エピローグ
プールに駆け寄ると安堵して、私はへたり込む。こんな絶望感に打ち拉がれるポーズをするのは二度目。一度目は沙耶が死んでしまったときで、あのときは脳ミソに漂白剤をかけられたみたいに記憶が白濁した。今回は所在無げに浮かぶ私の手作りのぬいぐるみを見つけて、神懸かり的な咄嗟の判断で演技をした。数分前に沙耶の姿を目撃したからで、もちろん本物の妹じゃなく幽霊でもない。私の想いが強くなりすぎて息苦しく感じたのか、ぬいぐるみから別離した妹の残像というべき存在。証拠として全体的の色が薄く、半人前の半透明な色合いに水性の絵の具をたらした淡い色で、他の人は本物の人間に見えるかもしれないけれど、私の目は誤魔化せない。
背後から「ハハッ」とミッキーマウスの乾いた笑い声が聞こえてくる。彼女の十八番のモノマネ。
「もう、心配したじゃない!」
「ごめん、ごめん」まったく反省の色が見えない沙耶が近づいてくる。半人前をエフェクトしただけの存在で月明かりとガラスハウスからもれてくる間接照明に照らされてくっきりしてくると、色の粗さが際立つ。まるで私がパソコンを使ってイラストに色づけしたみたいな仕上がりだ。
「あぁ~あ」私はプールに視線を戻してショックを受けている、みたいな演技をする。妹を人間扱いしてあげるのが姉としての最期の優しさ。
「あっ」沙耶も異変に気づいたらしく、姉妹そろって「あっ」を連発。私が妹の分身として作ったぬいぐるみが見る見る小さくなっていく。
「外側はフェルトだけれど、中身は水を吸収しやすいウレタン素材だから縮んで重くなるのよ」
水を含んだぬいぐるみは重みを増してプールの底へ沈んでしまった。
「ごめんなさい」
「謝って済むなら……」感情的になる振りをしているので〝警察はいらない〟まで言わなかったけれど、すでに効果抜群で沙耶の両目からはボロボロ涙が落ちてくる。
「ごめんなさい」
沙耶は私より考え方が大人なのに、子供っぽいところを私にだけ見せてくれる。しかし、今回はさすがにちょっと陰湿な悪戯なので、姉として懲らしめてやる必要がる。
「プールに沈んだぬいぐるみは『魔法ぬいぐるみ博物館』というサイトで見つけた一番高い裁縫キットセットなのよ。自分の思い通りの世界へ誘ってくれる不思議な力を持っているの。自分で顔や大きさをある程度カスタマイズできて沙耶そっくりにやっと仕上げたのに、プールなんかに捨てられたら、縮んで汚れて回収するのは大変で、雑菌だらけになって抱き枕としての機能が終了しちゃったじゃない」
喋っているうちにお金と手間暇かけてきた労力を思い出して怒りが滲み出た……みたいな演技をしてみた。
「抱き枕なんか……キモくてしょうがなかったの!それに全く似てない!」
猛烈に逆ギレされてしまう。
「せっかくバージョンアップバージョンアップして、成長した沙耶も作ってあげたのに……」
「もうお姉ちゃんと口利かない!」
新しいのを作るから平気だよ、みたいなニュアンスで言ったつもりなのだけれど、沙耶は泣きながら家の中へ走っていく。
ごめんね。最後に一度だけ思いっ切り姉妹ゲンカをしてみたかったの。両親から明日引っ越しの業者さんがくると通告された途端にあなたが現れて動揺したけれど、あなたは死んだことを気づいていないかもしれないと感じて、咄嗟に生きているように振る舞えたのは奇跡かもしれない。
今考えてみれば『魔法ぬいぐるみ博物館』から届いた裁縫キットであなたそっくりのぬいぐるみを作ろうと思ったら失敗して、自分の不器用さに腹が立って私もプールに投げたことがあった。そうしたら、ぬいぐるみの沈んだ位置が人工的じゃなくスピリチュアルな雰囲気漂う淡い青色に発光して、裁縫キットセットに添えられていたカードに【尚、製品が完成した際に、深い愛情が注がれた度合によって不思議な世界へ誘ってくれるかもしれません】とおしゃれな冗談が記されていたのを思い出して、プールに飛び込むと、私の思い通りの世界ができていた。結果的に友達もできた。こんな魔法が使えるようになったのは妹のおかげ。
ガラス越しに沙耶の姿が見えた。笑っているように見える。さっきは嘘泣きだったのね。ひょっとすると妹もケンカしてみたかったのかもしれない。いいえ、違うわね。私のためにケンカして悲しまないようにさせてくれたのよね。こんな奇跡って長くは続かない気がするわ。残された時間を大切にしたいけど、ケンカした直後で近づいたら避ける演技をしてくることも考えられる。そうなればお互いの心が締め付けられるだけ。なので、寝顔を見るだけで勘弁してあげるわ。
それにしても私が作ったぬいぐるみが本物そっくりの姿で現れるなんてすごいわ。私の力を羨む黒須君の気持ちもわからないではないわね。自画自賛がとまらないわ。黒須君に話してあげたら色々と勝手な理論や憶測を思考して勝手に悩んでしまいそうね。
「クスッ……」黒須君の苦悩する表情を思い浮かべたら笑ってしまった。
この局面で私を笑わせるなんてたいしたものね。掃除や引っ越しを手伝ってもらうのを口実にすぐにでも会いたいけれど、冷却期間を二ヵ月くらい空白を空けてもこの気持ちが冷めないなら本物ね。私のいない寂しさを痛感するといいわ。私のSっ気もたいがいよね。
沙耶はそろそろ寝たかしら?早く寝顔を見せなさい。記憶の奥の引出しに大事に保管しておくから、時々開けて思い出すことくらいは許してほしいわ。私は弱い人間よ。きれいさっぱり忘れることなんてできるわけないし、妹との思い出を黒須君の記憶で上書きして消そうとした卑怯者よ。自覚しているだけ私は成長しているのかもしれないわね。
一年前のまま成長が止まった沙耶と成人に成長した沙耶の二体の他にも作りたくてうずうずしてくる。新たに裁縫キットセットを注文しようとスマホを取り出すと、うたた寝している黒須君の顔が画面を覆う。ニヤニヤが止まらないわ。家に落書きされて心配して泊まってくれたとき、隙を狙って寝顔を撮影できたけれど、なかなか寝ないので撮るのに苦労したわ。それだけこの待ち受け画面は宝物ってことよね。私って幸せ者だわ。だって周りが宝物ばかりだもの。私は半人前で心が半分死んだ状態だったのを救ってくれたのだから、感謝しないといけないわね。
二ヵ月……適当に設定した期限だけれど、長いようで短いようなちょうど良いスパン。二ヵ月後に会ったとき、黒須君はどんな顔をするかしら。想像するだけで笑いが込み上げてくるわ。
沙耶が熟睡するまで引っ越しのために慣れない後片付けでもしようかしら。まずはプールの水の排水よね。裏庭の隅へ移動して赤い抜き栓ハンドルを屈んで掴む。高さが足の踝くらいまでしかないので雑草に隠れて目立たない。子供が走り回ったりすると危ないけれど、今まで躓いてケガする人はいなかった。黒須君が怒って影野と天山を追いかけたときが、唯一のチャンスだったわね。いまとなってはだいぶ昔のことのように感じる。
──それにしても回るかしら?
ハンドルを動かすのは久々なので錆びているかもしれないと思ったけれど、私の期待を裏切るようにあっさり回った。まるで、私の魔法の力が途切れるのを後押しするみたいに……。
〈了〉