第2話 ひとりの理由
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5月10日 火曜日
まもなくショートホームルームの時間になる。
あのまま登校した昌は教室で自分の席に座っていた。
昌の通う小学校では新学年が始まって日が浅いのでまだ席替えは行われていない。窓側から出席番号順で席が割り振られており、苗字が「川津」の昌は窓側の最後尾だ。
彼は学校が退屈で嫌いだったがこの席だけは唯一気に入っていたりする。
『ちこくするところだったー』『あぶねーうける』『みんな買いすぎだよー』
先ほどコンビニに立ち寄ったクラスメイトがバタバタぞろぞろと教室へ駆け込んできた。これ見よがしに両手に抱えたコンビニ袋を掲げている。
少ししてから例のパスケースを両手でぎゅっと握ったままの雪緒が肩で息をしながら入ってきた。
またあんな買わされて……アホめ。
その様子を昌はどこか冷ややかな目で眺めていた。
そのとき、事件は起きた。
別に事件と呼べるようなものでもないかもしれない。
だが、振り返ってみるとこの些細な出来事がなければ、昌と雪緒にはまた違った未来が広がっていた可能性は否定できない。
とんっ。
両手にコンビニのビニール袋を提げたクラスメイトのひとり、大柄な男子が横を通ろうとした際に座っている昌の肩に軽くぶつかったのだ。
痛った。
なんだこいつらマジでさいあく――。
『うわ、川津じゃん。やっちまった。さいあくだわ~』
ぶつかってきたのはこの男子なのだが、何故か彼の台詞と昌の心の声とが重なった。
そのまま続ける。
『ふーぞく菌ついちゃったよ。きたねー』
ふーぞく菌=風俗菌。
これは昌の母親が風俗店で働いていることからくるものだった。
どこの誰が広めたかはわからないが、小学校入学から程なくして昌の母親の仕事はクラスで知られるようになっていた。
正論として職業に貴賤はない。
とは言っても風俗嬢というのは世間からの風当たりが強いということは実際にあった。そして、その子どもである昌は『汚い』や『ばいきん』などいわれのない誹りを受けていたのだ。
以来、昌は小学校ではいつも浮いており、時折からかいの対象になっていた。
『しかもこいつん家びんぼーだからびんぼー菌もついたー。はいタッチー』
大柄の男子が近くのクラスメイトの背中に手を擦りつけるようにする。
『うわ。きたねー』『バリアー』『貫通! バリアー』
数人の男子が『菌』と呼んでいるなにかを擦り付け合う。それを見てわーわーきゃあきゃあと盛り上がっている他のクラスメイト。
取り巻きの中に雪緒もいた。よくわかっていなさそうに周りを見渡してから「ふひひ」と笑っていたが、昌と目が合うと慌てて隣の女子の陰に隠れた。
「はぁ……たしかにうちはお金ないかもしれないけどさ」
昌は大仰にため息をついてから、おもむろに立ち上がる。
「でも、クラスメイトのカードで袋いっぱい買い物するほど落ちぶれてないぞ」
ぴしり。
その一言で教室に緊張が走る。
大柄の男子の顔が痛いところを突かれたと言わんばかりに紅潮する。
『あ? なんだお前、けんか売って――』
「もう始まってンだろ、ばかが」
瞬間、昌の拳が大柄男子の頬にクリーンヒットする。
たしかに昌はクラスからのけ者にされていた。
しかし、いじめられていたかというと話は別だ。
危害を加えてきた連中には徹底抗戦の構えだった、母親のことを悪く言うやつは特に念入りに。
『おいみんなでやっちまえ!』
大柄の男子が号令をかけながら取り巻きたちと一緒に掴みかかってくる。
『なにすんだ! このやろう!!』『かこめかこめ!!』『痛でででで! こいつかみやがった!』
昌としてはこのような手合いはよくあることではあった。しかし、今回はさすがに多勢に無勢な感じが否めない。
経験則からまずはリーダー格である大柄の男子の撃破を狙っていると、背中から取り巻きのひとりが昌の背中を思いっきり突き飛ばす。
「うわっとっとっと」
たたらを踏んでいるとモーゼの海割りのように目の前の人垣が左右に分かれていく。その中から魚群からはぐれた
「なっ、おま、どけ――」
「へ? え? え?」
昌と雪緒が折り重なるようにして倒れこんだ。
パキョッ。
昌が床についた手のひらの下で嫌な音が響く。
「……いたい」
「いてて……あ――」
恐る恐る手をあげると、そこには例のクレジットカードが入ったパスケースが折れ曲がり、ウサギがホラーな角度でこちらを見上げていた。
そのとき学校のチャイムが鳴り響く。
担任教師が教室へと入ってきて、
『ん? どうした?』
と訝しげに尋ねてきたので喧嘩はそこまでとなった。
そして何事もなく放課後になった。
喧嘩はうやむやに終わったので特に大きな騒ぎにもならず親が呼ばれて三者面談、なんてことにもならずに済む。
昌が帰り道をひとりで歩いていると、後ろからクラスメイトが走りながら抜き去っていく。
その際、大柄の男子が睨みつけてきたがそれ以上のことにはならなかった。
喧嘩は別に勝てなくてもいい。それよりも「敵に回すと面倒くさいな」と思わせることが重要だ。
そういう意味では今回の件は効果覿面とも言えよう。
クラスメイトの最後尾、追いかけるのがやっとといった様子の雪緒がド派手に躓いた。
「……いたい」
しかも今回はランドセルの錠前が閉まっておらず、中身の教科書たちが道に散らばってしまっている。
「あ? ま、まって~~~~」
雪緒は慌てて拾い集めているのだが、前かがみになるとまたランドセルの冠がめくれて中身がぼろぼろとこぼれる。
『あ! ゆきおちゃんおいてきぼりになってるよー』『あいつもうカードないからなぁ』『ほっとけほっとけ! はやくいこーぜ』
子供同士のコミュニティとは純粋に打算的だ。残念ながらクレジットカードが折れてしまった雪緒には待つだけの魅力がないということなのだろう。
クラスメイトたちは無情にもどんどん遠のいていく。
「よいしょ……よいしょ……っ」
「……」
荷物を一生懸命拾い集めている雪緒を横目にしながら、昌は通り過ぎようとした。
その足が止まる。
たしかに昌は雪緒のことが嫌いではあった。
だからと言って困っているところを助けないというのは話が別だ。
少なくとも昌は母親からそう育てられてきた。
昌は大きくため息をついてから踵を返し、地面に散らばった荷物を集め始める。この行動の裏側にはクレジットカードを折ってしまう原因になった負い目があったのかもしれない。
「ほらよ!」
照れ隠しから押し付けるように集めたものを手渡す。
「え? え? あ……」
雪緒は驚いたように瞳を瞬かせながらランドセルに荷物を詰め込む。
そして、少し後ろ髪が引かれるように振り返りながらクラスメイトたちを追っていった。
「……いやなんか言ってけよ、アホめ」
最期まで読んできただきありがとうございます。
続きます。
※次回更新は明日の18時になります。
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