47.5 sideユース4
ユースは苛立っていた。
少し前から、いくら体を痛め付けても契約主から魔力が送られてこない。
どれだけ体をかきむしり血まみれになっても、足の指をあらぬ方向に曲げてみても、羽根を引き抜いてボロボロにしてみても。
一向に、甘露の魔力はユースの身を包んではくれない。
幾度となくかきむしったせいで、顔には線が。
爪ははげ、頬はこけ、瞳はにごり、髪の毛は血でかたまりボロボロになり。
愛らしいフェアリーの姿はどこにもなく、まるで幽鬼のようだった。
『なんで……なんで……なんでっ、なんでっ、何でっ!!』
爪がはげた指で、あらぬ方向に折れ曲がった指で、何度も何度も顔面をかきむしる。
指から出た血なのか、顔の傷から流れ出た血なのか、最早区別はつかず、痛みなどとうに感じない。
不快、憎悪、嫉妬、敵意、不愉快。
不愉快不愉快不愉快不愉快不愉快。
ユースの中にある感情は悪感情のみ。
全てが気にくわないという、苛立ち。
甘露の魔力をくれない契約主。
全ての元凶の憎き毒婦。
この現状をどうしようもできない自分の不甲斐なさ。
『キライ、キラい、きらい、きらい、嫌い、嫌い! 嫌い!!』
ピチョン、ピチョン、と一定間隔で落ちる水滴すらも、ユースの神経を苛立たせる。
鼻につく甘ったるい、むせ返るほどの匂い。
日増しに濃密になっていき、今ではその波打つ魔力が目で確認できるほどだ。
ゆらゆら漂い、ある女性を形作る。
その女性が誰かすら、今のユースには解らない。
いや、どうでもいいと言った方が正しいのだろう。
それは、ある時から言葉を発するようになっていた。
最初は鬱陶しかったその声も、今では優しく耳に届く蠱惑的な調べ。
ズタボロになり、甘露しか求められなくなったユースの中に、それはスルリスルリと這いずりこんでいく。
――ウフフ、ウフフフ
『…………』
頭に響く笑い声。
反響してるのか、それとも残響なのか。
笑い声はずっと部屋に木霊する。
甘ったるい花の匂い、濃密な魔力。
それは、契約主の魔力ほどではないが、ユースの頭を痺れさせる蜜になっていた。
濃い魔力が、声がする間は更に濃く甘さが増す。
契約主の甘露の魔力が手に入らない今、ユースは花の蜜の虜になっていた。
『ちょう……だい……もっとちょうだい……』
懇願するかのように、肢体を折り曲げながらねだる。
――ウフフ、ウフフフ
『ああ……』
花の蜜が注がれ、ユースの喉元を滑り落ちる。
コクリコクリと嚥下し、すぐさま次の蜜を求める。
むさぼるように追い求めるその姿は、まさに餓鬼。
『ちょう……だい……もっとちょうだい……』
理性と思考は泥の中に沈んで溶け、ユースはもうとっくに堕ちていた。
だから、声の意味を理解する事すらできない。
――さあ、もっと蜜を得るにはどうすればいいのかしら?
いつもいつも言われていた言葉。
前までは、その言葉を拒否した。
その結果蜜がなくなり、飢餓状態に陥ったとしても、ユースはその決断に後悔などしなかった。
だが……現在は……
『カミュ……バルモルトを……殺す……』
何の躊躇いもなく口に出す。
そうしたら、濃い蜜を与えられると知ってしまっている。
『カミュ=バルモルトを殺す……カミュ=バルモルトを殺す……カミュ=バルモルトを殺す』
口にする度に噴出する濃密な快楽。
それはユースの全てを書き換える。
髪の色も瞳の色も、羽の形状も何もかも。
純朴で人間思いだったフェアリーはもうそこにはいない。
淫靡で狡猾な悪魔へと姿を変えてしまった。
『カミュ=バルモルトを……殺す!!』
ユースの魔力を阻害する法陣は既にない。
自身を阻む鉄製の小さな鳥籠を難なく粉砕し、彼女は大空へと飛翔する。
目指すは西。
軍事国家フェブラント。
乾いた空に、誰のともつかない笑い声が響いていた。