10
窓の外は雨だった。雨粒はまだ冷たいけれど、確実に春に近付いていると分かる。雨、みぞれ、雪、雹。空から降るものにはそれらの間という形もあり。みぞれに近く雪に変わりかねない冬の終わりの雨、冷たさのゆるんだ春先の雨など、こんな微妙な違いを数日のうちに感じ取ることができるのも、雪と馴染みの深い地域に住む者の特権だろう。
秀俊が窓際に立ち、指先に雨粒を当てている。
「1平方メートル1秒あたり約何粒かな……」
「……計算しませんからね……」
部屋の中から陸杜が溜め息混じりに返した。
「先生、お茶をどうぞ」
三波がカップを3つ並べた。琥珀色のお茶がレモンの香りの湯気を立てている。戸棚から出した缶入りのクッキーも机に並べられた。
「ん、ありがとう」
手を振って水を飛ばし、窓を閉める。
「あ、そうだ……」
パイプ椅子に座りながら、陸杜に言った。
「高野が霊の話をしたの、覚えてるか?」
「信じますか、ってやつ?」
「そう……結論から言うとな、居たらしいんだよ、霊とやらが。それも、高野んちのおばあちゃんだ」
クッキーを口に入れたところで、陸杜の動きが止まった。代わりに聞いたのは三波だ。
「何ですかそれ? 遠藤くんの話を教えてくれるんじゃなかったんですか?」
「こっちが最初だったんだ」
レモングラスのハーブティーをひとくち飲み、秀俊が説明した。
高野が美大へ行きたがってたこと。
担任で美術部顧問だった中村先生が推薦の準備をしていたこと。
両親の反対があり、高野は美大を諦め、未練を断ち切るために画材を墓地のそばの竹藪に埋めたこと。
「竹藪の土には、途中まで掘り返した跡があってね。半年も埋めてたから土は固まっている筈が、少し柔らかかったんだ。何故掘り返したか、ここでおばあちゃんの霊のご登場となる」
お茶で口を潤し、続きを話す。
「センター試験が終わって、本堂の掃除を手伝っていた時のことだ。頭上から、封書が落ちてきた」
陸杜が思わず聞き返す。
「頭上?」
「頭上。鴨居か祭壇にあったものかもしれないけど、今までも何度も足を踏み入れていたのに、その日に限って落ちてきたらしい。しかも『幸恵へ』と書いてあり、裏にはおばあちゃんの名。開けてみると便箋には、自分の好きな道に進みなさいとあったそうだ。悩んでいた高野にとっては、おばあちゃんの導きのように思えただろうね」
後で高野の母親から、「幸恵が大学に上がる前に渡してくれ」と、内容も分からない手紙を祖母から託された、その手紙を本堂に隠し、幸恵を掃除にやったと聞いた。
「高野は中村先生に相談しに行った。美大ではないが美術を続ける道はあるかと。そこで中村先生は自作を数点見せ、自分は教師になったが続けていると励ました」
「それがあの、黄色い絵?」
「そう。シリーズで青と赤、緑もあって、ちょうど四季を表してるそうだ……いまこの絵は全部、遠藤んちの画廊で買える」
やっと遠藤の話に繋がる。それまでクッキーの缶を見るともなしに眺め、話をじっと聞いていた三波が顔を上げた。
「先生って副業出来ましたっけ?」
カップに口を付けていた秀俊が事も無げに答える。
「琴川は私立だから」
「あ……」
通常、公務員である教員の副業は禁止されている。しかし幼稚園から大学までを擁する琴川学園は私立だから、学校独自の指針があった。そして琴川学園では、専任講師においてその副業を禁止していなかった。
「中村先生はね、自分で売り込んだんじゃないんだ。学校に画材を卸しにきた遠藤のお父さんが、たまたま先生の絵を見て、拝み倒して譲ってもらったんだって」
これは昨日、聞いてきた話だった。「西に黄色いものを置くと金運がアップする」などと言われる風水はそれまでにも流行っていたが、昨今の不況を受け、更に需要が高まっていたらしい。
中村の絵は手頃な大きさで、デザインもどの部屋にもマッチしそうな、風景をモチーフとした抽象画。しかも4色揃っており、版画なので増刷も出来るし、何より他店には無いオリジナルだ。
「それで、各色につき50枚までしか刷らないことを条件に、契約をしたらしいんだが……」
言葉を切り、陸杜を見る。案の定、腑に落ちない表情をしていた。目が合うと、
「明らかに、100枚以上ありましたよね……」
陸杜の部屋でPCに入力した番号。あれはシリアルナンバーだった筈だ。
「あったんだよ。そして、ナンバー50までは中村先生自身のサインだが、しかし、51以降は遠藤の親父の偽造だった……もちろん始めからそうするつもりだったのではなくて、客にせがまれて仕方なく踏み切ったそうだが……」
思ったより売れ行きが良くて、欲に背中を押されてしまったんだな、と苦笑する。
「ある日息子の遠藤が気付き、画廊で父親を問い詰めていたところに、高野がやってきたんだ。中村先生の作品を見に」
そこで偶然、ナンバーとサインの書かれていないものを発見する。素性のしっかりとしたものしか置かないのが方針の画廊だから、遠藤の父親は慌てて、他にもないかと顧客ファイルを当たり……
「ホテルの名を見つけたわけか」
「そこだけナンバーが控えられて居なかったらしい。遠藤が知らずに売ったみたいで」
「後でチェックした親父さんも、書き忘れたことを怒ったらしいよ。まさかサインが無いとはね」
「責任感じて、家出?」
陸杜の問いに、三波が答えた。クッキーの缶を見詰めたまま、人差し指を唇に当てる。
「見つけ出すまで帰らない覚悟、じゃないかしら? 結局家出では無かったんですよね。高野さんは中村先生の信用を守るために協力を申し出たんだわ……できることならそっとサインを書き足せばと……」
秀俊が立ち上がり、三波のそばで「正解」と言った。目を細めて微笑むと、三波の頭をポンポンと軽く二回叩いて窓際へ移動する。
「そう言えば綾ちゃんは証明問題が得意だったよね。陸杜は記憶力は良いんだが、定理を使いこなすのが苦手だよなぁ……頑張れよ、現役なんだから」
「頑張りますよ」
自棄のようにクッキーを頬張る。三波はお茶のおかわりを淹れに立った。
窓の外は晴れていた。