Fifth magic 姉妹 1
1
別れというのは突然に、そして唐突に訪れるものだなと感じた。その日、僕はいつもどおり学校に登校し、いつもどおり影野君と会話して、いつもどおり授業をこなし、放課後になるといつもどおり五味さんの家に向かう予定だった。
「黒須うぅぅぅぅ~た、大変だぁ~」
大げさな叫び声が聞こえ、まさかと思ったけれど、恥と外聞を捨てた影野君が走ってくる。帰りのショート・ホームルームで五味さんの家で会う約束をしたばかりだ。
「なにかあった?」
「それが……ご、五味さんが……」
息を切らしながら肝心なところで膝を折って深呼吸してしまう影野君に若干イラッときたが、後ろから追いかけてきた天山さんを見て、尋常じゃないことが起きたことを悟り、僕の心臓は締めつけられる。
「五味さんが……」
「家を出て……家族がいるマン……マンションで一緒に暮らすみたいだぞ」
同じく過呼吸気味の天山さんの言葉に被せるように影野君が説明してくれた。ちゃんと聞き取れたか自分自身に不安になったけれど、要約すると五味さんが僕達の前から消えるということ。
気づくと僕は走っていた。
五味さんの性格だと何も言わずにいなくなることは考えられる。
間に合うかどうかはわからないが、せっせと五味家を掃除してきた僕にはひと言いわせてもらう権利くらいあるはず。腕時計がなくなって五味家を訪れたときから昨日までの出来事がフラッシュバックしてきた。思い出すのはコロコロ変わる五味さんの表情ばかりで、どんなに面白い映画やアニメやドラマやバラエティー番組より見飽きるなんてことはない。道中、五味さんのことで頭が埋め尽くされて車に轢かれそうになり、これではいけないと、お父さんが車の中でよく聴く『殴りに行こうかぁ~』なんてフレーズの昔の曲で無理やり集中力を飼い馴らし、無事に五味家に辿り着いた。
まずなんて五味さんに声をかけようかイメージしたが、そんな思考は五味家を見た途端、セピア色に染められて瞬殺されてしまう。昨日までの思い出が塗り潰されてしまった。
五味家がきれいになっている。これは、TVでリフォームが完成したときと同じ姿。ガラス張りの壁はピカピカで夕陽をキラキラ反射していた。ダンボール箱がひとつもなく、いつもの見慣れた光景とは違い、プライバシーが保護されていないガラスハウスは自分に透視能力があるのかと勘違いするほど透き通って家の奥まで見渡せる。アドレス交換くらいしとけばよかったと痛切に後悔しつつ、影野君に調べてもらえれば大丈夫という楽観的な考えで傷心を補う。それにしてもあまりにもきれいに片付いている。よく見ると中の家具類も新しいものばかりで、どうぞごらんください、とばかりにショーケースのごとく展示物化され、こんなことがやれる決断と実行力がるのは大人で、五味さんがよく言っていた〝大人が絡むと面倒なことになるから〟が現実になったわけだ。
壊れていたドアホンも新品に変わっていて、鳴らしてみたが応答はなく、ドアレバーを引こうとしたが当然のごとくカギがかかっている。五味家から展示物のガラスハウスになってしまい人の気配を感じない……が、人影を視界に捉えた。人の気配はしなかったのに視覚が偶然見つけてくれたことに感謝する。全体が丸見えのガラスハウスが役に立ってくれた。
この建物が五味家の手から離れたのであれば、引っ越し業者の人かもしれないが、不法侵入者の可能性もあり、お節介ではあるが裏側へと周る。解放感を理由に柵や塀がないのでガラスの壁越しに小柄な人影を確認できた。五味さんよりひとまわり体が小さく落胆したが、五味家の関係者の可能性もあるので興味がわく。プールは水が抜かれてコンクリートの器になっていた。その人影は裏庭の周りをゆっくり歩きながらデジカメを構えて風景を撮影している。こちらには気づいていない様子。中学生くらいの女の子だろうか、ピンクに青いラインが入ったジャージを着ていた。どことなく五味さんの面影があるような気がする風貌だ。
びっくりさせてはいけなので「あのぉ~」と恐る恐る声をかけてみたが無反応で、どうやら耳にイヤホンをして音楽を聞いているらしく、僕の声が聞こえないみたいだ。四度目の声かけでようやく僕の気配に気づき「あっ!」と声を上げた。
「お姉ちゃんの彼氏さんの黒須さんですよね?はじめまして五味沙耶です」
もっと警戒されるかと思ったが、その少女は耳のイヤホンを外して深々とお辞儀をする。そして、彼女は大きな勘違いをしているので訂正しなければいけない。
「彼氏ではないんだ……えぇ~とね、お姉さんからなんて聞いたのかわからないけど、それは冗談で、僕とお姉さんは……仲の良い……友人だよ」
喋っていて自分でもよくわからない説明になってしまったことを自覚する。単純に友達と言おうとしただけなのに、五味さんが上級生という立場を配慮して妙な間をつくり、友人なんて社交辞令な言葉を使ってしまった。
「友人なんですか?そうは見えなかったけどな」
沙耶ちゃんは僕と五味さんが一緒にいるところを見たようなことを言う。今が初対面なのでそれはあり得ない話しなのだが、盗撮などをして見られた可能性はある。
「五味さんの妹は沙耶ちゃん一人だけだよね?」
他の姉妹の有無を正確に把握したかった。今は僕と五味さんの関係より、残酷だけど、もっとしっかり確かめなければいけないことがある。
「そうですよ」スマイル全開で沙耶ちゃんが答えてくれた。目や鼻や口が化粧しているのかと思うほどパーツのラインがくっきりしていて、喋り方も落ち着いているので姉よりも大人っぽく見え、三つ編みで左右に分けたお下げ髪だけが唯一子供っぽい。
「僕は五味さんから聞いた話しや態度で、妹さんは……もうこの世にはいないと思っていたんだけど……」
ものすごく聞きにくいことではあるけれど、傷つけないように配慮した。それでも言葉の内容は無慈悲なものになってしまう。
「この世にいない?なるほど!」
言ったあとで沙耶ちゃんはクスクス笑う。
「僕の勘違いだったらごめんね」
「勘違い?自分を責めないでください。悪いのはきっとお姉ちゃんです。私は死んだことは自覚していますら」
「そ、そうなんだ」
「お姉ちゃんは寂しがり屋のくせにここで独り暮らししたいとか駄々をこねちゃうし、私の等身大のぬいぐるみを作って眺めていたり、抱き枕にしたり、困った姉なのです。それに全然似てないんですよ」
「等身大のぬいぐるみ……」
「いまはバージョンアップとか第二形態とか言って成長した姿にさせているみたいだけど」
成長……思い浮かぶのは異世界にいる女の駅員さん。
「しかも、そのぬいぐるみにどこかの制服を着せて楽しんでいるんですよ」
「制服……か」
女の駅員さんはコスプレさせた妹さんのぬいぐるみだったのか?『忘れ物窓口』に行ってまず会話していたのは、成長した妹に見立てて寂しさを紛らわしていたのか?
「私、気持ち悪くてプールに投げたことあるんですよ」
沙耶ちゃんは怒ってはいるが笑顔を絶やさない。僕が兄ならどんなことをされても許してしまいそうな笑顔を見せ、賢そうで快活で、こんな妹がいたら幸せだろうし、五味さんが溺愛してしまうのも無理はない。
「君は『忘れ物窓口』に行ったことある?」
「えっ?」沙耶ちゃんは自分の耳を疑うように、すいません、もう一度言ってみてくださいみたいな顔をする。
「忘れてくれ」両手を小刻みに振って発言を取り消す。『忘れ物窓口』に自分の分身があることは知らないようで、余計な災いの種を撒く必要はない。
「ちょっと気になりますねぇ~」
沙耶ちゃんが目を極限に細くさせて疑ってきたので、「ところで何を撮っていたの?」と質問をしてはぐらかす。沙耶ちゃんが持っているデジカメも正直気になっていた。なにか心残りがあるから撮影していたのではないだろうか?
「両親とお姉ちゃんは引っ越しの荷物と一緒にマンションに帰ったけれど、短い時間しか住んでいないこの家でも記憶の一部として残しておきたかったの」沙耶ちゃんはシャッター音を響かせながら記憶を一枚一枚切り撮っていく。思い出を大切にしたいという行動の現れで、恐らく五味さんにはない発想だ。「よし、これで代は満足じゃ」玄関やや斜めから家全体をファインダーにおさめて撮影すると、彼女はデジカメをケースに入れた。
「駅まで送るよ」と言うと、沙耶ちゃんは甲斐甲斐しくうなずく。「お姉ちゃんはなぜ急にこの家を離れる決心をしたのかな?」タイミングを見計らって核心部分の質問に入る。
「聞いてなかったんですか?」
「うん。肝心なことは話してくれない人だから」
「お姉ちゃんらしいですね」
「嫌われているのかもしれない」
「そんなことないと思いますよ」
「なんで?」
「だってお姉ちゃんのスマホの壁紙はあなたの寝顔にしているんですよ。だから私はあなたを彼氏さんだとすぐにわかったわけなのです」
満足そうな笑顔を浮かべる沙耶ちゃんの表情は、やっぱり五味さんに似ている。それと、僕達の前でスマホを見せなかった理由も判明して戸惑いと照れが交差する。
「嫌われていないと思う理由はもうひとつあります。この家を買い取りたいという変わり者が現れたみたいで、それでこの家を売ることにしたみたいです。お姉ちゃんはここを出たくなったんじゃなくて、強制的に出ていくことになったんです。ここで生身の人間が生活するのは不便なので、お姉ちゃんにとっては、良かったかなと思ってます」
沙耶ちゃんの口調は穏やかだけれど、変わり者や不便という表現に、ガラスハウスで生活していたときの苦労が窺える。
「人間が住むには優しくない家ではあるね」
「お姉ちゃんはこの家を買った人より変わり者ですけど、嫌いにならないであげてくださいね」
「そ、そ、そうだね」はっきり言う沙耶ちゃんに笑顔があるので悪口には聞こえず、逆に褒めているようにしか見えない。五味さんと同じで魔法が使えるようだ。
「住所とか聞いてますか?お姉ちゃんの性格だと、意地悪して教えてくれていないんじゃないですか?」
気を利かせてくれる沙耶ちゃんが天使に見えた。
「本人に会ったときに聞くよ」
すぐに飛びつきたい情報だが、女々しいような気もするし、五味さんに〝どうして私のアドレス知ってるの?〟とか文句を言われるかもしれない。
「いま住んでるマンションはここからちょっと遠いみたいですよ」
「そうなの?」みたいですよ、と言いわれてショックを受けた。沙耶ちゃんはマンションに住んでいない、または行けない、または行っても誰の目にも見えない存在なのが確定してしまった。駅まで送ると言ってしまったけど、意味のないことだった。付き添って歩いてもらうのは自分で、彼女の優しさなのか、それとも無意識に行動しているのかわからないが、どちらにしても空しい気持ちになってくる。
「私が教えたことが姉にバレても、問題ないと思いますよ」
「学校さえ転校しなければいつでも会えるよ」
せっかくの気遣いだけれど、沙耶ちゃんのイメージを少しでも悪くしたくないので断った。
「転校……するかもしれない」
沙耶ちゃんが申し訳なさそうに口からもらす。
「そうなの?」僕は数秒前に同じ台詞を言ったが、さっきよりも声のトーンは下がった。
「でも、二人の愛が深くて会う気になれば、いつでも会えるよね!」
沙耶ちゃんは両手にガッツポーズを作って励ましてくる。
「あ、ありがとう」こっちが照れてしまうくらいの淀みない純粋さが痛くて、五味さんとの関係を認めてしまった。
まだ、僕ははっきり確かめていないことがある。お姉さんと現在進行形で会話できるの?という質問なのだが、デリケートで迂闊に聞けない。妹と今でも会話できているなら、家から出て行かないはず。コンタクトは過去に取れた可能性もあるかもしれないが、そんなことを聞いてしまうと、楽しい思い出として蘇り、泣いてしまうかもしれない。沙耶ちゃんの存在が明確にできてもいないし、悩ましくてこっちが泣けてくる。
五味さんの言葉を引用して、この世にいるかどうかは引き出せたのだから、会話の流れでどうにかならないか考えていると、沙耶ちゃんが僕について歩いてきてなくて、振り向くと道路手前の敷地内で立ち止まっていた。
「どうしたの?」他にデジカメで撮り忘れたところがあるのかと思って尋ねる。
「いま、わかった……気がする……私って馬鹿すぎる……もっと早く気づくべきだった……どうしよう……」沙耶ちゃんが自虐的なコメントを連発させ、さっきまで明るかった表情を一変させた。視線と声は沈みがち、顔は青ざめて目から光が失われている。気分が悪くなったとかそんなレベルじゃないのは一目瞭然で、かける言葉が見つからない。「私……この敷地から出られないみたい……」その言葉が証明するようにガラスハウスの敷地内からアスファルトの道路に踏み出した足が細かい砂のような粒子となって浮遊してキラキラと夕陽に溶け込む。
「だ、大丈夫?痛くない?」非現実的な現象を目の当たりにして、焦りながら声をかけた。
「全然痛くない」沙耶ちゃんが首を横に振る。「私はお姉ちゃんの残留思念が具現化した存在だったみたい……だから痛覚なんてないんだよ。きっと……」
〝残留思念〟なんて、ショッキングなことが起きた現場に思考が残留する。ということくらいしか意味は知らないし、そんな強い思いがどんな力になって影響を及ぼすのかを解明できる人間はこの世にいないだろう。
「受け入れるには頭の整理が必要かもしれない」
『忘れ物窓口』に何度もいっているから非常識な事態には免疫があると思っていたが、体の一部が消えてしまうのはさすがに衝撃的ではある。沙耶ちゃんの冷静さだけが救いだ。
「難しく考えないで。お姉ちゃんが私に会いたい一心でプールの底に妙な世界を創っているのは知ってる。私の成長した姿をぬいぐるみで作って持ち運んだのを見たの。制服みたいのを着せていたけれど、私が将来キャビン・アテンダントになりたいと言ったからだと思う。ちょっと地味な制服だったけど、本物は予算の関係で手に入らなかったのかもしれない。たぶん中学生の私そっくりに作って手元に置くと離れられなくなるから、一線を引くためにプールを潜って成長した私に会えるなんて面倒な工程を刻んだんだよ。依存しないために一定の距離を保ってまで、お姉ちゃんが私を忘れたくないという気持ちはうれしいけれど、この家から出て行くことが決まって寂しさが増したせいで残留思念が強くなったみたい」
沙耶ちゃんが辛そうに泣き笑いで説明してくれた。
「さっきもはっきり死んだとも幽霊だとも言ってなかったね」
「中途半端な答え方をしたのは自分でも自覚していたのかもしれない。幽霊より人間みたいに見えていたらうれしい」沙耶ちゃんはいじましい笑顔を見せたあと「この敷地内から出たら消える気がするんだ」僕に意見を求めているような言い方をしたが、もちろん答えられるわけがない。
「お姉ちゃんとは会話できたの?」
「うん!」沙耶ちゃんがうれしそうに、三つ編みを揺らす勢いで首を縦に振る。
「楽しい話はできた?」
「ううん。最後はちょっとケンカしちゃったんだ」
「お姉ちゃんを呼んでこようか?」
五味さんは沙耶ちゃんが敷地内から出られず、しかも消えるかもしれない危機に直面しているなんて知る由もないだろう。
「それはダメ。お姉ちゃんは私のことを忘れなきゃいけないの」
「厳しい……判断だね」沙耶ちゃんが死んだ現実を五味さんが受け止めないといけないのはわかる。間違ってはいないけれど、当事者でなければわからない心の痛みを共感することは難しい。
「失くしたモノを探します屋をはじめて友達を増やしたのも私を忘れるためで、努力していたことも知ってる」
「沙耶ちゃんは大人だね」
「そんなことないよ」はにかんだ笑顔を見せた沙耶ちゃんの表情に明るさが戻る。
「お別れの言葉くらい伝えたほうがいんじゃない?」
「いいよ。また会えば未練を残すことになりそうだから」自分に気合いを入れるような口調で言った沙耶ちゃんは「お姉ちゃんをよろしくね」ウインクしてお願いされ、僕の返事を待つことなく敷地内から軽やかに片足で跳び、跡形もなく霧散していく。
見事なくらいの潔さだけれど、心が苦しい。沙耶ちゃんの行動や表情からお姉ちゃんとすぐにでも会いたかったはずなのに、甘えたかったはずなのに、呆気なく消えてしまった。騙し討ちでもいいから二人を再会させてやるべきじゃなかったのかと思う反面、別れはさらに辛くなるわけで、いま目の前で起こった出来事を話しただけで五味さんの精神が正常でなくなることもありえるし、彼女なら耐えられるんじゃないか?という期待もある。
僕は結論を出せない。また墓場まで持っていくしかない秘密が増えた。自分は黙っているしかない卑怯者だけれど〝お姉ちゃんをよろしくね〟を飛躍して解読すれば〝お姉ちゃんの面倒を一生見てね〟になり、重くて大きな責任を沙耶ちゃんに背負わされてしまった。最後に頼られてしまっては、がんばるしか……ない……のか。
僕は今度いつ来ることになるかわからない元五味家となってしまったガラスハウスから離れた。背中に当たる夕陽が暖かく、自分の長い影が歩くごとに揺れ、正常な時間を刻んでいるのを実感する。
数か月間しか通っていなくて、数メートル離れただけなのに、昔のことのように感じる。平凡な日常に戻っただけなのに、急に寂しさを感じた。こんな心境になったのは、あっさりと後腐れなく消えた沙耶ちゃんが原因だろう。
私のこと……忘れて……そんな声が聞こえ、チラッとこっちを見ながら去っていく悲し気な沙耶ちゃんの後ろ姿のイメージが勝手な妄想となって脳内に浸食してくる。これは彼女の呪縛で、直情的に『消えたくない!』とか泣きつかれたほうが楽だったかもしれない。
本当に姉妹そろって色々な魔法を使って、僕を惑わせてくれる。
思わず苦笑いが出てしまう。