第一章
ガバッと勢いよく起きた楠木正孝はまず側に置いてあったスマホに手を伸ばし、時間を確認した。そして、目を剥いた。時間は7:50を表示していた。遅刻だ。そう理解するのに時間はかからなかった。今日は朝から大事な会議がある。その為には、7:30に起きなければならなかった。なのに、既に20分過ぎている。布団を剥ぎ取り、ベッドから降りて洗面所に向かった。朝食を食べてる余裕はない。髭はこのくらいなら許容範囲だと言い聞かせた。歯を磨きながら、昨日のワイシャツを着た。タンスから新しいのを出すのすら勿体なかった。幸い正孝は体臭はキツくないので、そこまで臭うこともなかった。運の良いことに寝癖はほとんどなかった。ネクタイを締めて部屋を飛び出そうとしたが、ペットの黒猫のアッシュに餌を用意するのを忘れていたことを思い出した。忙しない主人とは真逆で、アッシュは気持ち良さそうに寝ている。そののんびりさが今の自分には羨ましくて仕方なかった。大急ぎで猫用フーズを皿に盛った。勢いがありすぎて、周りに散らばってしまったが、拾ってる暇もない。それに、アッシュが皿に落ちた分も食べてくれると思った。
最寄り駅である吉祥寺駅まで徒歩で10分。走れば5分で着く。いや、革靴だから7分だなと思った。
信号を赤で止まる度に、腕時計に目をやってはイライラした。会議が始まるのは9時。だからと言って、9時に着けば良いと言う問題ではない。まだ新人の領域である正孝には会議の準備と言う雑務が当然ある。なので、最低でも30分前には着いてないといけない。
赤信号が青に変わった瞬間に走り出した。通勤時間なので、歩道には自分と似たようなスーツを着た人間が大勢いる。その隙間を縫うように走り抜けた。
駅に着いた時間は8:15だった。ここから、会社のある新橋までは30分ちょっとかかる。準備に間に合うことはもうない。今頃、一緒に準備するはずだったメンバーから愚痴がこぼれている事だろうと正孝は思った。
準備には間に合わないのは、後で謝罪するとして、問題は会議の開始時間に間に合うかどうかだ。準備のことは小言を言われるくらいで済むだろうが、大事な会議に遅れれば大目玉を喰らうことは明白だった。特に今回の会議の主催者である永瀬えりかは遅刻する人間に対して特に厳しいことで有名だった。恐らく、1分でも遅刻したら、中には入れてもらえず、会議後に盛大なお叱りが待っているに違いないと思った。
新橋駅に着いて走りたい所だったが、吉祥寺駅の比でない人の群れのせいで中々前には進めない。それに対してまたもイライラしながら、再び時計に目をやる。後、10分で会議が始まってしまう。永瀬えりかが腕組みをして、厳しい目付きでじっと前を見つめている姿が目に浮かぶ。
何とか改札を潜り抜けて、既に目と鼻の先にあるオフィスビルへと足を急がせる。ガードマンに軽く会釈をしてゲートを抜けてタイミング良く来たエレベーターに乗り込んだ。
ギリギリ開始時間には間に合いそうだ。準備に間に合わなかったことは、今は忘れることにした。
エレベーターが12階に着き、そこで降りた正孝は自分の所属する部署へと向かう。正孝の配属されている部署は製品開発部だった。自動ドアが開かれてオフィスの中へ入る。すると、同期である諏訪優磨が声高に言った。
「早く!」
正孝は自分のデスクにいってカバンを置き、会議に必要な書類を取り出し、周りの忍び笑いを受けつつ、会議が行われる部屋に向かった。残り一分。正孝は胸に手で抑えて扉を開けた。
正孝以外のメンバーはきちんと揃っていた。正孝はバツ悪そうに頭を下げてそーっと入った。
「ハリウッドスターも顔負けの登場ね」
氷のような冷たい声に正孝は固まった。その声の主こそ永瀬えりかだった。彼女の皮肉に笑い声をあげるものはいない。
「すみま、いえ、申し訳ありません」
正孝は頭を下げた。
「その寝癖を見る所によると、随分と快適な睡眠だったようね」
正孝は反射的に頭を押さえた。どうやら、見逃していた所があったようだ。正孝はますます恥じ入った気持ちになった。
「これはその・・・・・・」
「まぁいいわ。早く座って」
えりかが被せるように言った。正孝は背中を丸めながら、そそくさと自分の席に着いた。
「さて、全員揃ったので始めましょう」
立ち上がったえりが言った。さっきまでの氷のような声は消え去り、凛とした声が会議場に響いた。
正孝はえりかを見つめた。朝イチから皮肉を言われて恥をかかされた。しかし、どんな皮肉を言われても正孝はえりかを嫌いになれなかった。その理由はえりかの持つ美貌だった。見つめられた吸い込まれてしまそうな大きな瞳に、スッと通った鼻筋。スーツの上からでも分かるスタイルの良さ。正孝は初めて会った時、一瞬にしてえりかに心を奪われた。加えて、仕事の腕も一流。まだ30手前なのに、副部長の職に就いている。既に将来の役員候補の一人とさえ噂をされている。その美貌と仕事振りは当然ように他部署にも届いていて、他部署の奴らから合コンに連れて来いと言う指令を度々受けていた。しかし、えりかを合コン誘って成功した者はいない。むしろ、誘った者はえりかから軽い男と認定され、それ以降は全く相手にされないと言う始末だった。正孝も早く誘えと突っつかれているのだが、あの手この手の言い訳をしてかわしていた。そんなえりかの態度に一部を除いた女性陣は称賛の眼差しを送っていた。誰もが憧れる存在。それが永瀬えりかだった。早い話、顔も仕事能力も全てが平凡と思い込んでしまっている正孝からすれば、遥か彼方に咲く高嶺の花の存在だった。
「楠木君」
「あ、は、はい」
突然名指しされて、正孝は動揺した。
「ボーッとしてるけど、どうかした?」
「い、いえ、何でもありません」
「まだ寝たりないなら、出ていっても構わないわよ」
「大丈夫です。すみません」
正孝は姿勢を正した。
えりかは軽く溜め息を吐いた。その呆れたような溜め息が正孝の心を抉った。正孝は自分を情けなく思った。
会議は滞りなく進行し、一時間ほどで終わった。最初に部屋を出るのは躊躇われたので、最後の後の方に出た。自分のデスクについた正孝は大きく息を吐いた。
「お疲れさん」
隣に座っていた諏訪優磨が早速声をかけてくれた。同い年で同期。入社してすぐに仲良くなったのが、この諏訪優磨だった。身長が190センチを超える高さを誇るのが唯一の自慢だと言っている。明るくて気の置けないやつで、何事も相談出きる心強い友人だった。
「ああ」
正孝は気のない返事を寄越した。
「全く。今日は女王の謁見だと言うのに、何で寝坊なんかしたんだよ」
永瀬えりかを影で女王と呼んでいるのはこの諏訪優磨だけだった。
「アラームが鳴らなかったんだよ」
正孝は忌々しげに言うと、優磨は声をあげて笑った。
「そいつは災難だったな。でも、良かったな。ギリギリに間に合ってよ。後、一分でも遅れてたら、女王から見限られてたぞ」
「その方が気楽で良いけどね」
「バカ。今の内女王の機嫌を取っておけば、出世した時にチャンスだぞ」
「そんなゴマ擦ってまで出世したいって思ってないよ」
「せっかく大企業に入ったんだ。出世した方が美味しい思いが出来るぞ」
諏訪はニヤリと笑った。
正孝達が勤める会社は上場の化粧品会社だった。会社の名前は美星堂。色々な化粧商品を発売していて、国内シェアはトップを誇る一流メーカーだ。特に美星堂が誇るスターリップシリーズは品質の良さとブランド力で圧倒的支持を誇っている。正孝はそのリップシリーズやあらゆる新商品を生み出す製品開発部に配属されている。製品開発部は第一から第三まであり、正孝は第一製品開発部に所属していた。製品開発部は美星堂の中核を担う部署なので他部署より出世の芽が出やすいのは確かだった。優磨のように出世欲の強い人間はこの部署にはかなり多い。事実、現社長である松山礼治はこの製品開発部出身だった。松山はスターリップシリーズの生みの親である。
そんな事もあり他部署より出世競争が激しい部署ではあるが、正孝のような出世欲とは無縁の人間も存在する。正孝と優磨が仲良く出来るのも、二人の仕事に対する姿勢が反対だからなのもあるのだろう。正孝は優磨のような出世欲は皆無で、給料が貰え夏と冬のボーナスがあれば不満はないタイプだった。仕事に手を抜くことはないが、だからと言って、他人より上に行こうと言う気概もないのも事実だった。
「今でも十分だよ」
正孝がそう言うと、優磨は肩をすくめて自分のデスクへと戻っていた。
「楠木君」
今しがた会議室から出てきたえりかから声がかかった。
「あ、はい。何でしょうか?」
「ちょっと来て」
「はい」
正孝は説教を食らうんだろうなと確信しながら、えりかの後を首を低くしながらついていった。
副部長にもなると個室のデスクが与えられる。全面ガラス張りになっているので、フロアからも何が起こっているのかは一目瞭然だった。ただ、周りから見られたくない場合の時の為にブラインドが取り付けられている。えりかは誰かと話すと時はブラインドを必ず降ろすことにしている。
「座って」
えりかは自分が座ると正孝を促した。
「はい。失礼します」
キャスター付きのイスだった。しかし、自分が座っている物より遥かに座り心地が良かった。
「会議自体には間に合って良かったわ。でも、準備に遅れたことは反省しなさい。次回からは気を付けるように」
机の上の書類を整えながら、えりかは厳しい口調で言った。
「・・・・・・はい。申し訳ございませんでした」
正孝は頭を下げた。
「楠木君の代わりは安斉さんがやってくれたから、後できちんとお礼を言っておくこと」
「はい。分かりました」
「うん。さて、この件はもういいわ。本題はここからよ」
正孝は拍子抜けた顔をした。てっきりもっと絞られると思っていたからだ。
「1ヶ月前、私が皆に新商品に対する寸評を出すように言って、提出してくれたものを昨日で全部見終わったんだけど、楠木君。あなたの寸評はとても良かったわ」
「本当ですか?」
「ええ。思わず唸った箇所もあったわ。あなたのお陰で新商品もまた一つグレードアップ出来そうよ」
「それは良かったです」
思ってもない話しに正孝は少し興奮した。
「あなたの意見を取り入れて改良するから、その新商品を来週末に発表する会議があるからそれに出てほしいんだけど、どうかしら?」
「僕が出て良いんですか?」
正孝は驚いた。その会議は言わば新商品の発売の承認を得るかボツになるかを決める極めて重要な会議だった。入社2年目の若造が参加など聞いたことなどない。
「楠木君のお陰で会議を通る自信がついたのよ。どうせなら、上にアピールしておきたいじゃない。その方が楠木君にとっても将来的にもプラスなるわよ」
えりかが周りから信頼を得ているのは、こうして部下の手柄をきちんと本人の手柄として扱えるところだ。卑しい上司なら、さも自分が考えたと言って手柄を横取りするはずだ。
「本当によろしいんですか?」
「ええ。もちろん、強制じゃないから、嫌なら断って良いわよ」
えりかは正孝の目を真っ直ぐに見据えた。正孝は思わずドキドキしてしまった。
「一旦、持ち帰ってもいいですか?」
「分かったわ。明日までに返事をちょうだい」
「分かりました」
「話しは以上よ。戻っていいわ」
「失礼します」
正孝は立ち上がって一礼した。そのままデスクを出ようとするとえりかから待ったの声がかかった。政孝は立ったままえりかと向き合った。
「明日の木更津の表敬訪問の件なんだけど」
表敬訪問とは月一で行われる自社工場への訪問することを指す。先代社長から続く風習で、現場を大切に出来ない会社に未来は無いだと言うのが美星堂のモットーである。なので、毎月15日は社を代表して商品開発部の人間が持ち回りで、木更津にある工場に訪問をする。ちなみに、今回は正孝に順番が回っていた。正孝にとっては初めての訪問となる。正孝はこの日を待ちに待っていた。何故なら、その表敬訪問に一緒に行くのが、目の前にいるえりかだからだ。
「明日の9時に東京駅に集合ね」
「はい。分かりました。よろしくお願いします」
「うん。よろしく。今度こそ話しは以上よ」
えりかは
正孝は一礼をしてえりかのデスクから退室した。そして、そのまま安西瑠美のデスクへと向かった。
「安西さん」
「はい?」
安西瑠美は入社11年目の女性の先輩だった。誰に対しても平等な優しさと少しふくよかな顔立ちから、尊敬の意味を込めて裏では安西御前と呼ばれている。色んな部署を歩き回ってきたこともあり、他部署にも顔が利き、色んな情報を仕入れてくる。その情報収集能力は社内一と言われている。ちなみに、瑠美はえりかのことが大のお気に入りで、その情報収集能力を駆使してえりかを陰ながらサポートしてきた。えりかが今の地位にいれるのも安西瑠美のお陰でもあった。
「僕が寝坊したせいでとんだご迷惑をお掛けしました。僕の代わりに準備をしてもらってありがとうございました。今後はこのようなことが無いように気を付けます」
今度は安西瑠美に頭を下げた。
「あーいいのよー。気にしないで。えりかちゃんにこってり絞られた?」
安西瑠美が笑いながら聞いてきた。
「それはもう」
政孝は苦笑いを浮かべた。
「えりかちゃんの皮肉はあまり気にしちゃダメよ」
どうやら、自分が何て言われたのかは既に広まってるようだ。
「大丈夫です」
「そう言えば、来週末の会議に出るんだって?」
もう知っているのかと正孝は思った。さすが社内一の情報通は伊達ではない。
「出るかどうかはまだ決めてないんですけど」
「そうなの?きっと良い経験になると思うけど」
「そうですよねぇ」
「楠木君の気持ち次第だからね。しっかりと考えてね」
「はい。ありがとうございます」
正孝は安西瑠美のデスクから離れた。
午前業務を終えて昼休みになった。正孝は優磨と会社近くの蕎麦屋へと向かった。
「おい、ついに明日の表敬訪問だな。緊張で寝れなくて遅刻すんなよ」
「しないよ。目覚ましを二つセットしておく」
「良いなぁ、仕事とはいえあの永瀬さんと二人きりでドライブだもんな」
優磨は心底羨ましそうな声を出した。
「仕事なんだから、デート気分も無いだろ」
そうは言うものの、明日が待ち遠しい気持ちになっている自分がいた。
「ま、楽しんでこいよ」
優磨は蕎麦を勢いよく啜った。
翌日。午前9時。正孝は会社から運転してきた社用車を東京駅近に停めた。車に気付いたえりかが近寄ってきた。正孝は助手席の窓を下ろした。
「お待たせしました」
えりかは今日も完璧にスーツを着こなしていた。デートでは無いが、えりかと待ち合わせしたと言う事実が否応なしに気分を舞い上がらせてくれた。
えりかは後部座席のドアを開けて乗り込んだ。
「今日は時間通りね」
えりかはシートベルをしながら、いきなり嫌味を放った。これがえりか以外ならムッとしただろうが、相手がえりかだど、何故かコミュニケーションを図ってくれたみたいで嬉しくなってしまう。
「昨日会社から帰った後に、目覚まし時計を二つ買いました」
その言葉にえりかは小さく笑った。
「無駄にならなくて良かったわね。さ、出発して」
えりかに言われてエンジンをかけた。
車の中でお互い無言だった。バックミラー越しにえりかの様子を探ったが、えりかはパソコンを開いて、ひたすら仕事に打ち込んでいた。正孝は少しつまらないと思ったが、遊びではないと言い聞かせて運転に集中した。
あまりにも無言の状態が続いているので、何か話しかけた方が良いのかと思ったりしてしまう。ただ、何を話せば良いのか分からない。あまりくだらない話題を振っても相手にされないだろうと勝手に思っていた。
えりかが一息ついたのが分かった。正孝はそのタイミングを狙って話しを振った。
「先輩」
えりかは部下に自分のことを副部長と呼ばせない。肩書きで呼ばれるのが嫌いらしかった。なので、えりかより後輩は皆えりかのことを先輩と呼んでいる。
「なに?」
「会議の件なんですが、今回は見送らせてもらってもよろしいでしょうか?」
バックミラー越しにえりかと目があった。正孝は思わずドキドキしてしまった。
「・・・・・・そう。分かったわ」
少し残念そうな声だった。
「すみません」
「気にしないで。でも、会議では楠木君の名前は出すわ」
「ありがとうございます」
「そう言えば、表敬訪問は初めて?」
「はい。初めてです」
「私達が考えた商品がどんな風に出来上がり、それを作る人達がどんな思いで作ってくれてるのかよく聞いてね」
「はい」
正孝は強く頷いた。そのタイミングでえりかのスマートフォンが鳴った。会話はそこで終わりを迎え、えりかは再び仕事に没頭することになった。
木更津の工場に着いたえりか達は関係者入り口から、応接室へと案内された。10分程待つと工場長である築敏史がやってきた。築は精悍と言う言葉がピタリとハマる人物だった。顔は浅黒く目付きは鋭い。腕には名誉の負傷と言える生傷が多数ついていた。50歳とは思えないほどの活力が身体中から漲ってるのが分かる。美星堂に勤めて30年。本来なら本社で役員の地位にいてもおかしくない程の人物だが、本人は一貫して工場志望を貫き、それを理解する本社も役員にあげることはない。肩書きは工場長だが、報酬は役員クラスの報酬を得ている。この男が居なければ美星堂は成り立たないと言われる程の存在だった。正孝はその全身から放たれるオーラに少し怯んでしまった。
「おーえりかちゃん。久しぶりやなぁ」
風貌から到底想像できない軽い口調で築が言った。
「築さん。お久し振りです」
えりかは立ち上がり頭を下げた。正孝も急いでそれに倣った。
「ええて。そんな固くらんでも。隣の兄ちゃんは初めてやんなぁ」
「初めまして。楠木正孝です。よろしくお願いします」
声が上ずってしまった。
「はいはい。よろしくよって」
築は右手をあげた。
「これをどうぞ」
えりかはソファの脇に置いていた紙袋を差し出した。
「毎度毎度、ありがとうなぁ。えりかちゃんだけの訪問だけも十分やってのに」
「ありがとうございます」
「えりかちゃんが来るから、工場の奴等もソワソワしてるちゅうに。いつの時代も男は別嬪には弱いってことやなぁ」
築は豪快に笑った。
「相変わらず、人を持ち上げるのがお上手ですね」
えりかは優雅な微笑みながらいった。
「いやいや、えりかちゃんはほんまもんの美人やて思ってるで」
「身に余るお言葉です」
「位が上がっても謙虚な所は一切変わらへんな。ええことや。ところで、隣の兄ちゃんは入社して何年目や?」
突如、話しを振られた正孝は少し肩を震わせた。
「今年で二年目です」
「仕事には馴れたか?」
「少しずつですが」
「そかそか。それでええ。何事も少しずつや。美星堂もそやって大きくなったんからな」
築はどこか懐かしそうな表情になった。
「肝に銘じます」
正孝は引き締めた表情で答えた。
「こうして一緒に訪問に来るってことは、楠木君はえりかちゃんの部下なんか?」
「はい」
「いつも尻叩かれてるやろ?」
築はニヤリと笑った。
「ま、まぁ」
「えりかちゃんあんまいじめといてな」
「いじめてなんかいませんよ。将来のための教育です」
「こらアカンわ。楠木君はよ部署を異動した方が身のためやで」
築の冗談に三人で笑いあった。
それから三人は一時間ほど談笑した。時折、お茶を持ってくる工場員が毎度えりかのことを熱い視線で見つめることに気付いた。どうやら、えりかの評判はこの工場にまで届いてるようだ。
「全く。あいつら同じような眼差しでえりかちゃんを見つめおって。気を悪くせんといてなぁ」
「いえいえ。気にしておりませんので」
「ところで、恋人はまだおらんのか?」
えりかの恋愛話しになったので、正孝の胸の鼓動が早くなった。
「縁に恵まれなくて」
えりかは薄く微笑んだ。
「そうかぁ。しかし、勿体ない。えりかちゃん程の器量ならいくらでも出来ると思ってるんやけどな」
「こればかりはタイミングもありますから」
「あまり追求するとセクハラとも言われかねへんから、嫌やったら答えなくてもええけど、気になってる人とかおらんのか?」
一瞬、えりかの顔に翳りが見えたような気がした。しかし、正孝が瞬きしてる間にえりかの表情は元に戻っていた。
「いたら、猛アタックしてますよ。結婚してもおかしくない年頃ですし」
「さよか。えりかちゃんの猛アタックを受ける男が羨ましいなぁ。なぁ楠木君」
「そ、そうですね」
「まぁ俺が心配してもしゃあないわな。つまらんこと聞いてすまんかったな」
「いえ、お気遣いありがとうございます」
「さてと、工場回るか。奴等もえりかちゃんに会いたくて仕方ないやろうしな」
そう言うと、築は膝に手をついて立ち上がった。正孝とえりかも立ち上がり築に続いて応接室を出た。
工場の男性工員は感情が素直だった。全員が全員ではないがえりかが通る度に手が止まり熱い視線を送っていた。そして、隣を歩いてる正孝には冷たい目線を。えりかはそんな視線を気にも止めず、工員達に笑顔で接していた。工場を一周して、二人は辞去の意を示した。
「またいつでも来たらええ」
「はい。今日はお忙しい中お邪魔しました」
えりかと正孝は頭を下げた。
「こちらこそ、毎度足を運んでもらっておおきに」
「また会える日を楽しみにしてます」
「こっちもや。それと楠木君」
「はい」
「大変やと思うけど、えりかちゃんに付いていけば間違いないで。そう思うて気張れや」
「ありがとうございます。今日は築さんにお会いできて良かったです」
正孝はもう一度頭を下げた。築は小さく笑い、正孝の肩を叩いた。
それから正孝達は車に乗り込み、工場を後にした。
「楠木君」
「はい」
正孝は今度は助手席に座っているえりかを横目で見た。
「どうだった?」
「来られて良かったです。まさか築さんがあんなに素敵な人物だとは想像もしていませんでした」
正孝は素直に感想を漏らした。
「そうでしょう。私も築さんと話してると元気をもらえるわ。もっともっと会社のために出来ることをしなくちゃって」
正孝は何故えりかが可能な限り表敬訪問に出向くのか分かった。築さんに会うためだろう。まさかえりかは築さんのことが好きなのかと一瞬疑ったが、年が20以上もも離れてる相手に恋をするとは考えにくかった。それに、築に気になる人を質問をされた時に見せたえりかの表情がずっと気になっていた。誰か気になる人がいるのか聞きたいような聞きたくないような複雑な心境だった。
「あ、そうだ。今日は私は直帰だから、東京駅で降ろしてくれる?」
「あ、はい。分かりました。何か予定があるんですか?」
「そうよ」
えりかはそれだけしか言わなかった。正孝はそれ以上聞いていいのか迷った。
「そうなんですね」
迷った挙げ句、追及しないことにした。それからはまた無言のドライブが始まった。話しが弾まないのは仕方ない事とは言え、正孝はどこかでやるせない気持ちになった。
一時間後、東京駅に着いた。
「今日は運転ありがとう。お疲れ様」
えりかがシートベルトをはずした。
「いえ、先輩こそお疲れ様です」
「会社に車を返したら、楠木君も帰っていいからね」
「はい。でも、刺激を受けたせいか仕事をしたい気分です」
正孝は少し照れながら答えた。実際、このまま帰るような気分では無かった。
「そう。頑張ってね」
えりかは口元を緩めた。
「ありがとうございます」
えりかの優しい表情に正孝の胸が熱くなった。
「じゃぁ、また明日ね」
えりかはそう言って車を降りて助手席のドアを閉めた。
「はい。お疲れ様でした」
正隆はすぐには発進させず、えりかの姿が見えなくなるまで待つことにした。えりかは数十メートル先の信号を渡り、そのまま人混みに紛れ込んだ。えりかの姿が見えなくなると、正孝は車を発進させた。
「ただいまー」
自宅に戻ったえりかはパンプスを脱いでリビングへと向かった。
「姉ちゃんお帰り」
リビングのソファで洸太がゲームをしていた。
えりかの自宅は千葉県の津田沼にあった。副部長に昇格したのと同時に引っ越してきたのだ。そこで父親の啓太と弟の洸太と三人で暮らしている。一人暮らしをしないのは、小さい頃に母親を亡くしてしまっているので、えりかがこの家族の実質母親だからだ。洸太は15歳を迎え、受験を控えていた。
「今日、早いじゃん」
洸太が言った。
「今日は外回りだけだったからね」
「なつ姉は元気にしてた?」
なつ姉とはえりかの高校時代からの友人である河口夏音のことだ。大学時代に芸能界に飛び込んだ夏音は今や押しも押されぬ人気女優になっていた。
「うん。相変わらず天然なのは変わらないけどね」
「それが良いんじゃん」
洸太は笑いながら言った。
「あ、そうだ。涼兄から姉ちゃん宛に手紙届いてたよ」
「ほんと!」
えりかのテンションが一気に上がった。
「そこに置いてあるから」
洸太はテーブルを指差しゲームに集中し始めた。
リビングのテーブルの上に一通の封筒が置いてあった。えりかはそれを取り部屋に戻って開封した。そこに書かれていた内容はえりかをとても喜ばせる内容だった。その内容は涼一が日本に帰国してくると言うものだった。えりかは早くも涼一に会いたくて仕方なくなった。かれこれ三年は会っていない。最後に直接会ったのは、夏音達とアメリカに旅行に行って会った時だった。本来は毎年会っていたのだが、ここ数年は涼一とえりかが多忙なのと、新型ウイルスの影響で簡単には会うことは出来なかったのだから。ただ今の時代はアメリカと日本にいてもネットを通じれば簡単に話すことが出来る。なので、インスタなどで画面越しにやり取りはたまにしていた。それでも、直接会える嬉しさに勝るものはない。えりかの心が舞い上がるのも当然だった。すぐさまこのビックニュースを洸太にも教えてあげた。洸太も飛び切り嬉しそうな表情を見せた。それもそのはずである。小さい頃から可愛がってもらった涼一は洸太にとって実の兄のような存在であった。洸太もまたネットを通じて涼一から勉強を教わったりしていた。その影響で洸太も勉強が出来る。手紙によると帰国は一週間後となっている。休日をもらってまでも空港まで出迎えたいと思ったが、それは夏音の役目だと思い自重することにした。それでも、えりかは一週間後が待ち遠しくなった。
「なぁ楠木」
社員食堂で一緒にお昼を食べていた諏訪が不意に話しかけてきた。
「なんだ?」
「最近の永瀬さん、何か変わった感じしないか?」
諏訪が少し眉を潜めて言った。そして、その視線の先にはえりかを捉えていた。
正孝は同意するように小さくうなずいた。かくゆう、正孝もそう感じていた。えりかの態度が一週間前から妙に明るいと言うか、表情が柔らかくなっているような気がする。お得意の皮肉もあまり聞こえてこない。
「一部では男でも出来たんじゃないかって」
「まぁ、永瀬さんならいくらでも出来るだろ」
口調は冷静だが、内心は動揺でいっぱいだった。自分では釣り合わないと分かっていても、憧れの相手に男が出来たと聞いて心に波風が立たない訳がない。
「でも、どうやらそうじゃないみたいなんだよな」
「何だよそれ」
「安西さんが言うには、特に男が出来たとかそうゆうことじゃないみたいだぜ」
だったら、男が出来たかもしれない話しは要らないだろと思ったが、口には出さなかった。
「安西さんが知らないだけかもしれないだろ」
「いや、周囲が浮き足だってるから、安西さん直接聞いてみたそうだ。でも、笑って違うって否定されたんだって」
それを聞いて安堵してる自分がいた。
「隠してるってことはないのか?」
「あんなにもろに態度に出てるのに、否定する意味がないだろ。だから、本当に男が出来たわけではなさそうってのが安西さんの話しだ」
「じゃぁ、機嫌が良いのは俺達の思い過ごしか?」
「いや、それは当たってるみたいだ」
「ますます分からないな」
「旧友が帰ってくるそうだぜ」
「旧友?」
「ああ。何でも高校時代からの友人だって。その友人は高校卒業と同時にアメリカに留学してたみたいで、今月に日本に帰国してくるそうだぜ」
「じゃぁなんだ、その友人が日本に帰ってくるから、機嫌が良いってことか?」
「そうみたいだな」
「全く。誰だよ男が出来たなんて言い始めたやつは」
「俺だよ」
「んなことだと思ったよ」
「でも、良かったな。まだまだチャンスはあるってことだぜ。頑張れよ」
正孝は飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。
「な、何を言い出すんだよ」
「しらばっくれるなって。お前が永瀬さんに想いを寄せてるのは知ってるぜ」
「お、おい、あんまり大声で言うなよ」
正孝は内心ヒヤヒヤしながら言った。今のがえりかの耳に入れば、間違いなく冷笑を浴びることだろう。
「告白するつもりねぇの?」
「あるわけ無いだろ」
正孝は呆れながら言った。
「そうか。でも、競争率はめちゃくちゃ高いんだから、あんまりウダウダしてると知らぬ間に鷹に拐われちまうぞ」
「どうぞ勝手にしてくれよ。どうせ俺には手の届かない高嶺の花なんだから」
正孝は重い溜め息をついた。
終業を告げるチャイムが鳴り、各自が帰る支度を整えている。何気なく、えりかのデスクに目をやった。珍しいことにえりかも帰る支度をしていた。いつもなら終業タイムが鳴ってもパソコンに向かっていることが多いのに。
「お疲れ様」
自室から出てきたえりかが皆に挨拶をしながら、どこかウキウキした様子でフロアを去っていった。その様子を一緒に見ていた諏訪と目が合った。優磨は少し首を傾げて、えりかの様子がやはりおかしいことを示唆した。そんな優磨と一緒に会社を出た。会社を出てすぐ目の前にある噴水の所にポツンと背の高い男性が一人立っていた。正孝はこんな所で何をしているのだろうと怪しんだ。正孝はその男の顔を見た。素晴らしく整った顔立ちをしていて驚いた。まるで、モデルか俳優かと思えるくらいに整っていた。その男は正孝達や通りすぎる時にジロジロ見る女性社員には一瞥もくれずにただ正孝達が出てきた会社の入り口を見据えていた。この会社の誰かを待っているのだろうか。そう思った瞬間、後ろから聞き慣れた声が聞こえた。
「立花君!」
正孝が振り返った。その声の主はえりかだった。えりかは正孝が見たこともない華やいだ表情を見せていた。
「永瀬」
立花君と呼ばれた男が名前を呼びながら手を上げた。えりかは少し小走りにその男の元へ駆け寄った。
「久しぶり。元気だった?」
「ああ。永瀬も元気そうだな」
「うん」
「そこにいる二人は永瀬の知り合いか?」
涼一が正孝達に目を向けた。すると、えりかも向けた。正孝達は少し気まずそうに立ち去った。
「ええ。二人とも私の後輩よ」
「そうか。やけに俺のことを気にしていたから、もしかしたら俺の事を不審者かと思っていたのかもしれないな」
「いい大人がこんな所で一人で突っ立っていたら、怪しまれても仕方ないわね」
えりかが笑いながら言った。
「確かにな」
「それよりも、どうしてここに来てくれたの?夏音は?」
「夏音はまだ撮影中だ。だから、先に永瀬を迎えに来た」
「来てくれなくてもお店で待ってたのに」
「最初はそう思ったんだけど、早く永瀬にも会いたかったからな」
「もう調子良いことばかり言って」
それでもえりかは嬉しそうに笑った。
「行こう。近くに車は止めてあるから。夏音を迎えに行かないと」
「うん」
短い間でも涼一と二人でドライブが出来ることにえりかの胸は弾む。
その頃、正孝は一人駅で悶々としながら、電車の到着を待っていた。悶々としている理由はただ一つ。えりかを待っていた男のことだった。あの男がえりかの学生時代の友人であることに後で気づいた。まさか男の友人だとは微塵も思っていなかった。それに何より、えりかの見たこともない華やいだ顔が頭から離れなかった。よく言われる女の顔をと言うものがあまりよく分かっていなかった正孝だが、どうゆうことなのか初めて理解出来たような気がした。えりかのその顔が正孝の嫉妬に拍車をかけた。決して、自分には見せてくれない表情。えりかはあの男の事が好きなのだろうか。あの後、どこへ行ったのだろう。彼の家にでも行ったりするのだろうか。一度考え出した都合の悪い未来が正孝の心を掻き乱していく。
自宅に着き、スーツのままベッドに倒れ込んだ。目を瞑れば先程のえりかの顔が鮮明に甦る。今も沸き上がってくる嫉妬心を抑えることが出来ない。あんなイケメンと自分とでは勝負にならないこともまた悔しくなった。高嶺の花に身の程知らずの恋をしていた自分が情けなくなってきた。映画やドラマみたいに凡人にチャンスは無く、結局は美人にはそれ相応の相手がいるのが現実だ。
その時、ぴょんとベッドの上にアッシュが乗ってきた。そして、頭をスリスリと自分の体に擦り付ける。正孝はアッシュを撫でた。
「アッシュ。お前だけだよ。俺の癒しは」
アッシュは甘えた鳴き声を出した。正孝は少しだけ元気が出た。
翌日。珍しく深酒をした正孝は少しの頭痛を覚えながら目を覚ました。今日が休みでよかったと心底思った。最も、休みだから深酒をしたわけだが。もう一眠りしようかと思ったが、どうやら目は完全に目を覚ましてしまったらしい。正孝は仕方なくベッドから起きて酒を抜くためにシャワーを浴びた。シャワーを浴びながら、何か忘れている事があるような気がした。そして、あっと声を出した。そういえば、行こうと思っていた美術展の招待券があることを思い出した。場所は上野にある国立西洋美術館だ。一瞬、めんどくさい虫が湧いたが、無料のチケットもあることだし、気晴らしに行くことにした。シャワーを出て適当な服に着替える。これが先輩とのデートだったら、もっと気合いを入れた格好をするんだろうと思った。と言っても、オシャレにはそこまで関心がないので、似たり寄ったりの服しか持ってないから、気合いを入れてもあまり変わらないのだが。
出掛ける準備を整えた正孝は外へ出た。季節はすっかり春になっている。柔らかな日差しが全身を包み込む。正孝は新鮮な気持ちになった。耳につけたワイヤレスイヤホンからback numberの高嶺の花子さんが流れてきた。夏など関係なく上野で永瀬さんと会うことはないだろうか。そんなバカなことを考えた自分を嘲笑い駅へと向かった。
上野は桜が綺麗に咲き誇っていた。まだ満開では無いが、それでも美しいと思わざるを得なかった。何度見たって桜の美しさは変わらない。正孝はすぐには美術館には向かわず桜並木を散歩することにした。WALKMANをいじり曲をコブクロの桜に設定した。美しい旋律と景色が調和し、正孝は言い様のない感動を胸に覚えた。歌詞の中に届かぬ想いがまた一つと出てきた。正に今の正孝の気持ちを表していた。えりかの華やいだ表情が頭に甦る。同時に正孝の胸に痛みが走る。正孝は少し立ち尽くし記憶を振り払うように頭を左右に振った。そして、Uターンして美しい桜並木を抜け国立西洋美術館へと向かった。
土曜日と言うこともあり国立西洋美術館は大混雑していた。ただいくら土曜日と言っても尋常では無かった。チケットを買う人の列が100メートル程続いていた。何故こんなにも大混雑してるのか。それは今回の国立西洋美術館テーマが大きく関係している。今回国立西洋美術館が掲げたテーマは世界の美術館展と言うものだった。一見、ありきたりなテーマに思えるが、今回のテーマではVRを使っている事が大きな話題を読んでいた。館内に入り別料金を払うとVRで世界中の美術館へと旅することが出来る。フランスのルーブル美術館はもちろん国立西洋美術館の学芸員の人が厳選した世界の美しい美術館をあたかもその場に行ったかのように体験出来るというものだった。チケット代とは別料金を払うにも関わらずそのクオリティの高さに誰もが度肝を抜かれると言う評価をを受けて日本中から客が殺到している。
正孝は美術館や博物館といった類いのものがが好きなので、開催当初から行ってみたいと思っていた。そこへ父親がたまたま懸賞で招待券を当てたらしく、それを正孝に送ってくれたのだ。しかし、この人数ではもしかしたら人数制限で入れない可能性もあるかもしれないと思った。
その時、係のの人がハンドスピーカーでこのように触れ回った。
「招待券をお持ちの方は優先的にご案内致しますので、係の者にお申し付けください!」
正孝はラッキーと思った。正直、せっかくの休日に一時間以上も並ぶなんて馬鹿げていると思っていたからだ。正孝はハンドスピーカーを持っている男性の係員の方に近付き招待券を見せた。男性の係員は笑顔でありがとうございますと言い、正孝を招待券専用の入り口まで案内してくれた。
「チケットを拝見致します」
大学生と思われる女性のモギリに招待券を見せる。特に笑顔をも無く淡々と返された。恐らく、朝からずっとちぎり過ぎて疲れているのだろうと思った。
VR体験の所で30分程待たされ、ようやく正孝の順番になった。VRは正に圧巻の映像だった。噂に違わぬクオリティで、あたかも通りその場所にいる感覚に陥った。約10分程の映像にも関わらず終わった後は全身を包み込む興奮と感動が途切れぬ波のように押し寄せてきた。確かにこれは一時間並んでも観る価値があると思った。せっかくの久し振りの美術館なので、すぐに帰るのもつまらないと思った正孝は常設展を回ることにした。
常設展を回って20分程経った頃だろうか、とある展示の前に見たことある後ろ姿を目にした。その後ろ姿を見て正孝の胸が高鳴った。まさかあの人は・・・・・・
正孝は唾を飲み込みゆっくり近付いた。もし人違いだったらと思い、一旦足を止めた。すると、その人が横を向いた。正孝はその横顔を見て誰であるか確信した。正孝は今度は少し急ぎ足で再度近付いた。
「先輩」
声をかけられたえりかは肩をビクッと震わせ声の主の方に振り向いた。元から大きい瞳が更に大きく見開いている。
「楠木君・・・・・・」
「こんにちは」
正孝は軽く頭を下げた。
「どうしてここにいるの?」
えりかが聞いた。
正孝は父親から招待状を貰ったことを話した。
「へえー。お父さんからのプレゼントでね。とても良いお父さんね」
「はい。先輩こそどうしてここにいらしたんですか?」
「ここにきたのは気紛れなの。目的は上野に来ることだったから」
「そうでしたか。でも、まさかこんな場所で先輩と会えるなんて思ってもみませんでした」
「わたしもよ。こんな偶然もあるのね。せっかくだし、一緒に回ろっか」
えりかは微笑んでみせた。
「ぼ、僕なんかが一緒に回ってよろしいんですか?」
よもやえりかから誘ってくれるとは思ってもなかった。
「なんかって自分を下げすぎよ。良いから誘ってるに決まってるでしょ」
「よ、喜んで」
えりかの方から一緒にと申し出てきてくれたことに正孝の気持ちは有頂天に達した。まさかこんな奇跡が起こるなんて。それから二人は美術館を出ると、近くのスタバにに寄った。正孝はキャラメルマキアートを頼み、えりかはほうじ茶ラテを頼んだ。えりかはこのほうじ茶ラテが大好物だと話した。
「あのVR凄かったわよね」
えりかは少し興奮気味にいった。
「はい。想像以上のクオリティでした。あれだけ行列が出来るのも分かります」
「そうね。私もわざわざ一時間以上並んで見たけど、並んで良かったって思ったわ。まるで、大学時代に戻ったかのようだった」
えりかは懐かしむように窓の外に目を向けた。
「先輩は旅行好きだったんですね」
「ええ、そうよ。それこそ大学時代は時間の許す限り旅行に行ったわ。10ヵ国は行ったかしら」
正孝はえりかの知らなかった一面を覗けたことが嬉しくなった。会社でも雑談することはあるが、上司と言うこともあり、あまり立ち入ったことは聞いたことがない。
「楠木君も旅好きなの?」
「もちろん好きですが、美術館や博物館と言ったものが好きなんです」
「へぇ、そうなんだ。言われてみれば、確かに好きそうね」
「よく言われます。学芸員とかに居そうだなとかって」
「あははは。確かに。ある意味イメージとピッタリかも。とても感じの良い学芸員って感じするわ」
「永瀬さんはよく上野に来るんですか?」
「ううん。今日は本当にたまたまよ」
「そうなんですか。どうしてまた、今日は上野にきたんですか?」
正孝は何気なく質問した。すると、えりかの顔が少し寂しそうに変化した。
「上野は思い出の場所だから」
「思い出の場所?」
「そうよ。私にとって上野は初恋の人の思い出の場所なの」
予想外のえりかの発言に正孝はえりかをじっと見つめたまま黙ってしまった。
「ここもそうよ」
「ここもとは?」
「その相手と博物館に行った後、このカフェでコーヒーを買って外のベンチで並んで飲んだわ」
「そ、そうなんですね」
正孝の気持ちは一気に落ち込んでいった。
「本当はあまり来たくはなかったんだけど、昨日のこともあったし、つい気持ちが高校時代に戻ったみたいね」
「昨日のことって・・・・・・まさかあの男性が関係してるんですか?」
正孝は反射的に昨日の帰り際のシーンを思い出した。
「そうよ。別に隠すことじゃないから言うけど、昨日の彼が私の初恋の人よ」
正孝は更なる衝撃を受けた。それと同時に、昨日えりかがその男に見せていた華やいだ顔も納得いった。
「あの人が・・・・・・」
正孝は一人でに呟いていた。
「楠木君?」
「あ、は、はい」
「どうかしたの?」
「い、いえ。何でもありません」
「彼が何か気になるの?」
えりかが鋭く指摘してきた。正孝はシラを切ろうか迷ったが、素直に白状した。
「まぁ、その何て言うか、永瀬さんとどうゆう関係かなと思いまして。特に深い意味はないんですが」
「ああ。何だそんなこと。彼・・・・・・名前は立花涼一って言うんだけど、立花君とはただの友人関係よ」
立花涼一と言う名前にどこか聞き覚えがあると正孝は思った。気のせいだろうか。
「それだけなんですか?」
「それだけって?」
「こうお付き合いしたりとか・・・・・・」
聞きたくないことだが、本人の口から言われるならば諦めがつくと思えた。すると、えりかは意外なことを言った。
「お付き合いね。まぁ確かに高校時代はしたかったわよ。けど、無理よ」
「どうしてですか?」
「だって、立花君にはずっと付き合ってる恋人いるものが」
「え?」
正孝の目が点になった。
「それも楠木君も恐らく知ってる相手よ」
「僕も?」
正孝はえりかの言ってることが分からなかった。その立花涼一と言う人と関わったこともないし、知り合いの女性で立花と言う人と付き合ってる女性もいない。
「知ってるって言っても、楠木君の知り合いとかじゃないわ。ただ、名前だけなら多くの日本男子が知ってるんじゃないかな?」
えりかの言い回しにピンと来るものがあった。
「それって芸能人ってことですか?」
「察しが良いわね。その通りよ」
確かに、あの顔面偏差値の高さなら、芸能人と釣り合ってもおかしくはないと思えた。
「ちなみに、相手は誰ですか?」
えりかは悩ましげな顔をした。
「うーん、あまり言いたくないのよね。でも、まぁ楠木君ならいっか」
「そんなに凄い相手なんですか?」
「ええ。きっと驚くわ。相手は河口夏音よ」
「えっ!」
正孝は思わず大きな声を出してしまった。周りの数人が正孝達の方に顔を向けた。正孝はバツ悪そうに首をすくめた。
「ほ、本当にあの河口夏音なんですか?」
正孝は少し声を抑えた。
「あの河口夏音よ。今をときめく女優の」
正孝は唖然としてしまった。河口夏音。正孝達の年代でその名を知らぬ人間は少ないだろう。大学在学中にデビューし、六年前の朝ドラで一気にブレイクを果たした女優だった。愛らしいルックスとおっとりした性格で男子のみならず女子からもに多大に支持されている。二年前に熱愛報道が大々的に報じられたのも覚えている。国民的人気女優の熱愛報道と言うこともあり、世の男性からは悲鳴が上がった。
「驚いたでしょ?」
「ええ、そりゃもう」
「立花君と夏音は幼馴染みでね。小さい頃から美男美女で評判の二人だったそうよ」
そう言えば、河口夏音の恋人が幼馴染みだったことを思い出した。それしても、凄い幼馴染みだなと思った。
「と言うことは、永瀬さんは河口夏音さんと友人ってことですか?」
「そうよ。だけど、あまり知られたくないの。だから、秘密にしておいてくれるかな」
なぜ知られたくないのかは分かる。もし、周囲に知られたら、えりかを介して河口夏音に会わせてくれと言う人間も出てくるだろう。それが上であれば上であるほど、断るのに無駄な苦労があるかもしれない。
「分かりました。この事は誰にも言いません」
「ありがとう」
「あの、一つ聞いても良いですか?」
正孝は遠慮がちに聞いた。
「ん?なに?」
「昨日、立花さんと会ってここに来たってことは、立花さんとここに来たことがあるってことですか?」
「そうよ。最初で最後の好きな人とのデートがここだったの。まぁ、その時は幼い弟も一緒だったから、デートなのかは微妙な所ね」
正孝は聞いても良いのか迷ったが、思い切って聞くことにした。
「・・・・・・今でも立花さんのことは好きなんですか?」
えりかは足を組み換えた。どう答えるべきなのか、迷っているように見えた。
「そうねぇ。好きと言われれば好きよ。だからと言って、二人の間を邪魔しようなんてことはないわ。あの二人の間には入れないって高校時代に悟ったから」
「他に好きな人は出来なかったんですか?」
「もちろん、大学時代に探したわよ。それこそ勘違い恋ってものも経験したわ。けど、私の気持ちはいつもUターンして立花君に戻ってたわ」
えりかはすっかり冷めたコーヒーを啜った。
「一途なんですね」
「こじらせてるだけよ。今もなお私が想ってるなんて、立花君に知られたらそれこそ迷惑でしかないわ」
「そんなことは・・・・・・」
正孝はそれ以上どう言えばいいのか分からなくなってしまった。
「私も本当にいい加減に前に進まないといけないのに」
えりかが自嘲気味に言った。
その言葉を聞いて正孝はこんなことを思った。えりかが前に進んだとして、その隣に立っているのは果たしてどんな男なのだろう。きっと、その初恋の相手のようにイケメンで優秀な男だろう。少なくとも自分のようなありふれた凡人ではないことは確かだ。そう勝手に思ってしまい、気持ちが落ち込んだ。
「ごめんね。辛気臭い話しをしちゃって」
「いいえ。嬉しかったと言えばいいのか分からないですけど」
「嬉しい?」
「その、先輩のそう言った話しを聞けるなんて思っていなかったので、話してくれて嬉しかったと思ったりはしました」
えりかは優しい笑顔を浮かべた。その表情が正孝の心を捉えて離さなかった。
「そうね。自分でも何でこんな話しをしたのか不思議だわ。多分、思ってた以上にセンチメンタルな感情になってたから、誰かに話しを聞いて欲しかったのかもしれないわね」
「僕なんかで良かったんですか」
「誰でも良かったのかもしれないけど、楠木君で良かったとは思ってるわよ」
正孝はそう言ってもらえただけで、心が軽くなったような気がした。
「そうだ。一つ気になったことがあるんですけど」
「何?」
「その立花涼一さんって方はどんな人なんですか?何故か、名前だけは聞いたことがあるんです」
「ああ。多分、それならこのニュースを見たんじゃない?」
そう言ってえりかはスマホを開き、あるニュース画面を開いた。そこには新博物館の完成とその博物館の館長となる人物の名前が書かれていた。その館長となる人物に立花涼一となっていた。正孝は納得した。数日前にネットニュースでこのニュースを読んだ。博物館好きの正孝にとっては興味深いニュースだったからだ。そこで目にしていたから、立花涼一と言う名に引っ掛かりを覚えたのだろう。
「こんなに若いのに、新しい博物館の館長に任命されるなんて本当に優秀な方なんですね」
「そうね。彼より優秀な人は美星堂にすらいないかもね」
えりかがそこまで言い切るからには余程頭が切れる人なんだろうと思った。
「それにしても、恐竜学者だなんて意外ですね」
「小さい頃から大好きだそうよ。それこそ、この上野に来たのも、当時やっていた恐竜展を観に行くためだったのよ」
「へぇ。こんなにイケメンなら芸能界でも成功しそうですけど」
「まぁ顔だけなら通用すると思うけど、どうかしら。立花君のあの性格じゃ炎上騒ぎばっかり起こして、大変なことになると思うけど」
「性格悪いんですか?」
「そうじゃなくて、素直すぎるのよ。言わなくてもいい皮肉を飛ばしてしまうのよ」
それはあなたもですと正孝は思ったが、間違っても口にすることはなかった。
「それにしても、凄い方々と友人なんですね」
「私からしたら、ずっと仲の良い高校からの友人なんだけどね。客観的に見たら、中々の友人関係よね」
「永瀬さんも優秀ですから、やっぱり類は友を呼ぶんでしょう」
「優秀だからとは言わないけど、バカでは立花君達とは付き合えないわね。勉強が出来るとか関係なくね」
「言いたいことは何となく分かります」
「楠木君も立花君と一度話せば、その凄さに気付くわよ」
「永瀬さんがそこまで言うなら、会ってみたいですね」
もっとも、僕のような凡人にはそんなチャンスはないでしょうけどと言う言葉は飲み込んだ。
「それなら会ってみる?」
「え?」
「実はその新博物館の完成記念パーティーの招待状が来てるのよ。同行者一名までなら一緒に行けるんだけど、一緒に行く?」
「そ、そんな、パーティーだなんて」
「別にそんな大したものじゃないわよ。どうする?」
「僕なんかが行っても良いんですか?」
「あのね。あなたが良いから誘ってるって何度も言わせないでよ」
「ご、ごめんなさい」
正孝は一瞬逡巡したがすぐに決断した。
「なら、参加させてもらいます」
「OK!じゃぁ、詳細は改めてLINEに送るわ」
「ありがとうございます」
「よし、今日はもう帰ろうか」
「はい」
上野公園を出た二人はすぐそこのJR上野駅で別れた。えりかは京成線で帰るそうだ。
「今日はせっかくの休みなのに、付き合わせて悪かったわ」
「とんでもないです。とても楽しかったです」
その言葉に嘘はなかった。よもやえりかに会ってこんな楽しい時間を過ごせるなんて思ってもいなかった。
「なら、良かった。私も色々と話せてスッキリした。ありがとう」
「パーティー楽しみにしてます」
「その前にキッチリ仕事をこなしなさいね」
「もちろんです。では、また会社で」
「うん」
えりかが手を振った。正孝は名残惜しくてたまらなかったが、えりかに背を見せて改札を抜けた。まさか姿が見えなくなるまで見送ってくれたりしてないよなと思いつつ、一応、振り返ってみた。えりかの姿はもうどこにもなかった。正孝は少し落ち込んだが、すぐに気を取り直してホームに向かった。