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「高野は結局、どうすることにしたの?」
英俊が問うと、高野がゆっくりと顔を上げた。
「もう決めたんでしょ?」
英俊の笑みに笑顔で答えて、更にきっぱりと言った。
「美大はもういいんです、自分で琴川大に決めたから。また美術部にでも入って、ゆっくりと、絵を描いていくつもりです」
「そうか……それもいいな」
「はい!」
「ちゃんと『先生』出来てんじゃん」
シュークリームを頬張りながら、陸杜がからかうような眼を英俊に向ける。
「俺はいつだって先生だ」
右腕で机に寄りかかっていた英俊が、腕を上げて人差し指で陸杜のおでこをつついた。
机を挟んで向かい合っている二人を見て、三波がたまらず笑みを洩らす。
「三波先生〜」
「綾ちゃんっ」
二人に睨まれても涼しい顔でお茶を淹れている。保健室の空気は穏やかだ。
トレイで湯呑みを3つ運び、机に置いて自分も椅子に座りながら、
「川島先生も普通に憎まれ口を叩くことがあるんですね」
と感心したように言った。
「だからそれはコイツが」
「可愛い生徒に向かってコイツって」
「クリーム飛ばすなよ陸杜」
「可愛がり方おかしいですよ。子供じゃあるまいし……」
陸杜は自棄のように残りを全部口の中に押し込んだ。カスタードと生クリームの甘味、シューの香ばしさとバター風味が広がる。クリームのなめらかさとシューのくしゃっとした食感の違いも絶妙だ。恐るべし、母上。お菓子教室に通いだした成果を、着実に出し続けている。
飲み込んでから、さっきから感じていた違和感を口に出してみた。
「英俊さんさぁ、何で三波先生のことは、名前なの? 三波先生が教え子だっていうのは分かったけど、昔はみんな名前で呼んでたの?」
からかう意味でなく、純粋に不思議に思った。三波と話す英俊を見たのは今回が初めてで、三波が英俊のかつての教え子ということは分かったのだが、名前の件については少し引っかかった。
今この学校でもそうだし、家庭教師に来て貰っていた頃にたまに通った塾の講習会ででもそうだったが、英俊が生徒を名前で呼んでいるのを見たことが無かったのだ。
生徒のトラブルを放っておけない性格の英俊が親しげに呼ぶ理由は、三波の過去に何かがあったのではという気がする。陸杜自身、随分と助けてもらったから、そういった生徒が他にも居ると考えるのが自然だろう。
ただ、自分は英俊にとって特別な生徒かもしれないという気持ちを心の奥底に少なからず持っていたから、新鮮な衝撃ではあった。断じて焼きもちなどでは無い筈だ。
ところが、英俊が発した言葉は。
「ん? そう言えばそうか?」
かなりのどかなものだった。
しかも今気付いたような顔をしている。メモが走り書きされた紙を左手に持っていたが、それを伏せ置くと腕組みをして俯いてしまった。
「でも、陸杜だって陸杜って呼んでるし……これは陸杜のお母さんと話すのに『陸杜くん』と呼ばざるを得なかったせいなわけだけれども」
次はお茶を手に、ぶつぶつと言い始める。
「まさか『息子のほうの織原』とは呼ばないしなぁ……」
(やっぱり……英俊さんがすることに意味なんて無いんだ……)
陸杜は心の中でこっそりと結論付け、溜め息をついた。
そこへ助け舟を出したのは三波だった。
「そうそう、今朝また高野さんのお母さんが校長室に来られてましたよ」
「ああ、それは」
英俊が顔を上げる。
「昨日の夕方、高野側の事情が片付いたんだよ。恐らく夜にでも高野自身が、ご家族に心配掛けた旨を詫びたとかじゃないかな。そういうところ、しっかりした子だよね。お母さんはその御礼や報告で来られたんだろうね」
「それは良かったですね。じゃあ遠藤君のことも、解決したんですか?」
「お、鋭い。それはまだなんだけど……」
お茶を一口飲む。
「今日の夕方には片付けるつもり。必要十分条件は揃ったからね」
三波もお茶を飲んで微笑んだ。シュークリームの個包装を開けながら、
「じゃあみんな心配なく進学できるんですね。良かった」
と、朗らかに言う。
陸杜が聞いた。
「三波先生は、今回の事件の成り行きとか気にならないんです?」
「事件だなんて。うまく解決するなら、私はそれ以上聞きたいとは思わないなぁ……」
「綾ちゃんは他人のプライベートに興味を持たない子なんだよなぁ……」
英俊は苦笑を浮かべた。自分本位という訳ではなく、三波は他人に必要以上に関わろうとしないところがある。興味本位に何でも聞こうとするよりは慎ましく感じるが、学校勤務を続ける上ではあまりに淡白だという気もする。
「必要な時は興味持ちますよ。これでもカウンセラーの資格を持ってるんですから。今回は私が関わることじゃない、ということです!」
「それを言ったら、僕だってそうなんだけどなぁ……」
陸杜がそう言って英俊の顔をそっと見た。
夏休み中だからか、平日夕方のギャラリーは学生らしき若者達で賑わっていた。絵画の展示や販売だけでなく、画材などを置いているせいだろうか。
英俊はメモを見て、店の名をもう一度確かめた。
画廊 遠藤
入り口の自動ドアを入ると、正面一帯には所狭しと絵画が飾ってあり、左奥に半地下へと続く階段があるのが見えた。どうしようかと一瞬迷って店内を見渡すと、棚の上に見覚えのある黄色い絵が飾ってあるのを見つけた。ガラスの扉越しに、外からも見える位置だ。
黄色の他にも、似たタッチの赤い絵や青い絵があった。サイズもさほど大きくないので値段も手頃、はっきり言えばちょっとしたプレゼントとして、学生でも頑張れば購入できる値段だ。
「川島先生?」
背後から声を掛けられ、振り向くと遠藤誠が立っていた。画廊のマークが胸にワンポイントとしてプリントされた、青いエプロンを身につけている。
秀俊が向き直ると、遠藤は軽く会釈した。
「手伝いか? 感心だなぁ」
「そう言うと聞こえはいいですが……この前怒られたから、点数稼ぎなんですよ」
肩をすくめて笑って見せた。秀俊は曖昧に微笑む。
「やっぱり場所が場所だし、女の子連れじゃあなぁ……」
理由については怒られていない筈だということを、言外に含ませる。
遠藤は頬を少し強張らせ、警戒するように辺りに視線を走らせた。
脅したり怒ったりする気は秀俊にはないので、いつもと同じ調子で言った。
「じゃ、仕事の邪魔しちゃ悪いから、単刀直入に。中村先生の絵に、何か不備でもあった?」
「先生、どうして中村先生の絵が原因だって……」
「ん? これ」
手に持ったメモを見せた。
「画廊遠藤」という店舗名、続いて住所や店までの道筋と目印が書いてある。右下に傾いた、かなり特徴のある字だ。
「分かるよね、中村先生の筆跡。そこの絵のサインと同じ……」
絵に添えられた、Zの走り書き。
「どうして中村先生のサインがZかと思ったら……Nの走り書きだったんだよな」
遠藤が頷く。
秀俊は更に言った。
「中村先生のデスクマットにね、あの絵が飾ってあったんだ。自分の絵はなかなか飾らないだろう? だから、もう手放したんだなって思ったんだ。先生の絵はリトグラフ、所謂版画だから、原版は遠藤んちに引き取られたんだね」
遠藤はまた頷いた。
その時、遠藤の背後に店のエプロンを着けた男が現れた。髪が半ば白い、なかなかダンディーな雰囲気だ。画廊の主人という貫禄もある。無言で頭を下げたところを見ると、遠藤の父親で間違いないだろう。
「申し訳ありません、それは私の責任なのです……ここでは話しにくいので、自宅のほうへいらして下さい、お話致します」