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英俊と共に、2階にある職員室を出て脱靴室へと向かう。階段を降りながら、英俊が確認した。
「陸杜ん家は名陵高校への通り道だよな」
家庭教師時代に通った家である。ほんの2年前のことだから、近所の地図までもほぼ正確に覚えている。
「うん、近いし。ぐしゅ……ずぴ。成績は程遠かったけど……ズルズル……何か遠回しなイヤミ?」
琴川高校は県内の名門だが、名陵高校は全国から志願者がやってくるほどの超名門であった。
「いやいや。ちょうどこれから名陵高校へ行くからさ。送ってってやるよ」
「それは嬉しいけど……」
確か英俊の愛車はホンダの250cc、いわゆる中型バイクだった筈だ。普段から予備のヘルメットを積んでいるわけも無かったから、一体どうやって送ってくれるというのだろうかと心配になった。
普段の陸杜ならすぐに訊ねるところだが、何しろ花粉にやられて鼻水と涙が酷く、あまり喋る気にもなれない。頭もぼぅっとしているから、
(まぁいいや)
と考えるのを放棄した。この季節はいつもこんなものだ。勉強にも身が入らないので塾の講習会にも参加しない。外出にマスクはかなり有効ではあるが、ちょっとしたことで外れたり外したりすると身体に付着した花粉が鼻に入るし、それすら目のガードには全く役立たないのだった。
しかし、謎はすぐに解けた。駐輪場へ来て、自分の自転車の後ろを通り過ぎてから気付いたのだ。
「先生の愛車が無い」
駐輪場の一番奥は高校職員用のスペースとなっている。いつもは他の先生方の自転車に混じって英俊のバイクも駐めてあるのだが、今日は見当たらない。相当涙目になっている陸杜だが、そこまで見えないわけではない。
「名門校での研究会へ参加するのに、バイクは無いだろうよ」
そう言って、更に奥の駐車場を指差した。
「なるほど……でも助かった……ズルズル……正直この目で自転車やバイクは恐かった」
英俊の車を見るのは初めてだ。家庭教師先で駐車場の心配をしなくて済むようにと、いつもバイク通勤だったからだ。高校へ勤務になってからも、渋滞避けにバイクを愛用しているようだった。車の免許を持ってないのかとまで思ってもいた。
「おいっ行き過ぎ。コレコレ」
「……これ?」
行き過ぎかけた陸杜を呼び止め、英俊はシルバーの車を指差す。可愛らしすぎて意外だった。
バイクが好きらしいので、てっきり車にはこだわらず、中古の軽自動車か無難に国産セダンにでも乗っているものだと思っていた。もっと言えば、車を所有しているとも思っていなかったが。
「これ、何て車?」
「スマートフォーフォー」
5人乗りの5ドアコンパクトハッチバック。
(分からないや……)
陸杜は車に興味がないので、その名を聞いたことすらない。国産車離れしたルックスだが、右ハンドルだから国産車、と勝手に決めた。
「時々、コロコロと丸い車が走ってるだろ。二人乗りの。あれと同じ『スマート』。型が違うし古いからこっちは丸くないんだけど。変速が今ひとつスムーズじゃないところがいいんだよ。ブレーキの効きもいいし、取り回しやすくて最高」
(やっぱりバイク目線か……)
こっそり考えながら、身体に付着した目に見えない花粉を払い落として、助手席に乗り込んだ。
先生の車に乗るという体験は、何故だかわくわくする。普段見せないプライベートを少し見せてもらったような、そんな気がするからだろうか。
(きれいにしてるな。親父の車とは大違いだ)
余計なものを何も置かないシンプルな車内。ホコリも積もっていないし、窓はよく磨いてある。
10分ほど走ると陸杜の家に着く。学校前の二車線道路を通って四車線のバイパスを渡り、脇の車線の無い道へと入る。と言っても込み入った狭い道でなく、街路樹も整っている綺麗な道だ。
たわいないことを話しながら何気なく景色を見ていたら、前方に見たことのある後ろ姿があるのに気付いた。追い抜かした時に振り返り、顔を覗き込む。
「お、遠藤先輩」
「何っ?!」
キキーーーーッ!!
英俊は急ブレーキを踏んだ。予告もなしに急ブレーキを掛けられたほうはたまらない。陸杜は前へ飛ばされかけた。シートベルト様様だ。
「危ないなぁ……」
「ごめん!」
英俊が陸杜の無事を目視する。そして陸杜越しに助手席の窓の外を覗き込んだ。
「おまえ、いま遠藤って言ったよな?」
それらしき姿はもう見えなかった。
「うん、一緒に居たのは確か、生徒会副会長、高野先輩」
そう言われて、英俊は高野の顔をやっと思い出した。腰まで伸ばしたストレートヘアの小柄な女の子だ。時々赤い縁のついたメガネを掛けていたはずだ。
「いまそこへ入ったのかも」
と陸杜が指差した先には、「HOTEL アリスの国」という看板が立っていた。
「よし、分かった」
車の往来がないのを確かめて、英俊は素早く車をバックさせ、左ウインカーも出さずにホテルへ車を入れた。
「ちょっと! 先生?!」
車はホテルの入り口に垂れ下がるカーテンのようなものを潜る。切り込みが入った、赤い不透明なビニール製だ。視界が暗くなる。
「別にお前に何もしやしねぇよ」
「そりゃ分かるけど! 学生連れてってとこで既にヤバいんじゃないの?!」
「バレなきゃいいの」
「それは完全に犯罪者の心理ですよ!」
あんた先生でしょ! と言いかけたが、英俊が理由もなくそんなことをする人ではないことを、陸杜はよく知っていた。
(単なる補導じゃないな。遠藤先輩、何かあったのか?)
英俊は薄暗い駐車場内でゆっくりと車を走らせた。1階が駐車場、奥にエレベーターのあるエントランスがあり、2階以上が部屋になっているらしい。
ホテルの入り口付近まで近付いたところで、空いているスペースに車を駐める。
「居ないな。入られた後か。まずいよなぁーさすがに踏み込めないよなぁー……出てくるまで待つか?」
出てくるまで待つ……つまりそれは終えるまで待つということで……。
「わー!」
「何だ?!」
建物の入り口を見ていた英俊が驚き振り向いた。
「……何でもない……」
(思春期の男子に、何て想像させるんだ!)
心の中の怒りを英俊に向けて、現実的なことを口にする。
「待つったって、研究会とやらはどうするんです」
「いくら学校でも、そこまで融通の利かない世界じゃないさ」
英俊は胸ポケットから携帯電話を取り出し、チラチラと振りながら車の外へ出て行った。
そしてほんの数十秒で話を終え、戻ってきた。
「他の先生に連絡したの?」
「いや、研究会の事務室に」
「ずっとここに居るつもり?」
問われて英俊は少し困った顔をしたあと、
「遠藤だって、こんな現場を先生に知られたくないだろう? 俺が捕まえて、違うところで会ったと証言してやるのが一番穏便な方法だと思わないか」
とゆっくりと答えた。
(あんただって先生だよ……証言ったって、それは偽証でしょうよ……)
陸杜は脱力して、シートを後ろに倒した。何故遠藤を追い掛けたのか、事情を聞く時間はこれでたっぷりとできたわけだ。
先生には守秘義務があり、英俊もそう簡単には話さないかもしれない。でも、ここまで自分を連れてきておいて「何もない」では通らないことくらい分かっているだろう。陸杜自身も疑問を放置しておくのは嫌いだ。
(成績とか、学校の機密情報では無さそうだし……)
あまり面倒なことに巻き込まれたくはないが、どちらかと言えば熱血教師の部類に入る英俊と親しい以上、諦めたほうがいいのも経験上知っていた。英俊は「余計なことに首を突っ込む」というより、「生徒を放っておけず結果積極的に巻き込まれる」タイプなのだ。