメンバー達の胸にしっかりと刻まれていく。
「とにかく、私が作った資料を最後まで見ていただきたいと思います。反対意見等はその時に受け付けます。よろしいですか?」
メンバーの皆が同意するように頷いた。えりかは立ち上がってスクリーンの前に立った。緊張をほぐすかのように一度大きく深呼吸をした。そして、順番に一枚ずつ丁寧に説明を始めた。その説明はチームメンバーを圧倒するものだった。半信半疑で聞いていたメンバー全員が終わる頃には、誰もが希望と確信に満ち溢れた顔になっていた。
「これで終わりになります。何かご質問等はありますでしょうか?」
えりかはゆっくりとメンバーの顔を見渡す。誰一人手を挙げるものはいなかった。やがて、さざ波のように拍手が広がり、一人また一人と立ち上がった。えりかの発表を聞き終えたメンバー全員が確信していた。これならいけると。
「乾杯!」
幹事の一言でグラスが飛び交った。
「あー美味い!」
優磨が噛み締めるようにいった。
今日は例のプロジェクトメンバー達で企画の成功を祝して打ち上げを行っていた。以前、行われた会議でプロジェクトメンバーの度肝を抜いたえりかのプランは社長及び役員達の度肝も抜いた。メンバーの発表が終わると、社長の礼治はメンバーの元へとに歩み寄り、一人一人に固い握手を求めた。その場面を見ていた築も嬉しそうに目を細め笑っていた。やることはまだあるが、無事に会議を乗り越えたメンバーへの慰労を込めてえりかが主催したのだった。
「皆、この数ヵ月本当にご苦労様」
えりかが優しく声をかける。その頬は既に紅潮していた。
「先輩こそお疲れ様です。俺達をここまで導いてくれたのは永瀬先輩の存在があってこそです」
優磨の言葉に誰もが頷いた。
実際、今回のプロジェクトで一番のプレッシャーがかかっていたのはえりかだということは衆目の一致だった。初めての会議で失敗の全責任は自分が取ると明言してからのえりかの働きぶりは凄まじいものだった。そんな中でも、体調を崩した正孝に説教をくれることもなく、むしろ家まで訪ねてきてくれてお粥まで作ってくれたことを思い出すと、正孝のえりかへの憧れはますます強まる一方だった。しかしその一方で、今回のプロジェクトへの参加で改めてえりかと自分の差を痛感してしまい、片想いでしかいられないという痛みも同時に増してしまっていた。
「楠木君。どうしたの?元気がないみたいだけど」
隣に座っていた安西瑠美に声をかけられた。
「あ、いえ、なんでもないです」
「また体調悪くなったりしてない?」
瑠美は心配そうな声で聞いてきた。
「大丈夫です。大丈夫です。ただちょっとボーッとしてただけです。元気ですから安心してください」
正孝は苦笑いしながら答えた。
正孝に元気がないことに気付いていたのが、もう一人いた。言うまでもなくえりかだった。いち早く、正孝の様子に気付いたのだが、メンバーの話しに付き合うこともしなければならないので、声をかける機会がなかった。隣にいる瑠美が話しかけてたようだが、正孝の表情はそこまで晴れたように見えなかった。だが、それはえりかも同じだった。メンバーとの飲み会自体はとても楽しく有意義な時間だった。だからこそ、この後に打ち明けなければならない話しのこと考えると気持ちが暗くなった。このプロジェクトでメンバーとの信頼関係は生まれ距離は一気に縮まった。だからこそ余計にアメリカ行きのことを話すのが辛かった。たとえ数カ月間とはいえ、やはりこうして一緒に苦労して新しいものを作り出した仲間に別れを切り出すのは心苦しいとしか言いようがない。本当は一人一人に話したいところではあったが、それでは自分の心が持たないと思った。
1時間程経過すると、飲み会の会話の流れが一段落した。最初はネガティブなことを考えていた正孝も時間が経つにつれて飲み会を楽しんでいた。ふいに、主催者であるえりかが大きな咳払いをした。メンバーは少しびっくりしながら、えりかを見た。えりかは全員のことを一度見渡すと、微笑みながらこう言った。
「今日は皆さんにひとつ、私から大事なお話しがあります」
メンバーはそれぞれ互いに目を合わせたが、すぐに視線をえりかに戻した。
「私、永瀬えりかは8月を持ちましてアメリカの支社に異動となりました」
一瞬の静寂がその場に流れる。メンバーの誰もが目を丸めてえりかを見つめていた。
「このような場でのご報告になってしまいまして、大変申し訳ないと思っております。皆さんと働けたこの数ヶ月間は私の中に大きな財産となって残り続けます。本当にありがとうございました」
えりかは座布団から足を外し、土下座をするような形で頭を下げた。
誰もが衝撃で言葉を失っていた中、最初に言葉を発したのは瑠美だった。
「頭を上げてえりかちゃん」
瑠美の声は少し震えていた。見れば、目には薄っすらと涙が滲んでいる。
「感謝するのは私達の方よ。ここの誰よりもプレッシャーがあったはずなのに、そんな姿を微塵も見せずに、私達を引っ張ってくれたじゃない。えりかちゃんだからこそ私達はここまでの仕事が出来たの。本当にありがとう」
「瑠美さん・・・・・・」
「瑠美さんの言う通りです。それに、アメリカの支社に行くってことはそれだけ永瀬先輩の力が認められている証拠じゃないですか。そんな人の元で働けたことの方が大きい財産になります。本当にありがとうございました」
優磨が続けてそう言うと、他のメンバーもそれぞれの思いの丈を口にし始めた。その言葉を受けたえりかは憚ることなく涙を流した。
飲み会の帰り道。正孝は優磨と帰っていた。
「永瀬先輩がアメリカに行くの寂しいな」
「ああ」
正孝の表情は冴えなかった。
「まさ。どうするんだ?
「どうするって何をだよ」
「永瀬先輩のことに決まってるだろ。このまま黙ってアメリカに行くのを見てるつもりか?」
「そうすることしかできないだろ。俺が何を言ったところで先輩の心を捕まえられるはずがないよ」
「そんなこと伝えてみなきゃわからないだろ。恋愛は言わずに後悔より言って後悔の方が絶対にいいぜ」
「ダメと分かってるのに、言える奴がいるかよ。それに、俺なんかより、よっぽど相応しい人が永瀬さんにはいるはずだよ」
「そうやって逃げをうって自分が傷つきたくないだけだろ」
優磨は正孝の気持ちを的確に見抜いた。
「あんな凄い人にアプローチするのが怖いのは分かる。けど、動かなきゃ何も始まらないぜ。それに、永瀬先輩だってアメリカ行きを決断する時は怖かったはずだ。それでも、先輩は踏み出した。だから、まさも一歩踏み出してみろよ。俺はまさを応援するぜ」
優磨は励ますように、背中を叩いた。
「ありがとう優磨。けど、まだその勇気が出ないんだ。情け無いと思うかもしれないけど、どうしてもその一歩を踏み出すのに躊躇ってしまうんだ」
正孝は自分の不甲斐なさに落ち込んでしまう。
「そうか。それなら、あの人に相談してみたらどうだ?」
「あの人って?」
「ほら、前に話してた恐竜学者の人だよ。その人は永瀬先輩と仲が良いんだろ?相談したら、何か有益なアドバイスをくれるかもしれない」
「どうだろうな。今は博物館のオープンに向けて忙しいそうだから、そんな相談を持ち掛けても門前払いを喰らいそうな気もするけど」
「そうなったらそうなったらだろ。聞くだけ聞いてみろよ」
「そうだな」
正孝は自分はどうするべきなのか、まるで迷路をさ迷うような感覚になっていた。
えりかのアメリカ行きは余すことなく知るところなった。部署の誰もが寝耳に水だったようで、隙あらば話しはえりかのアメリカ行きの話しに興じていた。当の本人はどこ吹く風か、いつものようにそつなく仕事をこなしていた。一方、正孝は涼一にえりかのことを相談するべきか否かで大いに頭を悩ませていて仕事に集中していなかった。本来ならば、ミスすることのない簡単な作業もミスをしてしまった。すると、えりかからお呼びがかかった。正孝はえりかのいるデスクのドアをノックした。どうぞと声が聞こえたので、中に入った。
「そこにかけて」
えりかに促されて正孝デスクの目の前にある椅子に座った。
「呼び出された理由は分かっているかしら?」
「はい。しょうもないミスをしてしまい申し訳ありませんでした」
正孝は首を垂れた。
「分かっているなら、あまり強くは言わないわ。大きな仕事成功させたから、気が緩むのも分からなくないけど、もう一度気を引き締めて仕事に取り組むこと。いいわね?」
「・・・・・・はい」
「何か元気がないわね。心配ごとや悩みがあるなら、私でよければ相談に乗るわよ」
「いえ。大丈夫です。気が抜けていた自分が恥ずかしかっただけですから、気になさらないでください」
「本当にそれだけ?」
えりかは正孝の本音を探るかのようにジッと見つめた。正孝は目を逸らしそうになったが、なんとこらえた。ここで目を逸らせば更なる追及をされるのは明白で、正孝が今悩んでいることをえりかに知られることは何としてでも避けたかった。
「それだけです。お気になさらないでください」
正孝はえりかことを真っ直ぐに見据えていった。数秒間、見つめあった後、えりかが小さく息を吐いた。
「そう、分かったわ。以後、気を付けてね」
「はい。ご迷惑をおかけしました」
「話しは以上よ。戻っていいわ」
正孝は立ち上がり、一礼をしてデスクを後にした。
「こってり絞られたか?」
自分のデスクに戻ると、案の定優磨が聞いてきた。
「いや、軽い注意で済んだよ」
「珍しいな。やっぱり、アメリカ行くことが関係してるのかな」
「さあね」
正孝はそれだけ言うと、自分の仕事に集中し始めた。
仕事を終えて新橋駅に向かって歩いていると、スマホが鳴った。相手は咲希からだった。
「もしもし」
「あ、正孝君。今何してる?」
「仕事が終わって帰る途中だけど、どうかしたの?」
「私も丁度終わった所なの。もし、この後時間あるなら、ご飯でも行かない?」
正孝は少し考えたが、特に断る理由もなかったので承諾した。銀座にある某デパートの入り口に集合することで話しがついた。
デパートの入り口に着くと、既に咲希は到着していた。至って普通な黒いスーツを着ているのに、咲希が着ていると、何故か華やかで光沢のある高級そうなスーツに見えるから不思議だ。そう言えば、えりかの着ているスーツもそんな風に見える。やはり、着る人間によって服の輝きに違いが出るものだろうかと思った。咲希は正孝の存在に気付くと、笑顔を見せながら正孝に近寄った。
「仕事で疲れてるのに、付き合ってくれてありがとうね」
「疲れてるはお互い様だよ。わざわざこっちまで来てくれてありがとう」
「私お腹ぺこぺこ。早く食べよ」
咲希は正孝の腕に自分の腕を絡めた。正孝は拒否しようと思ったが、流れに身を任せることにした。
「え!えりかさんアメリカに行っちゃうの?」
咲希が驚いきながらいった。
「ああ。来月に行くんだって。あまりにも、急な話しだから皆寂しがってるよ」
「そっか。それは残念だね。正孝君にとって素晴らしい上司だったんでしょ?」
正孝はそれだけじゃないと思ったが、ただ頷いただけに留めた。
「アメリカには何年間行くとか知ってるの?」
「最低でも三年間だってさ。でも、先輩が希望すれば、もう何年間はアメリカにいることが出来るみたいだよ」
「いつかは日本に帰ってくるとは言え、数年間は会えないなんて寂しよね」
咲希が同情するようにいった。
えりかがアメリカに行くのが寂しいのはもちろんのことなのだが、正孝がそれ以上に感じているのは、えりかは自分と離れてしまうことがここまで寂しいと感じてないだろうということだった。所詮は正孝の片想いに過ぎず、えりかにとって正孝は数いる部下の一人に過ぎない。えりかも寂しいとは言っていたが、あくまでも他の部下と変わらないくらいに寂しいだけであり、正孝のように好きな人と遠く離れるこの寂しさを感じていることはない。そのことが正孝にとって一番悲しかった。それに、その程度の存在にしかなれなかった自分が情けなかった。
「正孝君」
「あ、ああ。ごめん。何?」
「正孝君はえりかさんのこと好きなの?」
咲希からの唐突な質問に正孝は一瞬言葉を失った。
「き、急に何聞くんだよ」
「真剣に答えて。えりかさんのこと好きなんだよね?」
咲希の真剣な表情に気圧されて正孝は唾を飲み込んだ。ここで嘘をついてはいけないと思った。
「・・・・・・うん。好きだよ。こんなに女性を好きになったのは生まれて初めてなんだ。でも、先輩と僕とでは釣り合わないよ」
「えりかさんは自分と釣り合うかどうかを気にするような人なの?」
「いや、そんなことは無いと思うけど」
「だったら、どうしてそんなことを考えるの?真っ正面からえりかさんに想いを伝えたら良いじゃない。えりかさんはそうゆう人を待ってるかもしれないよ」
「そうゆう人?」
「今から言うことは推測に過ぎないけど、えりかさんは待ってるんだよ。無理だと分かっている立花さんを一途に追いかけたように、自分のことをひたすら一途に追いかけてくれる人を待ってるんだと思う。もちろん、それが正孝君だとは限らない。けど、えりかさんに本気で惚れたのなら、それくらい好きだと伝えるべきだよ。言わずに離れ離れになってしまったら、きっと後悔するよ」
「早川・・・・・・」
「えりかさんが高嶺の花とか気にする必要はないよ。正孝君がえりかさんと付き合っても何も不思議じゃない。正孝君の良さに気付けば、えりかさんだってきっと振り向いてくれるよ。私は応援するよ。正孝君の本気の恋を」
「ありがとう早川。ありがとう」
正孝は咲希の激励に涙ぐんだ。暗い視界に一筋の光が入ってきたような気がした。咲希の励ましもあって正孝はある決断をくだした。
「今日は本当にありがとう。早川のお陰で少し自信がついたよ」
正孝がいった。
店を出た二人は新橋駅でお別れをする所だった。
「ううん。正孝君の力になれたなら良かった。えりかさんと上手くいくことを祈ってるね」
咲希は微笑んだ。しかし、その微笑みとは裏腹に心は大きく痛んでいた。
「じゃぁ、気をつけて」
正孝は右手を上げた。
「正孝君も」
咲希も同じように右手を上げた。
咲希に背を向けて正孝は改札をくぐった。その表情は昼間よりもずっと明るかった。
正孝を見送った咲希は小さなため息を吐いて、新橋駅から離れ始めた。正孝と違ってその表情は冴えなかった。咲希は家に帰ることはせずに、そのまま仕事場に向かった。咲希の勤める事務所はビルの15階にある。もう21時を過ぎてるというのに、ビルの窓から明かりが漏れていた。咲希はビルの管理人に社員証を見せてビルの中に入った。3階に到着して事務所の扉を開けると、そこには咲希の予想した人物が書類にと目を通していた。その人物は咲希の気配を感じ取ると、書類から目を離して顔を上げた。そして、驚いた顔をみせた。
「早川君」
健吾は少し間抜けな声でいった。
「お疲れ様です。藤沢検事」
咲希はキビキビと挨拶をした。咲希は健吾に付いている事務次官だった。
「お疲れ様。こんな時間にどうしたのかな?」
「やり残した急ぎの仕事があったのを思い出しまして。いけませんでしたか?」
「そんなことはないけど。今日は友人と食事があったんじゃなかったっけ?」
「もう終わりました。その帰り道で思い出したんです」
咲希は自分のデスクに座ってパソコンを開いた。
「もう解散したのか」
健吾は腕時計を見た。まだ21時を少し回った所だ。先程の帰る前の咲希の表情は明るく楽しそうだったのを覚えている。その様子から相当親しい相手だと推察していた。仮に向こうの都合で解散になったとしても、わざわざ仕事場に戻ってくる必要はあるだろうか。それに咲希の優秀さは誰よりも知っている。いくら予定があったとしても、咲希が急ぎの仕事を忘れるとは思えなかった。健吾が怪訝な表情で咲希を観察していると咲希がいった。
「私の顔に何か付いてますか?」
「あ、いや、そうゆうわけではないんだけど、どうも元気が無さそうに見えるからどうしたのかなって」
「何でもありません。気になさらないでください」
「そうか」
健吾は敢えて深くは追及しなかった。それから二人は黙々と仕事をこなした。
「早川君」
健吾が呼び掛けたが、反応が無かった。
「早川君」
今度は少し声を大きくした。すると、咲希の肩がビクッと震えた。
「な、何でしょうか?」
「さっきから手が止まってるよ」
「た、たまたまです」
そう強がる咲希に対して健吾は優しくいった。
「何かあったんだね」
「・・・・・・」
咲希は押し黙った。
「辛い時に無理はしなくていいよ。急ぎでも何でもない仕事をしにきたのも、辛いのを紛らわすためだよね」
その温かくて優しい声に咲希は思わず泣きそうになった
「け、検事は早く帰らなくてよろしいんですか?婚約者が待ってるじゃないですか」
咲希は震える声でそういった。
「星には今日は遅くなるって言ってある。それに、大事な部下がそんな悲しそうな顔をしてるのに放って置けない。僕で良ければ話しを聞くよ」
ついに咲希の涙腺は耐えられなくなった。声にならない声で泣き始めた。健吾は静かに席を立って、一旦事務所を後にした。
10分程経った頃に健吾は事務所に戻った。頬に濡れた後が残っていたが、咲希はもう泣き止んでいた。
「落ち着いたようだね」
健吾は咲希に缶コーヒーを差し出した。
「すみません。ありがとうございます」
咲希はお礼を言って受け取った。冷えた缶コーヒーが掌に心地良かった。健吾は自分のデスクから椅子を引っ張ってきて咲希の前に座った。
「話しを聞くよと言ったけど、咲希ちゃんの気持ちがまだ整理がつかないなら無理に話さなくて良いから」
健吾は君呼びを止めた。仕事であるならば検事と事務次官なので、馴れ馴れしく呼ぶのは御法度だが、今はいち先輩と後輩として接してあげたかった。
「本音を言うと、藤沢さんになら今でも話せると思っていたので、ここへ来ました」
「そうだったんだ。それなら、気の済むまで付き合うよ」
健吾は優しく笑った。
「ありがとうございます。そして、仕事の邪魔をしてしまってごめんなさい」
咲希はまずは謝罪をした。
健吾はゆっくり首を振った。
「時には仕事よりも大切なことはある。今がその時だ」
咲希はまた涙ぐんだ。心の底から、この人の元で働けて良かったと思った。咲希は呼吸を整えてから、事の顛末を話した。
「なるほど。つまり、今日一緒に食事をした男性は咲希ちゃんの好きな人なんだけど、彼には好きな人がいて落ち込んでしまったというわけか」
「ごめんなさい。いい大人になったのに、こんなしょうもない話しで、いちいち落ち込んでしまって」
「それだけ彼のことを本気で好きだという証だよ。むしろ、誇るべき事だと思う」
「そう言ってくれるだけでも救いになります」
「咲希ちゃんは彼のことを諦めるのかい?二人は付き合ってるわけでもなんでもないんだろ?」
今度は咲希がゆっくり首を振った。
「正孝君のことはよく分かってます。正孝君は誰よりも一途ですから、仮に私がどんなに追いかけても振り向いてくれないはずです」
「しかし、彼の恋が上手くいくとは限らない。こんなことを言うのは楠木君に申し訳ないが、彼の恋が終わるのを待つのもアリなんじゃないか?」
「いいえ、上手くいきます。なので、待ってても無駄です」
「どうしてそう決めつけられるんだい?」
「女の勘としか言い様がありません。でも、きっと上手くいきます」
咲希があまりにも確信めいた顔で言うので、健吾はつい頷いてしまった。
「それにしても、咲希ちゃん程の女性を目の前にして靡かないとは、その楠木君が惚れている相手はどれだけの女性なんだろう」
「会社の先輩だそうです」
「先輩ねぇ。楠木君が勤めている会社はどこなんだい?」
「国内最大手の化粧品会社の美星堂です」
「美星堂?」
健吾は腕組をした。最近、その名を誰かから聞いたはずだと思った。そして、少し考えた所である人物の顔が浮かんだ。
「永瀬・・・・・・」
「えっ?」
「もしかして、楠木君が惚れている女性の名前は永瀬えりかじゃないか?」
咲希はこれ以上無いくらいに驚いた。
「ど、どうしてそれを?」
「そうか。やっぱり永瀬か」
健吾は一人納得顔になった。
「藤沢さんはえりかさんのことをご存知なんですか?」
「うん。永瀬とは同じ高校の同級生だったんだ」
「そ、そうだったんですか」
思いがけない繋がりに咲希は驚きっぱなしだった。
「そうか。あの永瀬に惚れているのか。だとしたら、咲希ちゃんに靡かないのも仕方ないのかもしれないな」
「そんなに素敵な女性なんですか?」
「気を悪くしてないでほしい。咲希ちゃんは本当に素晴らしい女性だよ。ただ、永瀬は僕が知る限りでは、もっとも賢くて優しい女性だと思ってる」
「藤沢さんがそこまで言うなんて、本当に素敵な人なんですね」
「ああ。彼女は僕の恩人のような存在でもある。もし永瀬が居なかったら、僕は消えることのない罪悪感に今も苛まされていたはずだよ」
「罪悪感ですか?」
「話すと長くなってしまうから今はしないけど、もし咲希ちゃんが聞きたいのであれば機会があったら話そう」
「是非、聞いてみたいです」
「分かった。いずれ話すよ。それにしても、楠木君はとんでもない女性に恋をしたんだな」
「藤沢さんは上手くいかないと思いますか?」
「あれ?上手くいくんじゃなかったのかな?」
「それは私の意見です。藤沢さんはどう思うんですか?」
「そうだなぁ、その楠木君にどこまでの覚悟があるからによるかな」
「覚悟?」
「永瀬はアメリカに行ってしまうだろう。僕が楠木君の立場ならアメリカまで追いかける。そうでなければ永瀬は振り向いてくれないと思う。いや、振り向いていることを認めないって言った方が正しいか」
「正孝君もアメリカに・・・・・・」
「寂しいかい?」
「それはまぁ、振られたとは言え大切な友人には変わりないですから」
「振られてはないじゃないか」
健吾は苦笑いを浮かべた。
「振られたようなものですよ。でも、妙にスッキリしてる所もありますけど」
健吾は小さく笑って立ち上がり、窓際まで移動した。窓の外に広がる夜景を見ながら健吾はいった。
「好きな人に好きな人がいる状況で、その人の背中を押せる咲希ちゃんには必ず素敵な出会いが待ってるよ」
「それは男の勘ですか?」
「いや、経験だよ」
健吾は夜景に背を向けて、咲希の方に振り向いた。
「経験?」
「僕がそうだったから」
健吾はニヤリと笑って、手に持っていた缶コーヒー飲んだ。
咲希は健吾の言葉の意味を理解すると、同じように笑った。
正孝は港区にあるタワーマンションの部屋の一室にいた。咲希と別れた後、思いきって涼一に電話をしたら、すぐに出てくれた。そして、相談したいことがありますと言ったら、何も言わずに涼一の住むマンションに来るように言われた。言われた住所をメモりタクシーで向かってきたのだ。
「凄いマンションですね」
正孝は部屋を見回してポツリと呟いた。自分が住むことは一生無さそうだと思った。
「都内でも有数なマンションらしいからね」
涼一が他人事のように言う。
「涼一さんが決めたんじゃないんですか?」
「俺はやたら家賃の高い所に住む必要はないと思ってる。このマンションに住んでるのはなつのためだ。理由は分かるだろう」
涼一はコーヒーを啜った。
正孝には理由が何となく分かった。涼一の妻である河口夏音は国民的人気女優だ。その女優を守るためにもこういったセキリュティが万全なマンションに住まわせることは大切である。
「なつは撮影で地方に行ってるから、今夜は帰って来ない。国民的女優に会わせてやれなくてすまなかったな」
「い、いえ、そんな。突然、お邪魔したのはこちらの方ですし、涼一さんにもご迷惑をかけて申し訳ありません」
涼一は笑いながら手を振った。
「気にするな。大事な話しがあるんだろう。早速、聞かせてもらおうか」
涼一はソファに背中を預けて目を閉じた。
正孝は話しを切り出すのに、少し時間がかかった。しかし、涼一は何も言わずに目を閉じている。正孝は意を決して話し始めた。
「あの、以前に涼一さんが僕に言ってくれた言葉を覚えていらっしゃいますか?その、タクシーで先輩を自宅まで送る時に、僕がタクシーに乗り込む前に言ってくれた言葉です」
「もちろん覚えているよ。それが何だ?」
「その時は聞けなかったのですが、言葉の意味を知りたくて」
「そのままの意味だよ。高嶺の花は思ってるほど高くはない」
「どうして僕にそれを言ったんですか?」
「どうしてだと思う?」
涼一は目を開けて正孝と目を合わせた。
「僕がその、先輩のことを好きでいるからですか?」
「分かってるじゃないか」
「でも、その言葉の意味に何があると言うんですか?」
涼一は正孝をじっと見つめた。
「楠木君は永瀬に対してどうゆう印象を持ってる?」
「印象ですか。それは綺麗で賢くて仕事も出来て優しくてほぼ完璧な女性だという印象です」
「だから、自分みたいな平凡な男では相手にならないと君は思っている」
涼一の正確な指摘に正孝は目を伏せた。
「確かに、多くの人間は永瀬に今言ってくれたような印象を持つ。そしてそれは、決して間違ってはいない」
「やはり、自分みたいな男では相手に出来ないってことでしょうか」
「それが間違っている」
涼一はピシャリといった。正孝はハッとなって顔を上げた。
「確かに、永瀬は贔屓目を無しにしても、素晴らしい女性だ。しかし、彼女の中身はそこらにいる普通の女性と何ら変わりはない。高嶺の花と勝手に崇め奉っているのは、周りが勝手にそうしてるだけだ。永瀬がいつ高嶺の花になりたいって言った?永瀬はそんなことを望んでいるのか?勝手に憧れられ、勝手に落ち込まれて、勝手に距離を取られる。永瀬の意思や気持ちを考えたことはないのか?」
涼一の捲し立てる言い分に正孝は口を挟むことは出来なかった。
「高嶺の花は高い所にいるんじゃない。周りが勝手に持ち上げて高い所にいさせられるんだ。そうやって、存在を遠ざけて隣に立とうとするものはいない。それでも、人は下から見上げて羨望の眼差しを送る。送られた側は嫌で嫌で仕方ないのに、いざ降りようとすると周囲からガッカリされる。だから、高嶺の花でい続けないといけない。それがどんなに苦痛なのか、察するにあまりある」
涼一の言葉は正孝の心を貫いた。そして、己がいかに自己中心で愚かだったのかようやく気付かされた。
「改めて聞きたい。楠木君は永瀬のことを好きなのか?それともただの憧れか?」
涼一は前屈みになり、正孝の目を覗き込んだ。
涼一の質問に正孝は即答した。その答えは先ほどの咲希との会話で出ていたからだ。
「好きです。心から先輩のことを好きだといえます」
真っ直ぐに涼一を見つめながらいった。
「そうか。なら、良い。頑張れ」
涼一は嬉しそうに頷きいった。その軽さが正孝を拍子抜けさせた。
「あの、頑張れとはどうやって?」
「そのままだ。永瀬が振り向いてもらえるように頑張れ」
「本当に僕なんかが・・・・・・」
その後の言葉はつぐんだ。それだからいけないんだと叱咤した。
「楠木君に足りないのは、一歩を踏み出す勇気だ。この場合は手を伸ばす勇気か」
正孝は自分の右手を見つめた。本当に自分にはえりかの手を掴むことが出来るのだろうか。涼一と話してえりかを振り向かせるための努力をする覚悟はないだが、その最後の勇気がまだでない。
「一つだけ忠告しておこう。高嶺の花は下から眼差しだけ送っていても気付かれることはない。手を伸ばせ。全てはそこから始まる」
「でも、伸ばしても届かないかもしれないです」
「なら、向こうにも手を伸ばしてもらえ。高嶺の花は下にいるだけの存在には気付かないが、登ってくるものには必ず気付く。自分が手を伸ばしても届かないなら、向こうが手を伸ばしてくれるように努力しろ。そうすれば届く。そして、隣立ったのならに気付くだろう。ああ、大したことのない高さだってね」
「先輩は気付いてくれるでしょうか」
「必ず気付く。永瀬はずっと待ってる。自分の隣にいてくれる人を」
その一言が正孝の心を奮い立たせた。正孝は勢いよく立ち上がった。
「涼一さん。本当にありがとうございます。僕のような情けない男に真摯にアドバイスをしてくださって」
正孝は一礼をした。
「友人の幸せのためだ。君だけのためじゃない」
涼一は冷静に受け答えた。
「それと、君を情けないと思ったことはない」
その一言がまたも正孝の心を勇気づけさせてくれた。えりかがこの男に10年の間も恋をしていたのか分かったような気がした。
「涼一さん」
「ん?」
「僕がアメリカに行くのは賛成ですか?反対ですか?」
正孝の質問に涼一は少し黙った。そして、静かにいった。
「俺は君の保護者じゃない。好きにしたら良い」
正孝はその一言が涼一なりのエールだと解釈した。正孝は今一度頭を下げて涼一の前から辞去した。
正孝が帰った後も、涼一はソファに座っていた。はたして、これから二人はどうなるか。その展望を計りかねていると、テーブルの上に置いてあったスマホが鳴った。
「もしもし」
「あ、涼。まだ起きてたんだ」
電話の相手は夏音からだった。
「ああ。今しがたまで、恋愛相談を受けててね」
涼一が言うと夏音が小さく笑った。
「もしかして、例のえりかの後輩の男性?」
「そうだ。突然、永瀬のことで相談したいと言われてね」
「涼が素直に受けるなんて珍しいね」
「大切な友人に関わることだ。受けないわけにはいかないだろ」
「でも、何で楠木さんは良いの?そんなに認めているの?」
「ああ。でなければ、皮肉を飛ばして電話を切ってるよ」
「涼がやっと見つけたって言ってたね。あれはどうゆうことだったの?」
「俺達は大きな誤解をしていたんだ。永瀬の恋人を見つけようと茜と俺が画策してただろう?そして、俺達は俺に似た人を紹介してきた」
「うん。でも、えりかは誰一人として気持ちが傾くことはなかった。正直、私も辛かった。えりかの涼への気持ちは知ってたけど、どうすることも出来なかった。涼一みたいな人がいればえりかも目移りすると思っていたけど、えりかの涼一への想いはそう安っぽいものじゃなかった」
「そうだ。俺達はそれに気付かなかった。だけど、楠木君が答えをくれた」
「どうゆうこと?」
「楠木君は一見、少し頼りなくて弱々しい存在に見えるから、とても永瀬が振り向くような相手じゃないように見える。しかし、そうじゃないんだ。永瀬の求めていた相手ひたすら真っ直ぐに永瀬のことを想ってくれる相手だったんだよ。かつて、藤沢がなつにそうしていたように」
「つまり、えりかには藤沢君が良かったってこと?」
「少し違うな。楠木君は楠木君で藤沢は藤沢だ。永瀬に必要な存在は楠木君だって言うことだ」
「難しいけど、何となく分かるかも」
「楠木君は永瀬のことを追いかける覚悟が出来たようだ」
「そっか。えりかは振り向いてくれるかな」
「そうだな」
涼一は立ち上がり、窓の方へと向かった。カーテンを開けると東京の夜景が見えた。
「振り向くさきっと。いや、もう振り向いてるかもしれない。本人は気付いてないだけで」
「そうだね。後は私達は二人を見守るだけだね」
「ああ」
「じゃぁ、私も朝早いから寝るね。お休み」
「お休み」
涼一は電話を切った。
涼一は夜景を眺めながら、えりかに対して自分がが出来る最後のおせっかいだと良いなと思った。頑張れ楠木君。君が思うより高嶺の花はすぐそこまで近づいてる。涼一は正孝にエールを送ってカーテンを閉めた。
翌日。正孝は異様な緊張感を持って出社していた。昨日、涼一との会話で大いに勇気づけられたとはいえ、えりかをデートに誘うなんて簡単なことではなかった。LINEで誘おうとも考えたのだが、やはりそこは直接誘う方が男らしくて良いのではないのかと言う、自分でもよく分からない理由でLINEで誘うことは無しにした。誘うタイミングも考えておいた。まさか仕事中に誘うわけにもいかない。もし、そんなことをすれば氷のような笑みを浮かべながら、皮肉を言われるのが目に見えている。なので、退社した後に誘うしかないと考えていた。ただ、えりかの退社時間が読めないのが難点だった。もし残業をしたら自分も残業するべきなのか、日を改めるべきなのか悩んでいた。ただあまり先延ばしにしたくはなかった。こうして決断した勢いのまま言わないと、自分の中の弱虫が騒ぎ出して諦めてしまうかもしれないと思っていた。そんな緊張感を持て余しながら、正孝は仕事に取り掛かり始めた。
退社時間を迎え、一人また一人と帰り支度を整え始めた。正孝はえりかの様子を盗み見た。えりかはパソコンと睨めっこしていた。正孝は今日は長い残業コースかと内心不安になった。
「あれ?まさはまだ帰らないのか?」
帰り際に優磨が聞いてきた。
「少しだけやることがあってさ。そんな時間がかかるもんじゃないけど」
「ふーん。そっか。じゃあ、お先」
「ああ。お疲れ」
正孝は軽く右手をあげた。
用もないパソコンを見つつえりかの動向を注視した。やってることは限りなくストーカーだが、これくらいは許容範囲だと言い聞かせた。退社時間を15分程過ぎた頃だろか。えりかがパソコンを閉じた。正孝の胸が高鳴った。えりかはそのままカバンを持たずにデスクを出た。正孝はこれから誰かと打ち合わせでもあるのだろうかと心配になった。真っ直ぐ歩いていたえりかが正孝の存在に気付いた。
「あら。まだ残ってたのね」
「ええまあ。先輩はこれから会社の人間と打ち合わせですか?」
「いいえ。お手洗いに行ったら帰るわ」
「あ、そうなんですね」
正孝はチャンスだと思った。
「まだやりたいことあったんだけど、残業も程々にしないと上から文句を言われるから」
正孝は苦笑した。
「楠木君もあまり残ってないで帰りなさいね」
そのままえりかは正孝の横を通りすぎた。正孝は慌てて立ち上がった。
「せ、先輩」
えりかは立ち止まって振り返った。
「何かしら?」
「自分も終わるので、良かったらその、駅まで一緒に帰りませんか?」
正孝は心臓は激しく動いていた。たかが駅まで一緒に帰ることを誘うだけがこんなにも緊張するとは思ってもなかった。正孝早くも祈る想いだった。
「ええ。良いわよ」
あまりにもあっさりとした口調に正孝は虚をつかれてしまった。
「え、あ、よろしいんですか?」
「切羽詰まった呼ばれ方したから何事かと思ったわよ」
「あ、すみません」
正孝は後頭部を掻いた。
「まあ良いわ。ちょっと待ってて」
えりかはスタスタとお手洗いに向かった。
正孝はえりかのなんでもないような態度に拍子抜けしていた。あんなにも、緊張して誘った自分がバカみたいに思える。そんなことを考えている場合ではないことに気付いた。自分も早く帰り支度を整えなければと慌ててパソコンの電源をオフにした。
一緒に帰ると言っても僅か5分の短い距離でしかない。正孝はどのタイミングでえりかを遊びに誘えば良いのか図りかねていた。他愛もない世間話しなんてしていたら、あっという間に駅に着いてしまう。しかし、一緒に帰りましょうと誘った手前、無言で過ごすわけにもいかないと思っていた。しかし、話しの主導はえりかに握られ、正孝は適当に相槌を打つほかなかった。そして、あっという間に駅に着いてしまった。
「せっかく一緒に帰ったのに、5分しかないなんて味気ないわね」
えりかがややつまらなさそうにいった。
「そうですね」
「ところで、私に何か話したいことでもあったの?」
不意をつかれた質問に正孝の目が泳いだ。
「え?」
「楠木君が一緒に帰ろうって言い出すから、てっきり、私に何か言いたいことがあるのかと思ってたわ。今も心ここにあらずって感じだったし」
正孝はえりかの慧眼に舌を巻いた。そこまで読み切られるとは思ってもいなかった。
「違うの?」
えりかが正孝の目を覗き込む。
「あ、あの、その、実は、はい。話しって程じゃないんですけど、先輩に聞きたいことがありまして」
正孝の喉はカラカラだった。
「やっぱり。それで?」
「えっと、その」
舌が上手く回らない。それに、考えていた誘い文句も出てこない。
「どうしたのよ?そんな言いにくいことなの?」
えりかは少し訝しむように正孝を見た。
正孝の緊張は極度に達していた。その時、涼一の顔と言葉が頭に浮かんだ。目には見えない涼一に励まされて正孝は言葉を絞り出した。
「も、もし休みの日に時間がありましたら、ぼ、僕と遊びに出かけてくれませんか?」
正孝は言えたと大きな高揚感を得た。その感情も束の間、えりかの答えが果たしてポジティブなものなのかそうではないのか改めて緊張が胸を襲った。話しの内容があまりにも予想外だったのか、えりかはまだ沈黙していた。
「良いわよ」
またもあっけからんとした言い方だった。正孝は全身の力が抜けてしまうかと思った。
「よ、よろしいんですか?」
「ええ。いつの休みに遊ぶ?」
正孝は慌ててスマホを取り出して、カレンダーを開いた。
「じゃあ、来週の日曜日はどうでしょうか?」
正孝が聞くと、えりかは手帳を取り出して予定を確認した。
「うん、その日なら大丈夫よ」
えりかはあっさり承諾した。
「本当に遊んでくれるんですか?」
正孝は思わず口にしてしまった。
「当たり前じゃない。何を疑ってるのよ。当日にドタキャンなんかもしないわ」
「そ、そうですよね。すみません。変なこと聞いて」
「あ、でも、一つだけお願いあるわ」
「はい。なんでしょう?」
「どこに遊び行きたいですかとか私には聞かないで。誘ってくれたのに申し訳ないけど、今はアメリカ行きのことで忙しいから、あまり余計なことを考えている暇がないの。だから、遊びの計画は楠木君が全て立てて」
「しかし、先輩の期待に添えるような計画を立てられるか・・・・・・」
「私のことは気にしないで。楠木君の行きたい所やりたいことで良いのよ。それに対して不平不満を漏らしたりしないから」
そうは言われても正孝は自分の計画で本当に大丈夫なのだろうかと不安になった。そんな正孝の胸中を察したのかえりかが続けていった。
「いつも言ってるでしょ。もっと自信を持ちなさいって。それに遊びの計画なんて会社の企画に比べたら楽なものでしょ。頼んだわよ」
忙しい身なのに、二人で遊んでくれることを了承してくれたのだ。こんなことでえりかの手を煩わせてはいけないと思った。
「分かりました。精一考えます」
「うん。でも、このことばかり考えて仕事を疎かにしないように」
「はい。承知してます」
「じゃあ、楽しみにしてるわ。またね」
えりかは嬉しそうな微笑みを浮かべてから、自分の乗る電車が来るホームに向かった。そんなえりかの背中を見送っている正孝の胸には大きな達成感が満ち潮の如く押し寄せていた。新商品の会議が成功した時以上の興奮も覚えていた。ついにあのえりかと二人で遊びにいける。正孝はそれだけも万歳したい気分だった。正孝は足取り軽くホームへと向かった。
ほんの一週間を一日千秋のような気持ちで過ごし、ついにえりかとのデートの日がやってきた。デートプランは全て正孝に託されたので、正孝はこの一週間仕事をこなす一方で、通退勤の電車の中、昼休み、夜寝る前の間はどこへ行くべきかずっと考えていた。お陰でGoogleの履歴欄がデート関連で上から下まで埋まっていた。
正孝が考えに考え抜いた末に思い付いたプランはドライブデートだった。仕事とはいえ初めて二人きりで行動をした木更津工場への訪問が懐かしく思える。あの時とは違い、今度は正真正銘のデートだ。正孝は工場ヘ行く時の比ではないくらいに緊張していた。えりかと出掛けられることが嬉しいのは当然だが、それでも一抹の不安や心配が心の片隅に常に存在している。えりかは楽しんでくれるだろうか、喜んでくれるだろうか、つまらないと思われてしまったらどうしようと際限なくネガティブな考えが纏わりついてくる。正孝は腕時計をチラッと見た。時間まで後15分程ある。絶対に遅刻してはならないと意気込み集合時間の30分前に着いてしまった。じっと待っていると不安ばかりが増幅されて嫌だった。その時正孝の頭に良さそうなアイディアが閃いた。正孝はすぐにスマホを開き、とある店を検索し始めた。
正孝は車の側で待機しながら、今か今かとえりかののとを待ちわびていた。そしてついに、その目にえりかの姿を捉えた。黒のノースリーブのシャツに同じく黒のガウチョパンツに身を包み、手には白いハンドバッグ、そして靴も真っ白なサンダル。髪はいつもより毛先がカールしていた。見事なまでのモノトーンコーデを着こなして会社の時と同様に背筋をしっかり伸ばして凛と歩く姿は周りの人間と一線を画していた。薄汚いコンクリートの上でさえもえりかが歩いていると、ランウェイに見えるから不思議である。もっともそれは、正孝の目にしか映らないのかもしれないが。えりかの目も正孝の存在を捉えた。すると、少し厚い唇を薄く広げるように笑った。その仕草はまるで女優のように優雅だった。正孝の胸は高鳴りぱっなしだった。先ほどまでの不安や心配が露のように消えいていた。
「おはよう」
えりかがニコッと笑った。
「お、おはようございます」
正孝の心臓がバクバクと暴れ始めた。
「良い天気ね」
えりかは眩しそうに空を見上げた。程よく雲が散らばる晴天だった。
「そうですね」
「それで今日はどこへ連れていってくれるの?」
「それはドライブしながらでも話します」
「それもそうね。この車?」
えりかは駐車してあった赤のアウディを指差した。
「はい」
「中々派手な車を選んだのね」
えりかは意外そうにいった。
「レンタル出来るのがそれしか無くて。嫌でしたか?」
「ううん。そういうわけじゃないわ。むしろ、こうゆう派手な車は好きよ」
「それならよかったです」
正孝は胸を撫で下ろし、助手席のドアを開けた。
「ありがとう」
えりかが乗り込んだのを確認するとドアを閉めた。そして、自分は回って運転席に乗り込む。
「あら、これは?」
えりかが目ざとくスターバックスの容器を見つけた。
「さっき買っておいたものです。以前、先輩がスターバックスのほうじ茶ラテが好きだと言っていたのを思い出したもので」
正孝は少し照れながらいった。
「そんな細かいことまで覚えてくれてたんだ」
えりかは感極まったようにいった。
「スタバの気分じゃなかったらすみません」
「ううん。凄い嬉しい。ありがたくいただくね」
えりかは美味しそうに一口飲んだ。
「では、先輩。そろそろ出発します」
「ちょっと待って」
「あ、なにか?」
「せっかくのデートなのに、先輩呼びじゃ気分が盛り上がらないわ」
「それはどうゆうことですか?」
えりかの発言の意図が読めなかった。
「下の名前で呼んで良いわよ。ただし、さんは付けてね」
「え?」
正孝の目が点になった。
「私も下の名前で呼ぶから、そうしましょう」
えりかは正孝の反応もお構いなしに決めた。
「え、いや、しかし」
突飛もない提案に正孝はしどろもどろする。
「ほら、早く呼んでみて」
えりかがせっつく。
「え、えりかさん」
最後は蚊の鳴くような声だった。正孝は恥ずかしさでえりかの顔をまともに見られなかった。
「まぁ今はそれで良しとしましょう。早く呼ぶことに慣れてね。正孝君」
下の名前で呼ばれた正孝はドキリとした。
「が、頑張ります」
正孝はそう言うのが精一杯だった。それでも、えりかは嬉しそうに頷いた。
「じゃぁ、出発します」
正孝はそう言ってアクセルを踏んだ。
正孝とえりかは木更津方面に向かい、そこからアクアライン乗って、今は海ほたるサービスエリアで休憩をしていた。
正孝とえりかは海を一望出来るデッキに足を運ばせていた。どこまでも続いている碧い海が、太陽の光を美しく反射させている。海風がえりかの艶やな黒髪を波打たせた。風が止み、反動で髪が戻る。えりかは顔にかかった髪をそっと右耳にかけた。その仕草がまた正孝の心をときめかせる。
「綺麗ね」
えりかがぽそっと呟いた。風に溶けてしまいそうな声だった。
「はい。とても」
「東京のビル群の夜景も綺麗だけど、私は自然が織り成す景色の方が好きだわ」
「その気持ち分かります。何て言うか、自然の景色って元気がもらえるような気がします。明日からも頑張ろうって素直に思えたり、くよくよしてた自分を励ましてくれるような感覚になったり」
「確かにそうね。私も落ち込んでる時や悲しい時はよく自然の中を歩いたりしたわ。心が落ち着いてきて、その時の自分と向き合えたりする」
えりかが目を細めて海を眺めながらいった。正孝はその美しい横顔に見とれた。目の前に広がる美しく景色よりも、えりかの横顔の方が気高く美しく写った。
えりかが手すりから手を離して思いっきり伸びをした。それから正孝の方に顔を向けた。正孝は急いで視線を逸らした。
「正孝君。お腹空かない?」
「あ、はい。空いてきました」
まだ下の名前で呼ばれることに馴れなかった。
「じゃぁ、サービスエリア内で何か食べよう」
二人はサービスエリアにある建物へと向かった。向かう途中も、正孝はあの美しい横顔を思い出して一人ドキドキしていた。
昼食を食べ終え海ほたるを後にした二人は、そのままアクアラインを抜けた。正孝の目的ではアクアラインを越えて横浜に向かうことだった。大きな渋滞もなくアクアラインを降りた。
「横浜なんて久々だわ」
横浜の街並みを眺めながら、えりかがいった。
「いつ振りなんですか?」
「プライベートで来るのは、三年ぶりくらいかしら。確か、茜の誕生日を祝うためにクルージングディナーをしたわ」
「またオシャレなお祝いですね」
正孝は感心しながらいった。自分には出てこない発想だと思った。
「でも、茜にはあまり響かなかったみたい。茜は私以上に肩の凝る場所が苦手だから」
「友達がせっかく祝ってくれたんですから、茜さんも嬉しかったはずですよ」
えりかは小さく笑い、昔を思い出すような遠い目つきで語った。
「もちろん、喜んではくれてたわ。けど、茜は良くも悪くも一番顔に出やすい子だから、すぐに無理をしてるって分かった。それが凄いショックだったのを覚えてる。丁度、昇進もしてボーナスもたっぷり入ったから、お金をかけたお祝いをしてくれれば喜んでくれるみたいな安易な事を考えていたのよ。けど、大失敗だった。終始、茜は居心地悪そうにしてた。本人はそんな素振りを見せてるつもりは無かったんだろうけど、長年付き合ってるからすぐに分かったわ。茜は最後まで楽しかったって言ってくれたけど、それがまた心苦しかった。お祝いされる本人に気を遣わせるなんて、何て自分は最低なんだろうって蔑んだわ」
「そんなプレゼントは何よりも気持ちですよ。茜さんもその気持ちが分かってるから、心から喜んでいたはずです」
「ありがとう。でも、もうとっくに吹っ切れてるし、ただの思い出話しよ。トラウマみたいに思ってなんかないわ。今まで来なかったのはただの偶然。早く降りて街を歩きたいわ。ずっと座ってるのも疲れちゃったし」
正孝は山下公園の近くにあったコインパーキングに車を停めた。それから横浜の王道なコースを二人で散策した山下公園から大桟橋、赤レンガ倉庫を経てタイムズスクエアのカフェで小休憩をした後、えりかが観覧車に乗ってみたいと言ったので、コスモワールドに向かった。
コスモワールドの観覧車から一望する横浜の景色もまた美しかった。
「久々の横浜はどうですか?」
正孝の質問にえりかは一拍置いてから答えた。
「とにかく綺麗ね。無駄なものがなくてどれも整然とされていて歩いてて自然と楽しくなってくる。でも同時に、綺麗すぎて人によっては横浜に対して劣等感みたいなものを抱いて、あまり行きたくないって思われるかもね。横浜という街を高嶺の花のように思ってしまって」
えりかの口から高嶺の花という言葉を聞いて、正孝は意味もなく緊張した。
「ねぇ、正孝君は好き?」
えりが不意に正孝に尋ねた。
「え?」
正孝はえりかを見つめた。えりかもまた正孝をじっと見つめていた。
「どうなの?」
正孝は何がとは尋ねなかった。尋ねても答えてくれない気がしたからだ。
「は、はい。好きです」
正孝がそう答えると、えりかは口元に微かな笑みを浮かべた。
「私も好きよ」
えりかはそう言うと、また外に目を向けた。
「先輩・・・・・・」
正孝が何か言う前にえりかが口を挟んだ。
「先輩呼びはダメって言ったでしょ?」
「あ、すみません。え、えりかさん。今のは横浜の話しですよね?」
まだ下の名前を呼ぶのが照れ臭かった。
「正孝君がそう思うなら、そうなんじゃない?」
えりかは意味深に返す。正孝にはえりかの考えが読めない。
「違う意味もあったんですか?」
「違う意味も何も、意味は一つしかないわよ」
ますます分からなくなっていく。
「もう一周してしまうのね」
降車口がすぐそこに見えていた。
「たくさん歩いたから、お腹空いてきたわ」
「そうですね。もう18時ですし、夕食を食べに行きましょう」
「もしかして、どこか予約してくれてるの?」
えりかが聞いた。
「は、はい。さっきのクイーンズスクエアに美味しい和食料理のお店があるそうなので、昨日予約しておきました。少し早いですが、もう訪れても大丈夫だと思います」
「じゃぁ、行きましょう。わざわざ予約してくれてありがとう」
「いえ、これらくらい当然です」
まさか正孝の頭にその店にした理由が他にあるとは、さすがのえりかも気付くことはなかった。正孝からすれば夕食の店はみなとみらい付近ならどこでも良かった。和食料理の店にしたのも、食べログを見てたまたま決めただけだった。正孝にはどうしてもえりかと一緒に行きたい場所があった。それはみなとみらいにあるインターコンチネンタルホテルのすぐそばにある。そこは正孝にとって横浜で最も好きな場所であった。正孝はそこで一世一代の告白をしようと決めていたのだ。日没が近くなり、告白のことを考えることが多くなる。緊張で手汗が止まらなかった。それでも、えりかにその緊張を悟られないように演技をした。幸いえりかは正孝の様子に気付くことはなかった。正直、夜ご飯の味は分からなかった。とにかく、口に入れて飲み込むことで精一杯だった。疲れが出てきたのか、夕食時のえりかもあまり元気がないように見えた。お互い口数少なく静かな夕食を過ごした。お会計を終えて、二人はクイーンズスクエアを出た。
「大分、涼しくなったね」
えりかがいった。正孝は黙って頷いた。
「これからどうする?帰る?」
えりかが正孝に聞いた。
「もう少しだけ付き合っていただけませんか?一緒に行きたい場所があります」
正孝はえりかを真正面から見据えて真剣な表情でいった。えりかはその真剣な目を数秒受けてからいった。
「良いわよ」
インターコンチネンタルホテルの脇を通り抜けると、小さな建物と桟橋がある場所に辿り着いた。周囲には誰もいない。
「こんな所もあったのね」
えりかが感心しながらいった。
小さな建物の周りにはいくつかベンチが置いてあった。正孝は迷わず海に面しているベンチへとえりかを誘った。そこに腰をかけて海の向こう側の景色を眺める。
暗い海面が目の前に広がり、遠くには横浜ベイブリッジが光輝いていた。肌を優しく撫でるような海風がまた心地よかった。
「素敵な場所ね」
えりかがポツリといった。
「そう言ってもらえて良かったです」
「正孝君はいつからこの場所を知っていたの?」
「初めて横浜で遊んだ時です。友達と適当に歩いてたら、偶然辿り着いたんです。それ以来、横浜に来ると必ずここに来てます」
「そうなんだ。横浜にはよく来るの?」
「半年に一回くらいです」
「丁度良い頻度ね」
「アメリカに行かれますが、好きな街とかありますか?」
「そうねえ。これといった街はないわ。アメリカには行くと言うよりは、立花君に会いに行ってたの方が正しいから」
「つまり、涼一さんがイギリスにいたらイギリスに行ってたってことですか?」
「恥ずかしいけど、そうゆうことになるわね」
えりかは苦笑気味に頷いた。
「本当に好きだったんですね」
「ええ。そうね。自分でも狂ってるって思うわ。でも、10年も一人の人を想い続けられるなんて、我ながら素敵な恋をしてたって誇りに思うことにしたわ」
「こんなことを聞くのもあれですけど、夏音さんがいなければって思ったことはあるんですか?」
えりかはそに質問にはすぐには答えなかった。
「夏音のことを下の名前で呼ぶのは抵抗ないみたいね」
えりかの皮肉に正孝は思わず俯いてしまった。
えりかは立ち上がって、桟橋に設置されある手摺りの元へと歩いた。正孝もえりかの後に続いた。
「今の質問だけど、もちろんあるわ。高校時代はしょちゅう思ってたわ。どうして私が彼の幼馴染じゃなかったんだろう。どうして彼の隣で笑えるのは私じゃないんだろうって。酷い話し、私が立花君が高校を卒業と同時にアメリカ行きを強く進めたのは、二人が遠距離になってしまえば、もしかしたら別れるかもしれないって思ってた部分も少なからずあったわ。最低な女でしょ?」
「・・・・・・」
正孝は何も答えられなかった。
「でもね、あの二人には距離なんて関係なかった。例え、銀河の果て程離れてもあの二人の気持ちを変えることは出来ない事に気付いた。そして、夏音のことが大好きになればなるほど、自分が抱いている嫉妬心に嫌気が差してきた。一時期は、夏音達と顔を合わせるのも嫌になって避けた時もあった。その心の隙を埋めるかのように、興味のない男達の誘いに乗ったり、付き合ったりしたわ。結果は散々だったけどね」
えりかは自嘲気味に笑った。
「先輩・・・・・・」
「どうやら私には独りがお似合いみたいね。まぁでも、独りには馴れてるから、今更寂しいなんて思ったりしないわ」
そう語るえりかの横顔が強がってることは明白だった。
「独りじゃありません」
正孝は小声でいった。
「え?なんて?」
「独りなんかじゃありません」
正孝はえりかの手を掴み、自分の方へと体を向けさせた。
「く、楠木君?」
えりかは大きく目を見開いた。
「僕は・・・・・・僕は・・・・・・」
正孝は唾を飲み込んだ。えりかへの気持ちを口に出したい。しかし、言ってしまえばえりかとは今までのような関係ではいられなくなってしまう。それでも、この溢れる熱い想いを留めておくことは出来ないと思った。
「僕は先輩のことが大好きです」
正孝の告白にえりかは驚くのではなく、むしろ冷静な顔になった。
「ずっと前から先輩のことを想ってました。けど、僕からしたら先輩は高嶺の花の存在で、自分が近付ける存在じゃないとも思っていました」
「楠木君・・・・・・」
「でも色んな人と話す内に、それはただ逃げてるだけであり、自分が傷付くことを恐れているだけの臆病者だと言うことに気かされました。でも、もう逃げません。僕は先輩のことが好きです。先輩を下から見上げるのではなく、先輩の隣に立っていたいです」
二人は真剣に見つめ合った。そして、先に目を逸らしたのはえりかの方だった。
「楠木君。ありがとう。今まで受けた告白で一番胸に響いたわ。本当にありがとう。でも、ごめんね。あなたの気持ちに応えることは出来ないわ」
えりかは瞳を潤ませた。
えりかの答えに正孝は手を震わせた。えりかの返答は予期していたものだった。それでも、いざ目の前で拒否の返答を受けるのは、胸に大きな痛みを感じた。
「どうしてですか?」
正孝は思わずそう聞いていた。
「私はアメリカに行くのよ。それも遊びや留学ではなく仕事として。理由は深く説明出来ないけど、今回のアメリカ転勤は新商品企画と同様に絶対に失敗は許されない。だから、誰かを思いやる余裕なんてないの。楠木君と付き合っても、結局は楠木君を更に傷付けてしまうだけだわ」
えりかは再び海の方に体を向けた瞳から涙が溢れているのを気付かれたくなかったからた。
「なら、どうして。どうして、今日の誘いを受けたんですか。先輩は僕の気持ちに気付いていたはずです。誘いを受ければ、僕から告白を受けるかもしれない可能性はあったと分かっていたはずです」
「それは・・・・・・私の最後のわがままよ」
「わがままですか・・・・・・」
「何にせよ、楠木君の気持ちには応えられないわ。本当にごめんなさい。こんな酷い女のことなんかすぐに忘れて素敵な彼女を作ってほしいわ。私にこんなこと言われても嬉しくないでしょうけど、楠木君は本当に素晴らしい男性よ。楠木君のような人に好かれたことを誇りに思うわ」
えりかは正孝に顔を向けて微笑んだ。でも、その微笑みはただただ淋しそうだった。
「・・・・・・先輩がわがままを言うのであるならば、僕も言わせてもらいます」
えりかは眉間に皺を寄せた。正孝が何を言い出すのか分からなかった。
「僕もアメリカに行きます」
正孝の発言にえりかは大きく目を見開いた。
「な、何を言い出すの?」
えりかは動揺した。
「先輩を追いかけてアメリカに行きます。それが僕のわがままです」
「何をふざけたことを言ってるの」
「ふざけていません。僕は本気です」
「どうしてそうなるの?会社はどうするの?」
「辞めます」
「馬鹿なこと言わないで!」
えりかは声を張り上げた。
「先輩を独りにさせたくありません!」
正孝はえりかよりも更に大きく張り上げた。普段の正孝からは想像できない怒声に、えりかは一瞬たじろいだ。
「先輩は強いです。誰よりも強いです。確かに、アメリカに独りで行っても成功すると思います。だけど、先輩はもう十分に独りで頑張ってきたじゃないですか。お父さんと弟さんのために、会社のために、そして友達のためにずっと頑張ってきたじゃないですか。だからもう、先輩も誰かに甘えて良いんです。涼一さん以外の誰かに。僕と涼一さんでは比べ物にならないくらいに差があります。でも、唯一勝てることがあります。それは先輩への想いです。例え、銀河系の果てまでも距離があっても、僕は先輩を想い続けます」
正孝の頬を熱いものが流れた。
「楠木君・・・・・・」
正孝の言葉一つ一つがえりかの心に深く刻まれていく。気付けばえりかの頬にも涙が流れていた。
正孝は手を伸ばしてえりかの手を握り、グッと自分に引き寄せた。
「先輩を・・・・・・先輩を必ず幸せにしてみせます。それこそが僕にとっての、何よりも大きな仕事です。必ず成功させます。だから先輩、いやえりかさん。あなたの隣に立たせてください」
今までの蚊の鳴くような声ではなく、強く自信に満ちた声で下の名前を呼んだ。それがえりかの心を強く惹き付けた。
「信じて良いのね?何があっても私の隣に居てくれるって」
正孝の胸に顔を埋めながら、えりかは聞いた。
「はい。先輩を決して独りにして降りたりしません。どんなに強い雨風に晒されても、先輩の隣にいます。高嶺の花は僕がずっと守ります」
正孝はえりかのことを強く抱き締めた。今度のえりかは拒絶することなく同じように背中に腕を回して力を込めた。海風が二人の背中を優しく撫でる。その風が合図になったかのように、二人は見つめ合い、口づけを交わした。
四年後。ロサンゼルス郊外にある教会。
白のタキシードに身を包んだ正孝はしきりに鏡に映る自分を見ていた。何度も試着を繰り返して来たのに、今更ながらこの白のタキシードは自分に似合っているのか不安になった。髪の毛をもう少し短く切るべきだったとか、もっと背広を短い物にすれば良かったなど、どんどん自分の身だしなみに自信が無くなっていく。髪の毛のセットの細かい部分を直していると、控え室のドアがノックされた。正孝は慌てて鏡の前から離れた。
「どうぞ」
正孝が返事をするとドアを開けて一人の人物が入ってきた。
「よお。まさ」
気軽な挨拶と共に入ってきたのは優磨だった。
「優磨」
優磨とは一年ぶりだった。親友に会えた嬉しさが胸に込み上げてきた。
「久し振り。来てくれて本当にありがとう」
正孝は優磨に歩み寄りながら、右手を差し出した。優磨も笑って正孝の右手をガッチリと握り締めた。
「ついにこの日が来たな。おめでとうまさ。本当に良かったな」
優磨は感慨無量といった様子だった。
「この日を迎えられたのも優磨のお陰でもあるよ。改めてお礼を言いたい。ありがとう」
この4年間様々な苦労があった。そんな中でも乗り越えられたのは、優磨の励ましがあったことは実に大きかった。正孝が悩みや迷いを抱えた時は常にSNS等を通じて励ましてくれた。優磨のポジティブな考えには正孝にも大きな自信になった。
「よせよ。俺達の間にそんな堅苦しいのは無しだ。それより、その衣装似合ってるじゃないか。女王の隣に立っても見劣りしないな」
優磨は右手の親指を上げた。
「懐かしい呼び方だな」
正孝は笑った。えりかを高嶺の花としてか見れなかった時代が懐かしいと思った。
「まさはさ、美星堂に戻ってくるつもりはないのか?」
優磨は少し遠慮がち聞いた。
4年前。えりかに告白し、共に渡米する際に正孝は美星堂に辞表を提出していた。アメリカで再就職先を探そうとしていたのだが、ある日、えりかから目の飛び出るような話しを聞いてからは働く意思は無くなった。えりかが社長の座に就けるように、全力でサポートすることに決めた。
正孝はゆっくりと首を横に振った。
「戻るつもりはないよ。それに、僕が今戻ったら、コネ入社としか思われないだろうし、えりかさんの立場にも傷がつくかもしれない」
「確かに、そうかもしれないな。悪い。聞かなかったことにしてくれ」
「良いんだ。ありがとうな」
正孝は優磨にだけはえりかが社長育成プログラムを受けていることを話していた。優磨も大層驚いていたが、現社長の判断には賛成だと言っていた。優磨は来たるべきに日に備えて着々と社内での地位を築いていた。将来、えりかの右腕として辣腕を振るう姿を思い描いているのかもしれない。
それから優磨と美星堂時代の話しで盛り上がった。ちなみに、えりかは来年に製品開発部本部長という役職で美星堂本社に戻ることが決まっていた。第一製品開発部から第三開発部を統括する立場になる。
4年前にえりか達が作り上げたカラコン通称オーロラシリーズは当初描いていた販売実績を遥かに上回る売り上げを記録していた。今や女子中高生のみならず、多くのコスプレイヤー達からも愛用されていて、カラコン市場を席巻し続けている。それに加えてアメリカ支社での実績も評価されての栄転だった。4年前の開発チームのメンバーも各々順調に出世の階段を歩んでいた。
優磨の話しでは、美星堂内ではえりかの凱旋に胸を踊らしているそうだ。ただ、今回の結婚で落胆している男性社員が大勢いて、中には辞表を提出した者がいたとか何とかの噂が立っていた。そんな話しで盛り上がっていると、再びドアがノックされた。そこで二人の会話は一旦途切れた。
「どうぞ」
正孝が返事をすると、ドアを開けてある人物が入ってきた。正孝はその人物を目にして優磨の時と同様に胸が高まった。
「涼一さん・・・・・・」
「久し振りだね。楠木君。おっと、先客が居たのか。失礼した」
「あ、どうぞ中に入ってください」
正孝が右手で中に入るように促した。
「積もる話しがあるだろう。外にいるから、終わったらまた来るよ」
そう遠慮する涼一を止めたのは優磨だった。
「大丈夫です。まさとの話しも終わりましたので、どうぞ入ってください。あなたは立花さんですよね?」
優磨に名前を当てられた涼一は少し驚いた顔をした。
「俺のことを知っているのかい?」
「はい。まさからよく聞いてます。自分の最も尊敬する人物だって」
「そいつは光栄だね。そうゆう君はもしかして楠木君の友人の諏訪君かな?」
「そうです。俺のこと知っているんですね」
「楠木君からよく聞いているよ。自分の最も信頼している親友だって」
涼一の言葉に優磨は照れたように笑って正孝を見た。正孝も恥ずかしくて一瞬目を逸らしたが、すぐに目を合わせて同じ様に照れたように笑った。
「楠木君。よく似合ってるよ。永瀬もきっと惚れ直すだろう」
正孝は右頬を掻いた。
「涼一さんはえりかさんに会いましたか?」
「いや、まだだ。先に楠木君の方に来たよ」
「そんな、僕の方は後回しで良かったのに」
「良いんだ。女同士だけで積もる話しがあるだろうから、まだ俺が居ない方が都合が良いさ」
涼一の言葉に正孝と優磨は声を揃えて笑った。
「それに楠木君にも話したいことがあったから」
「話したいことですか?」
「あ、なら俺席を外しますよ。その方が話しやすいですよね」
「いや、二人の話しが終わってないのなら、全然後で構わないんだ」
「さっきも言ったように話しは終わって、雑談をしていただけなので問題ないです。立花さんの話しの方がまさの為になるでしょうから、どうぞ話してやってください」
優磨はいった。
「すまない。ありがとう」
涼一は殊勝な態度でいった。
「全然気にしなくて良いっすよ。永瀬先輩のにも挨拶をしようと思ってましたから。じゃあなまさ。また式場で」
「悪いな優磨」
正孝は顔の前で手刀を切った。優磨は気にするなというように手を降って、控え室を後にした。
「楠木君の言ってた通り、彼は素晴らしい人間のようだな」
涼一は優磨の姿が見えなくなるといった。
「はい。今日もわざわざLAまで来てくれて、優磨と仲良くなれただけでも美星堂に入った価値はありました」
「彼もきっとそう思ってることだろう」
「あの、それで話しと言うのは何でしょうか?」
正孝は遠慮がちに聞いた。
「そう構えなくて良い。今更、説教じみたことを言ったりはしない。その前に、本当に結婚おめでとう」
「あ、ありがとうございます」
「この4年間慣れない環境であったりと、色々大変な思いをたくさんしていた。それでも、決して永瀬の側を離れなかった。楠木君のその深い愛には尊敬の念を抱くばかりだ」
「そんな。僕がこうしてここに居られるのは、皆のお陰です。特に涼一さんにはたくさん助けていただきました。僕が迷った時や心が折れそうになった時、涼一さんのアドバイスのお陰で自分を見失わずに来れたんです。ありがとうございました」
正孝は頭を下げた。
自分のような凡庸な男がえりかとこうして結婚することが出来るのは、ひとえにこの人物のお陰であることは重々承知していた。この4年間全てが順風満帆であったわけではない。何度もえりかと衝突したりすれ違ったりした。そんな時に最も頼りになったのが涼一だった。涼一がくれるアドバイスは常に正鵠を得ていて、常に道標になってくれた。涼一が居なければえりかと結婚することは不可能だったことだろうとさえ思っている。
「アドバイスと言うのは他人の意見をしっかりと聞く耳とそれを受け入れられる器の広い人間がいてこそアドバイスとなる。楠木君は俺からどんなに強い言葉で言われても、常に耳を傾けて心に受け入れた。だから、この場にいれるのは楠木君自信の力だ」
涼一の言葉に正孝は感無量といった表情になった。これこそ正孝が涼一を誰よりも尊敬する理由だった。涼一の話す言葉は人に自信をもたらしてくれる。舌先が鋭く、時には容赦のない言葉で相手を傷つけてしまうこともあるが、涼一の言ってることは常に真理をついていて正しい。だから、最終的には皆が涼一についていくのだ。本人が前に進もうと踏み出す時は、そっとではあるが、それでも確かな力で背中を押してくれる。恐らく、博物館の部下達にも同じように接しているのだろう。聞いた話しでは、涼一の館長としての任期は去年で満期を迎えていたのだが、職員達の熱烈なアンコールを求められて、もう3年間館長を務めることになったという。その話しを聞いた時は、職員達の気持ちは深く理解できた。自分も間違いなく残るように懇願していたことだろう。
立花涼一という人物を知れば知るほど、えりかが10年も片想いをしていたことが理解できた。あまりの存在の大きさに、えりかにとっての最上の幸せは涼一と一緒になることだったのではと悩んだこともあった。もっとも、そのことを涼一に吐露したら信じられない程に激怒されたのを鮮明に覚えている。
「本当に涼一さんは人を持ち上げるのが上手ですね」
「そうだろうか?当たり前のことを言ったまでだ」
涼一のようにその当たり前が当然のように言える人間がどれほどいることだろうかと思ったが、敢えて口には出さなかった。
「えりかさんにはこの後会われるんですか?」
「もちろん。だけどまぁ、永瀬には楠木君に幸せにしてもらえくらいしか言うことはないけどね」
「そう言えば、ずっと疑問に思ってたんですが、えりかさんと涼一さんはとても仲が良いのに、どうしてお互いに名字呼びを貫いているのですが?茜さんとは下の名前で呼び合ってるのに」
正孝の質問に涼一は小さな笑みを浮かべた。
「永瀬には同じ質問をしなかったのかな?」
「しました。けど、そんなことどうでも良いでしょって怒られました」
涼一は高らかに笑った。そして、フーッと息を吐いた。
「どうして俺と永瀬は頑なに名字で呼び合うのか。多分それは、永瀬にとって最後の防衛線だったと思う」
「防衛線?」
正孝は首を傾げた。
「そうだ。永瀬は名字呼びを徹底することで、俺への想いにブレーキをかけていたんだ」
「どうしてえりかさんはそんなことを」
「あくまでも推測だが、永瀬は名字で呼ぶことで俺との距離を作ったんだ。決して、これ以上深く入り込んではいけない線を。もし、永瀬がその線を越えていたら、今頃なつと永瀬は友人同士ではいられなかったはずだ」
「それが名字で呼ぶことに関係があるんですか?」
「永瀬にはあったんだろう。名字で呼ぶことで俺との間には距離があることを自分に認識させていたんだろう」
「涼一さんも名字呼びにこだわっていたのも、同じ理由なんですか?」
「まさか。俺からしたら永瀬との距離があることをわざわざ認識する必要はない。俺はなつ以外の女性を相手より先に下の名前で呼ばないと言うポリシーがあっただけだ。もし、永瀬が下の名前で呼んできたら、俺も下の名前で呼ぶようになってたよ」
「名字で呼ぶことで好きな人と無理矢理距離をつくってたなんて、きっと辛かったでしょうね」
「俺が言うのもなんだが、きっとそうだろうな。永瀬も完璧な人間じゃない。いくら距離をつくろうと、それを縮めたくなって邪な考えを持ってしまうことはある」
正孝は涼一の言葉に勘づいた。
「涼一さん。もしかして、えりかさんが涼一さんに高校と同時にアメリカ留学を進めた理由に、ある狙いがあったことに気付いていたんですか?」
「ああ。永瀬が俺となつが遠距離恋愛をすることによって、俺達が別れるかもしれないと期待していたことには気付いてたよ」
「気付いていながら、アメリカ留学を決断したんですか?」
正孝は驚いた。
「当然だ。何故なら、永瀬の目論見が外れることは俺には分かっていたからね」
「それはつまり、夏音さんとは別れるはすがないってことですか?」
「そうゆうこと。むしろ、遠距離恋愛だろうが俺となつの絆に亀裂が入ることはないと永瀬に分かってもらって、俺のことを早々に見切りをつけて永瀬には新しい恋を始めてほしかった。それは上手くいかなかったが」
「えりかさんが言ってました。人生で一番の後悔は大切な親友を邪魔と思ってしまったことだって」
「そうか。そこまで後悔してるのか」
「今の話しを夏音さんは知っているんですか?」
「もちろん、知らない。そして、これからも知ることはない。永瀬の最大の後悔を知っているのは、俺と楠木君だけだ」
「えりかさんにそのことを問い詰めることはなされないんですか?」
「する必要はない。本人が心の底から後悔して反省しているんだ。俺の方から蒸し返すつもりはない。墓場までの秘密として骨と共に埋めておく」
「僕もそうします。そして、僕はえりかさんに後悔をさせません」
正孝は真っ直ぐな瞳でそういった。
「良い決意だ。もう俺が何も言う必要はないな。楠木君。永瀬のことを幸せに、いや、永瀬と共に幸せになれ。良いな」
「はい」
正孝は力強く頷いた。
「さてと、そろそろもう一人の主役に会ってくるとしよう」
「きっと首を長くして待ってます。楽しんできてください」
涼一は正孝の言葉を背に受けて、えりかのいる新婦控え室へと向かった。
時は涼一が正孝の元を訪れた所より少し前に遡る。
化粧を終えたえりかは鏡の前で瞑想するようにじっと座って佇んでいた。ここまでの思い出が走馬灯のように頭を駆け巡る。様々な苦労とふと目を開けると、鏡に映る美しい純白のドレスに身を包んだ自分と目が合った。自分は決して着ることないと思っていたウェディングドレス姿に改めて感動を覚えた。それと同時に、滅多に覚えない緊張を覚ていた。永瀬えりかという一人の女の人生に一端の区切りを打ち、今日から新たなる人生を歩み始めることが、こんなにも緊張するものだとは想像もしていなかった。緊張が段々と強くなっていき、鏡に映るドレス姿の自分が自分ではないように見えてきた。夏音や茜もこんな風な気持ちを抱えていたのかと気になり始めた頃、控え室のドアがノックされた。えりかは緊張を悟られないように毅然とした態度をとった。
「どうぞ」
何とか落ち気払った声で言えた。ドアの向こうの相手は返事を聞いた瞬間に勢いよくドアをガラッと開けた。
「えりか!」
名前を呼びながら、入ってきたのは茜だった。
「茜!」
えりかは嬉しさのあまり立ち上がった。
茜は足早にえりかに駆け寄った。
「えりか。結婚おめでとう」
茜はえりかの両手を握った。その目は早くも潤んでいた。
「ありがとう茜。わざわざ遠い所までごめんね」
「何水臭いこと言ってるのよ。えりかの為なら、南極で挙げても行くわよ」
茜の大袈裟な例えにえりかは笑った。先程までの緊張が弛緩しているのが分かった。
茜はえりかのことを上から下まで眺めて感嘆を漏らした。
「それにしても、本当に似合ってるね。夏音に勝るとも劣らないわよ。夏音は綺麗だけど、えりかの場合は美しいがピッタリだね」
「ありがとう。茜のその言葉で自信がついたわ」
えりかは頬を緩ませながらいった。
「あら?いつもは自信満々のえりかも、えらく気弱じゃない。もしかして、緊張してるの?」
「少しね」
えりかは強がることなく本音を晒した。
「へぇー。えりかほどの女でも結婚式は緊張するのね」
「式に緊張はしてないわ。ただ、結婚というものが実感湧かなくて、漠然と不安なのよ」
「なぁに?ここへ来てまだマリッジブルーなの?正孝君呼ぼうか?」
「止めてよ。まさくんはまさくんで手一杯なはずよ」
「まぁえりかの気持ちは分かるけどね。意外と式当日になっても、あまりピンと来ないのよね。でも、その内結婚したんだって実感するから、あまり気に悩まないほうが良いよ。せっかくの晴れ舞台なんだから、楽しまない方が損よ」
茜はえりかを励ますように笑った。えりかは茜の言う通りだと思った。ましてや、自分達のためにわざわざアメリカまでお祝いに来てくれる人達に暗い顔で会うなんて失礼だと思った。茜の言うように、この舞台に立てることを楽しむことにした。
茜と会話を楽しんでいると、今度は夏音が到着した。
「夏音!よく来てくれたね。ありがとう」
「えりか!おめでとう!」
夏音も茜と同様にえりかの両手を強く握った。
「本当に綺麗だよ。今、世界で一番綺麗なのは間違いなくえりかだね」
「ちょっと夏音。あんたがそれ言ったら、正孝君のセリフ無くなっちゃうでしょ」
二人の漫才みたいなやり取りにえりかはまた笑った。
「もう夏音も茜も大袈裟なんだから。でも、ありがとう。本当に嬉しいわ」
親友二人の変わらない友情にえりかの胸は熱くなった。
「あれ?そう言えば涼一は?」
茜が夏音に聞いた。
「涼は先に楠木君に話しがあるって言って、新郎控え室の方に行ってるよ」
「えー。普通付き合いの長いえりかの方から顔を出すべきじゃない?」
茜はそう不満を漏らした。
「別に気にしてないわ。立花君はそうゆう人じゃない。それに、案外まさくんの方から会いに行ったのは、私達に気遣ってなんじゃないかしら。女同士でしか話せないこともあるからね」
えりかがそう言うと茜は納得顔で頷いた。
「じゃぁ、男達が来るまでその女同士で盛り上がっちゃおう」
茜の言葉にえりかも夏音も笑顔で頷いた。
三人で大いに盛り上がっていると、ドアをノックする音が聞こえた。
「おっ、涼一のやつの登場かな」
茜がいった。
「どうぞ」
えりかが返事をすると、スーッとドアを開けて一人の人物が入ってきた。その人物は仕立ての良い紺のスーツを着こなし、開いたドアの所に立っていた。その人物は健吾だった。
「藤沢君!」
「藤沢!」
えりかと茜が少し驚いたように声をあげた。
健吾は変わらない爽やかな笑顔を浮かべながら、大股で三人の元に近寄った。
「皆、久し振りだね」
健吾は三人の目をそれぞれ見ながらいった。
「相変わらずイケメンだねぇ。素敵なおじ様まっしぐらね」
茜が茶化すようにいった。
「止めてくれよ。恥ずかしいだろ」
健吾は照れ笑いを浮かべながら、顔の前で手を横に振った。
「ダメ元で招待状を送ったから、来てくれるなんて感激だわ。本当にありがとう」
「礼を言うのはこっちの方さ。永瀬の晴れ舞台に招待をしてくれてありがとう。それにしても、とても良く似合ってるな。綺麗だ」
「藤沢君に言われると、なんだか照れるわね。ありがと」
「藤沢君。星ちゃんは?」
夏音が聞いた。
「外で待ってるよ。皆に会えるのを楽しみにしてるよ」
「どうして、ここに連れてこなかったの?」
今度は茜が聞いた。
「行こうって言ったんだけど、星がまずは私抜きで会ってきてって。束の間だけど、同窓会を楽しんで来てって言われてさ」
「星ちゃんらしいね」
夏音は微笑んだ。
えりかがアメリカに発った数ヶ月後、健吾の提案で夏音、涼一、健吾、星の会食が実現した。夏音の言った通り、分野は違えど同じ科学者同士涼一と星はかなり馬が合った。更にその会食で涼一と健吾は高校時代の蟠りを解かして、程なくして友人となった。それから、そこに茜とリモートでえりかも加わり今でも2ヶ月に1度は6人で集まってご飯に行っていた。えりかが夏休み等で日本に帰った際には、正孝もその食事会に参加していた。
「ここに来るのは長時間の旅だけど、星ちゃんは体調の方は大丈夫そう?」
えりかは心配そうに聞いた。
「心配ないよ。アメリカの星は国旗でしか見たことないから、早く本物の夜空の星を見てみたいって息巻いてるよ」
「独特な言い回しが科学者のそれね」
えりかは苦笑して、続けていった。
「でも、そうね。せっかくアメリカに来てくれたんだから、堪能して帰国してほしいわ」
「星ちゃんは今も星のことで頭がいっぱいだもんね。アメリカの星空に興味を持っちゃって帰りたくないって言い出すかもよ」
夏音がいった。
「それは困るね。星は一度言い出したら聞かないから」
健吾は苦笑いしながらいった。
「星は大丈夫でしょ。涼一みたいに変人だけど、涼一程自己中じゃないんだから」
茜がそう言うと、ノックも無くドアがガラッと開いた。えりか以外の皆はドアの方に顔なり体なりを向けた。そこには涼一がしかめっ面で立っていた。
「立花。久し振りだな」
健吾が手を上げた。涼一はそれに応えながら、真っ直ぐに茜に詰め寄った。
「悪かったな。変人な上にわがままで」
「あ、今の聞こえてた?」
茜はばつ悪そうに聞いた。
「バスケ部のマネージャーで鍛えられた声はデカイから気を付けるんだな」
涼一の嫌味に茜は舌をペロッと出した。
「立花君」
「永瀬。結婚おめでとう」
「ありがとう」
「さすが、ドレスが映えてる。結婚雑誌のモデルも真っ青だな」
涼一はニヤリと笑った。
「最高の褒め言葉として受け取っておくわ」
「そうしてくれるとありかだい。そうだ藤沢。外に松宮が居たけど、中には入れなかったのか?」
涼一の質問に健吾は先程と同様の説明をした。涼一はえらく頷いた。
「束の間の同窓会か。さすが上手いことを言うね」
「立花君。まさくんの様子はどうだった?」
えりかが聞いた。
「緊張した面持ちだったけど、良い表情をしてた。この4年間で随分と逞しくなったよ」
「そりゃあ、4年間もえりかの傍に居たらねえ」
茜はいじわるそうに笑った。
「ちょっとそれはどうゆう意味かしら」
「まあまあ、二人とも今日くらいは矛はしまって」
健吾が二人に空気感が変わったことを察して優しい口調で諭した。
「藤沢君気にしないで大丈夫だよ。私の結婚式の時も二人は皮肉りあってたから。これが普通なの」
「あ、そうなの?」
「そうそう。これでも落ち着いてきた方よ。ね、えりか」
「そうね、昔に比べたら大分矛の納め方が上手くなってしまったわ」
えりかはつまらなそうにいった。
「変わってないのは涼一くらいね。もう良い大人なんだから、角が立つ言い方を抑えなさい」
「茜にだけは言われたくないね」
そんなやり取りに皆して笑った。
えりかは優しい温もりに包まれていく感覚を覚えた。えりかは改めて集まってくれた5人の顔をゆっくりと見渡した。
「私のために皆がこうして揃うなんて、嬉しすぎて何て言葉にして良いのか分からないわ。本当に・・・・・・本当にありがとう」
えりかは唇を震わせながらいった。誰もが優しい目つきでえりかのことを見守っている。
「・・・・・・ごめんね。話したいことがありすぎて、何から話せば良いのか分からないの」
えりかは言葉を詰まらせながらいった。溢れ出そうな涙を堪えるので精一杯だった。すると、夏音がえりかの方にそっと近付いてえりかを抱き締めた。
「何も言わなくて大丈夫だよ。えりかの気持ちは私達に伝わってる。それに、私達は皆えりかに感謝してる。えりかは誰のどんな弱さも受け止めてくれた。その優しさに私達は常に助けられてきたの。えりかの叱咤が励ましがいつも私達の背中を押してくれた。誰よりも辛くて悲しい過去を持つのに、今までずっと誰かのために頑張ってきたえりかを私達は心から尊敬してる。きっと天国のお母さんも誇りに思ってるはずだよ。だから、これからは楠木君に目一杯幸せにしてもらってね。そして、辛い時、苦しい時には私達もいることを忘れないでね。どんな時でもえりかの為に私達は力になるから」
夏音の言葉についにえりかの涙腺は耐え切れなくなった。えりかだけじゃない。茜も大粒の涙を流し、健吾ももらい泣きしていた。滅多に潤まない涼一の瞳も濡れていた。
荘厳な礼拝堂に設置してある木のベンチで参列客は今か今かと待ちわびていた。シスターの注意説明が終わると、別のシスターがパイプオルガンを鳴らし始めた。後方の扉がゆっくりと開かられる。そこには白いタキシードを着ている正孝が立っていて、力強い視線で真っ正面を見据えていた。正孝は一歩を踏み出し、赤いバージンロードの上を歩きだした。参列客は静かな拍手をしながら正孝の歩く姿を見つめる。正孝は階段の前で静止した。そのまま体を振り向かせて、今しがた登場した扉に体正面を向けた。そして、パイプオルガンの音楽が一旦途切れ、先程とはまた違う音楽を弾き始めた。
正孝の見つめる先にある扉がゆっくりと開かれていく。そこには煌々とした光を放つえりかが立っていた。えりかは少し俯き加減で眼を瞑っていた。えりかの両脇にはえりかの父である直弘と弟の洸太が立っている。直弘の目は赤くなっていたが、最愛の娘の新たなる幸せへの旅立ちを思ってか、その表情は幸福に満ち溢れていた。一方弟の洸汰は溢れ出る涙を止められずに、何度も左腕で涙を拭っていた。その様子が参列者の胸を打ったのは間違いなかった。えりかは俯き加減だった顔をくっと上げて、ゆっくりと一歩を踏み出した。えりかの歩調に合わせるように直弘と洸汰も歩き出す。参列者は皆えりかの美しさに感嘆の溜め息を漏らし、夢中になった。そしてそれは、正孝も同じ気持ちだった。
階段の前で直弘と洸汰が腕を離した。えりかは微笑んでありがとうと言った。先に洸汰は親族の席へとついた。涙は尚止まらなかった。直弘は後を託すように正孝の肩を二回軽く叩いて、洸汰と同じく親族席へとついた。
「えりかさん。本当に美しいです。月並みの表現ですが、えりかさんが世界で一番美しいです」
「ありがとう。まさくんも素敵でカッコいいわ。世界一の新郎よ」
えりかはベール越しに微笑んだ。
えりかは正孝の右腕に自分の左手を掛けた。そして、二人は慎重に階段を登った。二人が頂上につくと、背の高い牧師が現れて英語で二人に何かを語りかけた。二人はただ頷いた。シスターが参列者に目を瞑って祈るように求めた。牧師は目を瞑って、二人に祈りの言葉を語り始めた。程なくして牧師は目を開けて柔らかな笑みを浮かべて正孝に目を向けて、誓いの言葉を述べた。
「はい。誓います」
正孝がいった。次に牧師はえりかに目を向けて同じように誓いの言葉を述べた。
「はい。誓います」
えりかがいった。
「それでは誓いのキスを」
牧師がいった。
正孝とえりかは向き合った。正孝はえりかの顔の前にかかっていたベールを脱がせた。暫し見つめ合う二人。お互いの唇がそっと触れ合った。誓いのキスが終わると、再び音楽が変わった。えりかはあっという顔を浮かべて正孝を見た。その曲は二人にとっての思い出の曲だった。
えりかの頭に今までの思い出が甦ってくのと一緒に、えりかの視界が滲んできた。楽しくて嬉しい思い出ばかりではない。悲しい思い出も辛い思い出もたくさんある。人知れず独りで涙を流した夜を幾つも過ごしたこともある。しかし、今になってはその全てが愛おしく思える。参列者の人達を見渡す。こんなにも自分の幸せへの門出を祝ってくれる人達がいる。いつの間にか、自分の周りには溢れんばかりの愛があることに改めて気付いた。
直弘は目元を何回がハンカチで拭いながら拍手を送り、泣き止んだ洸汰は今は晴れやかな表情で誰よりも大きな拍手を送っていた。夏音と茜はボロボロと涙を流しながら、何度もおめでとうと口を揃えて言っていた。涼一は慈しみに溢れた顔で二人の姿を見つめていた。健吾は星と共に優しい笑顔で拍手を送っていた。星の目には一粒の光がキラリと光っていた。えりかは一人一人に心の中でありがとうと呟いた。無数の思い出がえりかの頭に甦っては繋がっていく。
そして、もっともありがとうと伝えたい相手が横にいる。私の全てを愛してくれる人。
「まさくん」
えりかは体を正孝に向けた。
「何ですかえりかさん?」
正孝もえりかの方に体を向ける。
「まさくん。私を選んでくれてありがとう。いつまでもよろしくね」
「・・・・・・えりかさん。あなたの傍にいられて僕は幸せです。いつまでも愛してます」
正孝はえりかの両手を握って、今一度神に誓うようにいった。
えりかは一旦俯き、すぐに顔を上げて正孝に笑顔を見せた。その瞳は宝石のように輝かしく、幸福に満ちた笑顔は花のように美しかった。
えりかは正孝に抱きついた。正孝はえりかを抱き止め、しっかりと抱き締めた。
えりかの胸に止めどない愛が込み上げてくる。彼とならいつまでも幸せでいられる。私は誰よりも深い愛に守られている。
見つめ合った二人は熱いキスを交わした。鳴り止まない拍手と歓声は二人の未来さえも祝福していた。
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