世界の終わる音
チョコのお菓子を開けるとき、世界の始まる音がする。
そうして始まる世界の色は、きっと十色で鮮やかでーーーー
「ーーーーいたっ!!」
突然、頭を教科書ではたかれ、眠りこけていた私の中の、シャボン玉がはじけた。
「なーに寝ぼけてんだよ」
「へぇ?」
思っていたより大きな声が、二人きりの教室に響く。口をおさえながら顔を上げると、ボサボサ頭の君が言う。
「聞こえてたぞ」
「えぇ!?」
びっくりして、もっと大きな声が出る。顔が耳の上まで真っ赤になるのがわかった。
いやいや、今はそんなことより、
「聞こえてたって、何が?」
おそるおそるたずねる。ねぐせがないか確認しながら頭をあちこち触っていると、つむじ付近がぴょんとはねていた。片手でそれをおさえつけながら、君の返答をかたずを飲んで待つ。
「ーーーー世界の始まる音がなんとかーって」
「え? あぁ、なんだ、そのことかぁ」
予想していた最悪のシナリオとはほど遠いとわかり、ふぅと机で脱力する。
「なんだと思ったんだよ」
いたずらっぽく笑う君。
「なんでもないっ!!」
私はほおをぷっとふくらませ、わざとらしく怒った。
1
「ーーーーなぁ、世界が終わる音って、どんなだろうな」
「え?」
いつもの帰り道。君は車道と歩道を分けるコンクリートブロックの上を歩きながら、唐突にそんなことを言った。あぶなっかしいその足取りにヒヤヒヤしながら、私は答える。
「最後の一つを食べ終わったとき、かな? チョコのお菓子の」
「なんだそりゃ」
君はおかしそうにけらけら笑いながら、車道と歩道の間をふらふらする。
「お前はいいよな、悩みとか、なさそうで」
「は? 何よそれ」
さすがに頭に来て、少し上にいる君をにらみ上げる。と、君が大きくよろめいた。
「おっと」
「あぶないっ!!」
車道の方にかたむいたので、思わず君を抱きとめた。直後に自分のやっていることが恥ずかしくなり、あわてて君をはねのける。
「ははは、危なかったな、今のは」
君のすぐ横を、赤い車がものすごい勢いで過ぎていった。あきらかにスピード違反だ。この道はそんな車ばかりで、渡ろうとしても、信号なしでは誰も止まってくれない。
「あぶなかったな、じゃないよ……」
泣きそうな声で言うと、君は笑うのをやめて、ばつが悪そうにぼさぼさ髪をくしゃくしゃにする。
「ーーーーでも、楽しかった」
「え?」
聞こえるか聞こえないかくらいのその声は、反対車線を走り抜けるバイクにかき消されてしまった。君は、キュッと胸元に握りこぶしを作り、服をくしゃりと握りしめた。
2
今日は君の家で勉強会。君の住むマンションの前まで来たところで、何気なく、君の住む上階を見上げると、階段の踊り場から頭だけ出した人影が見えた。
「なんだろう?」
目を凝らすと、それは見覚えのあるボサボサ髪ーーーー君だった。君は踊り場の塀に両手をついて、身を乗り出そうとしている。私に気づいたからだろうか。それにしても危ない。
「あぶないよー」
言いながら手をふると、びっくりした様子で動きを止め、君は塀から身を乗り出すのをやめた。少し遅れて手をふりかえしてくる。やっぱり私かどうかわからなくて身を乗り出していたのだろうか。
エレベーターで君の住む6階までつくと、君のお母さんが待っていた。
「あ、こんにちは」
「あら、どうもー」
どうやらこれから買い物らしく、右手に手さげカバンをぶらさげていた。
「ゆっくりしていってねー」
いつものごとくおっとりした様子でそう言うと、お母さんは入れ替わりでエレベーターに乗っていった。君の住む号室まで廊下で歩いている途中、上階から降りて来た君とはち合わせた。
「あっ」
「おう……」
少し驚いた様子の君。
「さっき、上で何してたの?」
「いや、……別に」
なぜか、ごまかすように頭をくしゃくしゃやり、さっさと家の中に入っていってしまった。カギはかけていなかったようだ。君のお姉ちゃんは大阪暮らしなので、一時的とはいえカギがかかっていないまま無人だったことになる。
「不用心だなぁ」
あとを追って玄関で靴をそろえる。ついでに、雑に置いてあった君の靴もそろえた。
3
「……意味あんのかな」
勉強中、向かいに座っていた君が突然シャーペンを投げ出し、あぐらをかいてそんなことを言う。
「え、何が?」
「勉強」
私たちは受験生だ。もちろん、私もときどき、わからなくなるときがある。
「さぁ。いつか、役に立つんじゃない?」
「たたなかったら?」
不意に、君が真面目な顔になる。その瞳は、真剣そのものだった。
「どうしたの、急に」
はりつめた空気に耐えきれなくなって、私はわざと吹き出したように聞き返す。
「飛べるかなって、思ったんだ。さっき」
「え、なんの話?」
「鳥はいいよな。どこへだって行けて」
「でも、私たちみたいには走れない、でしょ?」
それは、いつか二人でみた教育番組のポエムの一節だった。
「走れないよ、俺も」
「え?」
「お前や、姉ちゃんみたいには走れない」
「どうしたの、おかしいよ、今日」
「今日? 今日にはじまったことじゃないだろ、別に」
確かに、君はどちらかというと変わり者で、いつも変わったことばかりしている。でも、最近の君はそういう感じじゃない。
「なんていうか、うまく言えないけど……悩みでもあるの?」
「わからない」
君はとりみだしたように大きく首を振った。
「ねぇ、大丈夫?」
「ーーーー大丈夫、か。もっと早く言われたかったよ」
決心したようにすっと立ち上がる君。背の低い机に膝が当たり、シャーペンや消しゴムがはねた。
「どこ行くの?」
「外」
君はそんなことを言って、出ていってしまうことがよくある。だけど、今だけは、行かせちゃいけない気がした。
「ダメっ!!」
部屋を出て行こうとする君の背中を、泣きそうな顔で抱きしめる。
「なんで?」
君の声が、いつになく冷たい。
「いかないで……」
「……おせぇよ」
いらだった様子でそう言い放ち、君は私を振り払ってずんずんと玄関へ向かう。
「待って!!」
つんざくような鋭い声が、君を引き留めた。びっくりするほど大きな声は、泣き出してしまった私のものだ。
「好きなの」
「知ってたよ」
言い終えた直後、玄関の扉がしまった。
涙でぐちゃぐちゃになる視界。崩れ落ちる私。
本当は、君がさっき何をしていたのか、これから、何をしようとしているのか、全部、わかっていた。
だから。
私は靴も履かずに駆け出す。
そうして、君を追いかけ迷わず階段を駆け上がった。
最上階へ向かう踊り場に、君はいた。
正確には、その塀の上に。
靴を脱ぎ、裸足で塀の上に立つ君。頭を打たないようきゅうくつそうに腰を曲げている。
「何してるのっ!?」
ばくばくする心臓をおさえながら、叫ぶ私。君は、落ち着きはらったふりをして、震える声で言う。
「ーーーーなぁ、世界が終わる音って、どんなだろうな」
「知らないよそんなのっ!!」
君の瞳に、夕焼けが映った。真っ赤な夕陽から、一筋のしずくがこぼれ落ちる。
「なんだったのかな、俺の人生。姉ちゃんみたいに頑張って、姉ちゃんみたいに努力してるつもりだったのに。何がダメだったんだろ。ーーーー全然、報われないや」
「そんなの、どうでもいいじゃん……アキラは、アキラでしょ?」
「違うよ。俺は、ハルカにならなくちゃいけなかったんだ。第二の、ハルカに」
ハルカ、それは進学校をトップの成績で卒業して、有名国立大学に首席で入学したアキラのお姉ちゃんの名前だ。
「……わかった、教えてあげる。世界が終わる音」
「は?」
「だから、こっち向いて」
振り返る君を塀の上から引きずりおろして抱きしめ、私は、君にキスをした。
目を見開く君。真っ赤になった私。
一つになったくちびる越しに、君の世界の終わる音が、確かに聞こえた。