First magic ファーストコンタクト 4
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まさか三人そろって帰ることになるとは……本当に人生は何が起こるかわからない。一寸先は闇。というか、現在進行形で起こっていることを適切に表現すると一寸先はゴミ。僕が来たときと同じくゴミの山こそ落ちてこなかったが、五味さんが玄関のドアを開けると強烈なニオイが襲ってきた。
「五味さんってまさか」
耳打ちがデフォになりつつある影野君。さすがにTVで紹介された五味家のことは知っているらしい。
「カニのニオイはするけれど、イカ臭いニオイはしないでしょ」
まさかの下ネタ。僕達がニオイに反応したので、照れ隠しのつもりかもしれないが、自虐っぽくしか聞こえない。
「今日は道があるわよ」
五味さんの言うとおり廊下に獣道みたいにフローリングの床が見えていた。ただし、昨日より気温が上がったせいで臭いはキツイ。
影野君が五味家に入るのを躊躇しているので、言葉ではなく物理的に両手で背中を押してやる。おい!と声には出さなかったが、口の動きが読み取れた。
「異世界の『忘れ物窓口』で腕時計に触ってくれればいいのだ」
──あれ?いまなんか頭の中で何か聞こえたぞ。悪魔の囁きなのか?
「そうして彼は友達を裏切り、悪の道を進みながら……」
「おまえかよ!」僕は思わず大声を出す。なぜなら五味さんが悪戯っぽい目をして僕の耳に小声で喋っていたからだ。
「どうした?」影野君が眉を寄せた顔で振り向く。
「なんでもないよ」僕は聞かれていなかったことに安堵する。
後ろから五味さんの「ククッ」という卑屈な笑いがもれ、完全に遊ばれてしまった。
「とりあえず異世界に行こうぜ」
影野君から前向きな発言が出た。なんというお人好しなのか。僕が無理やりゴミ屋敷の中へ押し込んだのに、不満をもらさず、行動を共にしてくれる。僕はそんな彼の性格を知っていて物理的な手段を講じてしまった。彼が腕時計を盗んだなんて思えない。
「面白いことになりそうね」
五味さんは率直な感想を無遠慮に口にした。二人が揉めることを密かに願っているようだ。
「このまま進めばいいのか?」
そんな五味さんの発言をナイスなほどスルーして影野君は尋ねる。
「そうよ」やや口を尖らせて五味さんが返事をする。
昨日は右上のリビングらしい部屋までいつの間にか連行されたわけだが、今日はそこまで行かず、Hの真ん中にある裏庭へ直行。
「外に出るのか?」
僕は靴を脱いで持って歩いてきたが、影野君は土足だった。
「行くよぉ~」
そう言うと五味さんは僕と影野君の腕を掴んで走る。楽しそうに、愉快そうに、汚いプールへダイビング。今日は水着に着替える気分じゃないらしい。もしかすると影野君に逃げる隙を与えないためかもしれない。
影野君の悲鳴なようものが聞こえた。
僕は二人の後に続く。付き添う必要もないけれど、影野君がかわいそうだし、腕時計が手に入らないのは困る。それを計算のうえで僕の手を握らず、放置してもついてくると見越して行動する五味さんを侮ってはいけない。
──同情するよ、影野君。
緑色のドロッとした汚水は、二回目の僕でも慣れるこができない。ただし、昨日よりも心の準備があったからなのか、頬をふくらませて酸素補給は十分。
五味さんと影野君のバタ足を追いかけたが、視界不良で見失いそうになった。どちらかの足を掴もうとすると蹴られてしまい、迷っていると五味さんの手が伸びてきて、四角い穴へ放り込まれる。
「おい、ものすごく汚い池に飛び込んだ気がするぞ。それにここはどこだよ?コインローカーの中から俺達は出て来たのか?」
すでにコインロッカーから出ていた影野君は軽いパニックに陥っていた。
「池じゃなくプールよ」
無駄を省いた簡潔な説明をした五味さんが歩き出すと、金魚のフンのようについていくしかない僕ら。そして、予想通り「な、なんだよ、あれ……」と〝半人前〟を見て驚愕する影野君を見ていると、教えてやらずにはいられない。
「……というわけなんだ」
僕が知る限りの情報をできるだけ教えた。
「いや、説明になってないだろ」正論を言ってくる影野君に苦笑いで誤魔化す。「結局は具体的な説明を五味さんから聞いてないんだな」
怒っているわけではないけれど、不安と不満が入り混じる影野君の迫力に押されて「うん」とだけしか返事ができないのが申し訳なかった。
「本当に異世界なのか……」
影野君は興味津々で目をキョロキョロさせ、学校では見せない姿を披露する。
連絡通路の右側を進んで『忘れ物窓口』へ。
制服姿の女の人が棒立ちのまま、カウンターで待っている。そして「ちょっと待ってね」と先にカウンターに向かって女の人と軽く会話する五味さんは、昨日と同じ行動を繰り返す。
「忘れ物窓口……帽子に二本線?!」
影野君は女の人が被っている帽子に着目。確かに目立つデザインなのだが、深い意味があるとは思えず、真剣に悩んでいる様子は理解しがたい。
その隙にぼくはカウンターの上で半透明に揺らぐ腕時計を確認済だ。
「さぁ、あなた達の番よ」五味さんが僕らを呼び寄せる。
「俺は忘れ物なんてしていないのだが」
ここに来た目的が異世界を見るだけ、なのだから影野君は拒否をした。これはマズイ。ここまできたら、なんとか腕時計に触ってもらわないといけない。
「とりあえず異世界のことがわかるヒントがあるかもしれないから」と背中を押す。
「黒須おまえ変だぞ!」
影野君が足に力を入れて過剰に拒む。
「大丈夫、死にはしないよ」
僕の黒い心が着火してしまったらしく、影野君を押している両手に力が入る。勘のいい奴。カウンターまで三メートル。もうひと押し。
「おい、やめろ!」
「ここまで来たんだから、なんでも体験すべきだよ」
「もうお腹一杯だ」
「まぁまぁ、そんなこと言わずに」
笑顔で背中をグイグイ押し続ける。そんな二人を微笑ましく見詰める五味さんと無表情の女の駅員さん。傍から見て異様な光景なのは間違いない。
「それに触れば影野君が聖人だということを証明できるんだよ」
自分でも理不尽なことをしているのはわかっているが、初めてフルマラソンに挑戦し、ゴールテープを目の当たりしたランナーズハイの心境で歯止めが利かない。
「おい、やめないと本当に怒るぞ!」
「触れば解決するんだよ」
有無を言わせず影野君の利き腕じゃない左手を両手で掴み、腕時計に近づける。
「な、なんだ、それ?」
カウンターの上で透明に揺れる影に脅える影野君。
「家で好きなだけマンガ読ませてあげるから!」
あと三十センチのところで粘られて膠着状態になった。これ以上力を入れると、痛みを与えてしまうので手を離そうかと考え始めたとき、小さいながら力強い手が重なってくる。
「なにがしたいんだよ、おまえらは!」
力士が色紙に手形を押すみたいにカウンターに手のひらを押し付けることに成功。最後のひと押しは五味さんで、手助けしてくれたわけではなく、面白がって加勢してきたのだ。
結果は僕のときと同じで、半透明の腕時計を影野君の手が素通りする。僕はほっとしたような残念なような複雑な気持ちになる。五味さんは「はっ?」と予想外の結果に間の抜けた声を出した。おそらく彼女は影野君が腕時計を盗んでいたほうがワクワクしていたはず。
「なんだ、彼は盗んでいないのね。でも、誰かに転売した可能性は残るわ」
五味さんの空気の読めない発言を繰り出してしまう。
「黒須、よくわからんが失望したぞ」
疑われていることを察したようで、影野君のメガネが怪しく光る。
「ごめん」刹那に土下座した。ジャンプする勢いで宙に浮き、膝を畳んで着地した。頭を下げ、完璧なる謝罪を表現する。これほどきれいな土下座が自分にできるのかと思うほど完璧だった。
「とりあえず顔を上げろ」
上目使いで影野君の表情を見るとちょっと笑っている。僕と目が合うと顔を背けたが、肩が揺れていた。やっぱり影野君は良い奴だ。少しでも疑ってしまった自分が恥ずかしい。それにひきかえ、五味さんからは舌打ちが聞こえた。修羅場を期待していたようだ。女とは違い、男の友情は簡単には崩れないのだよ、と言ってやりたい。それよりも僕には事の経緯を説明する義務がある。
「突然消えるのはおかしいな。誰かが盗んだとかし思えない」
おじいちゃんの腕時計のことを話すと、影野君は一緒に悩んでくれた。
「残るは身内ね」五味さんが口を挟んでくる。
「あんたは僕を奈落の底に沈めたいんか!」
言葉遣いが荒くなるのはもう止めらない。
「でも、考えられなくはないな」影野君の眉間に刻まれるしわが深い。疑ってしまった僕に拒否権はなく、次のアクションを待つ。「家の中で起こる事件は身内が犯人の確率が高い」
──うん、そうだよ。そうだと思う。君の言うことが正解。
思い浮かんでくる最上級の褒め言葉を頭の中で列挙して素早く整理して、喋ろうとしたとき、五味さんが僕と影野君の間に両手を広げて体ごと割って入ってきた。
「たったいま、私の頭の中のカニが囁いたわ」
なんの決まり台詞だよ。どこかで似たような台詞を聞いたような気もするが、片足を後ろに上げ、蟹甲殻類大腿部歩脚身取出器具を天高く突き上げ、小さな円を描き、静止した。突っ込みを待っているのか、早く続きを聞いてきなさいと誘っているのか迷うところだが、まず後者だろう。
「カニはなにを囁いたんだ?」
プルプル腕と足が震えてきていたので質問してあげた。おまえ優しいな、みたいな同情する眼差しで影野君に見られた。
「おじいさんはあなたに直接腕時計をくれたのよね?」
「そうだよ。病気で入院する前にくれて、結果的に形見になってしまった」
「なぜあなたのおじいさんは、継承、世襲などの順番をスルーさせて、あなたに腕時計をあげたのかしら?」
五味さんから指摘されたことを否定するのは難しく、親子代々継がれていくのが自然の流れかもしれないが、深い意味があってお父さんを飛ばして僕に渡ってきたとは思えない。
「おじいちゃんとお父さんの仲は悪いわけじゃないし、気まぐれで僕にくれただけだよ」
言い訳じゃなく事実を言って家族を擁護した。
「身内をかばうにしては微妙な説明ね」
「別にかばうつもりはないよ」
「影野君が指摘した時点で、あなたも身内を疑いはじめている」
「そんなつもりは……」
五味さんからの圧力が強くて歯切れが悪くなり、言葉が続かなくなる。
「お母さんは男物の腕時計に興味はないはずで、まず犯人じゃないわ」
「そうだね」
「ということは残るは一人」
「証拠もなく決めつけるのは……」
「犯人という言い方はよくないわね。ひょっとしたら、借りパクしてうっかり失くしちゃったのかもね」
「うっかり……それはありえるかもしれない」
お父さんは下駄箱の上に置いてあるせっかくお母さんが作った愛妻弁当を忘れたり、家や車のキーをどこかに失くしたりすることが多い。物に対する執着があまりないらしく、コレクションしているマンガも所々巻数が抜けて同じ巻が二冊あったりする。
「帰ったら直接聞けば済む話しだな」
影野君がド直球の解決策を叩きつけてきた。
「それは……聞きづらい」
「なんでだ?」影野君は不思議がる。
「もしも黙ってお父さんが自分のモノにしていようとしていたら、親子関係が崩壊する」
お父さん犯人説をはっきり拒みたいが、証拠がない。
「だとするとここへ黒須のお父さんを騙して連れてくるしかないぞ」
「それは駄目よ。大人が絡むと面倒なことになるから」
影野君の提案を五味さんが拒否をした。お父さんを泥酔させてここまで連れてくるとか、強引に拉致するとか、現実的には無理がある。
「万策尽きたかな」
腕時計のことは諦めるしかないのか?お父さんに聞けば簡単に解決する話しだが、もしもの結果が出たとき、寛大な気持ちで許せないんじゃないだろうか?僕はそれほど心が広くないし、周りの状況で心の色は変化するし、さっき影野君の背中を無理やり押したときのように、悪魔になることだってあり得る。
「解決法はあるわ。時間が経てばいいのよ」
「えっ?」五味さんの余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)な断言に、不意打ちを食らわされた気分になった。
「あなたは腕時計をなくして三日で私を頼ってきたけれど、少し焦りすぎたのよ」と言いながら五味さんは腕組みをする。「たった三日見失っただけで大袈裟すぎ。一週間くらい我慢していたら、お父さんはもとの場所に戻していたかもしれないわ」
それから四日後、お父さんは申し訳なさそうに「忘れてた」と腕時計を僕に返しにきた。自分の腕時計をどこかへ失くして、黙って借りていったらしい。
「探してたんだぞ!」と当然怒ったわけだが、「すまん」とひと言謝られて終了。五味さんが言ったとおり腕時計がなくなってちょうど一週間後の出来事である。
あっけなく今回の事件は幕を閉じたわけだが、五味さんに助けを求めたことが正解だったのか不正解だったのか、早急に答えを出すのは時期尚早。ただ、世の中には時間が解決してくれることや、普段からの家族との対話の必要性を認識させてくれたのは感謝しないといけない。