44 sideイリアレーナ2
イリアレーナは苛立たしげに爪を噛む。
先ほど、バハムートの契約者カミュ=バルモルトが目覚めたという報告を聞き、様子を見に行ったのだ。
そこで、触れられたくない事実に触れられた。
それが、激しくイリアレーナを苛立たせていた。
何かをぶち壊したくなる衝動にかられるが、物にあたる事はしない。
それが、王女としてのイリアレーナのちっぽけな矜持だった。
何としても契約者に記憶を取り戻してもらい、バハムートを使役してもらわなくてはならない。
シヴァの属性は氷。
相手は天敵、炎のイフリート。
同じ名ありでも、シヴァでは分が悪い。
そして、アイミュラー軍と激突するであろう日は、イリアレーナとシヴァの力が格段に落ちる日だった。
時期と相手が悪すぎる。
抑える事は出来ても、撃退する事は困難。
バハムートを味方につけない限り、フェブラントに勝ち目はない。
もう1つだけ手段がないことはないのだが、これは少し分が悪い。
イリアレーナは逡巡しながら、先ほどまでにらめっこしていたフェブラントの地図にまた視線を落とす。
その地図には、物見や召喚獣から報告されたアイミュラー軍の進軍路が書き込まれていた。
「帝都まで来させるわけにはいかない。やっぱり、戦場に最適なのはここの平原……」
すでに、周囲の集落や町の住民の避難は終えている。
アイミュラー軍の進軍速度から考えて、約4日後。
イリアレーナは忌々しげに自身の下腹部をおさえる。
シヴァを呼び出し、あの一行の位置を探る。
「ギリギリかしら……ね」
イフリート対策として、あの名ありの力を使うとしてもそれだけですむとは限らなかった。
裏にいるのは、あのハネアリなのだ。
何を繰り出してくるか解らない。
最終的には、必ずバハムートの力が必要になってくる。
コンコンと扉がノックされ、部屋の主であるイリアレーナは入室を許可する。
顔を出したのは侍女アルマ。
「陛下がお呼びです」の一言に、少女は顔をしかめた。
内心舌打ちをしながら「すぐに行きます」と返事をし、マントの上から更に分厚い、足元まである外套を羽織り部屋を出た。
カッ、カッと足音を響かせながら、廊下を進む。
重い扉を開け離れを出、国王陛下がいる玉座の間へと向かう。
いくつもの通路を通りすぎたが、人の気配はなく寒々としている。
アイミュラー軍の侵攻と同時に、王族と有力貴族はドラゴニアへ避難した。
使用人も警備も最低限だけを残し、多くの民衆とともに他の城塞都市へ避難。
フェブラント軍の多くも、城塞都市の結界要員として駆り出されている。
だからこそ、玉座の間へと繋がる通路をイリアレーナがこうして堂々と歩けているのだ。
基本的に、シヴァの契約者である彼女が離れを出る事はない。
玉座の間へと続く扉を警備の者が開き、イリアレーナは玉座へと歩を進める。
警備の者は平静を装っているが、恐怖を押し殺しているのか扉を開く指が震えていた。
(いつもの事)
玉座に座るイリアレーナの父親、フェブラント現国王。
大国フェブラントの王であるにも関わらず、その服装は至って簡素なものだった。
軍事大国フェブラントは、王族も幼少の頃より召喚術と剣才を鍛えられる。
現フェブラント王は、召喚の才には恵まれなかったが剣才には恵まれ、若い頃は勇猛で知られたものだった。
齢40を越えてもなお精悍さを保ち、肉体は引き締まっている。
イリアレーナは裾をつまみながら国王陛下に礼をする。
だが、あいさつが終わらぬうちに、フェブラント王は話し始めた。
「あれはどうなっている」
父娘の心温まる会話などどこにもない。
「若干の記憶は取り戻したみたいですが、バハムートを使役するには至っておりません」
その言葉に、フェブラント王は眉をしかめた。
「あれを連れてきてから何日たっている」
「申し訳ありません」
「お前はこの数日何をやっていたのだ」
「申し訳ありません」
ただ謝罪の言葉を述べ続けるイリアレーナ。
他の言葉など意味がないという事を、少女はよく知っていた。
フェブラント王の小言を受け流しながら、横目である人の姿を探し続ける。
(お母様……)
見当たらないし気配もしない。
(やはり、ドラゴニアへ避難を……)
避難したからこれで大丈夫という安心感がありつつも、一目姿を見たかったと落胆する。
1人落ち込みながら小言を受け流していると、フェブラント王が決して言ってはならぬ事を口にした。
「あのような小さな人間と契約するなど、竜王バハムートは正気なのか? 一体何を考えているんだ」
「っ痛ぅ!!」
フェブラント王がバハムートを貶したその瞬間、イリアレーナの全身に痛みがはしり、シヴァが冷気とともに姿をあらわす。
その瞳はフェブラント王を捉えていた。
『今、何て言ったのかしら?』
低く重いシヴァの声が室内に響く。
声を震わせる度に、歩を進める度に。
床が、天井が、調度品が。
シヴァの凍てつく空気が全てを凍らせていく。
名あり召喚獣の怒りと殺気を真正面から浴びたフェブラント王は、哀れパクパクと口を動かす。
『生かされているだけの哀れな小鳥が、飼い主に牙をむけると? 貴方達の命と繁栄があるのは誰のおかげ?』
フェブラントの王族には、決して侵してはならない禁がある。
「竜王バハムートを貶すべからず」
その禁を侵した者はシヴァの逆鱗に触れる。
フェブラント王は、今シヴァの怒りに触れたのだ。
ゆっくりとシヴァの手がフェブラント王に伸ばされる。
溢れだす冷気で、王の髭や髪の毛の毛先が凍っていく。
王の瞳が恐怖と後悔に染まるが、もう遅い。
己の浅慮さを胸に刻みながら、人生を終えるのだ。
「待って……ください!」
イリアレーナは、痛む身体をおして叫んだ。
「お願いします! お待ちください!」
手はピタリと止まり、シヴァは己の契約者を振り返る事もせず、不機嫌な声を出す。
『私に命令するつもり? 殺されたいの? マスター』
契約者であるイリアレーナには、シヴァがこれ以上ないほどに気分を害しているのが解った。
下手をすれば、契約者である彼女でさえ殺すほどに。
だが、彼女には勝算があった。
シヴァが、契約者である己を殺す事はないと。
「命令ではありません、お願いです。王を殺すのはどうかおやめください」
『この男はバハムート様を貶した。その罪はとても重い』
フェブラント王にかざされた右手に魔力が集まっていく。
「バハムート様を貶した愚かな王でも、この先竜王山があるドラゴニアを守っていく為には必要な人材なのです。この先さらに、バハムート様の為に粉骨砕身いたしますので、どうか……!」
シヴァの右手がフェブラント王からイリアレーナに向けられる。
が、魔力が放たれる事はなく、右手はゆっくりと下ろされた。
『……2度目はない』
「あ、ありがとうございます!」
シヴァが契約者の体内に戻り、イリアレーナは荒い呼吸を繰り返す。
パクパクと開閉を繰り返していたフェブラント王は、玉座にかけたまま激昂する。
「王に向かって何という無礼な召喚獣だ!」
内心舌打ちをしながら荒い呼吸を押さえつけ、力が入らない足で何とか立ち上がる。
「口を慎んでください、陛下。フェブラントで何よりも優先すべきはシヴァとバハムートです。その優先順位は、王よりも上だという事をご存じでしょう?」
「お前は契約者だろう! しっかりとシヴァを押さえつけろ!」
「口を慎んでくださいと申し上げたはずです。今この時も、シヴァは私達の会話を聞いています」
「!?」
激したフェブラント王は、慌てて自分の口を押さえた。
そんな反応に、イリアレーナは呆れていた。
「次にシヴァの機嫌を損ねたら、そこで終わりです。私でも庇いきれません」
「えぇい、ならばさっさと離れへ戻るが良い!」
その言葉に従い、イリアレーナは礼をして辞した。
重たい身体を引きずりながら、離れへと向かう。
その道中で、イリアレーナはため息をこぼす。
現フェブラント王は召喚の才に恵まれなかった。
そのせいなのか、シヴァやバハムート、召喚師を軽視するところがある。
それでも、今まではここまでの危機にフェブラントが晒された事がないからやっていけたのだ。
名ありの力を借りるまでの事がなかったから。
(どうして、あの男の尻拭いをしなくちゃいけないの……)
そう思った事は何度あったか。
望んで契約者になったわけでもないのに。
離れで半ば軟禁され、忌避され恐れられ。
痛みや寒さに耐え続けなければならない生活。
それでも、ここに留まり続ける理由。
(お母様……)
シヴァと契約した10歳の誕生日。
あの日から、蝶よ花よと愛でられ慈しまれていたイリアレーナの人生は一変したのだった。
『マスター』
イリアレーナの人生を変えた元凶が、にこやかに声をかけてくる。
「……シヴァ。まだ何か用が?」
『気になった事がありましたから』
先ほどと口調が違う。
少しは機嫌がなおったらしい。
『どうしてあの子に教えなかったんですか? あの村を捨てる事を決断したのはフェブラント王だって』
「……」
『あの村はフェブラント領内にあってフェブラントではない。クリアヌスタ峡谷に近く、村人の大半がタイタンの一族の血縁。むしろあそこは、タイタンの領域と言っていい。そんな場所に加護を敷くのはとてつもない重労働。そんなところに労力をさくくらいなら、他の場所の防備をあつくしろって言ったのはフェブラント王ですよ?』
「……」
『ならば、早めに他の都市への避難をっていうマスターの直訴をはねのけたのもフェブラント王。どうして、その事を教えなかったんですか?』
イリアレーナの手が動く。
爪が手袋ごしに食い込むほど、力強く拳を握りしめている。
「……それを看過したのは、他ならぬ私です」
マントを翻し、その話は終わりだとばかりに無理矢理打ち切る。
「部屋に戻ります」
◆◆◆◆◆◆
自室に戻ったイリアレーナは机に向かう気になれず、ソファーのクッションに顔を埋めた。
白ウサギの模様が刺繍されたそのクッションは、彼女の9歳の誕生日に母親から贈られたものだった。
実質、最後の誕生日プレゼントになったそれを、彼女はとても大切にしていた。
もう、母親の温もりも残り香も何もない。
契約者になったばかりの頃は、よくこれを抱きしめ、泣きながら眠りについたものだった。
「お母様……」
イリアレーナは自分の弱さと醜さを嫌悪する。
あの村の事でフェブラント王に押しきられた理由は母親だった。
――あの村にかかって無駄な労力を使えば使うほど、母親が危険にさらされるぞ――
そう言われては、もう彼女に抵抗する意志は残っていなかった。
母親の命と村人達の命を天秤にかけ、彼女はたった1人の母親を選んだのだ。
何を犠牲にしても、母を守る。
それが、イリアレーナが下した決断だった。
「……何を……犠牲にしても……」
彼女は、すでに数十人を見捨てる事を決断した。
ならば、1人や2人増えたところで、何が変わるというのだろうか。
イリアレーナは立ち上がり、気を引き締めた。
そこに、母を想い涙する少女はもういない。
全てを凍てつかせる氷の化身。
フェブラントの兵器がそこにはいた。
「契約者様の記憶が戻らぬなら、あちらを使うしかありません」
『覚悟が決まったんですか?』
シヴァが愉快そうに唇をほころばせる。
先ほどまでなら、その声も表情も、イリアレーナにとっては不快でしかなかっただろう。
だが、今は少しもざわつかない。
「覚悟も何もありません。私のやるべき事をやる。それだけです」
『ああ、それでこそ私のマスター』
頬を紅潮させ、とろけるような笑みを浮かべるシヴァ。
『冷酷無比なその姿。血にまみれ汚泥にまみれ、なおも自分の欲望のままに突き進むその眼差し。とても、私好みです。そんな貴方なら、私は力を貸しましょう』
後ろからシヴァが身体をくねらせながらまとわりつき、イリアレーナの目元に愛おしそうに口づけする。
「力を貸す? 当たり前でしょう? これはバハムートを守る事にもなるんですから」
上から目線で返すイリアレーナに、シヴァはさらに笑みを深くする。
『さあ、マスター。あの一行は今、ここにいますわ。そして、もう1つがこちら』
シヴァはその細い指で、机の上に広げられたフェブラントの地図を示す。
「なら、向こうに指示を出します」
イリアレーナは精神を集中し、遠くにいる人物に声を届ける。
「スパイが1人だけなんて、誰が言ったのかしらね」
冷え冷えとした声が、室内によく響く。
凍てつく王女を表すかのように、窓の外は吹雪。
ゴウゴウと吹き荒れる氷雪が、一切の光を遮断していた。





