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私立琴川大学は、同一敷地内に幼稚園から高校までを擁している。
附属幼稚園一学年40名の殆どは小学校へ進学し、外部からの受験生と合わせて一学年120名となる。その児童の殆どが附属中学校へと進学し、外部生と合わせて180名に。更にその殆どが附属高校へと進学して、外部生と合わせて250名に。
これだけの規模を誇るだけあってさすがにキャンパスは広大で、学部によっては2号、3号と離れたキャンパスに教室があったりする。
陸杜が通う附属高校は1号キャンパスにある。校門をくぐってもまだ歩道付きの道路が続き、高校の玄関までたどり着くのに10分近く掛かる。しかし附属幼稚園時代から通っているので、もう慣れたものだ。街でも校内でもない、そんな宙ぶらりんなこの道が好きだった。
3学期の終業式の翌日。部活動のため、いつもと同じ朝8時に、自転車で門を潜った。今日は制服のブレザーではなく、ジャージを着用している。
少し前ならジャージの上から何か羽織らなくては寒くて堪らなかったが、今日は空気が暖かかった。雪国にも着実に春は来ているのだ。
駐輪場に自転車を駐め、校舎へ向かう。
途中、巡回中の警備員さんに出会った。
「おはようございます!」
元気よく挨拶をする。
「おはようございます。春休みも部活なんだね、偉いね」
幼稚園時代からこのキャンパスに居る警備員さんとはすっかり馴染みだ。この約10年間に、警備員さんの髪に白いものが混じりはじめたのを陸杜が知っているのと同様に、警備員さんも陸杜の成長を見てきている。
「偉いね、ってもう高2ですよ。子供じゃないんですから」
笑う陸杜に警備員さんは微笑んで、いま陸杜が入ってきた校門のほうへと歩いて行った。
何となく見送っていると、背後から声が掛かった。
「子供じゃないよな、声も変わってしまって。立派なオッサンだよ、オッサン」
振り向くまでもなく、英俊だった。附属琴川高校の数学教師だ。出勤してきたばかりだからか、背広姿である。足元はお約束のスニーカー。
「オッサンにオッサンオッサン言われるなんて、世も末ですよ」
振り向きざまに毒を吐いてやる。高校生はオッサンと言われても冗談としか受け取れないが、三十路前の独身男にはシャレにならない言葉なのである。
英俊は陸杜の頭に手を置いて言った。まだ頭半分ほど、英俊のほうが背が高かった。
「先生にはまず『おはようございます』だろう。マスクしてるとホントにふてぶてしく見えるな」
「それはありがとうございます。先生の教えが良かったんですよ」
「中学からの編入試験前に俺に泣きついてきたのは誰だ」
「その件については感謝してますってば!」
痛いところを突かれて、慌てて退散する。その背中へ、英俊が呼びかける。
「具合は大丈夫なのか?」
「薬飲んで来ましたっ。部活もマスクで失礼します!」
「それは構わんぞ」
「ありがとうございますっ」
酷い花粉症のことを心配してくれたのだ。憎まれ口を叩き合う関係でもあるが、やはり「先生」なのだ。
陸杜が部室へ行くと、既に殆どの部員が集まっていて柔軟運動をしていた。“後輩は先輩より早く登校する”などという風習もない雰囲気の良さが特長だった。
「おはようございます」
陸杜の挨拶に、方々から声が返って来る。ロッカーに荷物を入れると、
「織原、今日は大丈夫か?」
と級友の修が寄ってきた。
「大丈夫大丈夫」
とピースサインを出してみる。
「今日は川島、来ないんだって?」
英俊のことである。
「そうなの? 今会ったけど」
床に座り、前屈して膝裏を伸ばす。
「急に出張になったんだって。陸杜が知らないとはな」
「別に、一緒に住んでるわけじゃないんだから」
思わず苦笑する。
あまり大っぴらにすると贔屓だと言われたり、やっかみの対象になるかもしれないので、英俊との関係は修を含めた数人にしか話していない。
特に話すようなことでもない。陸杜が中学3年生の時、家庭教師として勉強を教えてくれたのが英俊だった。それだけだ。高校へ来てびっくり、入学式で、英俊が新任教師として紹介されていたのだった。ずっと家庭教師や塾講師をしていたらしく、新任という初々しさは全く無かったが……「そこが採用に繋がったのでは」と、本人が言っていた。
陸杜の背中を押して柔軟運動をサポートしながら修が面白そうに言う。
「お前らの関係が怪しいと、女子が騒いでるぞ」
「勘弁してよ……」
本気で嫌だ。
英俊は三十路前で独身で、あの端正な童顔では仕方ないかもしれないが、自分のどこにそんなBL要素があるのか謎である。
「ああ、でも」
修が思い出したように言った。
「保健室の三波先生と川島が怪しいって噂もあるな。最近よく保健室で川島を見掛けるって」
初めて聞いた。
「……ふぅん……春が来たのかねぇ」
自分でも何だコレと思うような、とぼけた声が出た。兄弟に「結婚します」と報告されたらこんな感じなのかと思った。兄弟なんて居ないので、想像だが。
修は気にせずに話を続けた。
「保健室ってのが隅に置けないよなぁ。三波先生とってのは気に入らないけど、でも、川島も冷静に見ればいい男だよな」
三波綾は23歳の保健医だ。色白の肌、長いストレートの黒髪、童顔に縁なしメガネ、細い体に豊かな胸、白衣……と、ある種のマニアに大受けしそうなタイプである。マニアでなくてもファンは多いようだが。
「保健室で何してるんだろうなぁ……」
「なんだ、保健室って。ミナミちゃんのことか?」
単語に反応して、他の部員たちが寄ってくる。
「あの白衣の下、この前は白いニットでさ。柔らかそうなおっぱいの形がくっきりと……」
「それいつ!? 俺も見たい」
「俺は見るだけじゃなくて顔を埋めてみたい」
「揉んだら、どんな声出すんだろ。ミナミちゃん、この前のあの子に似てないか……」
「縛られて喘いじゃうやつな!」
部員たちが盛り上がっている中、陸杜はひとりごちた。
「そうか、ああいうのが好みなのか」
今度からかってやろう、とネタをしっかり頭に刻み込む。体調を心配してくれた御礼として、まだ当分はこのネタを使うことはないだろうが。
川島英俊、と書かれた欄に三文判を押す。教頭の席の前に置いてある出席簿だ。黒い表紙で綴じてあるそれを目の前にすると、背筋が伸びる。
自分の机に戻り、昨夜仕上げた資料を鞄から取り出す。
机は担当学年ごとに分かれて固められており、英俊の机は2年生の塊に属していた。左隣は4組の担任、国語教師。向かいは社会科教師。左前方はELT、非常勤のため、授業の無い今日は欠勤だ。右側は通路。自分の机の場所を、「2年部の島の縁」と英俊は呼んでいた。背後は窓で、2年部の中では、職員室前方の校長、副校長、教頭の席から一番遠い。
右側の通路を隔てては、1年部の先生方の島がある。英俊から通路を挟んだ隣は、美術教師だった。
「あ、川島さん」
その美術教師、中村が呼んだ。無精髭を生やした中年の男性教諭である。美術教師は高校に一人しか居ないので、英俊が担当する2年生にも縁がある。
「今日の出張、先生もですよね」
「はい。中村先生も出られますか」
「そいの。暇らっけ当てられた。しょうがねぇや」
途中から電話の呼び出し音に隠れるくらいの小声でそう言って笑い、
「場所は大丈夫?」
と聞いてくれる。
「あの高校なら分かります。ありがとうございます」
「9時に出ればじゅうぶん間に合うろ。分科会は適当に聞いて、適当に逃げれて。わしら、人数合わせ」
「あはは。ありがとうございます」
まだ不慣れな自分にみんなが色々と構ってくれるのが有り難かった。
そこへ3年生の学年主任と生徒指導主任が、深刻な顔で職員室後方の扉からやってきた。恰幅良い生徒指導主任はこちらを見ると、
「中村先生、川島先生、急な出張、申し訳ない」
と言いながら近付いてきた。川島は思わず立ち上がる。美術教師の中村は、足を組んだまま軽く片手を上げた。3年生主任のほうは校長室へ飛び込んで行った。
「卒業生の遠藤誠と高野幸恵が家出したんだよ。今朝早くに親御さんから連絡があって、探しているんだが、まだ見つからん」
英俊は思い出そうとしたが、かろうじて遠藤の顔が浮かんだだけだった。陸上部に居たはずだが、3年生であった遠藤は6月で引退してしまった上に、元々部活を休みがちだったため、殆ど面識が無い。高野についての記憶はサッパリだった。授業を担当していない生徒、それも何の問題もない生徒については、ダメだと思いつつ記憶が薄い。それでも一応聞いてみる。
「私も探しに行きましょうか?」
「いや、先生方は研究会に参加して頂かないと。本当は担当が出なければいけないんだが、二人を探しに行ったものだから。急な代役で本当に済まないが」
言い残し、また職員室を出て行った。
中村が呟く。
「卒業生と言っても、3月一杯は我が校の生徒らっけねぇ……」
地元では名門である附属琴川高校で不祥事とあっては世間にも聞こえが悪いし、母体である大学のほうから注意されるといった事情もあるのだろう。それに先ほどの二人の主任は、昔風の生徒思いの熱い先生方だった。生徒の将来に傷を付けたくない、万が一の最悪の事態を防ぎたい一心なのだろう。最悪のケースとして心中も有り得るのた。これから花開こうとする若い命を失うかもしれないという想像は、職業柄ということを割り引いても、非常に心苦しい。
そんな慌ただしい空気の中、出発の時間が近付いていた。
「我々に出来ることは、琴川の教師らしく振る舞ってくることですかな……」
中村が鞄を持って立ち上がった。英俊も、出した資料をまた鞄に戻して出発の準備をする。
その時、職員室後方の扉がゆるゆると開き、生徒が一人顔を出した。
「先生ぃ……ダメみたいっぶしゅ! ふへっぐしゅ! 今日花粉多いわぁ……帰っていいっすか……」
陸杜だった。