First magic ファーストコンタクト 2
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ゴミの山を泳いできた五味さんに会ってから五分後、僕はリビングらしい部屋に招かれた。なぜ〝らしい〟のかといえば、ゴミだらけでどんな部屋か見分けがつかず、一応僕はお客さんなので、客をもてなすのはリビングかなと思っただけである。
意外にも「失くしたモノを探してもらえると聞いて……」と戸惑いながら切り出すと、手を握られ、亀に連れていかれる浦島太郎のごとく家の中へ引き込まれた。
リビングらしい部屋の真ん中に座布団二枚のスペースが存在し、向き合って正座。なぜか五味さんは学校を休んでいるはずなのに、リボンこそつけてないが、丸襟の白いスクールブラウスの長袖と、紺とグリーンのチェック柄のスカートを履いているのは疑問だ。
ゴミでガラスの壁が隠れているので部屋は暗いが、五味さんがパン!と手を叩くと天井のLEDシーリングライトが点灯した。周りはゴミの山なのに不思議なことにニオイはない。香水か消臭剤でニオイを抑えているのか、やっと息継ぎができて深呼吸することが可能な状況になる。
「同じ高校の二年三組の黒須といいます」
「へぇ~二年生なんだ」
僕が自己紹介を済ませると、五味さんは相槌を打つ。アイドル級ではないけれど、目はアーモンド形で大きく、その他の顔のパーツは控えめで品があり、アイドルのオーデションの二次審査くらいまでは合格しそうなレベル。
「本当に見つけてくれるんですか?」
部屋のゴミの山に慣れる気がしなくて居心地が悪く、早目に本題に入る。
「もちの論。ただし、条件付きよ」
「条件って?」
「報酬はカニで払ってもらうわ」
「カニって甲殻類の食べるカニのことですか?」
「そうよ。他になにがあるのよ」
「カニ限定ですか?」
「そうよ」
「どうしてカニなんですか?」
JKが堂々と初対面の人間にカニをお金の代わりに要求するのは、突っ込みどころ満載だ。
「この世のカニをすべて食い尽くしたい!という願望が抑え切れないのよね」
かっこつける内容ではないのに、五味さんは肩まであるストレートの髪をかきあげて気取りながら言う。
「単純に好きなだけなんですか?」
くどい突っ込みになってしまうが、単純なカニ好きとはレベルが違う気がして、興味がわいてきてしまった。
「それもあるけど、一番大きな理由としてカニは死んだ妹の敵だから」
さらりとものすごい理由を聞かされた。妹さんは巨大なカニの化け物にでも殺されたのか?いやいや、それはないとして、海水浴中にハサミで切られ、傷口から不運にも菌が入って感染して死んでしまったとか、脳内で妄想が縦横無尽にふくらむ。
「冗談ですよね?」本当かもしれないという過剰な配慮もあって、聞き方が遠慮気味になってしまう。
「信じるか信じないかはあなた次第よ」
五味さんが正座から片足を一歩前に出して制服のスカートから片足の太腿をさらけ出し、腰を屈めて挑んでくるように聞いてくる。信じなさいよ!という脅しにしか思えないポーズで、手を差し出せば〝おひけいなすって〟の古い任侠映画を連想させ、威圧感が半端なく、逆らえない空気が漂う。
「も、もちろん信じますよ」
苦笑いで対応するのが精一杯で、自分でもどうしてこんなに動揺するのかわからない。相手は上級生とはいえ自分より体が小さい女子である。しかし、なんだろう……彼女から凶器滲みたオーラが出ている気がして、自分は触れてはいけないものに触れようとしているのでは?とすでに脅迫観念に囚われている。
「緊張することないわ」五味さんが気遣う言葉をかけてくれたが、目は怯える小動物を弄ぼうとする好奇心と傲慢さが入り混じっていた。「刺激が強すぎたようだから、もっと軽くて砕けた理由を教えてあげるわ。現金をもらうと変な噂がネットで広まるでしょ」と今度は天使のような笑顔に早変わりさせる。
「お金をカニに代えただけで、結局は結構な値段を払うことになりますよね?」
このままでは五味さんに奴隷のごとくこき使われそうな危険を察知した僕は、ひと呼吸おいてから尋ねた。
「あら、只より怖いものはないのよ」
五味さんは不適に薄く白い歯を浮かせてまた表情を変えた。
「高校生が現金を使って取引するのは、問題があるかもしれないですね」
これだけ表情が天気のようにコロコロ変わるのは性格も直情的なのかもしれない。なので、ここは五味さんの機嫌を損ねないことを心がけて調子を合わせる。
「できれば毛ガニでよろしく」
「は、はい」まさか種類まで指定してくるとは思わず戸惑ってしまった。
「契約が完了したらできるだけ早く送ってね。着払いにしたら、殺す!」
「は、は、はい」
〝 殺す!〟と言ったときの五味さんの顔に殺意がみなぎっていだ気がして、返事をする声が震えた。
「裏切ったら、あなたをカニのようにバラバラにして食すわよ」
五味さんはどこからともなくキッチン用ハサミと、先端が蛇の舌のおように二股に分かれている金属の細長い棒を得意気に突き出す。恐らくカニの身を引っ張り出すカニフォークと呼ばれるモノだ。かなりのカニ好きなのはわかった。
「あまり殺すとか、物騒な言葉を使わないほうが……」
言ったあとで余計なことを口走ってしまったと後悔して、語尾が尻すぼみになる。
「あら、上級生に意見するつもり?」
やはり五味さんは説教だと受け止めてしまったらしく、不満そうに尋ねてきた。
「いいえ、かわいい顔と持っている物が、不釣り合いかなと思って」
必死のフォローも胡麻を擂るだけのものになってしまったが、五味さんの顔がかわいいのは事実だ。
「物騒な言葉をこれから何回もあなたは聞くことになるでしょうね。最近だと二回猛烈な殺意を感じたわ。一つ目はカニを着払いで送られたとき。もうひとつはその辺で捕まえたらしい沢ガ二を大量に送られてきたときよ」
五味さんの目がつり上がりかわいいアーモンド形の丸みが消え、悪戯っぽい目に変わった。食べ物の恨みの怖さを僕は目の当たりにしている。かわいいと判断した顔は撤回する必要があるかもしれない。
「あなたは私の裏稼業をどこで知ったの?」
五味さんが釣り上がった目を怪しく細めて聞いてくる。
「友達の友達のそのまた友達から、それっぽい噂を聞きました」
咄嗟に思いついてごまかした。実はネットでうちの学校の裏サイトで掴んだ情報で、五味さんが言う裏稼業の情報を知った。「あなたが嘘を言っているかは問い詰めないわ。だって、ある程度噂が流れていないと、私の裏稼業は継続できないから」
「そ、そうなんですね」
彼女はTV出演の苦い過去の経験があるから、ネットの噂には敏感な気がしていたのだが、無駄な配慮だったようだ。
「ちょっとお願いしてもいいかしら?」
「なんでしょう?」
「私がカニバリズムという噂を学校で流してほしいの」
「どうして?」
「カニが報酬だということを印象づけないといけないわ」
「本当にそんな噂流していいんですか?カニバリズムはいきすぎた表現のような気がしますけど」
カニバリズムの意味を理解しているのか疑問なので念を押す。
「カニを食べ続ける狂人のことでしょ?」
「ち、違いますよ」
「そうなの?」
「人肉を食べる習慣のことを言うのですが……」
「チッ、しまった。ネットが嫌いだから調べもしなかったわ」
五味さんは顔を横に向けて激しく舌打ち。
「スマホとか持ってないんですか?」
今後の連絡方法のこともあるのでスマホを携帯しているか尋ねたけれど、内心は大声で笑ってやりたい気持ちだった。僕も鬼じゃないので、かわいい勘違いとしてとりあえず心の中に片づけておくことにする。
「広大なネットの海に溺れるわけにはいかないわ」
どこかで聞いたような台詞だ。
「そうなんですか」
あんたの家のゴミのせいで溺れそうになったけどな!という突っ込みは口に出さなかった。
「カニバリズムって何語?」
「確かスペイン語かと」
「へぇ~どうしてそんなに詳しいの?もしかしてあなたカニバリズム?」
「違いますよ!僕はアメリカのTVドラマが好きで、シリアルキラーの殺人犯を追う刑事ドラマ見て知ったんです」
五味さんはカニバリズムという言葉の響きのかっこよさで、言いたかっただけかもしれない。
「そうね。あなた虫も殺せないような顔しているものね」
五味さんの物言いは褒めるのではなく、馬鹿にする意味合いが強く感じた。
「人間に物理的な攻撃を加えた記憶はないです」
僕は体が細くて長年放置されて干からびたキャベツのように芯が貧弱で、ケンカなんてしたことがなかった。
「天然記念物を見ているようだわ」
目を大きく広げて驚き、本気でびっくりしているようだ。
「カニしか食べないんですか?」
「そんなわけないでしょ。目の前にあれば、憎くいカニを食べる!ただそれだけよ」
かっこいいこと言っている風に断言したが、単純に食い意地が張っているだけじゃないかと突っ込んでやりたい。
「カニが憎いのか好きなのか、よくわからないですね」彼女に協力してもらわないといけないので、口で言いたいことがコロッと裏返り、苦笑いになってしまう。急いでお世辞の言葉を考えた。「五味さんは表情豊かですね」
「そんなこと初めて言われたわ」
五味さんはまんざらでもない様子で微笑む。
──い、意外にチョロイな。
「僕は腕時計を失くしたんです。探してもらえますか?」
和んだところ?でやっと本題に突入。
「へぇ~探し物は腕時計なの」
「おじいちゃんからもらった古い機械式腕時計で形見なんです。腕時計の特徴は……」
「特徴は説明してくれなくてもいいわ。それより大事なのは失くすまでの所有者が誰かということ」
「所有者は僕ですけど」
「わかった。では行きましょう」
「どこへ?」
「家の裏側よ」そう言うと五味さんは立ち上がって僕の腕を掴む。またゴミの中を進むのかと嫌な気持ちになったが抵抗はしなかった。きっと何か見せたい物があるから連れて行くのだろう。いきなり腕時計があったりしたら、それはそれで驚きだが。
五味家は上空から見ると英語のHの形をしている。右上がリビングで、左上が玄関。僕と五味さんはリビングで会話をしていたと思われる。
ゴミの山をかき分けて進んでいると、「出て」と言われ、どうやらHの真ん中の横棒の下の敷地が中庭になっていて、そこへ移動したらしい。雑草がのさばっているだけで用途のない空地が広がっていた。しかしよく見ると、雑草に隠れてコンクリートが地面に打ち付けられている。
僕は五味家がリフォームされたときの妹の言葉を思い出す。
プールだ!縦十メートル、横四メートルくらいで、緑色の液体が一面に張ってある。お風呂の入浴剤で染めたのではなく、明らかに長きにわたり放置して完成した水質汚染された不気味な色合い。
「これを見せたかったんですか?」
僕が尋ねたとき、なんと五味さんは制服を脱ぎはじめていた。
──お、おい、おい……うれしいけれど、いきなりは困る。
顔を手で隠したが、もちろん指の隙間から見てしまう。依頼者が突然訪問したときに備えているのか、制服の下に着ていたのは紺色のスクール水着だった。しかも幼児体型でセクシーさが半減。いや、幼児体形は過小評価すぎたかもしれない。顔が小さくて全体のバランスが良いのでアップで撮影すればモデル並みに捏造は可能。それに、これから成長する兆しはあると、なぜか僕のほうが希望に胸を膨らませてしまう。
──プールがあって水着に着替えて、やることはひとつ……だよな。でも、しかし、これだけ汚いプールに入るつもりなのか?
「さぁ、ダイビングよ」
そう言ったあと、五味さんはビニール袋を取り出し、制服を入れて片手に持つと、また僕の腕を掴み、飛び込む姿勢に入る。
「い、嫌だ!」ゴミ屋敷まではなんとか我慢できたが、さすがに緑色の不衛生なプールに入るのはかわいい女子の先輩が一緒とはいえ、猛烈に拒否したい。
「そぉ~れぇ~」五味さんは子供のような無邪気さでジャンプする。
「やめろぉ~」大気で叫んだが、五味さんは思いの他握力が強く、腕を離せられなかった。僕が両手を使えば引き離すことは可能だったかもしれないが、瞬時の出来事で間に合わず、引きずられるようにプールに落ちる。
──崖から飛び降りる無理心中って、こんな心境なのかな。
ドロッとした感触が顔に当たった。すぐに浮上したかったが、五味さんが腕を抱き締めるようにして離してくれない。僕より体が小さいのにすごい力で潜っていく。プールが見た目よりも深く、息が続くか不安になる。水の汚さを考えると、目の粘膜もやられそうで絶対に開けたくない。
──まだ潜るのかよ!
プールの深さは古井戸クラスらしく、ダイビング免許取得のために造ったとは考えられなくもないが、一般住居ではあり得ない深さ。それにしても五味さんの肺活量は半端なく、僕は限界が近づき、口を開ければ楽になれると悪魔が誘惑してきたそのとき、瞼の外側が明るくなってきた。
「もう呼吸できるわよ」
水の抵抗もなくなり、狭い空間に体がスポッと入った感覚と、両手と両足が床のような硬くて冷たいものに触れている気もする。五味さんの声も聞こえたので、瞼と口を開けた。
「ここは?」首を左右に振る。
常識では考えられない光景が広がっていた。正方形の緑色の扉が壁一面に並び、どこからどう見てもコインロッカー。、僕の下半身部分がロッカーに入っていてプールからコインロッカーへ出てきたという憶測が成り立つ。
「落し物が届けられている駅みたいなところよ」
五味さんの手短な説明で納得できるところがあるとすれば、雑然とする雰囲気が伝わってくる点だ。前にあるコインロッカーが壁になり邪魔をしているので向こう側が見えないが、行き交う人々の足音が聞こえ、飲食店などの商業スペースが存在していそうな賑やかさを感じる。
「さっきまで五味さんの家のプールに飛び込んだはずなのに……」
「ロッカーの奥を見なさい」
言われたとおりロッカーの中を見る。扉と同じ緑色の正方形があるだけでよくわからず、足を伸ばしてつま先でちょんちょんと突いてみると、緑色の波紋が刻まれた。五味家のプールにあった水質と似ている。ただし、奥の立面に水が張って溢れてこない理屈がわからない。常識では考えられない表面張力。
「これは、なんですか?」
「私の魔法よ」
「真面目に答えてください」
「だって、これを振ったら魔法が使えたんだもん」
急にかわいい口調になり、片手でマエストロのごとく、カニフォークを指揮棒のように振って魔法少女になりきる五味さんは、説得力が台無しだ。
「普段からカニフォークを持ち歩いているのですか?」
「カニフォーク?違うわよ!これの正式名称は蟹甲殻類大腿部歩脚身取出器具と言うのよ」
カニバリズムの本来の意味を知らなかった汚名返上なのか、五味さんは勝ち誇ったように知識をひけらかしてくる。
「すごい博識ですね」
嫌味ではなく素直に褒めてあげた。蟹甲殻類大腿部歩脚身取出器具なんて突発的に出る言葉じゃないし、信用することにしよう。腕時計を探してもらうためでもあるし、帰り道もわからないし、表向きは穏やかさを演出してご機嫌を取らないといけない。まだ会って時間はそんなに経ってないけれど、五味さんはこのよくわからない場所へ僕を置いてけぼりにできる性格なのは間違いない。
「ちょっと待ってね」
五味さんはビニール袋から制服を出して水着の上から着た。僕がずぶ濡れなのに対し、水着の撥水性が良いらしく、制服のスカートや白いスクールブラウスは濡れていない。
「学校休んでいるんですよね?どうして制服を家でも着ているんですか?」
「制服ってお葬式でも出席できるでしょ。なにかと便利なのよね」
「な、なるほど」納得するような返事はしたけれど、例えが暗すぎる。冗談なのか本気なのかわからない。
「さぁ、行くわよ」五味さんの掛け声で現実へ。いや、現実なのかも疑わしい。僕はプールで溺れ死んで霊になっている可能性だってある。
コインロッカーは縦に四つ、横に六つ、全部で個体数が二十四の緑の扉があり、どれも同じ大きさで太っていなければ、人間が横になれば入れるサイズ。それが二列で六基並んでいる。コインやカードを差し込むところや鍵も料金表示もない。無料ではあるけれど、盗み放題ということなのだろうか?
手前のコインロッカーの反対側へ周ると、五味さんが言った駅みたいなところが存在した。カフェや売店があるわけじゃく、等間隔に並ぶ白くて丸い支柱と、ピカピカの床と天井も大理石で、連絡通路のように真っ直ぐ伸びている。外の景色が見えるところはなく、広告や点字ブロックや階段や分岐する出入口も見当たらない。ただ真四角で細長い空間が合わせ鏡のように無限に延々と続いている。地下の連絡通路はどこも似たり寄ったりな気はするが、ただ歩くだけのために造られたものなのか、素っ気なさすぎる。
よく観察して記憶を遡ろうとした。が、思考を闇に葬る光景が飛び込んできた。半透明で人間の形をしたモノが、何体も平然と二足歩行で移動している。透明で陽炎みたいに揺れてはいるが、人間の形で統一され、それぞれ微妙に大きさや歩く速度も違い、個性がある。
「な、なんだよ、あれ?」
「私は 〝半人前〟と呼んでいるけどね」
「半人前って……」
何か修行している人達なのか?見習いの板前なのか?聞きたいことは山ほどあるのに整理できない。
「怖がらなくても大丈夫よ」
五味さんが半分だけ振り向いて、満面の笑みを見せた。僕より身長は低いのに一学年上だと認識させられる余裕のある表情だ。
コインロッカーの裏側を背にして立っている前を〝半人前〟が次から次へと湧いて出てきて左から右へ流れていく。僕達を無視するように素通りして数メートル先にいくと、煙のように消えてしまう。幽霊?妖怪?煙草の煙より短い人生だから〝半人前〟なのか?そもそも人じゃない気がするのだが、危害を加える様子もない。
具体的な説明をしてくれないまま五味さんは 〝半人前〟の存在を気にすることなく右側に進み「ほら、あそこに腕時計があるかもしれないわよ」指を差したその先に緑色が基調で白抜き文字の『忘れ物窓口』という横書きの看板が上に掲げられていた。その下にはカウンターが設置されている。
さっき確認したときは通路が延々と続いていたはずなのに、『忘れ物窓口』が忽然と現れた?気がしてならない。少し安心できたのは半透明じゃない人間が『忘れ物窓口』の受付にいたことだ。制帽を被り、紺色の制服を着た清潔感あふれる大人の女の人が無表情で立ち、制帽には帯章と呼ばれる金色の二本の線が入っている。
「ちょっと待ってね」五味さんは先にカウンターまで行ってしまい、常連客っぽく会話を始めた。何を話しているのだろう?一言二言会話をすると、今度は笑顔で僕を手招きする。
「失くしたモノを口頭で彼女に伝えて」
言われたとおり「おじいちゃんからもらった腕時計で特徴は……」と具体的な説明に入ろうとすると、女の駅員さんは軽く頭を下げて奥に消えた。『忘れ物窓口』は天井まで木製の棚が並んで歩いてきた無機質な通路と違って昭和臭がする雰囲気。
数分後、女の駅員さんが戻ってくるとカウンターの上に何かを置いた……気がした。まずおじいちゃんからもらった腕時計は文字盤がピンクゴールドでセミスケルトンの五気圧防水。歯車がセカセカ動いているのが透けて見えるタイプのモノで、その特徴を伝えてもいないのに、なぜ持ってこられるのかという疑問と、僕の目の前には何もなかった。いや、目を凝らすと半透明の物体が見え、腕時計の形をしたモノが揺らいでぼやけている。その辺を歩き回っている 〝半人前〟と同じ質感のようで、恐る恐る指で触れようとしても感触がなく、指がカウンターに当たってしまう。
「あなたこの腕時計に最後に触れてないの?」
五味さんが非難するような喋りで聞いてくる。
「はっ?」言われたことが理解できず、首をかしげた。
「ここでは最後に触れた人間に所有権があるのよ」
「三日前に僕の部屋でなくなったから、最後に触れたのは僕しかいないはず」
最後に腕時計に触っていないと、所有権とやらが他人に移ってしまうのか?非常識すぎる理屈だけれど、すでに現在進行形で非常識すぎるレベルのことが多発しているので、思考が麻痺しているようだ。
「どこに閉まっていたの?」
「机の上の木箱」
「あなた何人家族?」
「両親と三人で暮らしだけど」
「三日間であなた以外に部屋に入った人はいる?」
「お母さんは時々掃除するときに入るけど、ここ数日は掃除した形跡はなかったです」
「他に誰か部屋に入れていないの?」
「いないと思うけど……あっ!」
「心当たりがあるのね」
「でも、まさか」
「誰なの?」
「クラスメイトの影野君」
「友達?」
「だと思っていたけれど……」
「友達でも親友でもなかったということね」
鋭い指摘だが、反論しても惨めになるだけなので、いまは聞き流すことにする。
「腕時計は返ってこないということ?」
「半透明なままだと掴めないものね」
「そんな……」僕は絶句。目の前にあるのに手に入らないなんて。高級なビーフジャーキーを前に 〝待て!〟を言われた犬の気持ちがよくわかる。
「ただし、その影野君とやらを連れてくれば、問題ないわよ。腕時計の所有権のある人物を連れてくればいいだけ」
「簡単に言わないでください」
どうやら所有権のある人がくれば腕時計が元どおりになるらしいが、ここに連れてくるなんて難易度が高すぎる。
「無闇やたらにこの異世界の存在を教えられたら困るから、あとでアドバイスしてあげるわ」
「ここは異世界なんですか?」
──その割にエルフとかゴブリンは見かけないし、世界観も現実的だけどな。
「いろいろと説明不足でごめんなさい」と口にはしたが、五味さんは具体的に説明してくれなかった。




