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高嶺の花は言うほど高くない  作者: 松風いずは
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第四章

6月の迫り来る梅雨が雨と共に鬱も連れ出して来る頃。正孝は優磨と会社近くの天丼屋で昼休憩を取っていた。

「なぁ、最近永瀬さんが新しいプロジェクトのチームメンバー選考を行ってるって聞いたか?」

正孝は昼休憩に優磨と天丼を食べにきていた。ほぼ食べ終わった頃に優磨がそう切り出した。

「ああ。部署の選りすぐりをしてるって聞いてるよ」

「何でもそのプロジェクト、社長の肝いりみたいだぜ」

「社長の?」

正孝は驚いた。まさかそこまでの一大プロジェクトだとは知らなかった。

「ああ。永瀬さんが社長に二度ほど呼ばれたってのを秘書課の連中から聞いたんだ。人払いもしてとても重要な話しをしたとのことだ」

「それが今回のプロジェクトってなのか?」

「恐らくな。確かに、それくらいの重大なプロジェクトじゃなきゃ同じ部署の人間とは言え、あんな強引にチームには引っ張ってこれないよな」

優磨は残りの天丼を掻き込んだ。

「社長から認められるなんて本当に凄いなあの人は」

正孝はますます自分との差が開いてしまったようで、少し気落ちしてしまった。

「お前も選ばれるかもな」

「まさか。部の選りすぐりだろ。俺なんかよりも優秀な人間はいくらでもいるさ」

実際、お呼びがかかるなんて思っていない。

「ま、そうだよな。俺達みたいなペーペーを呼んでも戦力にならないよな」

優磨は少し悔しげにいった。出世欲の強い優磨からしたら、社長の肝いりプロジェクトには参加したいだろう。成功すれば大きな実績になるからだ。

「だな。俺達は先輩の成功を祈るしかないだろ」

そんな正孝の予想を裏切る出来事が昼休みを終わってすぐに起こった。


「え?僕をプロジェクトメンバーにですか?」

正孝は素っ頓狂な声をあげた。

昼休みから会社に戻り、午後の業務に差し掛かろとした途端にえりかからお呼びがかかった。正孝自身はよもやプロジェクトメンバーのことで呼ばれるとは思っていなかったので、えりかからの加入の打診を受けた際には大きな驚きを受けた。

「そうよ。どんなプロジェクトにも若い力は必ず必要になるわ。私は楠木君の冷静かつ鋭い洞察力を買ってるの」

「その評価は大変ありがたいですが。本当に僕でよろしいのでしょうか?」

「楠木君。あなたはもっと自分に自信を持ちなさい。謙虚なのは美徳だけど、時には卑屈に見えてしまうこともあるわ」

「は、はい。すみません。ちなみに、僕以外のメンバーはもう決まっているんですか?」

「大方決まってきたわ。後、三人くらい声をかける予定よ」

「メンバーとか教えてくれますか?」

「それは別に構わないけど、選ばれたメンバーを目にして怖気つくのは止めてね」

「はい」

えりかは引き出しの中から一枚の書類を取り出して正孝に差し出した。正孝はそれを受け取り選ばれたメンバーを見た。部内選抜と言っても過言ではないくらいのメンバーがそこには羅列されていた。この中に自分が入り、堂々と意見を出来るとは到底思えなかった。やはり、断ろうと思ったその時、えりかが切り出した。

「楠木君の不安も分かるわ。これだけのメンツの中で自信の力量を発揮できないのではと考えるのも。でもね、これだけは言っておくわ。私は真剣に選んであなたを推薦してるの。潜在能力ではその中の誰一人にも劣ってないわ。ただ、まだ自信がないだけ。その自信をつける為にも是非チームに入ってほしいの。決して、置いてけぼりにしたりしない。私を信じてついてきて欲しい」

えりかはじっと正孝の目を見据えた。その瞳に宿る光の強さに正孝は暫し言葉を出せないでいた。えりかがここまで自分の事を評価していたなんて思いもよらなかった。憧れの相手であるえりかにここまで言われて正孝の中に断るという文字は消えていた。

「先輩がそこまで僕のことを評価していくれていたことに素直に嬉しく思います。微力でも力になれるのであれば先輩を信じてチームに加入します」

正孝は腰を折った。

「よかった。ありがとう」

えりかは立ち上がり正孝の元へ近寄った。

「これからよろしく」

えりかは右手を差し出す。

「よろしくお願いします」

正孝はその右手を強く握った。

「話しは以上よ。仕事に戻って良いわ」

「はい」

正孝はえりかのデスクから退出しようとして、足を止めた。

「あの、先輩」

「ん?」

「一つ自分からお願いがあるのですが」

「なに?」

「そのプロジェクトチームに一人推薦したいやつがいるんです」

正孝はある人物の名前を口にした。


週明けの月曜日。正孝は会社の会議室にいた。これからえりかが選抜したプロジェクトチームの顔合わせがある。正孝は一人緊張した面持ちで席に座っていた。一人また一人と会議室に人が増えてきた。同じ部と言うことではあるが、第三開発部以外のメンバーの皆がどんな人物なのかは風の噂程度にしか聞いたことがない。正孝以外とは仲が良いのか、他のメンバーは軽い世間話を交わしていた。

「おう。まさ」

場に似合わない能天気な声が聞こえた。正孝はその声に少し救われた。声の主は優磨だった。

「いよいよだな」

正孝の隣に座るやいなや優磨がそういった。正孝がえりかに推薦した人物は優磨だった。少し急ぎすぎる嫌いはあるが、優磨の情熱や明るさはチームに必ずプラスをもたらすはずだとえりかに推薦したら、えりかは納得してチームに加えてくれたのだ。それに加えて正孝の精神的にも気心知れた優磨の存在は心強かった。

「ああ。そうだな」

正孝は自分の声が固くなっているのを感じた。

「おいおい。もう緊張してるのかよ。もっと力を抜けって」

優磨は正孝の背中をバシバシ叩いた。

「そうゆうお前は緊張してないのかよ」

「してなくはないが、それ以上に楽しみが強いな。このプロジェクトが成功すれば出世の道も一気に開けるだろ」

正孝は優磨のこの精神の強さが羨ましいなと思った。

「成功すればな。失敗することだってあり得るだろ」

「今から成功を考えないでどうするんだよ。それに永瀬先輩の作ったチームだろ。成功させてやろうくらいの気持ちでいないと」

「そうだな。優磨の言う通りだ。少しナーバスになってた気がする」

優磨のポジティブな言葉に少し元気を取り戻した。丁度、そのタイミングでえりかが会議室に入室してきた。今日もバッチリとスーツを着こなしていた。改めて、正孝はえりかの為に頑張ろうと胸に誓った。


9時になり始業のチャイムが会議室に鳴り響いた。それと同時にえりか立ち上がった。私的な会話がピタリと止む。

「皆さん。おはようございます」

えりかが第一声を発した。ハッキリとよく通る声だった。メンバーもおはようございますと返した。

「では、ただいまよりプロジェクトチームの第一回目の会議を始めます。よろしくお願い致します」

チームメンバーはそれぞれ軽く頭を下げたりした。

「見知った顔も多いですが、まずは簡単に自己紹介をしましょう。よろしいでしょうか?」

誰も反対意見を言うものはいなかった。えりかの指示で右から順に自己紹介することになった。プロジェクトチームの人数はえりかを合わせて全部で11人。まるでサッカーの選抜チームみたいだなと正孝は思った。えりか以外の自己紹介が終わりえりかの番に回ってきた。今回のリーダーであるえりかが果たして何を語るのか皆興味深く見守っていた。

えりかは軽い咳払いをした。何事にも最初が肝心。自己紹介と言ったが、自分にとってはいかにしてメンバーのやる気を引き出すかが鍵になる。自分についてくることに不安を覚えさせてはいけない。かといって、プレッシャーを与えすぎてもいけない。えりかは決意を込めて自己紹介を始めた。

「では、改めまして。この度、プロジェクトチームのリーダーに任命された永瀬えりかです。至らない点が多々あると思いますが、最後まで全力でリーダーとしての責務全うして参りますので、お付き合いの程をよろしくお願いします。また今回は私の気持ちに応えてくださり誠にありがとうございます」

えりかは感謝の意を示すために深く頭を下げた。頭を上げて話しを再開させた。

「皆さんも聞いていると思いますが、今回のプロジェクトは松山社長直々のプロジェクトです。無論、失敗することは許されません。しかし、私は皆さんがチームの仲間の足を引っ張ったり、責任の所在をなすり付け合うような事にはなってほしくはありません。だから、今ここでハッキリと断言します。全ての責任は私が背負います。なので、皆さんは後顧の憂いなど一切持たずに、自分の持てる力を発揮してプロジェクトに取り組んでください。そうすれば必ず成功します。これだけ優秀なメンバーが揃っています。私は皆さんが自身の力を発揮してくだされば、必ず成功すると確信しております。そして、チーム一丸となってこの美星堂の名に残す商品を作り上げましょう」

えりかの力強い演説に誰もが圧倒された。そして、どこからどこともなく拍手が沸き上がった。正孝を含めたチームメンバーの顔には一様に興奮とやる気に満ちた顔になっていた。正孝は拍手をしながらえりかを熱い視線で見つめていた。

興奮冷めやらぬまま第一回目の会議は幕を閉じた。会議室に一人残ったえりかは瞑目していた。これから幾多の困難があるかもしれないが、メンバーの顔を見渡す限りでは不安や心配という感情は見えなかった。えりかに付いていけば大丈夫。皆がそう信じて疑っていないように思えた。このプロジェクトは必ず成功する。えりかは確かな手応えを胸に抱きながら、会議室を後にした。


えりかはまずは新商品を何の化粧品にするべきかを選定するために自社と他社に関わらずあらゆる化粧品を調べていた。新商品を作る上で大切になってくるのは、どの世代をターゲットにして、他社商品とどう比較化を進めるかだ。その為には自社のことも他社のことを知らなければならない。しかし、ここ数日膨大な資料を読み通した目は疲弊しきっていた。それに今夜は夏音達と予定もあったので、早目に帰り支度を整えた。

「先輩」

エレベーターを待っていると正孝が声をかけてきた。

「楠木君。まだいたのね」

「ちょっと、部長に用がありまして。先輩も帰りですか?」

「ええ。今日は夏音達と予定があるから」

「そうなんですね。立花さんも来るんですか?」

「どうかしら。立花君は気紛れだから」

エレベーターの扉が開いて二人で乗り込む。

「どう?チームの仲間達とは馴れてきた?」

えりかの方から質問した。

「ええ。徐々にですが」

「楠木君も諏訪君と一番若手だからって遠慮しちゃダメよ。むしろ、若いからこその視点や意見をどんどん出してほしい」

「はい。俺も優磨も臆することなく取り組もうと気合いをいれてます」

「そう。頼もしいわね」

えりかは小さく笑った。

会社を出て二人並んで新橋駅へと向かう。SL広場付近に着くと声が二人の耳に届いた。

「正孝君・・・・・・?」

正孝は声の方に振り向いた。そして、驚いた。

「早川・・・・・・」

そこにいたのは大学時代の同窓生の早川咲希がいたからだ。

「やっぱり、正孝君だ。久しぶり。元気にしてた?」

咲希は少し興奮した面持ちで正孝達の方へ近付いてきた。

「ひ、久しぶり。早川どうしてここに?」

「私は会社に戻る途中なの。えっと、そちらの方は?もしかして、正孝君の彼女さん?」

咲希はチラッとえりかの方を見た。えりかは何か面白くないもの見るかのように咲希を見つめ返した。

「ち、違うよ。この人は僕の会社の先輩だよ」

「あ、そうだったんですね。お話ししてる所を邪魔をしてすみませんでした」

咲希は慌てて頭を下げた。

「いえ、もう別れる所だったので。それより楠木君。この方は誰かしら?」

「あ、彼女は僕の大学の同期で早川さんと言います」

「初めまして。早川咲希です。あの、お名前を聞いてもよろしいですか?」

「永瀬えりかよ」

えりかは素っ気なく答えた。

「えりかさんってピッタリなお名前ですね」

咲希はえりかの態度を気にすることなど無くいった。

えりかの眉がピクッと動いた。その反応をあざとく見つけた正孝は早く咲希と先輩を引き離そうと考えた。

「早川は会社に戻るんだろ。早く戻らないといけないんじゃないか?」

「あ、うん。そうね。そうだ、正孝君はこの後何か予定あるの?それともえりかさんとご飯?」

「何もないわ。そうよね楠木君」

正孝が答えるよりも早くえりかが言った。

「え、ええまぁ」

正孝は何故か冷や汗が出てきた。

「そうなんだ。じゃぁ、私が仕事終わったらご飯に行こうよ」

「え、でも、時間かかるんだろ」

「すぐ終わるよ。取ってきた資料を上司に渡すだけだから。ね、行こ?」

咲希は正孝の腕に絡めた。その様子を見たえりかの心に何か反応するものがあった。えりかはそんな心の反応を無理矢理無視した。

「じゃぁ、私はお邪魔虫みたいだから、もう行くわ。後は若い者同士で楽しんで。また明日」

「あ、先輩。お疲れ様でした」

えりかは振り向くことなくさっさとタクシーを拾いにいった。

「さ、私達も行こ。それとも私とは嫌だ?」

咲希は上目遣いでいった。正孝は弱ったなと思った。

「そうゆうことじゃないけど。腕を離してくれよ」

「良いじゃない。久しぶりに会ったんだし」

正孝は少し迷惑そうな顔をしたが、咲希はお構い無しに正孝を引っ張っていく。そんな二人の後ろ姿を少し離れた所で哀しく見つめているえりかには気付くことはなかった。


「おかわり!」

えりかは生ビールを一気に飲み干すと叫んだ。

「ちょっと。どうしたのよ」

茜が嗜めた。

「何かあったの?」

夏音が聞いた。夏音はチビチビと烏龍茶を飲んでいた。お酒を飲めない訳ではないが、飲む時は涼一が一緒にいる時と決めていた。

「別に。ただ飲みたいから飲んでるだけよ」

「あんた、そうやってやけ酒して後輩に迷惑かけたの忘れたの?」

茜が呆れ気味にいった。

「そんなこともあったわね。今日はいくら酔っても楠木君に迷惑かけることなんてないわ。それに、楠木君も今頃は楽しくやってるわよ」

えりかは恨めしそうに空のグラスを睨んだ。

「ははーん。さてはえりか、その後輩君と何かあったんでしょ」

茜は少し意地悪そうに笑った。

「な、何もないわよ」

「図星のようね。どうせえりかが余計な皮肉を飛ばして後輩君を怒らせたんじゃないの」

「違うわよ。ただ・・・・・・」

えりかの脳裏に腕を組んで歩き出した二人が思い浮かぶ。

「ただ?」

「何でもないわよ。とにかく、変なこと言わないでよ。今日の主役は夏音でしょ。独身三人で飲む最後の飲み会なんだからパーッとやろうよ」

「それもそうね。えりかの話しはまた今度聞くとしよう。そう言えば、涼一は来るの?」

「ううん。今日は女三人で楽しんでこいってさ」

「分かってるわね。涼一が居たんじゃ涼一の不満も話せないもんね」

「ちょっと、そんな話ししないでよ」

「冗談よ冗談。ねぇ、えりか」

「え、あ、うん。そうよ。今日くらい立花君のことは忘れて三人で楽しめば良いのよ」

「夏音。結婚式の準備は進んでる?」

茜が聞いた。

「うん。この前はドレスを選びにいったよ」

夏音は少し照れながら、はにかみながらいった。その姿は女優ではなく一人の女性としての幸せが詰まっているそんな表情だった。えりかは親友の幸福に喜びつつもどこか空虚な気持ちも抱いていた。

それでも、親友と過ごす時間は楽しかった。夏音がノンフィクションの女性天文学者役を務めることになったことや、茜の仕事や子育て事情や恋愛模様。最も心を許している親友達との時間はえりかの心を有意義にさせるものだった。しかし、それでも頭の片隅にはさっきの二人の後ろ姿が頭から離れなかった。どうしてこんなにも気になるのか。えりか自身にも分からなかった。


えりかが夏音達と飲んでいる頃と同時刻。正孝は咲希の希望で新宿で飲んでいた。大学の女性の同期で一番仲の良かった咲希との再会は嬉しいが、えりかがいるところで出会いたくはなかったのが本音だった。別に付き合っている訳でもないし、後ろめたいことなんて何一つ無いのだが、それでもえりかの前で女性と絡んでしまったのは良い気分では無かった。

「こうして会うのが2年ぶりなんて不思議ね」

咲希がいった。

「そうだね。それなのに、あまり久しぶりな感じがしないね」

「ほんと。大学時代は毎日のように顔を合わせてたからかな」

咲希が湿っぽくいった。どことなく寂しそうな横顔だった。咲希と正孝は学部は違うが、同じ旅行サークルに所属していた。元々、他のサークルに比べて仲の良いサークルと評判だったが、正孝達の代はかなり気の合う仲間達だった。学部は違うのに、溜まり場には常に2、3人はいた。そこでしたくだらない会話から真剣な会話は思いの外楽しい思い出の一つとして正孝の記憶にも深く刻まれていた。

そのサークルの中でも最も親しくなったのが、この早川咲希だった。咲希はスレンダーな美人ながらも愛嬌のある笑顔でサークルないし学校の中でもかなり目立つ存在だった。そんな女性がサークルに入ればお姫様のような扱いを受けるのは至極当然だも言える。実際、咲希に告白したと言う男は両手では足りないくらいいる。咲希目当てで入ってくるやつも中にはいた。そんなサークルの姫と正孝は中々の親密な関係になったこともあった。正孝の一人暮らしの部屋に遊びに来たり、二人で出掛けることもあった。しかし、例によって正孝の消極的な思考が災いし、恋人関係まで進むことはなかった。そんな二人も就活生になるとサークルに顔を出すことも少なくなり、同時に顔を合わせる機会も少なくなっていった。そんな中で正孝は同じ学部の女性と付き合うことになった。程なくして咲希も同じ法学部の人と付き合っているという話しを聞いた。それを聞いた時は少しは胸が痛んだものの、卒業したら咲希のことはすっかりと忘れていた。

「ねぇ、正孝君」

「なに?」

「今、彼女とかいるの?」

「え、いや居ないよ」

「そっかー」

「そうゆう早川こそいないのか?」

「ここ2年は仕事一筋だったから、そんな機会なんてなかった」

咲希は笑っていった。

「そういえば、どんな仕事してるんだっけ?」

「検察事務次官」

正孝は驚きの目で見た。咲希が法学部の中でかなり優秀なのは知っていたが、検察官事務次官になってるとは思ってもなかった。

「凄いね」

正孝は素直に感想を漏らした。

「正孝君だって一流企業じゃない。美星堂の商品は私も使ってるよ」

「それはありがとう。でも、検察事務次官なんてそうそう簡単になれるもんじゃないし、そっちの方ご凄いよ」

「まだまだ大したことないよ。駆け出しだし、やることいっぱいで頭がパンクしそうな毎日だよ」

「それでもだよ。将来は検察庁長官か?」

「無理無理。ただでさえ化物のような人達が集まってるのに、そのトップに立つなんてぬらりひょんにでもならない限り無理よ」

「なんでぬらりひょんなんだよ」

「だって、ぬらりひょんは妖怪のトップでしょ。つまり、人間を捨てないと無理ってこと」

「それは無理だな」

「でしょ。それに私が検察官を選んだ理由も大したものじゃないのよ」

「どうゆうことだ」

「弁護士になって犯罪者の味方するのが嫌だったの」

「それは検察になって犯罪者を裁きたかってことか」

「中にはそうゆう検察官もいる。去年まで静岡の沼津支部にいたんだけど、そこの上司が信じられないくらいエゴの塊で、検察官が正義の味方と信じて疑わない人もいる。けど、私はそこまで検察官が正義だなんて思えない」

「そ、そうか。色々大変なんだな」

「本当に大変。東京に異動になって今の上司の元についてなかったら辞めてたと思う」

「今の上司は良い人なんだ」

「とっても。それこそ、その気になれば検察庁でも上の方にいけるくらいの能力はあると思うんだけど、本人は全くその気がないみたい」

「検察官にもそうゆう人がいるんだな」

「とても尊敬してる。お陰でもう少し頑張ってみようってなれた」

「分かるよ。俺にもそうゆう上司がいるから」

「もしかして、さっき一緒にいた人?」

正孝ほ一瞬返答に困ったが、正直にいった。

「ああ。そうだよ」

「ふーん、そっか。ねぇ、せっかく久しぶりに会えたんだし、もっと違う話題話そうよ。仕事のことばかりじゃつまらない」

「それもそうだな」

それからは大学時代の思い出話しに花を咲かせた。

「さてと、そろそろ帰ろうか」

二時間くらい経った頃に正孝はいった。

「え?もう?」

「明日も早いんだ」

「そう。じゃぁ、仕方ないね」

咲希は残念そうに呟いた。そして二人は店を出た。

「正孝君はどこに住んでるの?」

「吉祥寺」

「吉祥寺かぁ」

「早川は?」

「私は西銀座だよ」

「さすが検察事務次官。住む場所が違うね」

「そんなことないよ。でも、一人暮らしってつまらないよね」

「確かに。帰っても一人だと寂しくなる時はあるからね」

「分かる分かる。ついただいまって言っちゃって返事が無い時とか凄い虚しくなる。あーあ、早くお帰りって言ってくれる彼氏がほしいな」

「早川ならすぐに出来るよ」

正孝は本音でいった。実際、咲希は大学時代よりも綺麗なったと思う。もし、えりかに出会っていなければ、今の話しを聞いてチャンスだと思っていたことだろう。

「ねぇ、良かったら家に来ない?」

「え?」

突然の誘いに正孝の頭が真っ白になった。

「銀座からなら新橋近いし、私の家に泊まってもいいよ」

「い、いや、そんな急にお邪魔するなんて申し訳ないよ」

「私は気にしないよ」

自分が気にすると言いたかった。正孝は咄嗟に言い訳を考えた。

「それに明日の仕事の資料が家にあるから、家に戻らないと。それを忘れたら明日は1日説教を食らっちゃうんだ」

「そっか」

咲希は寂しそうにいった。そうこうするうちにお互いの別れ地点に着いた。

「じゃぁ、僕はJRから帰るから、こっちに曲がるね」

「うん。あ、またご飯に誘っても良いかな?」

「僕で良いならいつでも」

「良かった。じゃあまたね」

咲希は手を振って正孝とは逆方向の左に曲がった。正孝は手を振り返して、咲希の背中を少し見送った後、踵を返して駅に向かった。


翌日。出勤してすぐにえりかに挨拶をしにいく。えりかはいつも通り既に仕事をこなしていた。デスクをノックする。

「どうぞ」

抑揚のない声が返ってくる。正孝はドアを開けて中に入った。

「先輩。おはようございます」

えりかは手を止めて正孝に目をやった。

「おはよう」

えりかは正孝の顔をじっと見つめた。正孝は思わず赤面する。

「あ、何か付いてますか?」

「いいえ。もっと寝不足な顔をして来ると思ってただけよ」

「ど、どうしてですか?」

「昨日は随分と盛り上がったのかと思ったから。夜遅くまで飲み明かしてくると思っただけよ。それとも相手の方からお開きを申し入れられたのかしら」

「いいえ。自分の方からお開きにしましたが」

「何故?」

「何故って、今日は新商品開発に向けての大事な会議かありますし、万が一でも遅刻をしたら先輩に顔向け出来ませんから、早くに解散しました」

えりかは正孝を再び見つめた。

「あ、あの、何かまずいことを言いましたでしょうか?」

「いいえ。私の勝手な憶測で朝から嫌な思いをさせてしまって申し訳なかったわ。てっきり、昔の友達と花を咲かせてると思って」

あまり見ない弱そうに言い訳をするえりかの姿に正孝はつい可愛いと思ってしまった。

「久しぶりに会えて楽しかったですが、今はこの仕事を成功させることで頭が一杯で早く帰りたかったのも事実です」

正孝は苦笑いを浮かべた。咲希には申し訳ないと思ったが、今は仕事を優先させたい気持ちの方が強かった。それと、えりかの為に頑張る方が楽しかった。

「そうなのね。そこまで考えてくれてるのは嬉しいわ。なら、早く仕事に取りかかりなさい。ここで私と話ししても意味はないわ」

「はい。すぐに始めます」

正孝はやる気に満ちた返事を寄越し、えりかのデスクを離れた。

えりかは自分のデスクに戻る正孝の背中を熱い視線で見守っていた。


ある日の休日。えりかは夏音の結婚祝いのプレゼントを選ぶために、銀座の百貨店に来ていた。プレゼントも選び終えて、帰る前にどこかカフェにでも寄ろうと考えていたその時、後ろから聞いたことのある声で名前を呼ばれた。えりかがその声のする方へ振り返ると、意外な人物が立っていた。

「藤沢君・・・・・・」

えりかは目を丸くさせた。

「永瀬。久し振りだな」

健吾は爽やかな笑みを浮かべてえりかへと近付いた。

「久し振り。こんな所で会うなんて奇遇ね」

えりかも頬を緩めた。健吾と会うのは約三年振りくらいだろうか。以前、会った時よりも大人びて見える。そして、仕立ての良さそうなスーツを着こなしている健吾は相変わらず格好よかった。

「永瀬は何してたんだ?」

「ちょっと買い物。藤沢君は?」

「俺は仕事だよ。ある事件の現場を見に行ってたんだ」

健吾は大学を卒業して検察官になっていた。あの難関な司法試験も一発で合格している。

「さすが敏腕検察官忙しそうね」

「止めてくれ。ただの雑用係だよ」

健吾は顔の前で手を振った。

「この前の事件聞いたわ。藤沢君が見事解決に導いて冤罪を防いだそうね。友人として誇らしいわ」

「いやぁ、たまたまだよ。でも、ありがとう。そう言ってくるのと自信になるよ」

健吾は照れ臭そうにいった。

「この時間に買い物ってことは、永瀬は今日は休日だよな?」

「ええ」

「久し振りに会ったし、少しコーヒーでも飲まないか?」

「私は時間あるから良いけど、藤沢君は大丈夫なの?」

「だから、誘ってるんだよ」

「OK。なら、行きましょう」

えりかと健吾は並んで歩き始めた。二人は適当なカフェを見つけてそこに入った。

「ところで、何の買い物をしてたんだ?」

健吾が質問した。

「ああこれ?結婚祝いのプレゼントよ」

「てことは、河口へのプレゼントか」

「よく分かったわね」

えりかは感心したようにいった。

「それくらい分かるよ。そのブランドはとても高いのは知ってる。永瀬がそれほどのお金をかけてまで祝いたい相手は自ずと絞られる。かといって、滝川は今は再婚するつもりないって言ってたから、そうなると河口しかいない」

「お見事ね。そう夏音へのプレゼントよ。ついにあの二人が結婚するわ」

「それはめでたいな。立花は元気にしてるかい?」

「相変わらずよ。日本に戻ってきたのは知ってる?」

健吾は頷いた。

「もちろん。新しく出来る博物館の館長に就任するんだってな。あの若さでの館長就任は例に無いらしいから、凄いことだ。もっとも、立花程の人間なら大したことでもないだろうけど」

「そうね。彼にプレッシャーなんて言葉はないみたいだから」

「立花はそうであってほしいね。それにしても、ようやく結婚か」

健吾は遠い目つきになった。

「嫉妬する?」

「まさか」

健吾は笑い飛ばした。

「高校の時のことはとっくに乗り越えてるよ。むしろ、あの二人が結婚するのは喜ばしいことだとさえ思う。それだけ二人の絆は強いからね」

「そっか。じゃぁ、私だけかいつまでも青春時代の初恋に囚われて前に進めないのは」

「一人の男性を想い続けるなんて素敵なことじゃないか」

「美化し過ぎよ。いつまでもこじらせて婚期を逃した哀れ女が的確よ」

「それは言い過ぎだ。永瀬は二人の結婚が喜べないのか?」

「ううん。そんなことないわ。親友二人の結婚は本当に嬉しいわ。ただ、終らせなきゃいけない想いを引きずってる自分に腹が立ったり、虚しくなる」

「なら、まだ好きであることは認めてしまえば良いじゃないか」

「それを認めてしまったら、夏音にも立花君にも会えないわ」

えりかは悲しそうにいった。

「そうか。それは辛いな」

健吾は同情するようにいった。

「でも、もう良いのよ。もうすぐ皆の前から姿を消すから」

「どうゆうことだ?」

健吾は眉を潜めた。

「私もアメリカに行くことになる」

「なんだって?」

健吾は目を丸めた。

えりかはここまであった経緯を全て話した。聞き終えた健吾は少し放心状態だった。

「つまり、その松山社長は永瀬を次期社長にするために、今から社長として育て上げるつもりなのか」

健吾は周囲に聞こえないように声を落としていった。

「そうよ。そのプログラムの一環としてアメリカにある支社に行くの。期間は最低で3年。長くて7年よ」

「そうなのか・・・・・・アメリカにはいつ行くことになるんだ?」

「今進行しているプロジェクトが成功したらすぐよ」

「そのプロジェクトの納期はいつまでなんだ?」

「8月末」

「てことは、後2ヶ月半あまりか・・・・・・この事を立花達は知っているのか?」

「夏音と茜は知ってるわ。立花君には話してないけど、夏音が話したと思う」

「そうか。二人ともさぞかし驚いただろうし、寂しく思ったことだろうな」

「二人が泣いたから、私も思わずもらい泣きしたわ。今の時代なら、すぐに会えるのにね」

「それでも、寂しいことに変わりはない。立花に続き永瀬もアメリカか」

「藤沢君はアメリカに行くつもりはないの?」

「僕はないよ。それにあまり遠くに行くようなことはしたくないんだ」

「どうして?」

「黙っていたけど、実は婚約しているんだ」

今度はえりかが目を丸くする番だった。

「そうだったの。おめでとう!相手はどんな人なの?」

「ピンと来ないと思うけど、天文学者の女性だよ」

「天文学者?どこでそんな人と出会ったの?」

「とあるパーティーでね。一目惚れだった。あんな気持ちを抱いたのは高校の時以来だった。すぐに話しかけにいった」

「藤沢君にそこまでさせるなんて本当に素敵な人なんでしょうね」

「そうだね。彼女は昔あった辛い出来事があって、ずっと孤独に過ごしてたみたいで、心を開いてもらうのが大変だった。それでも、少しずつ少しずつ仲良くなって、一昨年くらいに付き合い始めたんだ」

「辛い出来事って?」

「彼女は重い心臓病を患ってた。その心臓病を治してくれたのが当時付き合っていた彼氏さんだったそうだ」

健吾は重く辛く言った。えりかはすぐに言わんとしていることを察した。

「それって・・・・・・」

「彼女の心臓はその彼氏の心臓だ。彼氏さんはドナー登録していて遺書に自分の心臓を彼女に残すと書いてあったそうだ」

えりかはあまりにも悲しい物語に口を覆った。目には思わず涙が溜まっていた。

「それから彼女は彼氏さんとの夢を叶えるために天文学者になった。ニュースで見なかった?日本人女性の天文学者が地球から最も遠い惑星を見つけたって」

「ごめんなさい。知らないわ」

えりかは心底申し訳なさそうにいった。

「いや、知らなくても仕方ない。そこまで大きく扱われなかったからね。その惑星を見つけた天文学者が彼女なんだ。その惑星を見つけた後に俺は出会ったんだ。彼女から最初その話し聞いた時は自分を殴りたくなったよ」

「違うわ。その女性にとって藤沢君と出会うのは運命だったのよ。彼女は藤沢君にその彼氏さんの面影を見たはずよ。でなければ、付き合ったりしないわ」

「彼女にも同じようなことを言われた。それと同時に謝られた。彼氏さんの名前は新生優也君と言って、あなたを優也君に重ねて見てました。ごめんなさいって。泣きながら何度も」

「彼女さんの気持ちは痛い程解るわ。重ねてはいけないと思いつつも、どこかで忘れられない人を見出だしてしまう気持ち。真面目な人ほどその罪悪感に苛まされるわ」

えりかはその女性に痛い程同情出来た。

「そんなこと言ったら俺だって同じさ。河口に振られた当初は出会う女性に河口の面影を探していた。誰だってそんなことはある。ましてや、心から愛する彼氏を亡くし、その彼氏の心臓で生きているんだ。見出だして当然だ」

「並の男ならそこで嫉妬したりして、責めるところよ」

「彼女のその背景を知って嫉妬や怒りなんて沸くわけがない。だから、俺は言ったんだ。優也君が幸せにするはずだった分も俺が君を幸せにするよって。優也君がどれだけ彼女を愛していたかは分からないが、俺だって負けてない。彼女のことを心から愛してる」

「本当に藤沢君は変わらない。真っ直ぐで純粋な人。こんな良い男を見逃していたなんて私も見る目がないわね」

えりかは軽い溜め息をついた。

健吾は軽く笑った。

「立花君と藤沢君は似てないようで実は似てると思う。二人とも純粋だし一途。だから、高校時代はあんなにいがみ合ってたのね。似てるからこそお互いに負けたくなかったのよ」

「俺と立花だけじゃない。永瀬だってそうなんじゃないか。だから、立花に惚れていたんだ」

「そうかもしれないわね」

「この世で結ばれないなら、あの世で結ばれれば良いさ」

「何それ。新しい宗教か何かかしら?」

「違うよ。プロポーズした時に彼女に言われたんだ。あの世では優也君と一緒にいるから、一緒にいれるのはこの世にいる時だけだって。それでも良いですか?ってね」

「少し変わった人のようね」

「少しどころか大分変わってるよ。時々、何を考えているのか全く分からない時がある」

「それで藤沢君は何て答えたの?」

「そうか。なら、あの世で優也君が嫉妬するくらいに幸せにしてあげるよって」

「彼女は何て?」

「笑いながら、じゃぁ私はあの世で私が忘れられないくらいに幸せにしてあげますって」

「あなた達はドラマのカップルかなにかしら?」

えりかは少し呆れた口調でいった。

「何かおかしなこと言ったかな?」

健吾は至って真面目な顔をした。えりかはこれ以上突っ込むのは止めようと思った。

「いいえ。何でもないわ。二人はそれで生きてほしいわ。今時にはいない純愛カップルとして」

「それって褒めてる?」

「好きなように解釈していいわ。そう言えば、その女性は天文学者って言ってたわよね」

「ああ。だけど、元だけどね」

「どうゆうこと?」

「その惑星を見つけて彼女は天文学者を辞めた。もう思い残すことは無いって。研究からは一切手を引いたんだ」

「優秀なのに勿体無いわね」

「研究仲間からはかなりの引き留めにあったそうだけど、彼女は全く引かなかったそうだよ」

「本当に未練が無いのね」

「でも、今でも星は好きだよ。晴れてる夜は毎日のように天体望遠鏡を覗いてる」

「そっか。じゃぁ、別の人かしら」

「何が?」

「夏音が今度ノンフィクションの映画の主演をやるんだけど、それの役が天文学者だったから。もしかして、その役のモデルは藤沢君の婚約者の方かと思ったのだけれど、元なら違うみたいね」

健吾は放心したようにえりかをジーッと見つめていた。

「藤沢君?」

えりかは怪訝な表情で聞いた。

「あ、ああ。ごめん。こんな偶然もあるのかって驚いてしまったんだ。そうなんだ永瀬。その天文学者こそ俺の婚約者がモデルだよ。それが天文学者としての最後の仕事だって言っていた」

えりかもただただ驚いて、暫し言葉を失った。

「ここまで偶然が揃うなんて怖少しいわ」

「もはや偶然と言うには無理があるな。それこそ天文学的確率だよ。必然だったと思うしかない」

「そうね。夏音と・・・・・・婚約者の名前は何て言うの?」

「松宮星。星と書いてあかりって読む。天文学者にぴったりな名前だろ」

「綺麗な名前ね。もし、その星さんと夏音が何かしらで会うことになったら、仲良くなっても不思議じゃなさそうね」

「そうだね。あの二人ならきっと仲良くなれるよ」

「星さんの婚約者が藤沢君と知ったら夏音はびっくり仰天ね」

健吾は笑った。

「高校時代のことは水に流して皆で会えたら嬉しいな。それに、星にも皆を会わせてあげたい。星はきっと立花のことを気に入るはずだ。立花は冷たいように見えるが、誰よりも優しいのは知ってる。星にもその優しさを見せてくれるはずだ」

「そうね。きっと出来るわ」

えりかは優しい眼差しで健吾を見た。


「今日はありがとう。楽しい時間だったわ」

健吾と東京駅で別れる所だった。

「こちらこそ。俺の話しばっかりになってしまってごめん」

「気にしないで。とても素敵な話しを聞かせてもらって嬉しかった。必ず幸せになってね」

「永瀬もな。永瀬には必ず素晴らしい男性が現れるよ。俺はそう信じてる」

「ありがとう。でも、今は仕事に集中するわ」

「アメリカに行く日が決まったら教えてくれ。見送りにいくよ」

「ううん。来なくて良いわ。誰にも来てほしくない。湿っぽいのは嫌いだから。気持ちだけで十分よ。それじゃ、藤沢君も仕事頑張ってね」

「そうか。寂しいけど、それが永瀬の気持ちなら見送りは遠慮するよ」

「ありがとう。またいつか必ず会いましょうね」

えりかは健吾に背を向けて歩き出した。


梅雨が本格化してきた6月の中旬を少し過ぎた日。梅雨の気紛れなのか、梅雨とは思えない爽やかな晴れ間の中、表参道にある教会で涼一と夏音の結婚式が開催されていた。結婚式が始まる約2時間前にえりかは式場に到着していた。本来であればこんなに早く来る必要はないのだが、夏音の希望でえりかと茜と新婦控え室で独身最後の時間を過ごしたいということで、式場に到着していた。荘厳な建物に入ると、黒いスーツを着た姿勢の良い女性がえりかを出迎えた。

「いらっしゃいませ。結婚式に参列される方ですか?」

「はい」

えりかは返事を寄越す。

「ありがとうございます。左手にございますエスカレーターを降りていただくとホールになっておりますので、そこでお待ちくださいませ」

「ありがとうございます」

えりかは礼を言い、言われた通りに下へ降りた。白を基調にされた整然としたホールが目の前に現れた。すると、今度は別の男性従業員が出迎えた。

「あちらの奥に記帳する場所がございますので、そこで記帳していただき、後は式が始まるまでごゆっくりおくつろぎくださいませ」

男性は丁寧に一礼すると静かにその場を離れた。

えりかはまたも言われた通りに奥へ進み、記帳台へ行き名前と新郎新婦への一言を書き、御祝儀を箱の中に置いた。

「すみません。新婦の控え室はどこですか?」

「少し戻っていただいて、左手にございます」

「ありがとうございます」

えりかは新婦の控え室へと向かった。控え室の前に立つと、中から微かに声が聞こえてきた。どちらも知った声である。茜はもう来ているのが分かった。扉をノックする。中かはどうぞと声が返ってきた。えりかが扉を開けて中に入ると、そこには美しいウェディングドレスに身を包まれた夏音が目に入った。

「えりか。待ってたよ」

夏音が嬉しそうにいった。隣にいる茜も微笑んでいた。えりかは二人の元へと近寄った。

「おめでとう夏音。信じられないくらいに綺麗よ」

えりかは開口一番にいった。

「ありがとう。えりかにそう言ってもらえると自信がつく」

「ちょっと夏音。私も綺麗って誉めたよね?」

すかさず茜が突っ込む。

「もちろん茜も嬉しいよ。ただ、えりかの褒め言葉は何故か自信がつくの。普段はあまり言ってくれないからかな」

「ギャップってやつね。普段は憎たらしいことばっか言ってくるから」

茜が皮肉を飛ばす。

「あら、夏音には憎たらしいことなんて言わないわ。だって、夏音は憎たらしいことを私に言わせないもの」

えりかも応戦する。結婚を控えた友人の前だと言うのに、お互いに遠慮がない。そんなやり取りを夏音は止めることなくニコニコしながら聞いていた。

「相変わらず口が減らないわね」

「お互い様よ。あ、そうだ夏音。これ結婚のお祝い」

「わぁ!ありがとう!えりか!」

夏音は目を輝かせて受け取った。

「うわーバカラのグラスだ。私の時より豪勢じゃない?」

「立花君の分も含めてるから。茜も再婚したら、またあげるわよ」

「止めてよ。再婚でお祝いなんて恥ずかしいでしょ」

「えりか。本当にありがとう。大切に使うね」

夏音の瞳は少しばかり潤んでいた。

「夏音の家に遊びに行った時に使っちゃおうっと」

茜が意地悪な笑みを浮かべた。

「夏音。茜が来たら金庫にしまっておいてね」

「ちょっと。それどうゆうことよ」

茜が口を尖らせた。そして、三人で笑い合った。それからまた三人で思い出話しに花を咲かせた。何度も話していることなのに、何度話しても懐かしく楽しい気持ちが沸き上がる。しかし、それと同時にアメリカに行くことに対しての不安や寂しさが紛れ混んできた。アメリカには夏音や茜そして涼一もいない。家族も一緒に連れていくことも出来ない。仕事よりも環境の変化に上手く適応出来るかの方が心配だった。

「えりか聞いてる?」

「あ、ごめん。ちょっとボーッとしてた」

「何か心配事でもあるの?」

目ざとく夏音が聞いてきた。しかし、えりかは今の夏音に幸せに水を差したくないと思い嘘をついた。

「違うわよ。今進めてる仕事のことが少し気になっただけよ。そういえば、この前藤沢君に会ったわ」

 えりかは話しを逸らした。

「そう言えばそのようね。藤沢から聞いた」

茜が反応した。

「どこで会ったの?」

夏音が聞いた。

「銀座。夏音のプレゼントを買った帰りにたまたま会ったの。まさか藤沢君と会うとは思ってもなかったから、びっくりしたわ」

「藤沢も同じことを言ってたわ。それと、相変わらず素敵な女性だったとも」

「そっくりそのまま返す。藤沢君も最高に良い男になってたわ」

「藤沢君元気そうだった?」

「ええ。夏音が結婚することも喜んでいたわ」

「ほんと。それは嬉しいな。今でも涼との会話で藤沢君の話題は出るから」

「それと藤沢君も婚約してるそうよ」

「えっ!」

夏音が驚いた声をあげた。

「なんだ、えりかも聞いたんだ」

「それだけじゃないわ。その婚約者の相手が凄いわ」

「どうゆうことよ」

えりかは笑み浮かべた後に、健吾から聞いたことを大まかに説明した。

「嘘・・・・・・」

夏音は驚愕のあまり口を手で覆い、反対に茜は開いた口が塞がらないようだ。

「こんなこともあるのね」

茜が信じられないといった面持ちでいった。

「夏音は星さんと会ったことある?」

えりかが聞いた。

「うん。ついこの間。役作りの為に本人に取材しにいったから」

「どんな印象だった?」

 えりかは聞いた。

「ミステリアスな人って感じだった。涼と同じで本音が見えない時があったよ。でも、決して嫌な印象はなかった。綺麗で品もあったし、質問に対する答えも的確で頭も良いんだなって」

「藤沢君は夏音と良い友人になれそうって言ってたけど、どう?」

「あんな素敵な女性と友達になれるなら嬉しいけど、どっちかって言うと涼の方が気が合うと思う。二人とも優れた研究者だし、話しが合うかも」

「確かに。言われてみればそうね。今度、星さんも含めてご飯にでもいかない?立花君も誘ってさ。久々に母校の二大スターの共演も見てみたいし」

「あ、それ良いね」

茜が一もなく賛成した。

「私も良いよ。星さんともっと仲良くなりたいし、久々に藤沢君に会ってみたい」

「あ、それ涼一の前で言っちゃダメよ。涼一のやつ嫉妬するから」

「どうして?結婚するんだし、今さら藤沢君と何かあるわけでもないよ」

「夏音。男はね昔のことを忘れられない生き物なの。夏音が一時でも藤沢に惹かれてたのは事実でしょ。その事実をいつまでも忘れられないのが男なの。涼一だってそう。夏音が何もやましい気持ちがないのは分かってても、藤沢に会いたいってなれば涼一の心はざわつく。だから、それは胸に秘めておきなさい」

茜は真剣にアドバイスする。この三人の中ではもっとも恋愛経験が豊富な茜だからこそ言える言葉だった。夏音は真剣に頷いた。

「あ、でも、もし涼一が星さんと仲良くなって、星さんに会いたいって言ったらどうすればいいの?」

夏音の質問にえりかと茜は顔を合わせた。そして、茜がいった。

「その時は、涼一の頬をぶっ叩いて、最低って言ってやれば良いのよ」

茜の言葉にえりかと夏音が同時に吹き出した。

「そうだ。えりか。涼がえりかと話したいって言ってから、会いにいってあげて」

「立花君が?」

「うん。私はこれから最後の準備とかあるから、いってきてあげて」

「わ、分かった。じゃぁ、式を楽しみにしてる」

「うん」

 夏音は微笑んだ。

えりかは新婦控え室を後にして向かい側にある新郎控え室に向かった。新婦の控え室の前に立った時に少し緊張してるのが分かった。ただ、何に対しての緊張なのか分からなかった。扉をノックする。いつものように抑揚のない返事が聞こえ扉を開けて中に入った。そこには白いタキシードをこれでもかという程に着こなしてる涼一の姿が目に入った。

「永瀬。よく来てくれたな。ありがとう」

「結婚おめでとう。今分かったわ。結婚式の衣装は二人のためにあるのね」

「壮大な褒め言葉をどうも」

「夏音に二人への贈り物を渡しておいたから」

「そうか。重ね重ねありがとう」

「夏音に話したいことがあるって言われたけど、何かしら?」

「そんな大袈裟なものじゃないさ。ただ、改めてお礼を言いたくてね」

「何に対するお礼?」

「もちろん。今日、俺がなつと結婚できることに対してだよ。永瀬が居なければここにいるのは俺じゃなかったはずだ。永瀬にはどれほどの感謝の言葉を並べてもしきれない。本当にありがとう」

涼一はえりかに向かって深く頭を下げた。

「頭を上げて立花君。お礼を言いたいのは私の方よ。立花君達が私を暗闇から救ってくれた。今の私があるのは皆のお陰よ。そんな二人が結婚をするなんて自分のことのように嬉しいわ」

「永瀬・・・・・・」

「もう一度言うけど、夏音を不幸にしたら絶対に許さないから」

「分かってる。その時は、俺を煮るなり焼くなり好きにしてくれ」

二人の間に沈黙が流れた。

「なつから聞いたよ。アメリカに行くんだってな」

「ええ」

「いつ行くんだ?」

「今の仕事が終わって準備も含めたら、9月の上旬くらいね」

「そうか。寂しくなるな」

「今の時代、アメリカと日本なんて近いものよ」

 えりかはそう強がって見せた。本音は寂しく堪らなかったが、それを涼一に漏らすわけにはいかなかった。

「そうかもしれないが、親しい友人が遠くへ旅立つのはいつだって寂しさを感じるよ。永瀬が俺がアメリカに行く時に感じてくれていたように」

「そうね」

「アメリカに行くことへの不安や心配はないのか?」

 えりかは答えに窮した。先程浮かんだ孤独への不安が頭をよぎったからだ。しかし、えりかはゆっくりと首を横に振った。

「ないわ。アメリカには何度も行ってるし、言葉の不安もない。それに仕事が忙しくて不安や心配も感じてる暇はないと思うわ」

「そうか。だけど、もし何かあれば遠慮なく言ってくれ」

「立花君のその言葉だけで心強いわ。でも、私のために助けたりしないで。あなたはもう夏音の旦那よ。いくら友人でもそこまでする義理はないわ」

「だけど・・・・・・」

「私は将来一流企業の社長になるのよ。これくらい一人乗りきれないようでは社長になるなんて到底無理よ」

「そうだけど、仕事だけが待ってる訳じゃない。仕事以外にも辛いことや苦しいことはあるはずだ」

「分かってるわ。けど、それでも立花君には頼りはしないわ。あくまでも、自分の力だけで乗り越えたいの。社長もそれを望んでいるはずよ」

「しかし・・・・・・」

 涼一は尚も食い下がった。

「お願い。それが私のためになるの」

 えりかは真っ直ぐな瞳で涼一を見据えた。

「・・・・・・分かった。永瀬がそう望むのであればそうしよう。心から応援するだけに留めるよ」

「ありがとう。私が美星堂の社長に就任したら、立花君は多大な恩恵を受けるわ」

「どうゆうことだ?」

「立花君がスポンサーに困ったら、私がすぐに立候補してあげるわ。私が立花君を助けてあげる」

えりかは勝ち誇ったような表情を見せた。涼一は珍しく声をあげて笑った。

「そいつは頼もしいね。研究者にとってスポンサー絡みの問題はいつだって頭痛の種だから」

「立花君だったら、喜んで出資するわ。最高のビジネスパートナーになれそうだもの」

「こっちのセリフさ。永瀬とだったら、最高の仕事が出来そうだな。必ず社長になってくれよ」

涼一は右手を差し出した。

「任せて」

えりかは力強く握り返した。

「ところで、永瀬がアメリカに行くことは楠木君は知っているのか?」

「ううん。恐らく知らないわ。会社の人には誰にも言ってないから」

「いずれは話さなければならないだろ」

「そうね。ギリギリになってから言うことになってしまうけど、今は余計なことは考えさせたくないわ」

「楠木君は頑張ってるか?」

「今まで見たことないくらいに懸命に取り組んでくれてる。少し前は頼りなさげな印象が強かったけど、今は優秀な部下の一人よ。何かあったのかしらね」

「たった一つの心構えで人は驚くほど変わる。楠木君にとっての精神的支柱がきっと出来たんだろう」

「精神的支柱か」

えりかは瞬間咲希の顔が思い浮かんだ。彼女の存在が正孝にやる気を漲らせているのかと思うと、複雑な胸中になった。何故か素直に喜べないし、嫌な気持ちにもなった。

「どうかしたのか?」

「う、ううん。なんでもない。それより、そろそろ戻った方がいいかしら。準備もあるんでしょ?」

「そうだな。話せて良かったよ。ありがとう」

「私も。じゃぁ、式を楽しみにしてる」

涼一との対話を終えたえりかはホールで茜と一緒に結婚式が始まるのを待った。そして始まった結婚式は盛大かつ華やかに行われた。参列者の皆が夏音のドレス姿に感嘆した。隣に並んで座っていた茜は二人の幸せな姿に涙をボロボロ溢していた。それにつられてえりかも少し涙した。二人の幸せそうな姿を目に焼き付ける。えりかの心の中にずっと存在していた淡い波がスーッと遠くへ引いていくのを感じた。今この瞬間、えりかの一つの永い恋が終わりを迎えたのだった。


 結婚式の帰りは茜と原宿駅まで歩き、そこで別れ間際の談笑をしていた。結婚式の爽やかな熱に当てられたせいか話す内容は自然と恋愛についてだった。

「そう言えば、前にパーティーで会った後輩くんは元気にしてる?」

「してるわよ」

「何か進展があったりしないの?」

「何よ進展って。楠木君は優秀な部下でそれ以上でそれ以下でもないわ」

 そうは言うもの、えりかは胸に微かな痛みを感じていた。

「なあんだ。つまんないの」

 茜は口を拗ねらせた。

「それに今は恋愛どころじゃないわ」

「今はそうよね。それにえりか程の女なら、日本だろうがアメリカだろうがいくらでも相手は見つけられるはずね」

「私を褒めるなんて珍しいじゃない。どうゆう風の吹き回し?」

「あのね、素直にありがとうくらい言えないの?」

 茜は噛みつくように言った。

「こうして茜と口喧嘩出来るのもあと少しね」

 えりかはしんみりと呟いた。

「突然、何言い出すのよ」

「茜。いつもありがとうね。私のめんどくさい性格に付き合ってくれて」

「や、やめてよ。ただでさえ涙腺が緩んでるんだから」

 茜の瞳からまた一つ雫が落ちた。そんな茜をえりかはことさら優しい表情で見つめていた。

「ア、アメリカでは口喧嘩も程々にしときなさいよ。やり込めすぎて撃たれても知らないからね」

「心配しないで。茜以外に口喧嘩したい相手なんていないわ」

「だから、そうゆうこと言わないでよ。嬉しいのか悲しいのか分からなくなる」

 茜はハンカチで涙を拭った。

「もし、助けが必要なら言ってね。すぐに駆けつけるから」

「やっぱり茜は優しくて素敵な女性ね」

「えりか」

 耐えきれなくなった茜はえりかに抱きついた。

「元気でね。茜」

 えりかは優しく茜の頭を撫でた。

「え、えりかも。体だけには気をつけてね」

「うん。さ、もう泣かないで。帰ろう」

 泣き止んだものの茜の目は真っ赤に染まっていた。それに負けないくらいえりかの目も真っ赤に染まっていた。

 茜に別れを告げたえりかは名残り惜しそうにに改札を抜けていく。人混みに流されながら、人知れずまたひとつ頬を伝う涙が流れた。それを手の甲で拭い、えりかは顔をくっとあげた。


結婚式の明くる日。えりかは気分良く出社した。新しい恋を始める前に、まずは今の仕事に全力で取り組み成功させることだけを考えることに集中していた。いつものように誰よりも早くオフィスに着き、仕事をこなしながら部署の人達の到着を待つ。一人また一人と出社し、えりかに挨拶をしていく。えりかはチラチラとオフィスに目を向ける。始業5分前となった。正孝はまだ姿を現さない。えりかは今日も遅刻かと内心呆れ返った。そう思っていた時、次長の三島章裕がデスクに入ってきた。

「おはようございます。部長」

三島はえりかより10以上も上だが、役職的にはえりかの方が上なので敬語を使う。

「おはようございます」

「先程、楠木から連絡がありました。体調不良の為、今日はお休みを頂きたいとのことでした」

三島の報告にえりかは虚を突かれた。

「楠木が部長に今日の会議に参加出来なくて申し訳ありませんと伝えておいてくださいとのことだったので、お伝えしました」

「・・・・・・」

「部長?」

「あ、ああ。ごめんなさい。分かったわ。楠木君には、後で私の方から連絡をいれます。報告ありがとうございました」

えりかがそう言うと、三島は黙礼をしてデスクを後にした。

報告を受け終わったえりかは自身の至らなさを嘆いた。プロジェクトの成功を考えるあまり大切な部下の体調面まで気を配ることが出来ていなかった。えりかはすぐに自分のスマホに手を伸ばしたが、すぐに引っ込めた。どれほど体調が優れていないのかは分からないが、今は安静にさせる方が先決だと思った。えりかは気を取り直して仕事に向かった。


昼休憩。えりかは久々に外で食べることにした。スパゲッティを食べたい気分だったのだが、茜と派手に喧嘩した店には気まずくてけないので、別の店を手早く探した。昼食を食べ終えたので、一度正孝に電話することにした。コール音が鳴る。もしかしたら、寝ていて出ないかも知れないと思ったが、意外にもすぐに出た。

「先輩。お疲れ様です」

「お疲れ様。体調の方はどう?」

「はい。まだ頭は少しふらつきますが、朝に比べれば大分マシになってきてます」

「そう。良かったわ」

「今日は会議があったのに、申し訳ありません。こんな大事な時期に・・・・・・」

「そんなことは気にしなくて良いわ。今は体調のことだけ考えなさい。しっかり治すことが今の仕事よ」

「はい。ありがとうございます」

「ご飯は食べたりした?」

「いえ。でも、水分補給はしてます」

「そう。もし、夜に体が動けそうなら食べなさい」

「分かりました。ほんと申し訳ありません」

「とにかく無理はしないこと。明日、治ってないのに出勤したら、メンバーから外すわ。良いわね?」

えりかは脅すようにいった。

「は、はい。静養につとめます」

正孝は自分の考えが見透かされたような気がして、内心焦った。まさに、明日は少しくらい体調悪くても出勤しようと思っていたからだ。

「夜にもう一度連絡を入れるわ。お大事に」

「はい。ありがとうございました」

正孝との電話を終えたえりかは小さくため息をついた。とりあえず、重たそうじゃないことに安堵した。

 

 えりかが仕事をしているとデスクの扉がノックされた。えりかはパソコンから目を離さずにどうぞといった。

「失礼します。頼まれていた書類の方をお持ちしました」

声と共に入ってきたのは優磨だった。

「ありがとう」

えりかは書類を受け取った。渡し終えた優磨はすぐに立ち去ろうとしなかった。

「何か用でも?」

「先輩。さっきから何か深刻そうな顔をしてましたけど、何かあったんですか?」

えりかは内心焦った。優磨が正孝と仲が良いのは知っている。余計なことを言って、正孝に変なことを吹聴されては困ると思った。

「そうかしら?いつも通りだけど」

 えりかは誤魔化した。

「もしかして、まさのことですか?」

「どうして私が楠木君のことで深刻な顔をしなきゃいけないのかしら?」

えりかは精一杯平静を装った。

「それはあいつが嘘をついてるかもしれないからです」

「嘘?体調不良が仮病ってこと?」

にわかに信じられないと思った。

「違います違います。むしろ、その逆転です」

優磨は慌てていった。

「逆?」

「つまり、風邪が重たいってことです。あいつのことだから、周りに迷惑をかけまいとして本当は大したことあるのに、大したことないって言いそうな気がするんですよ。前にも同じことがありましたから」

「なんですって?」

聞き捨てならないことを聞いたと思った。

「去年、あいつが入院したの覚えてますか?」

「え、ええ」

去年はまだそこまで関わりもなかったので、部署の誰かが倒れたくらいの認識であり、それが正孝だとは知っていたが、あまり関心を持っていなかったのは事実だ。

「あれも無理して出社して倒れちまったんですよ。そんなこともあるから、今回もって思っちまうんですよ。特にあいつはメンバーに

選んでくれた永瀬先輩の期待に応えないとって想いが強いんで、多少の無理をするかもしれないので、余計に心配です」

「そんな・・・・・・」

「お粥くらい作ってくれる彼女でもいれば少しは安心なんですが、今はそんな人はいないみたいですから、明日には無理して出社してきそうなんですよね」

「お粥・・・・・・」

えりかはあることで頭がいっぱいになって、優磨の話しの半分も聞いてなかった。

「先輩?」

「あ、ああ。ごめんなさい。確かにそれは心配ね。夜に連絡を入れるつもりだから、無理しないように釘を刺しておくわ」

 「今日、終わったら俺が様子を見に行きましょうか?」

 「いいえ。諏訪君がそこまでする必要はないわ。仮に電話越しで嘘をついてても、私が問い詰めれば白状すると思う」

「確かに。一応、自分もまさの方に無理しないよう連絡入れて置きます。それじゃ、失礼します」

優磨は一礼してデスクを後にした。

優磨が去った後、えりかは一人悩み始めた。優磨の話しを聞いた瞬間に、とある案が浮かんできたのだが、果たしてそこまでする必要があるのか、どうして自分はそんなことをしようと思ったのか不思議でならなかった。結局、えりかの頭はそのことでいっぱいになり、その日の午後は仕事どころではなくなった。


 パッと目が覚めて時計に目をやると時刻は18時を指していた。正孝はムックリと体を起こした。まだ頭のフラつきは残っているものの、体は大分楽になっていた。この分なら、明日は問題なく出社出来るなと思った。ご主人様が寝ていたからか、アッシュも眠りこけていてた。そんな愛猫の可愛らしい一面に頬が緩んでいた時、スマホが鳴った。画面を見てみると電話の相手は咲希からだった。

 「もしもし」

 「もしもし。正孝君?」

 「突然、電話なんてどうしたの?」

 「突然じゃないよ。何回か電話したんだけど、出ないからずっと心配してたんだよ」

咲希の声は少し震えていた。自分のことを本気で心配してくれていた咲希に胸が打たれた。

 「そうだったんだ。ごめんね。心配かけて。実は、体調が悪くてずっと寝てたんだ。だから、電話に気付かなかったんだ。本当にごめん」

 「ううん。連絡がついてホッとしたよ。体調は大丈夫?」

 「大分良くなったよ。明日からは普通に会社に行けると思う。もしかして、僕に何か用があった?」

 「あ、大したことじゃないの。夜ご飯でもどうかなって誘おうとしてただけだから」

 「そうだったんだ。せっかくのお誘いなのに、行けなくてごめん」

 「いいよ。気にしないで。それより何か食べたりした?」

「いや、ずっと寝てたから。これからコンビニにでも行って何か買って食べるよ」

「ダメだよ。下手に動いて悪化したらどうするの?」

「歩いてすぐの所にあるから大丈夫だよ」

「それでも。ねぇ、正孝君。私が家に行って看病あげようか?」

「い、いや。だ、大丈夫だよ。そんな迷惑をかけるわけにはいかないよ」

正孝は慌てて断った。

「私から提案してるんだから、迷惑なんかじゃないよ。体調悪い時に一人って大変でしょ?お粥くらいなら作ってあげられるし」

「本当に大丈夫だよ。早川にわざわざそんなことさせられないよ。全然、大したことないんだから」

「でも・・・・・・」

「本当に。その気持ちだけで凄い嬉しいよ。早川も仕事大変なんでしょ。早川に風邪を移したりしたら、僕が申し訳なさでいっぱいになっちゃうからさ」

「・・・・・・分かった」

咲希の声はとても寂しいそうだった。その声が正孝の胸に罪悪感を生ませた。

「でも、無理しないでね。本当に辛かったらいつでも連絡して」

「う、うん。ありがとう。早川は相変わらず優しいね」

「正孝君だって。大学時代から変わってないよ。穏やかで優しくて、一緒に居て安心する」

「あ、ありがとう」

突然の褒め言葉に正孝はつい照れてしまった。咲希のような美人褒められて悪い気はしなかった。

「そんな・・・・・・」

「そんな?」

「ううん。何でもない。あまり長い電話も悪いから、もう切るね。お大事ね。体調良くなったらまたご飯食べに行こ」

「うん。ありがとう。ご飯楽しみにしてるよ」

正孝は電話を切った。

切った後で、咲希に来てもらえば良かったかなと思った。あんなに自分のことを心配してくれる人の提案を無下に断ったことが、胸に小さな痛みを抱かせた。そう言えば、えりかも夜にまた連絡すると言っていた。一瞬、えりかが咲希と同じような提案をしてくれないか考えてみたが、あまりに非現実的すぎて思わず笑いそうになった。えりかにそんなことをされたら、

ますます惚れてしまうだろうと思った。そんな馬鹿なことを考えていたら、LINEの通知が鳴った。正孝がアプリを開いて見るとえりかからだった。

『楠木君の家の住所を教えて』

簡潔な文章を読んで正孝は首を捻った。どうして、急に住所を知りたがるのだろうか。正孝が返信をしようとしたら、続け様にえりかからメッセージがきた。

『教えたくいならなら構わないわ。忘れて』

『どうして、突然住所を?』

『とにかく、教えるのか教えないのか答えて』

こうゆう時はあまり質問を重ねるとえりかの機嫌が悪くなることを知っていた。正孝は急いで返信した。

『教えます。教えます』

そう送信した後に、正孝はすぐ住所を打ち込み再度送信した。

『ありがとう。それと、今から1時間は外に出ないように』

正孝はますます混乱した。えりかはどうしたというのか。何か返信をしようとしたが思い付かず、えりかの命令に従うことにした。とりあえず、水を一杯飲んでから、ベッドに横になり適当にスマホをいじることにした。

 えりかから連絡がきてから間もなく1時間が経過しようとしていた。食欲が戻ってきているからか、かなりの空腹を感じていた。5分くらいなら出掛けても大丈夫かなと思っていた所にまたしてもえりかから連絡がきた。

 『あと15分だけ外に出ないで待ってて』

 正孝はますます首を捻った。本当にえりかが何を考えているののか分からなかった。それでも、えりかの指示に逆らうことはしたくなかったので、大人しく家にいることにした。連絡がきて10分程経過したころだろうか、不意に家のインターホンが鳴った。正孝はこんな時間に誰だろうと訝しんだ。ベッドから起きてインターホンに付いているカメラを見た。そこに映っている相手を見て心臓が飛び出しそうなくらい驚いた。正孝は出るにも忘れて思わず凝視してしまった。自分は夢でも見ているのかと怖くなった。そんなことをしていると、その相手がもう一度インターホンを鳴らした。正孝は我に返って少し震える手で通話ボタンを押した。

 「く、楠木です」

 緊張で喉がカラカラだった。

 「ああ、良かった。出ないから外に出てしまったかと思ったわ」

 「先輩。どうしてここに?」

 「その話しは家に入れてくれからでも良いかしら?それとも、話したらこのままUターンをしろと?」

 「す、すみません。すぐ開けます」

 正孝はすぐさま開錠ボタンを押した。えりかがオートロックの入り口を抜けようとした途端に画面は暗くなった。正孝はインターホンの前から動けずにいた。未だに、現実への理解が追いつかずフリーズしていた。やっとのことで、今の自分の格好を見られるのが恥ずかしいと思い、急いでタンスから着替えを出した。正孝の部屋は3階にある。顔を洗ったり、髪の毛を整えている暇なんてもっとない。全てが虚を突かれすぎて、夢なのか現実なのか分からなくなってきた。正孝が何とか着替え終わった瞬間に、二度目のインターホンが鳴った。正孝はかつてないほどに緊張した。玄関までいき、鍵を開けて扉を開けた。目の前には紛れもなく正孝の憧れの相手である永瀬えりかが立っていた。

 「こんばんは」

 出し抜けにえりかがいった。

 「こ、こんばんは」

 正孝は改めてえりかを見る。右手にはスーパーの袋らしくものを掲げていた。その袋には見覚えがあり、正孝の家から一番近いスーパーのものだとわかった。

「何か信じられないものを見るような目つきね」

「あ、いえ。すみません」

「責めてないわ。楠木君の驚きも分かる。とりあえず、中に上がっても良いかしら?」

「あ、どうぞ」

正孝が脇に避けると、えりかは躊躇なく玄関に足を踏み入れた。

「お邪魔します」

えりかはそう言い、靴を脱いで正孝の部屋に上がった。正孝はドアを閉めつつ、尚も混乱していた。もう何がどうなっているのか理解するのが不可能だった。

「荷物ここに置かせてもらっても?」

えりかはソファを指差した。

「ど、どうぞ」

「ありがとう」

えりかは左腕にかけていたカバンをソファの上に置いた。

「先輩それは?」

正孝が右手に持っていた袋を指差す。

「これは後で使うから、とりあえず台所に置かせてほしいんだけど、良いかしら?」

「は、はい」

正孝がそう言うと、えりかはキョロキョロと見回し、台所を確認すると袋を持っていった。

「体調はどう?」

台所から戻ってくるや聞いた。

「だ、大分良くなりました」

えりかは正孝のことを観察するように見つめた。正孝は恥ずかしさで体温が熱くなるのを感じた。

「嘘ではないようね」

えりかは満足そうに頷いた。

「先輩。どうしてここに?」

正孝は知りたくって仕方なかったことを質問した。

「あら、分からないのかしら。病人を訪ねて来たんだから、お見舞いに決まってるでしょ」

 えりかはさも当然のようにいった。

 「お見舞い・・・・・・ですか」

 正孝はますます混乱した。

 「そう。電話だけでもよかったのだけど、楠木君が嘘をつく可能性があったから、家まで訪ねたのよ」

 「僕がどんな嘘をつく言うんですか?」

 「治ってないのに治ったていう嘘よ」

 正孝は自分の心が見透かされたと内心ドキッとした。

 「それでわざわざ僕の家に?」

 「そうよ。いけなかったかしら?」

 「いえ。ただ、あまりにも突然のことで驚きました」

 「それはそうよね。ずっと立ってるのも変だし、ここに座ってもいいかしら?」

 えりかはソファを指差した。

 「あ、どうぞどうぞ」

 正孝はテーブルを挟んだ座布団に座った。自分の家とは言え、上司の前で胡座をかくわけにもいかないので正座で座った。

 会話が途切れたことで二人の間に多少の気まずい沈黙が流れた。正孝は何か話題を出そうと必死になったが、今も混乱する頭と憧れのえりかが自分の部屋にいるという緊張で何も話題が思いつかなかった。チラッとえりかを盗み見る。端正な顔が正孝の部屋全体を興味深そうに見ている。自分の好きな女性にこうも部屋を見られるのが、こんなにも恥ずかしいとは思わなかった。大学時代に咲希が部屋に来た時はこんなに恥ずかしいと思ったことなどなかった。

 「中々、綺麗な部屋ね」

 えりかがいった。

「そ、そうですか?」

 正孝はお世辞だろうと思った。汚いまでにはいかないにしても、綺麗な部屋だとは思えない。

「まぁ男の独り暮らしの部屋に上がったのは今日が初めてだから、他の男の人の部屋と比べてどうなのか知らないけどね」

えりかは少し恥ずかしそうに目を伏せた。正孝はたまらず胸が熱くなった。

「そうなんですね。意外です」

「意外ってどうゆう意味かしら?」

えりかが目つきが鋭くなった。正孝はまずいと思った。この表情が怒られる前兆というのは嫌と言う程分かっている。

「えーと、以前に大学生時代に何人かとお付き合いされてたと聞いたので、部屋に上がったことがあるのかと思いまして」

「ああ。その話し覚えてたのね。確かに、部屋に来ないかと誘われたことはあるわ。けど、全部断ってた。ご存知の通り酒癖も悪いし、何より付き合って間もないのに、部屋に呼ぶ神経が分からなかった」

「失礼ですが、お付き合いしてたのは何人くらいいたんですか?」

「5人。けど、誰一人3ヶ月も持たなかったわ。別れた理由は前にも話した通りよ」

正孝はえりかに聞きたいことがあったのだが、思いきって聞いてみることにした。

「い、今でも、立花さんのことが好きなんですか?」

正孝の質問を予期してなかったのか、それともわざとなのかえりかはすぐには答えなかった。正孝はしてはいけない質問をしてしまい、えりかを怒らせたのかと不安になった。

「そうね。好きよ。けど、それは人としての好きよ。以前のような恋心はもう感じてないわ」

えりかはどこか懐かしむかのようにいった。だからこそ、えりかの気持ちに偽りがないことを信じられた。今現在は好きな人は出来たりするのだろうか。さすがに、それはいくら何でもはやすぎるか。突然、えりかが一点を見つめて動かなくなった。

「先輩?」

正孝が声をかけるのと同時ににゃおーんと鳴き声が聞こえた。正孝は顔を左に向けた。アッシュが恐る恐るこちらに近付いてきていた。アッシュはじっとえりかを見つめている。警戒しているのだろう。アッシュは警戒心が強く正孝以外にあまり人には懐かない。これまでも遊びにきたことのある友人達に対しても同じような態度を取っていた。そんなアッシュをえりかはじっと見つめている。正孝はその横顔が美しくて見とれてしまった。ふいにえりかが正孝の方を向いた。正孝は慌てて目を背けた。

「楠木君」

その声は何か重要な話しを切り出す時と同じ声だった。正孝は身構えた。

「は、はい」

「あの猫めちゃくちゃ可愛いわね」

「はい?」

正孝は聞き返していた。

「あの猫。いつから飼ってるの?名前は?雄雌どっち?なんて言う品種なの?」

興奮を隠せないえりかは矢継ぎ早に質問を浴びせかけた。その顔は天真爛漫な少女のようだった。正孝は面を食らいながらも、一つ一つに答えた。

「えーと、名前はアッシュで、雌です。品種はマンチカンです」

「アッシュって言うのね。触ってもいいかしら?あ、でも、私のことを警戒してるから無理そうね」

えりかはしこたま残念そうに呟いた。

「先輩。猫お好きなんですか?」

「ええ。昔飼ってたの。雄のロシアンブルー。本当に可愛かった。いつも私に甘えてきてね。弟の世話とかしてると嫉妬してわざと噛みついてきたりしてきたわ。でも、それがまた可愛くて」

えりかは遠い目つきで語った。

「今も飼ってるんですか?」

「ううん。私が中学2年生の時に亡くなったわ。本当に悲しかった。母を亡くした時とは違う喪失感に襲われたのを鮮明に覚えてる。二度とペットなんて欲しくないって思った。でも、猫が好きなのは変わらなかった。こうして見ると、愛おしい気持ちが湧き上がってくるわ」

えりかは言った通りに、愛おしい目つきでアッシュを見つめた。そんな優しい聖母のような表情を見つめる正孝の胸は締め付けられるばかりだった。会社では常に厳しい表情で仕事に望んでるえりかだが、アッシュを見つめる顔こそ真のえりかの顔だと思えた。正孝は今すぐにでもえりかに自分の気持ちを伝えたいという衝動に駆られた。

「あっ」

えりかがいった。正孝はアッシュの方を見た。なんとアッシュは正孝の方ではなくえりかの元へと歩き始めた。そして、えりかの足に自分の体を擦り付けた。これは猫の愛情表現の一つだった。えりかはいたく感激した面持ちで正孝を見た。

「驚きました。アッシュが初対面の人間に体を擦り付けるなんて初めてです」

アッシュはそのままソファに飛び乗りえりかの真横で体を丸めた。

「そうなの?それは嬉しいわ」

えりかは撫でようと手を出したが、すぐに引っ込めた。

「今なら撫でても大丈夫だと思います」

正孝はいった。

「ほんとに?」

「はい。アッシュがそうするってことは大丈夫です」

今度はえりかが恐る恐る手を伸ばした。アッシュに触れる寸前に一旦躊躇する素振りを見せたが、そのまま背中を優しく撫でた。アッシュは抵抗することなく気持ち良さそうに喉を鳴らした。えりかは慈しむように優しく背中を何度も撫でた。

「この子は本当に人見知りなの?」

「そうですよ。先輩のことを余程好きになったんでしょう」

正孝はえりかに笑いかけた。

えりかはその表情を見て胸の高鳴りを覚えた。あの時と同じ。えりかは涼一に惚れたあの日を思い出した。まさか私は楠木君のことを・・・・・・

「そう言えば、台所に置いた荷物はなんですか?」

正孝の質問にえりかはハッと我に返った。今、自分が考えていたことが恥ずかし過ぎて、正孝の顔をまともに見ることが出来なかった。

「あ、ああ。そうそう。あれはお粥で作ってあげようかなって思って。お見舞いに来たのに、ただ様子を見て帰るだけじゃどうかなって思って」

「お粥を作ってくれる?」

「あ、言っておくけど、あくまで病人の看護の一環よ。特別なものじゃないわよ」

えりかは言い訳がましくいった。

「本当にお粥を作ってくれるんですか?」

「別に楠木君が要らないなら、すぐに帰るわ」

「いえ、食べたいです。先輩が作ってくれるお粥を」

正孝はテーブルに乗り上げる勢いでいった。

「お粥くらいで大袈裟ね。じゃぁ、作るけど、嫌いな物とかあるの?」

「椎茸以外なら何でも」

「なら、問題ないわ。台所借りるね」

えりかはアッシュを一撫でするど、立ち上がって台所に向かった。アッシュはえりかの動向を注視していたが、伸びをしてからまた体を丸めた。

「は、はい。よろしくお願いします」

正孝は人生で一番幸せな場面にいると思った。あまりにも嬉しすぎて、自分は明日にでも死んでしまうのではと考えてしまう。

自分のいる角度からえりかの料理している姿は見えないが、包丁で具材を刻んでいる音や鍋に火をかけている音が心地好いサウンドなって正孝の耳を刺激していた。見えないからこそ、えりかがどんな表情で作っているのか、つい想像を膨らませてしまう。豪勢なフランス料理なんか目じゃないくらいに、正孝は出来上がるのを心待ちにしていた。えりかが調理を始めて20分くらい経っただろうか。食欲を掻き立てる香りが部屋に充満している。美味しそうな香りにつられてたかアッシュも体を起こして、今か今かと待ちわびていた。

「はい。お待たせ」

えりかがお盆に載せて料理を運んできた。そのお盆を正孝の目の前に置く。小さな土鍋とお椀からからゆらゆらと湯気が立ち上っている。中身はシンプルな白いお粥と味噌汁だが、正孝にとっては言葉には表せないほどの価値のあるお粥だった。

 「ありがとうございます」

 「冷めないうちに早く食べなさい」

 えりかはソファに座り、アッシュを撫で始めた。

 「じゃあ、いただきます」

 正孝は両手を合わせた。蓮華を持って、お粥を掬う。ほんのり梅の香りが鼻腔をくすぐった。軽く息を吹きかけて、お粥を冷ました所で口に入れた。

 「美味しい」

 正孝は自然といった。

 「ほんと?」

 「はい」

 正孝は続け様にお粥を口に運ぶ。

 「本当に美味しいです。今までで食べた料理の中で一番です」

 「お粥なのに?それは大袈裟過ぎるわよ」

 えりかは小さく笑った。

 「そうですか?熱っ」

 お粥を手の上にこぼした。

 「大丈夫?慌てないで食べなさい」

 それから正孝は黙々とお粥と味噌汁を口に運んだ。口に運ぶ度に美味い美味いと言う正孝がえりかには愛おしく見えた。ただそれは恋人と言うよりは弟の洸太に抱く感情に近いような気がした。それでも、えりかの心の中にただの後輩以上の感情が生まれていることは否定出来なかった。そんなえりかの想いも露知らずに正孝はひたすら美味しそうにお粥を食べ続けていた。

 

 「ごちそうさまでした」

 正孝は今一度両手を合わせた。こんなにも心の底からごちそうさまと言ったのは無邪気だった幼少期以来かも知れないと思った。

 「はい。お粗末様でした」

 えりかは立ち上がって食器を片付けようとした。

 「あ、自分で下げて洗います」

 「良いのよ。まだ病人でしょ。遠慮なく甘えておきなさい」

 えりかは慣れた手つきで食器をお盆に載せて台所へ運んだ。

 えりかが台所で食器を洗っている間、正孝の心は空腹を満たされた以上の幸福感に包まれていた。果たしてこれは現実なのかと今も頭の片隅で疑ってしまう。ソファで丸くなっていたアッシュがこちらを見つめて少し甲高く鳴いた。それはまるで夢でなくて現実だよと教えてくれているような気がした。

 洗い物を終えたえりかが戻ってきた。

 「じゃあ、私はそろそろお暇させてもらうわね」

 「え?もう帰られるんですか?」

 正孝はついそんなことを口走っていた。

 「当たり前でしょ。体調も大丈夫そうだし、楠木君に必要なのは休息よ。私が居たのでは休まらないでしょう」

 もう少し居て欲しいと言いたかったが、ただの後輩に過ぎない自分が言ってもえりかに気持ち悪がれると思った。先程までの幸福感は萎んでいき、寂しい気持ちが一気に胸の内を支配していく。

 「最後にアッシュを抱っこしても良いかしら?」

 「あ、どうぞどうぞ。アッシュも寂しがっていると思うので」

 えりかは正孝をジッと見つめた。何か変なことでも言っただろうかと不安になった。

 「なら、もう少しここにいるわ」

えりかは意見を翻した。

 「え?」

 正孝は一瞬意味が分からなかった。

 「アッシュ寂しがってるんでしょう?だったら、まだ居てあげるって言ってるの」

 「でも、もう21時を過ぎてますが」

 「幸い明日は土曜日で休みだから、遅くなっても問題ないわ」

 正孝が尚も戸惑っているとえりかが言った。

 「安心して。終電の前には帰るわ」

 「本当に帰らないんですか?」

 「何?帰ってほしいの?」

 「あ、いや、そうゆう訳ではないです」

 「なら、決まりね。あ、楠木君はベッドで横になってなさい。寝ても構わないから。私はアッシュと遊んだら適当に帰るわ」

 正孝は困惑した表情でえりかを見つめていた。

 「何か不服でも?」

 「あ、いえ。じゃあ、アッシュをよろしくお願いします」

 「うん。ゆっくり休んで」

 えりかに促されて正孝は隣の部屋のベッドに潜った。しかし、頭が冴えているのか全く眠気が襲ってこなかった。どうしてえりかはわざわざ訪ねてきてくれたのだろうか。えりかが来てから、ずっとその事が頭からはなれなかった。本人は嘘をついてないか確認するために来たと言っているが、それならば優磨に頼めば良かったのではないかと思った。そうしなかったのには何か事情があったのだろうか。本当は優磨に頼むつもりだったが、優磨に予定があって仕方なく自分が行くことにしたのかもしれない。そうだとしたら、嘘をついてないことを確認したら、すぐに帰ってもよさそうな気もするが、お見舞いついでにお粥まで作ってくれたのはえりかの純粋な優しさ故だろうか。そんなことを考えているうちに、薬が効いてきて瞼が重くなってきた。


 正孝が眠りに落ちた頃、えりかはアッシュを膝に乗せてぼんやりと過ごしていた。勢いに任せて部屋を訪ねてしまったが、はたして正孝はどう思ったのか少し気になった。いきなり直属の上司が家にやってきて緊張しないわけがないだろう。気を遣わせて体調が悪化してしまったらどうしようと今更ながら考えてしまう。ただ、その一方で自分の行動に後悔していない自分がいた。自分の浅はかな行動を認めたくないから、これで良かったと思い込みたいのかもしれない。ふと、お粥を食べてる時の正孝の表情を思い出した。お世辞からではなく本当に喜んで美味しそうに食べてくれていた。それが分かる表情だった。お粥とは言え、自分の手料理をこんなにも喜んで食べてくれたのはいつ以来だろうと思い返した。母親が亡くなるまでは料理なんかに目もくれずに生きてきた。しかし、母親が亡くなってからは弟や父親の為に料理を作らなければいけない日々が始まった。最初はご飯を炊くのさえ失敗していた。それでも父親は文句を言わずに食べてくれていた。だが、それがまたえりかにとっては辛かった。それでも、続けている内に腕はメキメキと上がっていった。初めて父親の心の底から出た旨いと聞いた時は涙が出るくらい嬉しかったのを今でも鮮明に覚えている。それから家族のために料理を作り続けて10年以上が経った。今やえりかの料理の腕は同世代ではかなりの腕前になっている。一般的な家庭料理はもちろんその気になればフランス料理くらいは作れるくらいにまでなっていた。そんな実力に家族も馴れてしまっているから、父親や弟も昔のように美味しい美味しいと連発したりしない。二人ともえりかならこれくらいの物なら作って当たり前という感覚になっていた。その事が特に不満に思うことはなかったが、正孝の純粋な反応を見た時はやはり嬉しくなった。今度はお粥なんかではなくもっと手の込んだ料理を作って、もっと驚かせてあげようなんて考えた。そこまで考えて自分は何を考えているのだろうと恥ずかしくなった。正孝の純粋な反応を見たせいで、調子に乗ったことを考えてしまったようだ。えりかは正孝が眠りについたのか気になり、様子を窺うことにした。えりかが立ち上がることを予測したのか、アッシュはえりかの膝から飛び降りた。アッシュの察しの良さにえりかは小さく笑って立ち上がり、正孝の眠る隣の部屋のドアの前に移動した。起きてるのか確認するために軽めにノックをした。聞き耳を立てるが返事は無かった。えりかは出来るだけ音を立てないように慎重にドアを開けた。どうやら部屋の電気は付けっぱなしだったようだ。ベッドの上では正孝が眠っているのが確認できた。えりかは足を忍ばせてベッドの方へと近付いていく。正孝は静かな寝息を立てて安らかに眠っていた。えりかはベッドの端に慎重に腰を下ろした。正孝の寝顔を見つめるその顔には慈しみが溢れていた。えりかは正孝の頭を軽く撫でた。いずれアメリカに行くことを伝えなければならないのが、こんなにも心苦しいとは思わなかった。涼一もこんな気持ちをずっと一人で抱えていたのだろう。そう思うと、安易に伝えた方が良いと言っていた自分が愚かだったと気付いた。今になって正孝の側から離れたくない気持ちが強くなっている。しかし、もう後戻りは出来ない。えりかの頬に一筋の涙が伝った。

「ごめんね。楠木君。ごめんね・・・・・・」

何に対する謝罪なのか、えりか自身にも分からなかった。きっとそれはもう少し後になってから分かるだろうと思った。

涙を拭いえりかは腰をあげた。部屋の明かりを消して正孝の寝る部屋から出た。部屋から出ると、目の前でアッシュが綺麗な姿勢で座って待っていた。待っていたか分からないが、少なくともえりかにはそう思えた。アッシュは綺麗なエメラルドグリーンの瞳でえりかを見つめた。

「アッシュもご主人様が心配?」

えりかがそう言うと、アッシュが鳴いた。

「大丈夫よ。明日には良くなっているわ」

アッシュは動き出して、えりかの足に体を擦り付けた。えりかは膝をついてアッシュを抱き抱えた。

「それにしても・・・・・・本当に綺麗な瞳をしてるわね」

 えりかはアッシュの美しいエメラルドグリーンの瞳にみとれた。その時、えりかの頭の中にあるアイディアが閃いた。そのアイディアはえりかが今進めているプロジェクトに関するアイディアだった。えりかは自分の閃いたアイディアに少しの興奮を覚えた。今の時代それも立派な化粧と言えるはずだ。しかもそれは、美星堂には存在しない商品だった。今進めているプロジェクトの開発コンセプトにもバッチリハマる。えりかが一人ほくそ笑んでると、不意にアッシュの鳴き声が聞こえた。えりかは我に返った。アイディアに没頭してアッシュを中途半端に抱きかかえたままだった。

 「あ、ごめんごめん」

 えりかはアッシュを解放してあげた。

 そうしてから、えりかは帰り支度を整えた。と言っても、カバンを持つだけだ。ソファに置いてあったカバンを手に取り玄関へと向かった。正孝のことは心配だったが、今は閃いたアイディアを忘れないうちにパソコンにまとめたかった。靴を履いていると、後ろからアッシュも鳴き声が聞こえた。えりかは振り向き、最後にアッシュを撫でた。

 「アッシュのお陰で良いアイディアが閃いたわ。ありがとうね」

 アッシュはえりかに帰ってほしくないのか、しきりに鳴いている。

 「私も寂しいわ。けど、またいつか必ず会えるから。私のこと忘れないでね」

 えりかの気持ちが通じたのか、アッシュは鳴き止みその美しい瞳でえりかのことを見つめた。えりかは優しく微笑んでアッシュにバイバイと手を振って玄関のドアを開けた。ムっとする空気がえりかの体を一気に覆い尽くした。

空はまだ分厚い雲に覆われている。それでも、えりかの心は晴れやかだった。そして間もなく、えりかの最後の青春の夏が訪れようとしていた。

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