第二章
正孝は一人緊張した面持ちで六本木にある高級ホテルの前に立っていた。えりかに誘われ博物館の完成記念パーティーに参加することになったのが一週間前。あれよあれよと時間は過ぎ去り、あっという間に当日を迎えた。えりかは大したことはないと言っていたが、これまでに記念パーティーに参加したことの無い正孝にとっては初体験の出来事なので、緊張するなと言う方が無理だった。新しいスーツでも買おうかと悩んだが、えりかにそこまでする必要は全く無いと言われ留まったが、Yシャツだけは新調した。
パーティーの開始時刻は19時。えりかからは18時半に集合するように言われていた。腕時計で時間を確認する。後、5分で待ち合わせの時間だった。えりかもそろそろ現れるのではないかと思い、周囲を見渡した。すると、黒いドレスに同じく黒の羽織ものを肩にかけたえりかを見つけた。
「お待たせ」
えりかが正孝の目の前までやってきた。正孝は思わず息を飲んだ。普段より化粧が濃い。それだけなのに、えりかは妖艶な色気を放っている。普段会社で見かけるえりかとのギャップに正孝は胸の高鳴りを抑えられなかった。胸元が大きく開いてるので、目のやり場に困った。
「とても似合ってます」
それだけ言うのが精一杯だった。
「ありがとう」
えりかは微笑んだ。
「さて、行きましょう」
えりかが歩き出す。正孝もその後ろ追う。
ホテルの中は絢爛豪華そのものだった。あまりの豪華さに辺りを見回してしまう。正孝は一泊でどれだけ取られるのだろうとつい考えてしまった。恐らく、自分の一ヶ月分の給料より高いのでは無いのだろうかと思った。
二人はエレベーターで20階にある宴会会場を目指した。正孝は緊張でえりかに話しかける余裕などなかった。隣にたっているえりかを横目で見た。真っ直ぐと前を見据えている。その表情からは余裕を感じる。
エレベーターが20階に着いた。エレベーターを降りると目の前に重厚な大きな扉が待ち構えており、その前に黒服のガタイの良い男が仁王立ちしていた。えりかは臆すること無くその扉に近付く。正孝は少し背中を丸めて後を付いていく。自分だけ締め出されることなんて無いよなと不安が頭によぎる。
右側に立っていた男が一歩進み出てえりか達の前に立ち塞がった。
「招待状はお持ちでしょうか?」
黒服の男が聞いた。見た目よりも優しい声だった。
「ええ」
えりかはカバンから一枚の紙を取り出した。その内容を読んだ男は少し驚いた目でえりかを見て、それから丁重に頭を下げた。
「どうぞお入りください」
男二人が扉を開けた。
「ありがとう。楠木君。行くわよ」
「は、はい」
正孝は扉を開けてくれた男の人二人にペコペコと頭を下げながら扉の中へと足を踏み入れた。会場には既に50人程の人間が集まっていた。皆、ワイングラスを片手に談笑している。
「楠木君も何か飲む?」
えりかが聞いてきた。
「そ、そうですね」
緊張で喉が渇いていたので丁度良い。
「えーと。あそこのテーブルにあるみたいね」
「あ、じゃぁ、僕取ってきますよ。先輩は何飲みますか?」
「じゃぁ、白ワインをお願い」
「分かりました」
正孝はドリンク置き場へと向かった。ドリンク置き場には多種多様なドリンクが取り揃えらていた。ワインや水はもちろん、お茶数種類、炭酸ジュース数種類、フルーツジュース数種類、炭酸水、挙げ句には野菜ジュースもあった。ファミレスのドリンクバーより充実してるのでないかと思った。
「先輩どうぞ」
要望していた白ワインのグラスを渡した。
「ありがとう」
えりかは軽く口に含む程度に飲んだ。正孝は無難に烏龍茶を選んだが、既にグラスの半分は飲み干していた。
「それにしても皆さんお金持ちそうですね」
ザッと見渡しただけでも、招待客の格の高さが窺えた。
「そうね。日本を代表するような一流企業がスポンサーになってるわけだからね。招待客も皆その企業のトップばかりでしょうから」
正孝は改めて自分がとんでもない場所にいることを思い知った。
正孝は何か言おうと思ったが、大きくてよく通る声がそれを遮った。
「えりか!」
えりかと正孝は同時に声が聞こえた方に顔を向けた。
少し離れた所から、ショートカットで溌剌とした女性が笑顔でこちらに近づいてきた。
「茜!」
えりかは近づいてくる女性の方に移動した。正孝も慌てて後ろを付いていった。
「久しぶりね茜」
えりかは笑いかけた。
茜と呼ばれる女性は赤いドレスを着ていた。背はえりかよりも少し高いくらいだった。均整の取れた顔立ちで、えりかとはまた違う美人だと正孝は思った。
「久しぶり。あら?少し痩せた?」
茜はえりかのことを下からねめけるように眺めた。
「最近、仕事の方が忙しくて。でも、健康だから心配しないで」
「それなら良かった。ん?後ろにいるのは誰?」
茜はようやく正孝の存在に気付いた。
「ああ。彼のことを紹介するわ」
「え?彼って?えりかの彼氏なの?」
茜は興味津々と言った顔になった。
「違うわよ。会社の後輩よ」
「なぁんだ」
茜はつまらなそうにいった。
「ほら、楠木君。挨拶して」
「あ、はい。初めまして。楠木正孝です。えっと、今先輩が言ったように会社の後輩です」
正孝は頭を下げた。
「初めまして。私は滝川茜よ。えりかとは高校からの友達。よろしくね」
茜は気さくに正孝に笑いかけた。
「は、はい。よろしくお願いします」
「それにしても、結構可愛い顔をしてるね。どう?良かったら、この後一緒にお酒でも飲みに行かない?」
「え?いや、その」
突然の誘いに正孝は動揺した。
「あのね、私の大切な後輩を誘惑しないでくれるかしら。もっと誘うべき相手がこの会場にはたくさんいるでしょう」
えりかは呆れ気味にいった。
「はいはい。それにしても、えりかが男と来るなんて思ってもみなかった。どうゆう風の吹きまわし?」
「楠木君を立花君に会わせるためよ。立花君に会ってみたいそうよ」
えりかの説明に正孝は頭をかいた。その説明は半分当ていて、半分間違えっている。
「へぇー。でも、大丈夫?涼一に会わせたら、余計なことを言って彼のことを傷付けてるかもよ」
「事前に立花君には連絡してあるわ。皮肉を言って、私の後輩を傷付けたら、絶好だからねって」
えりかはニヤリと笑った。
「なら、安心ね。じゃぁ、私はまだ声をかける相手がいるから席を外すね。またパーティーが終わった後に会おうね」
「ええ。また後で」
えりかはワインを口に運んだ。
「正孝君もバイバイ」
茜は笑顔で正孝に手を振った。
下の名前で呼ばれたので、胸が少しドキドキした。
「友人との話しに付き合わせて悪かったわ」
茜がその場を去った後に、えりかがいった。
「いいえ。明るくて気さくな方でしたね」
「そうでしょう。茜のコミュニケーション能力には目を見張るものがあるわ。大抵の人とは、ものの10分で仲良くなれるわ」
「それは凄いですね」
正孝は感心したようにいった。自分がコミュニケーション能力には優れていないのは分かっているから、少し羨ましく思った。
突如、会場が暗転した。
「いよいよ始まるみたいね」
えりかがそう呟いた。
ステージの袖にスポットライトが当てられ、司会者らしき人物がスタンドマイクの前に立っていた。その司会者はえりかの言うように、これからパーティーが始まる旨を伝えた。生まれて始めてのパーティーに正孝は少しの興奮覚えた。しかし、パーティーが進むにつれて正孝の気持ちは退屈の二文字でいっぱいだった。お偉いさんの似たような話しばかりを聞かされていた正孝はつい何度も欠伸をかきそうになった。えりかも心なしかつまらなそうな顔をしていた。瞼がとても重くなってきた所で、ついに真打ちが登場した。
「では、続きまして、新博物館における館長立花涼一様からご挨拶を頂きたいと思います」
舞台の横からスマートな男が颯爽と現れた。正孝は隣にいるえりかに目をやった。先ほどまでのつまらなそうそうな目は消え去り、その瞳には熱を帯びているのが分かった。それは決して自分には向けられない目だった。立花涼一の挨拶はこれまでの堅苦しい挨拶を吹き飛ばしてしまうかのように軽妙で粋な挨拶だった。ユーモアのセンスも抜群で何度も会場を笑いの渦に巻き込んでいた。
「ご挨拶は以上になります。これよりは歓談をお楽しみください」
司会者がそう言うと、あちらこちらでざわめきが戻ってきた。先ほど壇上で挨拶していた人達は今度は一人一人挨拶をしていた。立花涼一も例外では無かった。むしろ、彼の周りには多くの人溜まりが出来ていた。驚いたことに立花涼一の隣には河口夏音が寄り添うように立っていた。河口夏音も一緒になって頭を下げている。恐らく、今話し込んでいる人物はスポンサーのお偉いさんなのだろう。
「永瀬さん。立花さんの元へといかなくて良いんですか?」
「こっちは招待客なんだから出向く必要はないわ。あっちから来るのを待ってれば良いわよ」
えりかは余裕綽々に答えた。
えりかはお腹が空いたと言って、料理が並べられている所へと言った。正孝は離されないように付いていく。それから30分程経っただろうか。ようやく解放された涼一と夏音が正孝達の元へとやって来た。
「永瀬。悪いな待たせて」
「二人ともお疲れ様」
えりかは薄く笑いながらいった。
正孝は目の前で人気女優が喋ってることに感動した。テレビ越しでも十分綺麗なのに、生で見るとその10倍は綺麗に見える。正孝は夏音の美貌につい見とれてしまった。
「あ、彼を紹介するわ」
えりかは正孝を前に引っ張り出した。引っ張られたお陰で正孝は我を取り戻した。
「ああ、一緒に連れていくと言ってた彼か。確か前に永瀬の会社の前で見掛けたね」
正孝は涼一の記憶力に驚嘆した。
「えっ。彼ってことはえりかの彼氏?」
夏音が言った。
「違うわよ。皆してすぐに私の彼氏を作らないで。彼は私の後輩よ」
「なぁんだ」
夏音は茜と全く同じトーンでつまらなそうに言った。あまりのシンクロ具合に、正孝は危うく吹き出しそうになってしまった。
「は、初めまして。楠木正孝です」
「初めまして。立花涼一です」
涼一は手を差し出した。正孝は両手で握った。
「初めまして。河口夏音です。よろしくね」
柔和な笑みを浮かべながら、夏音も手を差し出した。正孝は恐縮しっぱなしで、その手を握った。その手は今まで握手してきた誰よりも柔らかかった。
「こ、こちらこそ。よろしくお願いします」
「永瀬。洸太も元気にしてるか」
「ええ。立花君にとても会いたがってるわよ」
「そうか。時間が取れたらご飯にでも連れてってやるか」
「きっと喜ぶわ」
「そうだ。今日はとても大事な話しがあるんだ。後で発表するけど、永瀬には先に伝えておくよ」
「あら、なにかしら?」
「俺達結婚するんだ」
「結婚・・・・・・」
えりかは咀嚼するように呟いた。
「ああ、えりかからしたらやっとって感じかもしれないけどな。今日はその事を皆の前でも話すつもりだ」
「そう。おめでとう。夏音もよく待ったわね」
「ありがとう」
夏音は嬉しそうにはにかんだ。
「結婚式は挙げるの?」
「ああ。6月に挙げる予定だ。永瀬も参加してくれるよな?」
「ええ。喜んで」
えりかは精一杯笑顔で言った。正孝にはその笑顔が痛々しく見えた。
「ありがとう。永瀬と茜には誰よりも参加してもらわないとって思ってたから」
「そんな大袈裟ね」
「本当よ。えりかが居なかったら私達はこうしていられなかったと思うの。だから、えりかには本当に感謝してる」
「今更やめてよ。恥ずかしいじゃない。どうしたってあなた達二人は結ばれたわよ。誰もあなた達の間に入り込めはしないんだから」
えりかの言葉に照れたのか涼一は頭の後ろを少し掻い。照れた時の癖は高校時代から変わってなかった。
「とにかく、永瀬には感謝してもしきれない。何かあったら遠慮なく言ってくれ。何でも力になるから」
「立花君にそう言ってもらえたら心強いわ。ありがとう」
「じゃぁ、また近い内にゆっくりご飯でも食べにいこう。茜も交えてな」
「ええ。楽しみにしてるわ」
「楠木君。永瀬のことをよろしく頼んだよ」
「は、はぁ」
正孝は曖昧に頷いた。
「じゃぁ、俺達はそろそろ舞台にいくから。二人はゆっくりしていってくれ」
「じゃあねえりか。楠木君も楽しんでくださいね」
えりかは最後まで笑顔で二人を見送った。
「そっか。ついに結婚するのね」
えりかがポツンと呟いた。その声には深い哀しみが込もっていた。
正孝は何て声をかけて良いのか分からなかった。
再び照明が落ちて舞台の中央にスポットライトが当たった。そこに涼一と夏音が立ち並んだ。会場の人間は何事かと囁いてる。涼一が前置きを説明し、夏音と結婚することを発表した。すると、周りからは歓声と祝福の拍手が沸き起こった。正孝は拍手しながら、隣にいるえりかを見た。えりかは拍手する訳でもじっと舞台上の二人に目を注いでる。
「楠木君」
「はい」
「ごめんね。私先帰るわ」
「えっ?」
それだけ言うとえりかは振り返って、足早に出口へと向かった。正孝は動揺でどうして良いのか分からなくなった。えりかが扉の向こうへと消えてからようやく追いかけなければと思い、急いで出口へと向かった。えりかはもうエレベーターに乗り込んでいた。タッチの差で逃した正孝はすぐにボタンを押した。早く来ないかと何度もボタンを押してしまう。えりかを追いかけて下まで行くとえりかはホテルの出口を抜ける所だった。正孝は足早に追った。
「先輩」
正孝が声をかけてえりかは足を泊める様子を見せない。正孝は走ってえりかの腕を掴んだ。
「待ってください。先輩。急にどうしたんですか」
「ちょっと急用を思い出しただけよ」
えりかは正孝と顔を合わせずにいった。
「嘘を言わないでください」
「嘘じゃないわ」
「じゃぁ、急用って何ですか」
「楠木君には関係ないことでしょ。痛いから腕を離して」
「あ、ごめんなさい」
正孝は腕を離した。
「ごめんね」
えりかが弱々しく言った。
「お二人が結婚することに何か思うことがあったんですね」
「・・・・・・」
えりかは押し黙った。
「僕で良ければ話しを聞きます」
「ありがとう。けど、今は誰とも話したくないわ」
えりかの眼は赤く光っていた。
「・・・・・・分かりました」
「わざわざ付き合わせたのに、こんなことになってごめんね」
「いえ」
「私はタクシーで帰るから、楠木君は戻ってパーティーを楽しんできて。茜や立花君達が話し相手になってくれるから」
「・・・・・・・」
正孝は無言だった。
「また明日ね」
「・・・・・・はい」
正孝は顔を下に向けた。
えりかはタクシー乗り場へと行きタクシーに乗った。正孝はえりかの乗るタクシーが見えなくなるまで見送り、肩を落とし項垂れた。好きな女性が傷ついてるのに、何の力になれない自分が悔しかった。パーティー会場に戻る気は起こらず、正孝はそのままとぼとぼと六本木駅へと向かった。
翌日。昨日の事など何も無かったかのようにえりかは溌剌と働いていた。正孝は眠れないほど悩んでいた自分が一瞬バカみたいだと思った。
「なぁ」
隣のデスクの諏訪優磨が顔を覗かせた。
「なんだ?」
「昨日はどうだった?」
優磨にだけはえりかとパーティーに行ったことを話していた。
「どうもこうも。普通だったよ」
「パーティーの後は二人で二次会とか行かなかったのか?」
「行ってないよ」
「せっかくの絶好のチャンスだったのにもったいねぇじゃねぇか」
「別にそんなつもりで付いていった訳じゃないよ」
「酒の勢いでそのままベッドインしちまえば良かったのに」
「あのなぁ」
少し苛立った声が出た。
優磨はワンナイトラブに積極的な男だった。一夜を供にした女は両手両足の指じゃ収まりきらないと言っていた。
「ま、そうゆう真面目さがお前の良い所なんだけどな」
正孝の苛立ちを察したのか、優磨はさっと身を引いた。
「どうも」
あまり褒められている感じはしなかったが、とりあえず礼を言っておいた。
「そう言えば、永瀬さんの友達に会ったんだってな。そっちはどうだった?」
「会ったって言っても、二言くらいしか交わしてないからな。まぁ物凄く頭が良いのは、舞台上の挨拶で分かったけど。後、とんでもないイケメンって事くらいだな」
河口夏音のことも話そうと思ったが、えりかがそれは望まないと思い話さないことにした。
「ふーん。そっか」
優磨はそれについては差ほど興味を示すことなく会話は終わった。
パーティーがあった翌週の金曜日の昼休み。えりかは茜とランチを取る約束していたので、会社近くにあるイタリアンレストランへと足を運んでいた。レストランへと入ると茜は既に待っていた。
「お待たせ」
そう言って茜の向かい側の席に座る。
「ごめんね。忙しいのに」
「気にしないで」
えりかは机の脇に立て掛けてあったメニューを取りだした。朝ごはんを食べ損ねていたので、早く何か食べたかった。カルボナーラスパゲッティの大盛を頼むことにした。
「相変わらず良く食べるわね」
茜は呆れながら言った。えりかは意外と大食いだった。その上で太らずスタイルも良いのだから、世の中は本当に不公平だと茜は思った。自分は食べた分だけ太るので余計に羨ましいと思っていた。
「それで話しって何?」
えりかが単刀直入に聞いた。昼休みの時間は限られているので、無駄話しをしている暇はあまりない。
「涼一と夏音の結婚の話し知ってた?」
茜が聞いた。
「いいえ。この前のパーティーの時に知ったわ」
えりかは声のトーンが少し落ちた。
「どう思った?」
「どうって。良かったねって思ったわよ」
「本当にそれだけ?」
「何よそれだけって」
「もしかしたら、思いの外ショックを受けてるんじゃないかなって思ったのよ。えりかはまだ涼一のことが好きみたいだから」
「そんなことないわよ」
何とか動揺を見せずに答えることが出来た。
「そう。なら、良いんだけど」
「その事を確認したくて、わざわざお昼を誘ったの?」
「それもあるけど、それだけじゃないって」
「まさか。また男の紹介じゃないでしょうね?」
えりかの問いに茜はイタズラな笑みを浮かべた。どうやら図星らしい。
「分かってるなら話しは早いわね。この人なんだけど」
茜はスマートフォンをえりかの元に置いた。そこにはハンサムな男性が笑顔で映っていた。しかし、えりかの心には何も響かないい。
「今度は誰なの?」
えりかはそれだけ聞いた。
「仕事関係の人よ。とても素敵な人だよ。誠実だし、頭も切れるよ」
茜の教育コンサルタントの仕事をしていた。保育士の仕事をしていた茜は7年前に結婚して男児を一人設けた。最初は順風満帆な結婚生活を送っていたが、子供の教育について意見が割れた。茜は教育熱心なママで塾や習い事をさせたいと主張した。しかし、旦那はそれに反対。経済面や子供ももっと自由に育てるべきだと言った。二人は譲ることなく次第に喧嘩をばかりするようになった。かくゆうえりかも、何度も喧嘩の仲裁に入ったことがあった。結局、二人は協議離婚を選択。揉めに揉めた話し合いの末に、親権は夫のものになった。保育士時代から教育の重要性を理解していた茜は、離婚した後は教育ビジネスにのめり込んだ。そして、2年前に教育コンサルタントになり、日々各地で講演等を行っている。結果はどうあれ保育士時代より生き生きしている茜を見てえりかは嬉しくなった覚えがある。ただ、困ったたことが一つだけあり、それが今回のように独身のえりかに対して仕事先で出会った男性を紹介してくるのだ。えりかはそれが迷惑だった。友達のよしみで義理で一度会ったこともあるが、それだけだった。だが、茜は諦めず仕事先で出会った素敵と思われる男性を紹介してくる。好意でやってくれてるとは言え、さすがにそろそろうんざりしてきていた。
「確かに格好いいわね」
えりかは一瞥をくれてすぐに茜にスマートフォンを返した。
「もう少し興味を持ったらどうなの?」
「あのね茜。前から言ってるでしょ。好きな人は自分で見つけるって」
「その手伝いをしたって良いじゃん。会ってみない分からないこともあるしさ」
好意を無下に扱われた茜は少し不機嫌そうに言った。
「嫌よ。それに別に彼氏が居なくたって今も充分幸せよ」
えりかはキッパリといった。
「どうしてそんなに頑ななの」
「それは茜でしょ。嫌なのって言ってるのに、紹介されてもその気にならないわよ」
「えりかは結婚するつもりあるの?」
「別に結婚すれば幸せだなんて時代じゃないでしょ」
「そうゆうことを言ってるんじゃないよ。私だって離婚した身だから結婚が絶対だなんて言うつもりはないわよ。結婚そのもに対して興味があるかないかを聞いてるの」
「無いわけではないけど。こうゆのうはタイミングでしょ」
「じゃぁ、そのタイミングを見極めるためにも会ってみたって良いじゃない」
「それとこれとは別の話しでしょ。とにかく会わないったら会わないわ」
えりかが強めに言うと、茜はムッとした表情で黙り込んだ。
「ここ来るの遅いわね」
まだ注文して5分も立っていないのに、今のやり取りでイライラしたえりかはそう愚痴を言った。
「ねぇ」
「何よ」
「えりかは本当は涼一への想いを断ち切れてないんじゃないの」
茜の藪から棒の発言にえりかのイライラは更に高まった。
「何でそうゆう話しになるのよ」
えりかはキツく言った。
「だって、えりかにどんなに素敵な男性を紹介しても目もくれないんだもん。それって無意識に涼一と比べてるからじゃないの?」
「違うわよ」
えりかはお冷やを飲んだ。
「じゃぁ、どうしてそこまで頑なに拒むのよ。もしかしたら、私が紹介した男の中にえりかを幸せにしてくれる人がいるかもしれないじゃない」
「今の私は幸せじゃないって言ってるの?」
「そんなこと言ってないでしょ」
茜はさも心外そうに言った。
「だって、そうゆうことじゃない。次々にお見合いの話しを持ってきて。今の私を否定してるとしか思えないんだけど」
「私が言いたいのは頭ごなしに否定しないでってことなのよ。私だって誰かれ紹介してるわけじゃない。ちゃんとえりかに合いそうな人を選んで紹介してるつもりよ」
「どうかしら。本音はその男性に恩を売って自分のキャリアを有利にするためじゃないの」
言わなくていいと分かってるのに、言葉が止まらなかった。
「なんてこと言うのよ!」
茜は怒った。
「ほら、怒ったじゃない。怒るってことは図星だからってことよ」
苛立ちが頂点を迎えそうになってるえりかは言葉を止めることは出来なかった。
「あんたこそいつまで涼一涼一って言ってるのよ!叶わない恋に焦がれてないで、現実を見なさいよ!」
「しつこいわよ!そんなこともう言ってないでしょ!断ち切ったって言ってるじゃない!」
えりかもたまらず怒り出した。
「ほら、怒るってことはえりかも図星なんじゃない!何が一人でも幸せよ!涼一のことを拗らせてるだけで、ずっと恋愛を避けてるあんたが言ったて何も説得力ないのよ!」
茜の目には涙が溜まっていた。
「そんなこと言うなんて信じられない!もういい!茜なんてもう知らない!」
えりかは自分の財布から千円札を二枚取り出すと、テーブルに放り投げた。そして、そのまま店を出ていった。店を飛び出したえりかは肩で息をしながら、会社へと戻った。茜への怒りでもはや空腹なんて感じていなかった。エレベーターで部署に戻り自分のデスクに入るやいなやブラインドを全部降ろした。そして、椅子に座り机に肘をついて頭を抱えた。目を瞑ると、今の茜とのやり取りが反芻されていく。言わなくていいことを言い、言われたくないことをズバリと言われた。茜の最後の言葉がえりかの胸に深く突き刺さっていた。茜にとった態度も自己嫌悪に拍車をかける。高校時代から茜とはしょっちゅう喧嘩をしていたが、今回ばかりは本当にダメかもしれないと思った。いつものように夏音が間に入ったとしても茜の怒りは果たして収まるだろうか。涼一に相談しようかと思い、スマホを取り出した。そして、気付いた。こうゆう所だということに。高校時代から今までずっとそうだった。何かあれば、真っ先に話していたのは涼一だった。またも茜の言葉が甦った。"涼一のことを拗らせてるだけ"またここで立花君に頼れば私は立花君への想いを断ち切れなくなってしまう。茜の指摘は的を得ていた。えりかは断ち切ったと言っていたが、それは嘘だった。だが、それを認めるのが嫌で断ち切ったと言い自分にそう言い聞かせていただけだった。えりかは泣きじゃぐりたかった。えりかは元来は喜怒哀楽を豊かに表現するタイプだった。泣きたい時は泣き、楽しい時には思いっきり笑う。だが、ここは家でなく仕事場だ。泣きじゃぐりなんかしたら、それこそ周りに何と思われることだろうか。グッと堪える涙が頬ではなくえりかの心だけを濡らしていく。昼休みも間もなく終わる。えりかはしっかりしなければと自分に何度も言い聞かせた。
正孝はえりかの様子が変であることに気付いていた。表向きはいつもと変わらないように見えるがどうも様子がおかしかった。時折、えりかのいるデスクに目を向けると何やら深刻な顔で悩んでいるのを目撃したのもある。そんなえりかは残業して業務を行っていた。どうしてもえりかの様子が気になった正孝は特に残業する必要は無いのに残って仕事をしていた。えりかがパソコンを閉じたのは終業時間から約90分後のことだった。えりかは帰り支度を整えてデスクを出る。すると、居残っていた正孝を見つけた。
「楠木君」
えりかは少し驚いた表情を見せた。
「あ、お疲れ様です」
正孝は軽く頭を下げた。
「今日、そんなにたくさんの仕事あったっけ?」
「すっかり忘れてた仕事がありまして」
正孝は適当に誤魔化した。まさかえりかのことが心配で残っていたなんて言えるはずもない。
「そう。もう終わりそうなの?」
「はい。もう終わるところです」
「そう」
正孝はすぐにえりかは帰るかと思っていたが、えりかは何か言いたそうな顔をして立っていた。
「あの、どうかしましたか?」
正孝は遠慮がちに聞いてみた。
「今日、この後時間ある?」
「え?」
正孝は一瞬質問の意味が分からなかった。
「だから、今日の夜は空いてるのって聞いてるの」
「え、まぁ。特に何もないですけど」
「なら、ちょっと付き合って」
「付き合うって何にですか?」
「今日は花の金曜日でしょ。一杯付き合ってよ」
「え・・・・・・」
思いがけない誘いに正孝は言葉を失ってしまった。
「私とサシで飲むの嫌かしら?」
少し残念そうに言うえりかが、何だかとても可愛らしく見えてドキマギした。
「あ、いえ、そんなことはありません。ただ、まさか誘われるとは思ってなかったので」
「ほら、先週のパーティーを勝手に帰ったお詫びも込めてもあるから」
「そんな。僕は気にしてないですし」
「それで行くの?行かないの?」
「行きます行きます」
えりかと二人で飲めるチャンスを逃せるはずもない。
「じゃぁ、外の噴水の所で待ってるから。電気とか消し忘れないでね」
「は、はい」
正孝が返事すると、えりかはフロアを後にした。一人残された正孝は内心ガッツポーズした。まさかこんなことがあるなんて。正孝は適当に10分過ごし、急いでえりかの待つ噴水へと向かった。
えりかと正孝が向かったのは会社近くの居酒屋だった。老夫婦が切り盛りしてる海鮮料理の美味しい店だった。えりかはここの常連らしく店主が優しい笑顔で迎え入れてくれた。正孝はえりかが居酒屋の常連であることにも驚きつつも、えりかの庶民的な一面を見て親近感が湧いた。まずは生ビールで乾杯し、えりかがいつも頼んでいると言う料理を頼んだ。
「今日は私の奢りだから、好きに頼んで良いから」
「えっ、でも・・・・・・・」
「お詫びも兼ねてるって言ったでしょ。それとも男の自分が払わないとでも思ってるの?」
「いや、まぁ」
好きな女性との初めての食事は男が奢るものだと思っている節はあった。
「そうゆう考えはもう改めた方が良いわよ。今の女子は奢られるのも嫌いって言う子も多いから」
「先輩もそうなんですか?」
「ええ。奢られるのも奢るのも好きじゃないわ。けど、今日みたいにお詫びであったり、相手の誕生日とか特別な事があれば喜んで奢ったりするわよ」
「そうなんですね」
「だから、遠慮は無用よ。気兼ねされると奢ってるこっちも申し訳なくなるから」
「分かりました。じゃぁ早速頼みます」
「どうぞ」
えりかは正孝にメニューを渡した。
正孝が思った以上に会話は弾んだ。この前上野で会ったことも手助けになった。似通った趣味があるから話題に困ることはなかった。ただ、唯一不安に思ったのは、えりかの酒のペースが速いとことだった。えりかがどれくらい飲めるのか知らないが、今のペースを維持すれば一時間後には潰れてしまうのではないかと思えた。正孝はやんわりと言ってみたが、えりかは聞く耳持たずだった。案の定、飲み始めてから一時間半経った頃にはえりかはかなり酔った状態になっていた。
「先輩。もう飲むの止めたらどうですか」
「何言ってるのよ。楽しいのはまだまだこれからじゃない。お代わり」
「いや、もう止めておいた方が良いですって」
「先輩が飲みたいって言ってるんだから飲ませない」
えりかは正孝をキッと睨んだ。
「じゃぁ、次で最後ですからね」
正孝は仕方なしに言った。えりかはだしらなく笑うだけだった。正孝は内心溜め息をつきながら生を一つ頼んだ。
「楠木」
酔っ払ってからずっと呼び捨てで呼ばれていた。
「はい?」
「あんた中々可愛い顔してるわね」
「どうも」
さっきから言われ続けているので、もはや流していた。
「私と付き合わない?」
「えっ?」
正孝の思考が一瞬止まり、えりかの顔を見た。えりかはニヤニヤ笑っていた。
「冗談に決まってるでしょ」
「そうゆう止めてくださいよ」
「あははは。ごめん。楠木にはもっと可愛いらしい女の子が似合いそうだしね」
正孝はなんて答えれば良いのか分からなかった。ただ、そう思われてることに少なからずショックを受けた。やはり、自分なんかをえりかは相手にするわけがないんだと落ち込んでしまった。
「お手洗いにいってきます」
居たたまれなくなった正孝は気持ちを落ち着かせるために席を外した。トイレから戻ると、えりかは机に突っ伏していた。正孝は慌ててえりかに駆け寄った。
「先輩。先輩」
えりかの肩を揺する。えりかは唸るだけで目を覚ます気配はなかった。
「弱ったな」
正孝は心底困った顔をした。終電までに目を覚ましてくれるだろうか。その時、机の上に置いてあったえりかのスマホが鳴った。どうやら電話が来たようだ。チラッと画面を見てみると、立花君と表示されていた。正孝は思わずドキッとした。
「先輩。立花さんから電話来てますよ」
もう一度揺すった。今度は少し大きく。しかし、えりかは全く起きない。電話は今も鳴り続けている。まさか自分が出るわけにもいかずそのまま放置しておいた。一分くらい鳴っていただろうか。やがてスマホは静かになった。が、またすぐに鳴った。余程の急用があるのかもしれないと思い、正孝は心の中でえりかに詫びて電話に出ることにした。
「も、もしもし」
「あれ?」
「あ、これは永瀬さんの電話です」
「君は誰だい?」
「あの楠木です。依然、パーティーで会わせていただいた」
「ああ、この前えりかと一緒にいた」
「はい」
「どうして君が永瀬の電話に出てるんだ?」
「実は・・・・・・」
正孝は経緯を説明した。話しを聞き終えた涼一は笑っていた。
「なるほどね。そいつは災難だったね。今、どこにいるんだい?」
「えっと、新橋にある居酒屋です。名前は和泉屋です」
「ああ、あそこか。今からそっちに行っても良いかな?」
「え?」
「二人きりを邪魔されたくないなら遠慮するけど、永瀬は一度寝たら起きない」
それは困ると思った。しかし、酔ったえりかを放って置くことは出来ない。自宅を知らないから送ることも出来ない。だからと言って、ホテルなんかに連れていく訳にもいかない。
「じゃぁ、来てもらって良いですか?」
「分かった。30分後くらいに着くよ」
涼一は電話を切った。
涼一との通話を終えた正孝はスマホを置いてあった場所に戻し、重たい溜め息をついた。まさかこんな展開が待ってようなんて思ってもいなかった。涼一はきっかり30分後にやって来た。
「お待たせ。悪いね邪魔をしてしまって」
涼一はフランクに声をかけた。
「いえ」
「永瀬。おい永瀬」
すると、さっきまで起きる気配の無かったえりかがガバッと起きた。
「あー立花君だー」
酔ったえりかはそのまま涼一に抱き着いた。そして、また眠りこけた。
「おっと」
腕の中で崩れそうになるえりかを抱き抱えた涼一はそのままえりかを座敷に寝かせた。そして、上着を脱いで寝ているえりかに掛けた。その一連の行動を見た正孝は涼一に対して嫉妬ではなく尊敬を抱いていた。紳士とはこの男のことなのだろうと思った。
「全く。後輩にこんな風に迷惑をかけるなんて永瀬らしくないな。すまんな」
永瀬の代わりに涼一が謝った。
「いえ、そんな。来てくれて助かりました」
正孝は軽く頭を下げた。
「まぁ、すぐ帰るのも何だし、一杯やらないか?」
涼一はテーブルにあったグラスを掲げた。その仕草がまた格好よかった。
「あ、そうですね。よろしくお願いします」
正孝は注文するために店員を呼んだ。
二人が飲み始めてから30分も経つと、正孝は涼一の凄さを身に染みることになった。えりかの話しによると天才らしいのだが、その話しは頷けた。とにかく話しが巧い。難解な言葉は使わず一般人でも分かりやすくシンプルかつ効果的な言葉で話してくれるので、特に興味のない恐竜の話題なのに、とても面白く感じた。気取った所もなく天才でイケメンであることを鼻にかけている様子も全く見受けられないのも正孝の好感を上げていた。これはえりかが惚れ込むのも無理は無いなと思うのと同時に、これが相手かと思うと途方も無く感じられた。
「なぁ、楠木君は永瀬のことが好きなんだよな?」
突拍子もない質問に正孝は思いっきりむせた。
「き、急に何を言い出すんですか!」
「違うの?」
その一言には嘘は許さないという圧が込められていた。
「まぁ、その何て言いますか・・・・・・」
正孝の態度は煮えきらない。ほぼ初対面の相手に加え、えりかの友人にえりかのことが好きと白状するなんて恥ずかしいことなかった。
「中学生じゃないんだから、ハッキリ言ってくれ。それに永瀬に漏らしたりしない」
「・・・・・・好きです」
消え入るような声でいった。
「そうか」
涼一は満足そうに頷いた。
「どうしてそう思ったんですか?僕が永瀬さんのことが好きって」
「全く興味のないパーティーに誘われてくるなんて、誘ってくれた相手のことを好きじゃないと無理だと思うが」
「あれは先輩が立花さんに会ってみると言ってくれたから」
「でも、それは永瀬が言ってくれたからだろう。他の女性だったら、君は来なかったはずだ。違うか?」
正孝は黙り込んだ。全くもってその通りだったからだ。
「永瀬のどこに惚れたんだ」
涼一はえりかを見た。えりかは相も変わらずスヤスヤ眠っている。
「そんなこと知りたいんですか?」
「大いに知りたいね。大事な友人が変な男に捕まってほしくはないからね」
「惚れた理由で変な男かどうか分かるんですか?」
「俺には分かるよ。仮に楠木君が変な男であるならば、俺は全力で邪魔をさせてもらう」
この人なら本当に邪魔をしかねないだろうし、本気で邪魔をするんであればあっという間にえりかに嫌われる未来が予想できた。えりかの涼一に対する信頼は正孝がどんなに言葉を並べた所で覆せることはないはずだ。正孝はどこだろうと思案を始めた。美人であること。厳しいけど優しい所。仕事が誰よりも出来ること。人望が厚い。色々考えてみるがしっくり来ない。そして、ふと思い出した。正孝にとってそれが一番納得のいく理由だった。
「不意に見せる笑った顔ですかね」
「へぇ」
「変な理由でしたか?」
正孝は不安を覗かせた。
「そんなことはない。むしろ、感心している。今までそう答えた男は居なかったからね」
「そうなんですか」
「どうして笑った顔が好きになったんだ?」
「先輩って会社では険しい表情を浮かべてる事が多いんです。いつも力が抜けてないと言うか。でも、たまに嬉しい事が会った時とかに見せる笑顔が本当に魅力的で、何と言うかそれが本来の先輩の素の表情なのかなって」
「なるほど」
涼一は頷いてみせた。
「以前、上野で偶然会ったんです。同じ美術展に行ってたみたいで。その後一緒に行動したんですが、そこで見せる表情は明らかに会社で見せる表情とは違くて生き生きしてて、とても楽しそうでした。無邪気な少女のような先輩が眩しくて僕まで嬉しくなった覚えがあります」
「何だもうデートするくらいの仲になっているのか」
「そ、そんなんじゃないです。本当に偶然会って、先輩が優しいから僕みたいのでも一緒に行動してくれたようなものです」
「自分を卑下し過ぎだ。それにしても上野とはね」
涼一はグラスの氷をカランと指で回し、どこが遠い目つきになった。
「実はその、上野で先輩から聞きました」
「何を?」
「先輩の初恋の相手が立花さんだってことを」
「何だって?」
涼一は珍しく大きな声を出した。
「ご、ごめんなさい。まさかそんな話しをされるとは思ってなかったので、あの聞いたことは忘れるので」
「いや、別に怒ってはいないんだ。ただ、驚いたんだ」
「何に驚いたんですか?」
「永瀬が誰かにそのことを話すことにだよ。彼女はそんなことを気軽に話すような女じゃないから」
「先輩は話した理由をセンチメンタルになってからかなって言ってました」
「上野ならそうならなくもないのも分かるが、それだけの理由でポロリと話す程永瀬は弱くはないはずなんだがな」
「上野が初デートの場所だそうですね」
「まぁ永瀬の弟も一緒だったから、デート言えるかは定かではないが、二人で出掛けたのは上野が最初で最後だな」
「とても嬉しそうにそしてどこか悲しそうに話してました。僕の勘なので分からないですけど、先輩はまだ立花さんのことが好きなんだと思います」
今度は涼一が黙り込んだ。難しい顔をして腕を組む。
「永瀬には申し訳ことをしたと常々思ってるんだ」
涼一はおもむろに話し出した。
「どうして立花さんが?」
「自惚れている訳ではないが、永瀬に恋人が出来ないのは俺が大きく関わっているのは知っている。まさか俺もこんな風になるとは思ってなかった」
「どうゆうことですか?」
「高校時代から俺は永瀬に優しくしてきた。でもそれは、永瀬のことが好きだからとかではなく、母親を亡くしずっと独りで強がって生きてきた永瀬の心の負担を少しでも和らげる事が出来たらと思ったからだ。俺は永瀬の一人の友人として接してただけのつもりだった。だが、永瀬の唯一の逃げ場が俺だった。そして、永瀬が俺に想いを寄せている事に気付いた。だからと言って、永瀬を拒絶して突き放すことは出来なかった。そんなことをすれば永瀬は逃げ場を失くしてしまう。一度逃げ場を作った人間がそれを失うと以前より心のバランスが崩れることを俺は知っていた。だから、俺は葛藤を抱えながらも永瀬に優しく接した。高校3年になってようやく永瀬にもなつや茜と言った本音を打ち明けられる友人が出来て、俺も少し肩の荷が降りたと思った。これからはその二人を中心に色々相談したりして誰かを好きになってくれると思ったんだ」
「でも、先輩は大学時代には恋人を作ったと言ってました」
「恋人と言うには正確ではない。確かに、大学時代に何人かの男と遊んだりしていそうだがが、誰一人深い仲に辿り着く男は居なかった。もちろん、ろくでもない男がほとんどだったから、良かったと思う部分はあったものの、どうしてすぐに冷めるのか気になった。その事を共通の友人である茜に話した。すると茜曰く、永瀬は相手の男と俺を無意識の内に比べていて、すぐに冷めてしまうそうだ。俺はどうしたものかと悩んだよ。なつがいる俺が付き合う訳にはいかない。だから、俺らでそれとなく顔も頭も良い男を永瀬に紹介し続けてきた。だけど、永瀬はうんともすんとも言わない」
話しを聞いていた正孝はどんどん落ち込んだ気分になった。要は限り無く涼一に近い男じゃない限りえりかとは付き合えないという事に絶望を覚えた。自分と涼一では競べるのすら烏滸がましい程の差があることを認めるしかなかった。
「そして、ついには喧嘩をする羽目になってしまったし」
「喧嘩?」
「そう。今日の昼休みに茜と思いっきり喧嘩をしたみたいでね」
「だから・・・・・・」
「だから?」
「あ、今日の先輩はどこか様子がおかしかったように見えたので。多分、その喧嘩が原因なのかなって」
「間違いなくそうだろうね。それにしても、永瀬のことをよく見てるんだな」
「い、いやぁ」
正孝は首筋に手を当てた。えりかをいつも見てると思われて恥ずかしくなった。
「全く。二人ともいい年して加減を知らないというか。引くことを知らないんだから」
「立花さんは喧嘩したことを知って先輩に会おうとしたんですか?」
「茜に泣きつかれてね。永瀬がどんなことを思ってるか聞いてきてって」
「優しいですね」
「二人とも大事な友人だからね。俺に出来ることなら協力をしないわけにはいかない。もっとも、これからは楠木君がいるから俺の出番は無くて済みそうだけどな」
「そ、そんな。僕なんかが出来ることなんてないですよ」
「でも、今日飲みに誘われたんだろ?」
「先輩の気紛れってやつだと思います」
「永瀬は自分が気が立ってる時に心を許している相手以外は誘ったりはしない」
「先輩が僕に心を許してくれてるんですか?」
「俺にはそう思える」
「でも、僕は大したことなんてしてないのに」
「何が相手にとって大したことになるかは相手にしか分からないからな」
「どうゆうことですか?」
「楠木君の何かが永瀬に響いたのかもしれないね」
正孝は自分の何がえりかに響いたのか全く見当もつかなかった。そもそも、本当にそんなことがあるのだろかとさえ思った。目の前にいる男とは雲泥の差があることは承知している。どう考えてもえりかの心を掴める要素なんて自分には無いと決めつけている。
「さてと、そろそろ帰ろう」
「え、でも、先輩はどうするんですか?」
「家まで送るしかないだろう」
「でも、先輩電車に乗れますかね」
「タクシーで帰ればいい」
「ここから津田沼までですか?」
「そうだ。タクシー代は俺が出すから、楠木君は永瀬を家まで送ってやれ」
「は?」
「さて、タクシーを呼ぶか」
「え?いや、ちょっと待ってください」
正孝は慌てて涼一の腕を掴んだ。
「どうした?」
「僕が先輩の家まで送るって本当に言ってるんですか?」
「もちろん、婚約者のいる俺が送る訳にはいかないだろう。なつに余計な心配をかけたくないしな。とにかく、タクシーを呼ぶから一旦離してくれ」
「あ、すみません」
涼一はタクシー会社に連絡を取った。5分もせずに来てくれると言うことだった。電話を終えた涼一は会計をするためにレジへと向かった。
「あ、ここは僕が出します」
「良いから。後で永瀬に請求するよ。永瀬に奢るって言われてるんだろ。永瀬の荷物をまとめてくれ」
「分かりました」
「永瀬。永瀬」
会計を終えて戻ってきた涼一は激しめにえりかの体を揺すった。
「うーん」
重たそうな声と共にえりかが体を起こした。
「ほら、もう帰るから立て」
「えーもう帰っちゃうのー。もっと飲もうよー」
どうやらまだまだ酔っぱらってるようだ。
「分かった。店を変えるから早く立ってくれ」
「分かったー」
えりかは甘えた声でいった。
「楠木君手伝って。左肩を支えてくれ」
「は、はい」
えりかの両腕を正孝と涼一で支えて店の外まで連れ出した。外には既にタクシーが待っていた。えりかを乗せて二人は別れの挨拶を交わす。
「じゃぁ、後はよろしくな」
「本当に俺で良いんですか?」
「大丈夫だよ。これタクシー代」
涼一は二万円を差し出した。
「でも・・・・・・」
正孝は受け取るのを躊躇った。
「気にするなって。後で永瀬に何か言われたら俺に逆らえなかったって言っておけばいいから」
涼一は二万円を正孝のスーツのポケットに強引に入れた。
「あの、何から何までありがとうございました」
正孝は深く頭を下げた。
「礼を言うのはこっちだ」
「え?」
頭を上げて涼一の目を見ると、その目には何とも言えない不思議な光が宿っていた。
「ほら、もう乗れ。あまり待たせるな」
「あ、はい。ありがとうございました」
「そうだ。最後に一言だけ良いかな?」
「何ですか?」
「高嶺の花は自分が思ってる程高くないものだよ」
涼一はニヤリと笑った。そして、後ろを向いて歩いていった。その場に立ち尽くしていた正孝はタクシー運転手に声をかけられようやく我に帰り、タクシーに
乗り込んだ。タクシーの運転手はお喋りな人だった。普段はうんざりする所だが、お陰で津田沼まで早く着いたように感じたので、今回だけは助かったと言う気持ちの方が強かった。えりかの住むマンションの前で付けてもらい、涼一から預かったタクシー代で払った。
「先輩。先輩。着きましたよ」
「えーどこにー」
えりかはえへへと笑った。
「とにかく降りてください」
「楠木のくせに生意気だぞー」
「すいませんね生意気で」
半ば強引に引っ張るようにえりかを降ろした。降りた途端えりかはよろけた。正孝は反射的に腕で支える。偶然にも左腕がえりかの胸の部分に当たってしまい、柔らかい何かを認識した正孝は一瞬頭が真っ白になった。
「すみません先輩」
「何がー」
どうやら分かっていないようだ。正孝は安心した。
「さ、行きますよ」
「はーい」
目は覚めてるものの、その足取りは覚束ない。
「あれ、ちょっと待てよ」
正孝は考え込んだ。えりかが実家暮らしだということを思い出した。このままインターフォンを押して良いのだろうか。酔っ払った娘を運んできた男を父親が快く受け入れるとは思えない。もしかしたら、変な言い掛かりをつけれらたらどうしようと不安になってきた。
「どうしたー楠木ー。早くいこうよー」
正孝はこんな所で考えても仕方ないと諦め、出たとこ勝負するしかないと思った。えりかの家は12階の1211号室だった。正孝は少し恐れる気持ちでインターフォンを押した。すぐに出てくれた。声は若かった。恐らく、先輩の弟だろうと考えた。
「あ、あの、永瀬えりかさんを送りにきました」
緊張で少し声が裏返った。
「ああ。すぐ開けますね」
特に怪しんだり警戒されてる様子が見られなかったのでホッとした。オートロックのドアが開きマンション内へと入り、エレベーターを探した。エレベーターは都合良く1階に停まっていた。12階で降りて1211号室へと向かう。えりかの部屋の前に着き、今度は玄関先のインターフォンを押した。誰も出ることなくガチャとドアが開く音がした。中から出てきたのは小太りなおじさんが出てきた。えりかの父親である永瀬直弘だった。
「あ、あの」
正孝は急いで事情を説明しようとした。
「ああ。いいよいいよ。事情は聞いてるから、とりあえず中へ入って」
「し、失礼します」
正孝はえりかを支えたまま中へ入る。
「こっちの部屋に運んでくれるかな」
靴を脱いだ正孝は言われた通りに玄関から一番近い部屋にえりかを連れた。
「楠木ーまさかここホテルー」
えりかは愉快そうに言った。父親の前で何てことを言うんだと正孝は顔を覆いたくなった。
「気にしないで。何を言ってるか分かってないから」
直弘は笑いながら言った。
「ここ先輩の部屋なのに僕が入って大丈夫ですか?」
「もちろん。ベッドに寝かせてくれるかな。本当にごめんね。迷惑かけて」
「いえ」
正孝はえりかの部屋に入った。なるべくベッド以外に目を向けないように気を付けた。
「あーここホテルのベッド気持ちいいねー」
「ホテルじゃなくて自宅ですよ自宅」
返事はなかった。えりかはもう寝息を立てていた。
「全く。しょうがないやつだ」
直弘は少し呆れながらも、えりかの体勢を変えて布団をかけた。
「楠木君って言ったっけ?」
「僕の名前を知ってるんですか?」
正孝は驚いた。
「涼一君から聞いたよ。何があったのかもこと細かくね。本当にありがとう」
直弘は丁重を頭を下げた。
「そんな。頭を上げてください。部下として当然のことをしたまでです」
「いやいや、部下にこんなことをさせるなんて上司失格だよ。後でえりかはキツく叱っておくから、えりかのことをパワハラ等で訴えないでほしい」
「そんなつもりありませんからご安心ください。それに叱る必要もないです。強要された訳でもないですから」
正孝は大きく手を振った。今のご時世は何かにつけてハラスメントを言われる時代だ。こう言ったことで訴える人間がいるのだろう。
「ありがとう。娘も良い後輩を持ったようで嬉しいよ。それにしても、こんなに酔うなんて珍しいな」
「立花さんから聞いてないんですか?」
「ん?ああ、彼も分からないって言ってからね。君は何か知ってるかい?」
正孝は理由を言うべきか迷った。しかし、涼一が言わないなら黙っておくべきだと判断した。
「いえ。先輩はずっとお酒を浴びるように飲むばっかりで特に理由は聞いていません」
「そうか。そうだ、楠木君に少し聞きたいことがあるんだ。リビングに来てくれるかな」
「僕にですか?」
一体何を聞きたいのだろうと疑問に思った。
「とりあえず来てほしいんだ」
「分かりました」
二人はえりかの部屋を出てリビングへと向かった。リビングに行くと、ソファに若い男の子が座っていた。手には人気ゲームが握られている。
「息子の洸太だ」
直弘が紹介した。
「どうも。楠木正孝です」
「どもっす」
洸太は軽く頭を下げた。値踏みするかのように正孝を見ている。
「洸太。部屋に戻ってなさい」
直弘が言った。
「分かったよ」
洸太はめんどくさそうにソファから立ち上がりリビングを後にした。
「そこに座ってくれるかな」
正孝は促されるままに座った。直弘はキッチンへと一旦姿を消した。数分後カップを二つ持ってきて戻ってきた。カップからはほんのり湯気が立ち上っていた。
「インスタントコーヒーで悪いけど」
カップの一つを正孝の前に置いた。
「あ、すみません」
「改めて今日は申し訳なかったね」
「もう十分です。それよりは聞きたいことというのは?」
正孝は促した。
「うん、まぁ娘の会社での様子を聞きたくてね。本人に聞いても何もないとしか言ってくれないから。部下である楠木君に会社で孤立したりしてないか聞きたいんだ」
「はぁ、なるほど」
気持ちは分からなくもない。大切な一人娘を気遣うのは父親として当然だと思う。
「楠木君もえりかの部下なら知ってると思うんだが、えりかは気難しい所があるだろう。それで軋轢が生まれたりしてないかな」
「特にそんなことは聞いたことありませんよ。むしろ、美人で仕事は出来るってことで社内の評判は高いと思います」
正孝はありのままを答えた。実際、えりかにあからさまな敵意を持っている人間を見たことがない。もちろん、自分が知らないだけかもしれないが。
「そうか。それなら良いんだが」
「そんなに先輩のことが心配なんですか?」
「うん、まぁね。父親の私が言うのもあれだけど、えりかは周囲とのコミュニケーションを取るのが決して上手いとは言えないから。何でも一人で背負い込んでしまう所もあるし」
そう言えばと正孝は思った。えりかを悪く言う人間はいないが、逆にえりかと親しい人間も聞いたことがない。社内で話している所を見掛けるがほとんどが仕事の話しだし、昼休みも基本的には自分のデスクで一人でお弁当を食べていることが多い。たまに、社員食堂に顔を出して部の人間と食べたりするが、食べたらすぐに仕事に戻ってしまうから、あまり話していることもない。いくらえりかの仕事が忙しいとはいえ昼もゆっくりしていられない程ではないはずだ。わざと皆を避けているように感じもする。そんなことを考えていると、直弘が語り始めた。
「えりかは亡くなった妻の代わりをずっとこなしてきた。それはえりかを大人にすると同時に、必然的に弱味を見せてはいけないということが固定観念に繋がってしまった。高校時代に涼一君達に出会ってからは少しは変わったが、それでもまだ相手の懐に飛び込んだり、逆に自分の懐に飛び込ませないように無意識にしてしまう所があると思うんだ」
直弘コーヒーを啜った。
「その考えは間違ってないと思います。僕も似たようなことは思っていましたので」
「やっぱりそうか。どうしたものかな」
「でも、あまり気にすることはないと思います」
「ほぉ、何でだね?」
「確かに先輩は取っ付きにくいと言うか隙を見せない人ですけど、だからと言って、理不尽に人に冷たくしたりする人ではありません。社内に親しい人がいないかもしれないけど、それでも先輩は人望も厚いですし、本当に困ったことが起きれば誰もが率先して手を差しのべるはずです」
直弘はじっと正孝を見つめた。正孝は怒らせてしまったかもしれないと不安になった。
「えりかは本当に素晴らしい後輩を持ったようだな。君のような人がえりかの下にいてくれて安心したよ。ありがとう」
直弘は染々と言った。
「い、いえ、そんな。僕なんて大したことありません。周りにはもっと頼りになる方はたくさんいます。それに先輩には日々お世話になってますし、何かあれば助けるのが当然です」
「謙虚だね。これからもえりかのことをどうか支えてやってほしい」
直弘は頭を下げた。
「こ、こちらこそ。先輩の足を引っ張らないように頑張ります」
正孝は背筋を伸ばした。
「話しを聞けて良かったよ。そう言えば家はどこにあるんだい?」
「あ、吉祥寺です」
「今から帰るのは大変だろうから、今日はここに泊まっていきなさい」
「い、いえ!大丈夫です!そこまでお世話になるわけにはいきません。まだ電車もありますし」
正孝は立ち上がった。
「しかし、もう御茶ノ水までしかいけないし、終電も無くなってしまうだろう」
「そしたら、御茶ノ水の漫喫やらで朝まで過ごしますから」
正孝は椅子にかけてあったスーツの上着を手に取った。
「そうか。まぁ無理にとは言わないが」
「お気遣いありがとうございます」
二人はリビングを出て玄関まで移動した。
「今日はありがとう」
玄関まで見送りにきた直弘がもう一度言った。
「いえ。こちらこそ夜更けに長い時間お邪魔しました」
正孝は深く一礼した。
「気を付けて」
「はい」
正孝はドアを開けて外に出た。夜のひんやりとした空気が妙に心地良かった。歩きかけた所でえりかの寝ている部屋の前で一旦足を止めた。壁の向こう側ではえりかが穏やかな寝息を立てて寝ているはずだ。
「先輩。お休みなさい」
聞こえるはずもない声は壁に吸い込まれて消えて無くなった。正孝は止めていた足を動かし、駅へと向かい出した。