第三章
翌週の月曜日。誰よりも早く出社したえりかは一人デスクで頭を抱えていた。早く出社したのは、やり残した仕事を終わらせる為だったのだが、さっきからパソコン操作してる手はすぐに止まり、一向に仕事が捗る様子はなかった。それもそのはずで、えりかの頭の中は正孝に対する罪悪感で一杯だったからである。えりかの記憶は自然と一昨日の土曜日へと向かい始めた。
土曜日の朝、起きてまず思ったのが前日の夜の記憶がないことだった。すぐに父親に昨夜のことを訪ねると、案の定、泥酔状態のまま自宅に帰ってきたという。しかも、後輩の楠木君がわざわざタクシーで送り届けてくれたというからまさに驚きだった。すぐに正孝に電話をかけて謝罪を申し入れた。楠木君は気にしてないと言ってくれ、むしろ勝手に電話を出たとこを詫びられた。楠木君の話しだと、電話の相手は立花君で、何とその後来たということだった。楠木君への謝罪の電話を終えすぐに立花君に連絡をとるこにした。立花君は土日関係なく忙しくしているみたいで、夜にかけ直しすることにした。
「本当にごめんなさい」
相手が目の前にいるわけでもないのに、えりかは頭を下げた。
「別に気にするな。たまにはこうゆうこともあるさ」
涼一はさも気楽な口調で言った。
「まさか立花君が来るなんて思いもしなかったわ。来るって分かってたら、あんなに飲まなかったのに」
「何でだよ。楠木君の前では遠慮なく飲めるのに」
「本当はあそこまで飲むつもりなかったの。けど、調子に乗ったというか、つい止まらなくなって」
「ヤケになったってことか。俺が着いた時、楠木君は本当に困り果てた顔をしてたよ」
「申し訳ないわ。しかも、わざわざ自宅まで送ってもらって。月曜日に合わす顔がないわよ」
「ま、先輩の尻拭いは後輩の役目だから」
「やめてよ。下手したらパワハラやらで訴えられることだってあるのよ」
「彼はそんな人じゃないだろ」
「それは分かってるけど。でも、不思議なのよね。彼の性格からしたら、自宅まで送るなんてことはしなさそうなのに。これはめんどくさいからとかじゃなくて、会社の上司の実家に行くなんて結構な度胸がいると思うのよね」
「まぁ楠木君に君が自宅に送れって言ったのは俺なんだけどね」
「やっぱり。そうじゃないと変だなって思ってたわ。でも、どうして彼に送らせたの?申し訳ないけど、立花君と夏音の家に泊まらせてくれたら、彼もそんな苦労しなかったじゃない」
「そうしても良かったけど、今回は彼に送らせた方が良いと思ってね」
「どうして?」
「こっちの話しだ。彼はもしかしたら、俺の大きな悩みを解決してくれる人物になるかもしれない」
「立花君の?」
えりかは怪訝そうに聞いた。
「そう。まぁどうなるか分からないけどね。とにかく彼は良い後輩だ。間違っても辞職やらに追い込まないことを祈るよ」
「あのね、私はそこまで鬼じゃないんだけど」
「彼によろしく伝えておいてくれ。それとまたいつでも相談に乗るよってね」
「立花君がそこまで言うなんてよっぽど気に入ったのね」
「ああ。それに彼はあいつに似ている」
「あいつって?」
「藤沢だよ」
「えーどこが?藤沢君の方が何倍も格好いいじゃない」
「見た目の話しをしてるんじゃない。それに楠木君だって別にカッコ悪い訳じゃないだろう」
「別に彼の見た目を悪く言うつもりなんてないわ。ただ、比べる相手が可哀想じゃないかしら?」
「総合的に比べたら、比べるまでもないが、俺が言いたいのは藤沢のような優しい心の持ち主だと言ってるんだよ」
「うーん、まぁ言いたいことは分かるけど、それでも藤沢君は言い過ぎじゃない?」
「頑なに認めないな。それはまだ藤沢には敵わないだろうけど、俺は楠木君を応援してるよ。実に良い青年だよ彼は」
「人に興味がない立花君がそこまで言うなんて何か怖い。楠木君も気味がるわよ」
「そうゆう永瀬は楠木君のことをどう評価してるんだよ」
えりかは少し考えた後にいった。
「観察力は優れていると思うわ。周囲に起こってることを敏感に察知することに長けているし、仕事もまだまだ駆け出しだけど、能力があるのは認めている。上手く育てば将来の役員候補にはいけるかもしれないわね」
「中々に認めているじゃないか」
「と言っても、まだまだよ。教えることも覚えることもたくさん。それに彼が応えられればの話しね」
「十分。楠木君なら余程の事が無い限り投げ出すことはないって断言できるよ」
「ほんと。どうしちゃったの?」
「とにかく、彼は大切にした方がいい。少しくらい贔屓してもね」
「私としても会社の支えになってほしいから、それなりに気を掛けるけど、あまり依怙贔屓するのは却って彼のためにはならないわ」
「それは分かってる。あくまでも、周りから妬まれない程度にだ」
「うん、まぁそれなら。立花君のお墨付きがあるなら、更に彼を信頼出来そうだわ。可能な限り仕事は回してみるわ」
「それがいい。ああ、それと、茜のことだが」
涼一が思い出したようにいった。
「うん・・・・・・」
えりかは喧嘩のことを思い出して少し気分が下がった。
「もう怒ってないなら、近い内にまた会おうってさ」
涼一の言葉にえりかの胸が熱くなった。
「怒ってないならって私のセリフよ」
「二人とも早く加減を覚えろよ」
「私と茜はどちらも火に油を注ぐタイプみたいだから無理ね」
「それでも、仲が続いてるんだから大したものだよ。喧嘩する程仲が良いって言うし、ある意味一番馬が合うのかもな」
「そうなのかもね。これだけ喧嘩しても茜のことを嫌いになったりしないもの。逆言えば、これだけの本音をぶつけられる相手なんてそうそう居ないわ」
「茜も同じようなことを言ってたな。周りで私と口喧嘩出来るのは涼一とえりかだけって」
「でも、これからはなるべく控えるようにするわ」
「そうしてくれ」
二人で笑い合った。
回想を終えたえりかはまたひとつ溜め息をつく。気付けばぞろぞろと他の社員が出社してきていた。まだ正孝の姿は見えない。普段なら、何も思うことはないのに、今日はやけにソワソワした。
就業時刻10分前に職場に着いた正孝はまずえりかのデスクへと目をやった。電話をした限りでは金曜日のことをいたく気にしていたようだった。気にしないでくださいとは言ったものの、当人からすれば気にするなとというほうが無理なのは分かっていた。もしかしたら、直接呼び出しが合うかもと思っていた矢先に、正孝の姿を見つけたえりかが少し照れたように笑い、手招きをしてきた。正孝はカバンを置いてすぐにえりかのいるデスクへと向かった。
「おっ。週明けの朝イチから女王様からのお説教か?」
既に出社して仕事をしていた優磨が目ざとく突っ込んできた。
「そんなところだよ」
正孝は適当に相槌を打った。
「何やらかしたんだよ」
やらかしたのはえりかの方だが、今は話す時ではない。
「さぁね。無駄に残業してたことでもバレたのかも」
「んだよそれ」
優磨は呆れたように言った。
「とにかく行ってくるよ」
「ご愁傷さま」
優磨は自分の仕事に戻った。
律儀にノックをしてからデスクへと入った。えりかは無言で座っていた。既にブラインドは全て下ろされている。
「おはようございます」
正孝はまず挨拶をした。
「うん。おはよう」
えりかはどことなく気兼ねしているように見えた。
「あの、呼んだ理由は分かってるよね?」
「金曜日のことですか?」
「そうよ」
すると、えりかは立ち上がって深々と頭を下げた。
「本当にごめんなさい」
「せ、先輩。頭をあげてください。もうその事は謝ってくれたじゃないですか」
「でも、直接謝罪しないわけにはいかないわ。あんな醜態を晒して、部下に家まで見送りさせるなんて上司失格と罵られても文句も言えない」
「そんなに重く捉えないでください。僕は本当にもう気にしてません」
「本当に?」
えりかが頭をあげてチラッと見てきた。見たこともない弱気なえりかの姿に正孝は思わず胸が締め付けられた。
「本当ですって。それに、またしても先輩の意外な一面を見れて楽しかったですよ」
「それ上野の時も言ってくれたわね。てっきり、幻滅されたと思ってたわ」
「あんなことくらいで幻滅したりしませんよ。先輩にだって酔いたい日の1日だってあって当然です」
「・・・・・・・ありがとう」
少し感極まったような感謝の言葉だった。
「それに、僕は大したことしてません。立花さんが来てくれなければどうなっていたことか」
「そう言えば、立花君が楠木君をとても褒めてたわよ。偉く気に入られたようね」
「お世辞ですよ。あんな凄い人に認められるようなことは何もしてないですよ」
「ううん。立花君は間違ってもお世辞を言う人ではないわ。本当に楠木君のことを気に入ったのよ」
「はぁ」
そう言われても、正孝にはどこをどう気に入られたのかピンと来ない。
「ところで、立花君から何か悩み事を相談されたりしなかった?」
正孝は内心緊張した。しかし、えりかのことで悩んでるなんて言うわけにはない。
「あの人に悩みなんてあるんですか?」
正孝は惚けた。
「立花君が言うには、楠木君が自分の悩みを解決してくれる人物だって言ってたから」
「僕が?」
正孝は首を捻った。あの人の悩みを自分がどう解決すると言うのだろうか。逆ならまだしも。
「まぁそれは良いわ。とにかく、これからは気を付ける。それと、また今度改めてお詫びをするわ」
「え、もう良いですよ」
正孝は手を振った。
「何?また私が酔っぱらうと思ってるの?」
えりかの目が尖った。
「い、いや、そうゆう訳じゃないですが・・・・・・」
「なら、また予定を合わせましょう。このままじゃ私の気が収まらないわ」
「分かりました」
正孝は頭を下げた。内心はとても嬉しかった。
「うん。じゃぁ、もう戻っていいわよ。朝から時間を取らせて悪かったわ」
「はい、では・・・・・・」
正孝はえりかの机の上に広がっている書類を見て止まった。
「どうかしたの?」
「先輩。その仕事って先輩の仕事じゃないですよね?」
「ああ。これ?そうなんだけど、皆も忙しそうだし、私がやればいいかなって」
「そんな。それは僕がやりますよ」
「え、別に良いわよ」
「いいえ。よくありません。先輩は少し仕事のし過ぎです。これくらいはどんどん部下に回してください。先輩の方が仕事多いんですから」
正孝は机の上にあった書類を手早くまとめた。
「あ、ありがとう」
えりかは少し呆気に取られながらお礼をいった。
「では、失礼します」
正孝はえりかのデスクを後にした。
「中々、熱い所もあるわね」
えりかは嬉しそうにポツンと呟いた。
気温の上昇と共に、青々とした季節を迎えた5月の上旬の金曜日。えりかはパソコンに送られてきた一通のメールを読んで緊張を覚えた。内容は社長秘書からによるもので、今日の19時にとある和食料理店に来るようにとのことだった。えりかは社長が果たして自分に何の用があるのか気になった。社長に会食に呼ばれることなんて滅多にあることではない。ただの叱責や激励だとは思えなかった。大企業の社長がわざわざ時間を取って一人の社員を怒ったり、励ましたりすることなんて普通に考えてありえない。だとすると、自分にとってはよっぽどな話しをされるのは予想がついた。えりかは溜め息をついた。気分が少し憂鬱になっている。社長が嫌いという訳ではないが、自分の会社のトップとの会食は荷が重い。恐らく、高級料亭なのだろうが、えりかはそうゆう肩が懲りそうな店は好きではななかった。しかし、社長直々の命令を断ることなんで出来ない。えりかはこれ以上あまり考えても仕方ないと思い、えりかはこの事を一旦は忘れて、仕事に集中することにした。だが、社長の話しがえりかの想像を大きく越えるものだとは、この時は微塵も思っていなかった。
19時。えりかは指定された料亭で社長の到着を待っていた。15分ほど過ぎた頃、襖が開き女将らしき人物が連れの到着を告げた。そして、その女将が退くとすぐに一人の男性が座敷に入ってきた。
「待たせて悪かったね」
口調は気軽だが、その低い声には有無を言わせない強さが感じられた。この人物こそ美星堂の社長である松山礼治だった。綺麗に刈り上げられた頭。銀縁の眼鏡の奥から覗く鋭い目つきには、大企業の社長を勤めてきた厳しさを感じる。
「お待ちしておりました」
えりかは姿勢を正し、丁寧に頭を下げた。
「そんなに固くならないでくれ」
礼治は眼鏡を外し、えりかの向かい側に座った。
「そう言えば、この間発売した新商品の売れ行きが調子良いみたいだね」
座るやいなや礼治が言った。
「お陰様で」
「さすが部内一の手腕なだけはある」
「褒めすぎです。皆のサポートがあったからこそです」
「謙虚だね」
「本当のことでございます。ところで、今日は私にお話しがあるとお聞きしました」
えりかは早速切り出した。
「まぁまぁその話しはおいおいするよ。とりあえず、料理を頼もう。お腹が空いていてね」
「ごめんなさい。気が利きませんでした」
「気にすることなはい。君の気持ちは分かるから」
礼治はテーブルに置いてあるベルを鳴らした。数秒で仲居がやってきた。
「頼んでいたコースを」
「かしこまりました」
仲居は丁重に頭を下げて引き下がった。
食事を始めてから一時間が経過した頃だろうか、焼酎を一口舐めた礼治がふと切り出した。
「時に永瀬君。君は出世に興味はあるかな?」
えりかは少し考える振りをした後にいった。
「無くは無いと言った所でしょうか」
えりかには質問の意図が読めなかった。
「そうか。まぁそうゆう人間の方がしれっと上にいったりするものだ」
「私の場合はそう上手くはいくとは思えません」
「そんなことはない。私は君の力を高く評価している」
「光栄でございます」
えりかは微笑んだ。
「実は、ここからが本題なんだが、心して聞いてほしい」
これまでの柔らかな表情は引っ込み、真剣な顔つきになっていた。その顔を見たえりかは唾をゆっくりと飲み込んだ。はたしてこれからどんな話しをされると言うのだろう。
「先日、築さんと食事をしてね。そこで私の後継者の話しになったんだ」
「もうそんなことを考えていらっしゃるのですか?」
えりかは少し驚いた。礼治はまだ41歳だ。大企業の社長としては驚くほどに若い。余程のことがない限り、まだまだ社長として辣腕を振るう時間はたっぷりある。
「私が退任する数年前に考え出しては遅いし、私に万が一があった時に後継者がいれば、会社も大きく揺れずに済むはずだ」
大した自信だとえりかは思った。だが、それも当然である。礼治の手腕は誰もが認めていて、若いゆえの粗雑もない。ほぼ完璧な社長と言って間違いない。美星堂が過去最高の利益を出しているのも、礼治の手腕に他ならない。大企業にしては珍しく大きく目立つ反対派も現時点ではいない。だからこそ、礼治の後を継ぐ人間にはとんでもない重圧がのし掛かるのも事実だ。
「確かに、突然として松山社長の代わりを務めあげられる人物はいないかもしれません」
「そうだろう。だから、今から育てる必要があるんだ」
「しかし、それが私に何か関係あるのでしょうか?」
「大いにある。その後継者に永瀬君。君になってほしいんだ」
えりかの目は大きく開かれた。まさに衝撃的発言だった。あまりにも突拍子のない発言にえりかは言葉を失った。
「驚いただろう」
「・・・・・・それはもう。正直、飲み込めていません」
「そうだろうな。いきなり次期社長になってほしいと言われて、戸惑わない人間などいない」
「失礼ですが、私なんかにそんな大役務まるとは思えません」
「いや、築君とも話したが、君以外に居ないとなった」
「どうしてですか?美星堂には私よりももっと優秀な方はいらっしゃいます」
「今の時点ではね。だが、十数年後を見た時に、君が社長に就任している可能性は大いにあると私は思っている」
「そんな・・・・・・」
「それに、君が女性であることも重要なんだ」
「どうゆうことですか?」
えりかは眉を潜めた。
「美星堂には、未だかつて女性社長がいたことがない。昨今の時代の流れからして、女性社長であることは大きなメリットにもなる。美星堂は男女間におけるキャリアの差を埋められていると世間に認知してもらえれば、優秀な人間もやってくる可能性が高まる。つまり、美星堂の将来のための人事も含まれている。その白羽の矢に立ったのが、永瀬君だ。もちろん、君が優秀だからというのが一番だ。会社の道具のように扱ったりする気持ちは一切ない」
礼治の壮大な計画は分かった。確かに、少子高齢化が叫ばれ、人材不足が加速する現代に優秀な人材を確保することはそう簡単なことではない。女性だって立派な戦力として数えられない会社は、それだけでブラック企業のような扱いを受けるだろう。美星堂程の知名度のある大企業が女性社長を就任させれば、その効果の大きさは分かる。礼治の言うように、女性でも社長に登り詰めることが出来ると分かれば、企業のブランドイメージも更に上がり、優秀な人材が集まりやすくなるだろう。しかし、二の次で返事を出来るような話しではない。想像を絶する程の責任と重圧がえりかの肩にのしかかってくることは目に見えている。仕事は好きだし、出世欲も人並みにはあるが、自分が会社の社長になるなんて考えたこともあるはずがない。
「この話しは検討させてもよろしいでしょうか?」
「もちろん、じっくり考えてくれ。だが、ずっとは待っていられない。二週間以内には返事がほしい」
「かしこまりました」
「どんな結論を出そうと君を恨んだりするようなことはしない。そこは安心してくれ。ただこれだけは言っておく。私は本気だ」
燃えるような目付きがえりかを捉えた。えりかは目を離すことが出来なかった。
「今日はわざわざ呼じ出してすまなかったね」
礼治は迎えの車に乗り込む前に言った。
「いえ」
えりかは短く答えた。あまりの話しの大きさに胃が縮み上がったのか、胃もたれしたような感覚を覚えていた。
「これからも期待しているよ」
「ご期待に添えるよう精進いたします」
えりかは頭を下げた。礼治は満足そうに頷き、車に乗り込んだ。礼治の車が見えなくなるまで送り、えりかは別に呼んでいたタクシーに乗った。体がグッタリと疲れていた。緊張もさながら、信じられないような話しを受けて精神的に参ってしまっていた。考えなければいけないことだが、今は何も考えたくなかった。
週が明けた月曜日。いつもよりどんよりとした気持ちでえりかは出社していた。この二日間は礼治からの提案の熟考で休みが休みにならなかった。体もどこか重たい。鉄よりも重たい溜め息を吐いた。どうするのが自分にとっての最善なのか、まるで分からない。自分なんかに社長の器があるとは思えなかった。ならば、断るのが正解なはずなのに、心の奥底で自分の力を試してみたいという気持ちが芽生えていることを否定出来なかった。えりかは上昇志向の強い人間であるので、社長になれるチャンスをおいそれとふいにすることはできなかった。しかし、自分の力を試すために社長になって良いはずがない。ただの一度の誤った判断で会社を潰してしまうことだってある。そうなったら、ここで働く何千人もの社員を路頭に迷わすことになってしまう。そんな責任を担わなければならないと考えるだけで、胃が縮みぱっなしになった。誰かに相談しようにもこれはトップシークレット扱いだ。簡単には話せないし、あらぬ噂が立っても困る。そうなると、必然的に話せる相手は限られてくる。一人の男の顔が浮かび上がった。えりかは首を横に振った。涼一に頼る訳にはいかない。また茜にこじらせているだけと言われてしまう。もう涼一の力は頼らないと決めていた。不意にノックする音が聞こえた。えりかはハッとなって顔をあげた。見れば正孝が怪訝な顔でこちらの様子を伺っていた。えりかは入るように頷いた。
「失礼します」
「楠木君。どうかした?」
「頼まれていた資料をお持ちしました」
「あ、ああ。ありがとう」
えりかは受け取った。用終えたはずの正孝はすぐに立ち去ろうとしなかった。
「私に何か用があるの?」
「あ、いえ、その、体調が優れなさそうな顔をしていたので、大丈夫かなと」
「大丈夫よ。気にしないで」
えりかは素っ気なく言った。
「あまり無理をされない方が・・・・・・」
「大丈夫だって言ってるでしょ!私の心配なんか要らないから、早く仕事に戻りなさい!」
つい語気を強めてしまった。
「は、はい。出すぎた真似を失礼しました」
正孝は頭を下げて急いでえりかのデスクを後にした。
正孝が出ていった後、えりかは今の自分の言動を後悔した。自分を思いやってくれた部下に対して怒鳴り散らすなんて最低だ。やはり、こんな自分に社長を務めるのは無理だと思った。えりかは額に手をやった。鈍い頭痛がする。そう言えば、生理が近いのを思い出した。しかし、仕事は待ってくれない。えりかは怠い体を無理矢理動かし、正孝から受け取った書類に目を通し始めた。
えりかの明らかに様子がおかしい。正孝だけではなく部署内の人間が誰もが気付いていた。えりかが部下を叱責するのはよくあることだが、それにしてもいつもより厳しい上に、その後のフォローの言葉もない。誰もがえりかの異変に気付いていながら、正孝を除いて誰一人としてえりかのことを気遣う者はいない。いや、正確に言うならば、どうして良いのか分からないのだ。誰もが認める優秀な人間だからこそ、自分なんかでは力にはなれないだろうと思い込んでしまい、気軽に声をかけたりすることが出来ないのだ。正孝とてそれは同じだった。何か深刻な悩みを抱えているのは間違いない。先程のやり取りが無くても分かる。しかし、自分にえりかの悩みを解決できるとは到底思えない。だからと言って、あんなに辛そうなえりかを放っておくことはできなかった。体調を気遣って冷たくあしらわれたことよりも、えりかの辛そうな表情の方が正孝の胸を痛ませた。そして、それに対して何も出来ない自分に悔しさを覚えた。
そのとき、正孝の頭の中にある人物の顔が浮かんできた。自分以外の誰かに頼らなければならないのは悔しいが、えりかを助けられるならば迷いは無かった。きっとあの人なら、今のえりかを助けてくれるだろう。そう確信して、正孝はパソコンである電話番号を探した。
ここ数日ろくに食事を取ってないせいか、頭がふらふらしてきた。頭痛は時間が経つ毎に酷くなってきていた。こんな時に限って頭痛薬を忘れてしまう自分にも腹が立つ。えりかはコーヒーを淹れに給湯室へと向かった。給湯室には正孝がいた。
「楠木君・・・・・・」
えりかの頭に先程のやり取りが浮かんだ。意味もなく怒鳴ってしまったことをまだ引きずっていた。
「あ、先輩。お疲れ様です」
正孝は軽く頭を下げる。
「お疲れ様」
えりかは出来るだけ優しく答えた。
「先輩はコーヒーですか?」
正孝はチラッとえりかの顔の様子を窺った。やはり、顔色は優れていない。むしろ、さっきよりも悪くなっているように見える。
「いや、今は温かいお茶の気分だから」
「じゃぁ、一緒に淹れちゃいますね」
「ありがとう」
正孝は何か声をかけるべきか悩んだ。しかし、また怒られるかもしれないと思って、黙ってることにした。ティーバッグの入った紙コップにお湯を注ぎ、頃合いを見計らってティーバッグを取り出し、一つをえりかに渡した。
「さっきはごめんね」
えりかはコーヒーを受け取りながらぽそっと言った。
「え?」
正孝はえりかを見た。
「心配してくれたのに、あなたを意味もなく叱ってしまったこと本当の申し訳なかったわ」
「あ、ああ。そんな気にしてません。僕が勝手に心配したことです。なので、先輩も気になさらないでください」
「楠木君って本当に優しい人よね」
えりかの思いがけない発言に正孝は思わずドキッとした。
「い、いやぁ、そんなことないですよ」
どんな言葉でもえりかから褒められると嬉しくなった。
「その点、私は冷たい人間よね。体調を気遣ってくれる人を怒るなんて。ほんと私って最低だわ」
「ど、どうしたんですか?」
突然、こんなことを言い出すなんてえりからしくない。
「ごめん。何でもないわ。お茶ありがとう」
えりかは残したお茶を排水溝に捨てて、空になった紙コップをゴミ箱に捨てて給湯室を後にした。一人残された正孝はただただその背中を見送ることしか出来なかった。
自宅にたどり着いたえりかは部屋に入った途端にベッドへと倒れ込んだ。着替えるのすらめんどくさかった。夜ごはんを作る気力が湧くはずもなく、二人にはお弁当を食べるように連絡しておいた。部屋の扉をノックする音が聞こえた。
「なに?」
「えりか。大丈夫か?」
父の直弘の声だった。
「うん。大丈夫だよ」
「なら、良いんだが、あまり無理はするなよ。倒れたら元も子もないからな」
「分かってる。ありがとう」
高校生の時に一度無理をし過ぎて倒れたことがえりかにはあった。
「ご飯は食べないのか?」
「今は要らない。もう放っておいて」
「・・・・・・分かった」
直弘が部屋から離れるのが分かった。えりかは何とか体を起こして、着替え始めた。
直弘が買ってきてくれたお弁当をほとんど残して、すぐに部屋に戻った。弟の洸太にも心配をされたが、何でもないと言い張った。
ベッドに横になっても一向に眠気はやってこない。頭痛は薬を飲んだお陰で大分治まっていた。しかし、胃の中に鉛があるような重たい感覚は抜けない。側に置いてあったスマホが鳴った。どうやら誰か電話をしてきたようだ。えりかはスマホを取って画面に表示されていた着信相手を見た。かけてきたのは夏音だった。えりかは出るかどうか迷ったが、出ることにした。心許せる友人と話すだけでも気分転換になるかもしれないと思ったからだ。
「もしもし。どうしたの夏音」
「よかった。電話に出てくれないのかと思った」
「今、トイレ行ってたから」
体調が悪くて出たくなかったとは言わなかった。
「体調は大丈夫なの?」
「何で知ってるの?」
えりかは驚いた。どうして具合が悪いことを夏音が知っているのだろう。
「涼から聞いたんだ。えりかの具合が悪いそうだって」
えりかはますます不思議に思った。涼一には千里眼でもあるのだろうか。
「涼は涼である人から聞いたって言うんだけど・・・・・・」
「ある人って?」
「それは教えてくれなかった。それで体調はどうなの?」
「まぁまぁよ。生理前だから、少し不安定になってるだけ。そんな大袈裟なものじゃないわ」
「そう。なら、良いんだけど。もし、何か悩みがあるなら、すぐに話してね。私じゃなくても涼でも茜でも」
「うん。ありがとう」
「じゃぁ、あまり電話してるのも悪いから切るね。本当に無理しちゃダメだからね」
夏音は本気で心配そうに言った。恐らく、夏音の頭には高校時代の倒れた時のことを思い出しているのだろう。
「大丈夫よ。わざわざ電話ありがとうね。少し元気出た。また近い内に会おう」
えりかはそう言って電話を切った。切ってすぐにまた横になった。えりかは天井を見つめながら、涼一に自分の体調の話しをしたであろう人物のことを考えた。答えはすぐに辿り着いた。
「楠木君ね・・・・・・」
余計なお世話をしてくれたとは思わなかった。むしろ、正孝の優しさに胸を打たれている自分がいることに驚いた。恐らく、自分が落ち込んでいる時や悩んでいる時に、涼一に連絡を取ってくれる男が初めてだったからだろう。
もちろん、今まで優しくされたことなんていくらでもある。こう言ってはなんだが、男に言い寄られての人生ではあった。だが男は皆右へなれえのようなことしかしてこなかった。ご飯を奢るのは当たり前で、高価なプレゼントを贈られる。すぐに家に呼ぼうとしてくる。そして何より、涼一の話しをすると必ず嫌な顔をする。これまで付き合ってきた男に誰一人として自分にとっての涼一の存在の大きさを認めてくれる人はいなかった。付き合っている女の心に他の男がいたら嫌なのは分かる。私が逆の立場でも悲しいし、嫉妬するだろう。それでも涼一の存在を否定されると烈火の如く怒りすぐに別れた。
だからこそ、正孝の純粋な優しさに余計に胸が打たれたのだ。もしかしたら、正孝は私のことが好きなのだろうかと考えた。しかし、すぐに否定した。自分のことを何とも思っていないからこその優しさとしか思えなかった。つまり、私じゃなくても正孝は同じように行動したはずだ。突如、えりかの胸に切ない痛みが走った。その痛みは高校時代に嫌というほど経験した痛みだった。何故、今になってこの痛みが走ったのか理解出来なかった。えりかはあまりにもセンチメンタルになりすぎているのだろうと自分を納得させた。とにかく、今日はもう寝よう。余計なことは考えずに。しかし、静けさの中で頭に浮かんでくるのは頼りない後輩のことばかりだった。
翌日。昨夜に薬を飲んで早く寝たお陰か昨日よりは幾分体が軽かった。ただ、胃のムカつきはまだ消えていなかった。例の話しの期限は二週間。今思うと、自分の将来を左右するであろう決断をするのに二週間なんて短すぎる。そんなことを考えながら新橋駅の改札を抜けると後ろから声が聞こえた。
「先輩。おはようございます」
正孝がにこやかに挨拶を寄越してきた。
「あ、おはよう」
えりかは何となく気まずい思いを抱いた。昨夜、考えていた人物がこうして目の前にいると、何だが気恥ずかしい。
目指す場所は同じなので、正孝は自然と隣に並んだ。
「珍しいですね」
「何が?」
「先輩はいつもはもっと早く出社してるので、この時間にここでいるのが珍しいなって」
「昨日の今日だから、少し寝坊したのよ」
「体調の方はよろしいんですか?」
「昨日よりはマシね」
「そうですか。ご無理はなさらないでください」
「ありがとう。昨日、立花君に私に連絡を取るように言ったわよね?」
「えーと・・・・・・」
「誤魔化さないで」
「その、はい。言いました。ごめんなさい」
「別に責めてはないわ。ただ、何でそんなことをしたのか知りたいの」
「せ、先輩が何か深刻そうな悩みを抱えているように見えたんです。でも、自分では力になれないと思ったので、先輩が誰よりも信頼している立花さんなら助けてあげられるのかと思って連絡をしました」
「そう」
「余計なことをしてしまったのなら謝ります」
「ううん。私のことをそこまで心配してくれて嬉しいわ。ありがとう」
えりかの思いもよらない言葉が正孝は照れてしまった。
「い、いえ。そんな大したことじゃありません。それより少し急ぎましょう。遅刻してしまいます」
正孝は歩くスピードをあげた。顔が赤くなってるところをえりかに見られたくなかったからだ。
「立花君の言ってたことも強ち間違ってないわね」
えりかはその背中に向かってボソッと呟いた。
その日の仕事を終えたえりかは帰り支度を整えようとしていた。そのとき、LINEのメッセージ音が鳴った。開いてみてみると涼一からメッセージがきていた。内容はSL広場のSLの前で待っているとのことだった。驚いたえりかは急いで帰り支度を整えて風のように会社を後にした。LINEの通り涼一はSL真っ正面に立っていた。珍しくスーツ姿だった。
「立花君」
えりかが名前を呼ぶと、スマホを見ていた涼一が顔をあげた。
「永瀬。急に連絡して悪かったな」
「別にいいわ。それにしても、どうしたの?」
「軽くご飯でも食べに行こうかと思ってな。体調の方は大丈夫なのか?」
「うん」
「なら、行こう。銀座に美味しい海鮮料理の店があるんだ」
「夏音も来るの?」
「いや、今日は来ないよ。俺と二人じゃ嫌か?」
「そうじゃないわ。夏音は二人でも良いって言ってたの?」
「当たり前だ。むしろ、えりかの様子を見てこいって頼まれたんだ。何か隠しているそうだからってな」
えりかはドキッとした。まさかこの前の電話で隠し事をしていることを見抜いたのだろうか。
「もちろん、嫌なら無理しなくていいが」
「ううん。行くわ。私からも聞いてほしいことがあったから」
「そうか。それは後でゆっくり聞こう」
そう言うと涼一はタクシーを捕まえにいった。
涼一に案内された店は銀座の少し寂れた裏道に構えるこぢんまりとした店だった。創業80年を越える知る人ぞ知る名店であり、角界の著名人も通っているそうだ。
「よくこんな店知ってるわね」
えりかは感心しながら言った。えりかが頼んだのは刺し身の盛り合わせに、海鮮天ぷらだった。そのどれもが絶品だった。
「行きたくもない接待の数少ない楽しみだよ。彼らは基本的に無知だが、こういった店は知っている」
えりかは笑った。そして、涼一の苦労も分かった。涼一からすれば煩わしい仕事もたくさんあるのだろう。だが、それも仕方ない。新博物館の館長として各スポンサーの挨拶回りなどは絶対に必要な仕事だ。いくら優れた研究をしていても、スポンサーの莫大な援助を無しに研究を続けることはできない。涼一自身もそれを痛いほど分かっているからこそ、やりたくもない仕事も文句を言わずにやっているのだ。
「それにしても、立花君のスーツ姿は見慣れないわ」
「似合ってないか?」
「ううん。むしろ、CMで着てる俳優より似合ってる。けど、私の中ではラフな格好をしながら仕事をしているイメージだがら、スーツみたいな堅い服装が見慣れないだけ」
「確かに、スーツなんてこれまで着たのはそこまで多くないからな。それこそ接待用に適当に買ったものだよ。確か二着で2万円だった気がする」
「ほんとに服に興味がないのね」
「骨にしか興味ない人間が外見を着飾るためだけの物に興味が湧くはずがない」
「それに何を着ても似合ってしまうものね。世の中の高いお金を払ってお洒落をしている人達が可哀想に思えるわ」
「人の価値観はそれぞれだ。高い服を否定するつもりはない。それに高い服には己の自己肯定感を高める役割もある。ブランド品を買うというのは自信を買うことにも繋がる」
「それ立花君が考えたの?」
「いや、アメリカで出会った日本人の友人の考えだ。確かに一理あるのかもしれない」
「中々ユニークな考え方の人ね」
「そうだな。まぁだからと言って、買おうとはならなかったが」
「立花君はブランドに頼らなくても元から自信に満ち溢れてるじゃない」
「同じことをその友人に言われたよ。君そのものがブランドみたいなものだから君にルイヴィトンなんか必要ないよって」
「あはははは。確かにその通りね。ほんと面白いその人」
「小説家なだけあって言い回しは独特だった」
「へぇ小説家なんだ。でも、納得。その人の作る小説面白そうね」
「近々、日本でデビューするらしい。早く会いたいよ」
「私も会ってみたいわ」
「その時は紹介しよう」
「楽しみにしてるわ」
えりかは手にした烏龍茶を飲んだ。ちなみに、今日はお酒を飲んでいない。いや、飲みたくなかった。
「さてと、そろそろ本題に入ろう。聞いてほしいってことはなんだ?」
涼一が切り出した。
「その前に、どうして夏音は私が隠し事をしているって分かったのかしら」
「女優を始めたからなつは人の嘘を見破るのがすこぶる上手くなったんだよ。ましてや、10年来の友人のことなんてそれこそ手に取るように分かるだろうよ」
「上手く演技したつもりだけど、やっぱり本職には勝てないわね」
「誰にも話さないなんて、そんなに重要な話しなのか?」
「そうね。今も話さない方がいいのかもって思ってる」
「そうか。なら、無理には聞かないが」
「でも、ずっと一人で悩んでるのも疲れたわ。それに立花君なら決して口外しないって信頼出来るから話すね」
「なつにも黙っておいたほうがいいか?」
「なつと茜なら問題ないわ。でも、それ以外は絶対に内密でお願い」
「約束しよう」
「ありがとう。じゃぁ、話すね」
えりかは以前あった社長との出来事を話した。涼一はかなり驚いた反応を見せたものの、えりかが話し終えるまで一切口を挟まなかった。
「寝耳に水とはこのことね」
話し終えたえりかが言った。
「それにしても、将来の社長就任要請とは・・・・・・」
「後継者が大切なのは分かるけど、いくらなんでも早すぎると思わない?」
「そうだな。だが、その松山社長の判断は分からなくもない。一朝一夕で美星堂程の大企業を任せられる優秀な経営者を生み出すのは至難の技だ」
「そうだとしてもよ。それに何で私なのかも釈然としないわ。いくら女性を社長に就任させたいとは言っても、美星堂には私以外に優秀な女性社員なんていくらでもいるはずよ」
「自分が優秀であることは否定しないんだな」
涼一は小さく笑った。
「揚げ足を取らないで」
「悪い悪い。永瀬が断れば他の女性社員に今の話しを持ち掛ける可能性はあるだろうな」
「なら、私が受ける必要はないわね」
「断るのか?」
涼一は意外そうに言った。それがえりかには意外だった。
「立花君はこの話しを受けた方が良いと思ってるの?」
「思うも何も松山社長の慧眼には称賛を送ってるよ。永瀬を社長として育てるのは大いに賛成だからね」
「そ、そうなの?」
「永瀬には社長の素質があるよ」
「でも、私は気が短いし、イライラした時に部下に当たっちゃうのよ。そんな社長嫌でしょう」
「永瀬はそうやって自分のことを客観的に分かっている。だからこそ、向いているんだ。それにそうやって感情をぶつけても周囲の人間は離れていはいないだろう。人望が厚い証でもある。十分に社長としての器を持ってると俺は思う」
「そんな風に言われたのは立花君が初めてよ」
えりかは少し照れてしまった。涼一から誉め殺しにあって嬉しくないわけがなかった。
「俺以外にもそう思ってる社員はたくさんいるはずだ」
「そうかな」
えりかは自信なさげに答えた。
「受ける受けないは永瀬の判断だが、俺は断る理由は無いと思うね。まだ決断できないなら、会社の誰かに聞いてみればいい」
「こんな話し誰にも出来ないわよ。うっかり口が滑ってどこで妙な噂が立てられるか分からないわ」
「そんなことはない。それに一人くらいいるはずだ。永瀬のことを本当に慕っていて秘密を守ってくれる人が」
「そんなこと言ったって・・・・・・」
その時、えりかの頭に正孝の顔が浮かんだ。
「その顔はいるみたいだな」
「でも、どうかしら。私の自惚れの可能性の方が高いかも」
「とりあえず、仮定の話しで聞いてみればいい。それなら相手も答えやすいだろう」
「そうね。考えてみる」
えりかは正孝が何て答えてくれるのだろうかと気になって仕方がなかった。
後日。前回のお詫びとしてえりかは正孝を銀座のイタリアンレストランに連れてきていた。えりかは正孝と一緒に居ると心地よい安心感が自分の中に生まれていることに気付いた。それは涼一と居る時にも得ていたものだった。ただ、涼一の時のように胸が高鳴るということは無かった。
「美味しかった?」
えりかは聞いた。
「めちゃくちゃ・・・・・・あ、すみません。とても美味しかったです」
「今は仕事じゃないんだから、そんなに口調気にする必要はないわ。めちゃくちゃ美味しかったなら、良かったわ」
えりかは白ワインを少しだけ口に含んだ。
「でも、本当にご馳走になっていいんですか?ここ高いですよね?」
正孝は遠慮がちに聞いてきた。
「楠木君はそんなこと気にしなくていいの。それにこう見えても稼いでるのよ。一回くらいなら大したことないわ」
「僕もそんなこと言ってみたいですよ」
「その内言えるようになるわ。それこそ美星堂の社長にでもなったら、100回奢ったって余裕よ」
「いや、僕が社長になんて笑っちゃいますよ。先輩の方がよっぽど社長に相応しいと思いますし」
「えっ」
えりかは驚いた。聞きたかったことを正孝の方から言ってくれたのだ。
「ど、どうしたんですか?」
「あ、ううん。私が社長なんてそれこそお笑い草じゃない?」
えりかは惚けながらさりげなく聞いてみた。
「そんなことないですよ」
正孝は即座に否定した。
「もし先輩が社長になるって言うんだったら、僕は大賛成です。先輩ほど頼りになる上司はいません。だから、きっと会社を良い方向に導いてくれるはずだって信頼できます」
正孝はえりかの目を見て力強くいった。正孝の真っ直ぐな言葉にえりかは胸が一杯になった。
「せ、先輩?」
まずいことを言ってしまったかのように正孝は不安げにえりかを見ている。
「全く。アメリカ人でもそんなにストレートに誉めないわよ」
嬉しくてもつい皮肉を言ってしまう。
「すみません。でも、本当にお世辞抜きで言ってますから」
「私をあまり照れさせないで。恥ずかしいじゃない」
えりかの恥じらう姿が正孝の心臓を跳ねあがらせたのは言うまでもない。
「先輩でも照れることあるんですね」
「当たり前でしょ。それにしても楠木君は誉め上手ね」
「そ、そうでしょうか」
「誉め上手の男はモテるわよ」
「あ、ありがとうございます」
「よし。じゃぁ、そろそろ帰ろっか」
二人は店を出た。
乗る路線の違う二人は新橋駅内で別れる。
「先輩。ご馳走様でした」
正孝は頭を下げた。
「こちらこそありがとう。お陰で自信もついたわ」
「自信ですか?」
「ええ。とにかくありがとう。また明日から頑張りましょう」
「はい。よろしくお願いします」
正孝は元気よく応えた。
「じゃぁ、そろそろ行くわ。また明日」
「お疲れ様でした」
えりかは背を向けて歩き出した。正孝はその場に立ってその背中が見えなくなるまで見送ることにした。すると、エスカレーターに乗る寸前にえりかがこちらに顔を向けて、華やかな笑顔で正孝に向かって手を振った。手を振り返すことができない正孝は慌ててお辞儀をした。正孝の胸の中には嬉しさが充満する。最後の笑顔こそ正孝がえりかに惚れた理由だからだ。正孝が頭をあげるとえりかの姿は無かった。正孝は大きな喜びを胸に軽い足取りで自分が乗るべき電車のホームへと向かった。
えりかは家に帰って早速涼一に電話をかけた。
「どうした永瀬」
いつものように抑揚のない声が耳に届く。
「例の話。受けるわ」
涼一は数秒間黙った後にこういった。
「そうか。大賛成だ」
「立花君。私って本当に人に恵まれてるわね」
「突然どうしたんだ」
涼一は笑いながらいった。
「ふと、思ったの。私にはたくさんの頼もしい味方がいるって」
「会社の誰かと何か話したのか」
「うん。その人のお陰で決心がついたわ」
「そうか。これから色々大変だろうけど、遠慮なく周りに頼れよ」
「ええ。ありがとう。そうだ、夏音に心配かけてごめんねって伝えておいて。もう大丈夫だからって」
「分かった。伝えておく」
「じゃあね」
「またな」
えりかは電話を切った。
「えりかなんて言ってた?」
電話を終えた涼一に夏音は尋ねた。
「例の話しを受けるそうだ」
「ほんと!えりかが社長かー。カッコいいなー」
夏音はもう決まったかのようにいう。
「おいおい。まだ決まった訳じゃない。この先、色々なことがどうなるか分からないだろう」
涼一は苦笑しながらいった。
「それはそうかもだけど、えりかなら絶対大丈夫だって。私には到底持てない強さがえりかにはあるから」
「なつだって強いじゃないか」
「えりかは別格だよ」
「確かにな。それと心配かけてごめんって言ってたよ」
「気にしなくていいのに」
「なつの方から別に連絡を送ってあげればいい」
「そうしよ」
夏音ソファから立ち上がってはスマホの置いてある寝室に向かった。
リビングで一人になった涼一はソファに腰をかけた。少し思案下な表情をした。
「永瀬の言ってたその人はきっと楠木君だな」
涼一は一人嬉しそうに呟いた。
例の話しを受けることを社長に話す前にえりかは一人の人物を訪ねることにしていた。その人物は築だった。礼治と共に自分を推薦した築にも話しを聞きたかった。午前中は会社で仕事をこなしたえりかは午後を直帰にして木更津の工場に一人赴いた。いつものように応接間に通され築の到着を待つ。出されたお茶にも一切手をつけず、瞑目しながら待っていた。扉がノックされ精悍な顔付きの築が入ってきた。えりかはすかさず立ち上がった。
「おお。えりかちゃん。久しぶり」
相好を崩しながら軽く手を上げた。
「今日はお忙しい中時間を取らせてしまい大変申し訳ありません」
えりかは開口一番丁重に詫びた。
「ええてええて。えりかちゃんの為ならいくらでも時間を取るで」
築はドカッとソファに座った。
「ありがとうございます」
えりかも後に続く。
「それで話しってなんやって聞くまでもないか。あの事やろ?」
築がえりかの目を覗いた。
「そうです」
えりかは頷いた。
「それでえりかちゃんの答えは出たんかいな?」
「気持ちはほぼ固まってます。ただ、築さんが何故私を推薦したのか知りたくてお伺い致しました」
「さよか。何故といわれてもなぁ。えりかちゃんやからとしか言いようがない。そら、他にも優秀な社員がおることは承知してる。だがなぁ、社長になるにはただ優秀なだけじゃあかん」
「それは私も重々承知しております。それならば、社長になるにはどういった資質が必要になるんですか?」
「言うならば、カリスマ性やな」
「カリスマ性・・・・・・」
えりかは咀嚼するかのように呟いた。
「せや。社長に最も大事なのは求心力や。人を惹き付ける力。えりかちゃんは他の誰よりもその力があるとわしは思うてる」
「私にカリスマ性ですか」
いまいちピンと来ない話しだった。
「当事者は案外気付かないものやな。礼治にもその力は備わってる。じゃなきゃ、あの年で美星堂の社長に登り詰めることなんて不可能や」
「社長にある力が私にもあるとそういうことですか?」
「そうや。礼治は歴代の社長の中でも最も社員と親しい社員や。肩書きこそ社長になったが、あいつは部下の目線に立つことを疎かにしない人間や。それが求心力にも繋がってる。そして、えりかちゃん。あんたにもそれが出来てる。わしには分かる。えりかちゃんが部下達にどれだけ慕われているか。えりかちゃんの部署の社員がここに来る度に一度はえりかちゃんの話しになる。そして、誰もが誉め言葉を口にするんや。そんな人間そうはおらん」
「で、ですが、私は部署の社員からは煙たがられていると思います。誰も仲の良い人もいませんし」
「それは煙たがられているとちゃう。えりかちゃんが凄すぎるから遠慮しているんや。もし、えりかちゃんがほんまに困ってたら、手を差し伸べる社員は大勢いるはずや」
えりかは何も言わずに築の言葉に耳を傾けていた。
「今は不安や恐怖心があって当然や。それは将来、社長に就任したとしても消えることはない。心折れそうな時も来る。そんな時に、支えてくれんのは他ならぬ美星堂に勤める社員達や。社長は誰よりも会社に勤める人間への感謝を忘れてはあかん。そこんとこをきちんと解っているえりかちゃんやからこそわしは推薦したんや。えりかちゃんが社長でおれば、もし会社が危機に晒された時も社員は一丸になれるはずよってな。それはえりかちゃんだからできることや」
「築さん・・・・・・」
「自信を持って受けたらええ。一人でやろうとするな。誰の力を借りたってええ。幾多の困難を乗り越えてこそ本物になれる。えりかちゃんならできる。わしは信じとるで」
えりかの目からは自然と涙が溢れていた。えりかは深々と頭を下げた。築はその姿をありったけの優しい瞳で見つめた。
話しを聞き終えたえりかは築と固い握手を交わして応接間を出ようとした。
「ああ、せや。楠木君は頑張っとるか?」
「え、ええ。最近は仕事に目覚めたかのように励んでいます」
「そうか。えりかちゃんは知ってるかもしれんが、その楠木君がたまにこの工場に来てはんねん」
「えっ?そうなんですか」
えりかには初耳だった。
「何でも、現場を自分でも働いてみたい言うて、ラインに立ってるで」
築が笑いながらいった。
「それは知りませんでした」
「最初は他の工場員の奴等は邪魔者扱いしておったが、次第に仲ようなっててな。彼は将来ものになるで。しっかり育てぇ」
「はい」
「もしかしたら、彼はえりかちゃんが社長になった時の右腕になってるかもしれんなぁ」
築は染々といった。
「どうでしょう。彼は出世に興味が無いみたいですし」
「さやか。ま、まだまだ遠い話しや。礼治によろしく言っておいてくれや」
「分かりました。今日は本当にありがとうございました」
えりかは深々と頭を下げて築の元を後にした。
えりかは自分の下した決断を一刻も早く社長に伝えるために木更津の工場から会社に戻った。会社の自分のデスクから社長秘書に取り次ぎ用件を伝えた。忙しい礼治のことだから、今日中は無理かもしれないと思ったが、今すぐ来るように秘書から伝えられた。それだけ礼治にとっても重要な案件ということだろう。えりかはすぐさま社長室に向かった。
扉をノックする。中から入ってくれの声が返ってきたので、扉を開けて中に入った。えりかは前回来た時とはまた違う緊張感を持っていた。
「失礼します」
礼儀を尽くして一歩踏み入れた。
「そこに座ってくれ」
礼治はソファを進めた。えりかはソファの前に行き、礼治がソファに座ったのを確認すると、自分も腰を下ろした。
「午前中は築さんの所に行っていたようだね」
「ご存知だったんですか?」
「さっき安西君に聞いたよ。何か得るものはあったかな?」
どうやら瑠美は社長にも可愛がられているらしい。
「お陰様で。社長から頂いていたお話しを決断することが出来ました」
「そうか。それで永瀬君の答えは?」
えりかは一度立ち上がった。
「・・・・・・社長からのご提案、謹んでお受けさせていただきます」
えりかは頭を下げた。
「おお。そうか。引き受けてくれるか」
礼治の口調は明らかに興奮していた。
「良かった。一安心したよ。さ、座ってくれ」
えりかは再び座る。目の前の礼治は嬉しそうにえりかを見つめていた。
「大きな決断をしてくれて本当にありがとう」
今度は礼治が頭を下げた。社長が部下に頭を下げるなんて例外だが、それは礼治が見せる最大の礼儀だった。
「頭を上げてください。大企業の社長がいち部下に頭を下げては沽券関わります」
えりかは慌てていった。
「大袈裟だ。それに立場は関係ない。相手が誰であろうと、感謝や謝罪には頭を下げるべきだ」
「社長・・・・・・」
「さて、引き受けてくれたからには、これから永瀬君には特別プログラムを用意する。要は社長になるためのプロセスだ。それを一つずつクリアしてもらい、ゆくゆくはあの椅子に座ってもらうつもりだ」
礼治は先程まで自分が座っていた椅子に目をやった。
「具体的にはどのようにして私をどう育てるおつもりですか?」
えりかは聞いた。
「まずは実績を作らなければ周囲は納得しない。まず永瀬君にやってもらうことは美星堂の顔となる商品を作ってもらう。私が作り上げたスターリップシリーズのような」
「いきなり難題ですね」
えりかは渋面を作った。
「僕がこんなことを言うのもなんだが、社長の座は簡単には手に入れることはできない。全ての役員や社員、そして株主を納得させなければあの椅子に座ることは許されない」
「もちろん、それは分かっていますが」
頭で分かっていても、やはり気持ちに実感は湧かない。
「怖じ気ついたか?」
「いえ。それでその新商品を作り上げた後はどうするんですか?」
「そして、アメリカに行ってもらいたい。今の時代グローバルな視点を持たない経営者は長く続かない」
「アメリカ・・・・・・」
えりかは唾を飲み込んだ。
「それは何年くらいになるんですか?」
「最低でも、3年。希望すれば最高で7年いることは出来る。そして、日本に帰ってきて役員の一人になってもらい、次期を見計らって役員達にこの話しをする」
「三年・・・・・・」
アメリカに一人で三年も行くなんて想像できない。
「アメリカから帰国した後は僕の補佐として役員に昇格させる。そこからは経営者としての視点や株主との付き合い方、いわゆる、社長になるための実戦の経験をひたすら積んでもらう」
「ちょっと待ってください。全てがそんな上手く進むとは思えません」
「僕もそう思っている。今のはあくまでも理想だ。計画を進めていく中で、反対派や永瀬君自身の躓きがあるだろう。だが、それすらも乗り越えてもらいたい。そういったことにも打ち勝てる精神力を見せてほしいんだ」
「・・・・・・」
えりかは言葉にできなかった。もちろん、並の道では無いと覚悟はしていたが、実際に聞くと既に心が折れそうになっている。
「今は不安や恐怖でいっぱいだろう。それは構わない。今すぐ全てを乗り越えろなんて言いはしない。一つずつでいい。永瀬君のやり方で乗り越えてくれ」
「私は本当に社長になれるのでしょうか」
えりかは本音を溢した。
「なれる。少なくとも僕はそう信じている。出なければ、後継者に指名したりはしない」
「もし・・・・・・もし、私が音を上げて計画が頓挫したらどうするんですか?」
「その時は、僕が退任する時にいる役員から選ぶしかない」
えりかはその方が良いのではないかと思った。これほどまでの巨大なプレッシャーは今まで背負ったことはない。その重圧に耐えられる自信はない。
「僕の言っていることに対して不安や恐怖を覚えるのは当然だ。だから、永瀬君には永瀬君が社長になることを後押ししてくれる存在を見つけてほしい。この会社にきっといるはずだ。永瀬君がどんな苦境に陥っても、手を差しのべ助けてくれる存在が」
えりかはハッとなって顔を上げだ。そして、自分が社長の後継者になることを引き受けた理由を思い出した。自分の私利私欲のために出世するのではないと。この会社に勤める全ての社員のためになる社長になることを。
「最後にもう一度だけ聞こう。私の後継者になってくれるな?」
礼治の力強い目。えりかはその目に負けないくらいの強さで見つめ返した。
「はい」
この一言で賽は投げられた。後戻りはできない。しかし、えりかの心は燃え滾っていた。
「よし。ならば、早速プログラムを進めよう。まずは会社の目玉となる商品の開発だ。もしかしたら一番難しいプログラムかしれないが頼んだぞ」
「はい。必ずやり遂げてみせます」
「素晴らしい心構えだ。人材は永瀬君の好きに集めていい。もし、チームに加えたい人物が仕事を抱えていたとしても、この仕事を優先させるようにして構わない。社長直々のプロジェクトだと、各部署に通達しておく」
「かしこまりました。手厚いサポート感謝いたします」
「僕も出来る限りはサポートをするが、あくまでも永瀬君自身の力でやり遂げなければならない。弱音を吐いても僕にもできないことはある」
「重々承知しております。すぐに仕事に取りかかります」
「うん。期待しているよ」
礼治は手を差し出した。えりかはその手を握った。こうしてえりかの社長育成プログラムがスタートした。