Fourth magic 声優の卵 1
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ずぶ濡れのまま帰っていく匠君を玄関で見送った。
「こんなの完全決着じゃないわ」
五味さんは壁に寄りかかって腕を組み、ご立腹だ。
「五味さんだって納得したじゃないか」
「周りの意見に流されたのよ」
「なにをいまさら」僕は呆れてしまう反面、五味さんの気持ちがわからないでもないので笑顔を混ぜて言う。
凶器で脅していたのは匠君を家に帰そうとしていたのではないだろうか?彼が自暴自棄になって『忘れ物窓口』に来たかったからで自殺も考えられた。五味さんがそこまで情けをかける器のでかさがあったとは意外だが、彼女も人間なんだなと片づければいい。彼女は普通の人間じゃないと思っていた自分を改める。
「彼が今回のことを根に持って復讐にきたらどうするつもり?」
「守りますよ」小さな声で短めな返答をしたわけだが、五味さんは顔を真っ赤にして家の中に姿を消す。ちょっとキザだったかなと思ったけれど、効果はあったみたいだ。取り返しのないことを言ってしまった気もするが、しばらく複雑に揺れ動く五味さんの乙女心を楽しめそうなので結果オーライということにしよう。
影野君に一応解決したことを報告するためにスマホを持つと、うちの学校の制服を着た女子生徒がペコリと頭を下げてきた。
「何か用ですか?」尋ねると「五味さんの家で落し物を探してくれると聞いてきたんです」やけにはっきりとした聞き取りやすい声で答えてくる。五味さんや天山さんとは違い純粋な黒髪で、サイドテールに結んだ髪を肩まで垂らし、身長が五味さんよりも低い。
「一年一組の小枝由香といいます」
再び頭を下げるという礼儀正しさを見せつけてきた小枝ちゃんからはあざとさはなく、おしとやかさが染みついている感じがした。
「何を失くしたの?」
「お昼に食べる予定だったお弁当箱」
「どんなやつ?」あまりにもかわいらしい探し物なので、顔をほころばせながら聞く。
「ピンク色でうさぎの形をしています」
想像するだけでかわいいお弁当箱が頭に浮かぶ。
「また、お客さんが来たの?」玄関のドアが開けっ放しだったので会話が聞こえたらしく、廊下の角から五味さんが顔を出す。
「はい」返事をすると、ズカズカ早歩きで近づいてきた。
「まさか受けたんじゃないでしょうね?」
「はっきり返事はしていません」
「それはよかったわ。今日はもう店じまいしたから、また明日来てちょうだい」
五味さんが薄情すぎる宣言をして、僕の腕を引っ張って家の中に入れようとする。
立て続けに『忘れ物窓口』に行くのは体力を消耗するだろうし、甘いかもしれないがここは五味さんに従うしかないと思った。けれど、玄関のドアが閉まる寸前、呆然と立ち尽くす小枝ちゃんの姿があり、しかも目に涙を浮かべていまにも泣き出しそうな表情を見てしまっては、足でドアを止める行為は自然で道理にかなっている。
「どうしたの?」不服そうな五味さんは腕を離してくれない。
「可哀想だよ」
「甘いわね」五味さんがため息交じりに言う。
「僕は五味さんに一番甘いよ」
殺し文句は即効性があり、五味さんの顔を再び赤く染めた。
「いいよね?」
「勝手にすれば」
顔をプィッと横に反らして一見怒っているようだけれど、不機嫌そうには見えない。
「お弁当箱はそんなに大事な物なの?」
「……うん」うつむき加減で涙を指で拭きながら小さな声で返事をする小枝ちゃんはかわいすぎる。「全部きれいに食べないと怒られるの」
匠君もそうだが、うちの学校はレベルの高い進学校でもないのに、古風で厳しい躾けが流行っているらしい。
「いまから食べても腐ってるんじゃないの?」という五味さんの声を無視して、代価は毛ガニであること、汚いプールに潜ることや『忘れ物窓口』のことを説明してあげた。
「本当に探してくれるんだ」
小枝ちゃんはは目を輝かせて五味さんを羨望の眼差しで見る。
疑うことを知らない様子で裏庭までついて来た小枝ちゃんが「ところで、どうしてプールに入る前に二人とも濡れているんですか?」と不思議そうな顔をして質問する。臭いですね、と言われないだけよかったかもしれないと思いつつ説明しようとすると「さっきまで黒須君とはベッドの上で激しい運動をしていたのよ」と、五味さんがかわいい下級生を混乱させる下ネタを投下した。
「何を言ってるんですか!」
「私が言ったことが本当かどうかは、彼女が判断することよ」
五味さんが真剣な表情で、真偽を曖昧にする卑怯な言い方をしてくる。
「ほ、本当なんですか?」
五味さんの狙い通り軽蔑した視線で小枝ちゃんに聞かれてしまう。
「さっきまでお客さんが来てプールに潜ったんだよ」
両手を必死に振って五味さんの悪ふざけであることをアピール。
「お仕事盛況なんですね」
小枝ちゃんが気遣ってくれる発言をしてくれて、とりあえずほっとする。
「おかげさまで」と素っ気なく返す五味さんなのだが「どうせ私は濡れているから」という理由で、小枝ちゃんにスク水を貸してあげるところは五味さんの隠れた優しさ。ただし「ありがとうございます」と丁寧に頭を下げて受け取る小枝ちゃんを見ていたら、五味さんに睨まれていることに気づいた。
三人で手を繋ぎ、不気味な色のプールの前に立ったときはさすがに躊躇していたが、鼻を摘まんで飛び込む小枝ちゃんは潔くて、お弁当箱のために必死な姿は健気だ。
ロッカーから出ると重大なミスに気づく。ビニール袋に入った小枝ちゃんの制服がなく、彼女はこのまま水着姿で行動することになる。
「ごめん、ごめん、ビニール袋に入れた制服を渡すの忘れてたわ」
五味さんが謝ったけれど、一瞬白い歯を浮かせて笑ったように見えた。
確かビニール袋に制服を入れるように指示して、そのまま手に持っていたのは五味さんで、わざとプールサイドに置いてきたと思われる。目的は小枝ちゃんの水着姿を晒す嫌がらせだろう。
──本当に、なにをするかわからない人だな。
「べ、別に……大丈夫です」
意外に強がる小枝ちゃんの声は震えていた。気づかなかった僕にも責任があるわけで、五味さんを非難すれば険悪なムードになる恐れもあるし、よって小枝ちゃんは〝半人前〟の中をスク水姿で歩くというご褒美、ではなく、屈辱を味わうことになる。〝半人前〟のについても事前に説明したが、半透明な人間の形の陽炎が揺らめく物体が、傍を闊歩しているのを見て目を白黒させていたので、恥じらいよりも興味のほうが勝っているのは幸い。
「また来たのかよ……来てくれたんですね」
トモヤが『忘れ物窓口』で退屈そうにいたわけだが、途中から背筋を伸ばし、お客様用の敬語に変えた。一時間も経っていないのに、対応に変化が現れたのは、メモだけで指示する後ろにいる女の駅員さんの指導の賜物だろうと感じた。
「女の駅員さんに申告しないのか?」
僕はいつも儀式のようにしているので、なにもしようとしない五味さんに尋ねた。
「なんか面倒だから、あなたがやって」
投げやりな五味さんからの指示を受けて「この子お弁当箱を失くしたんだ」とカウンターの二人に向かって言うとトモヤが後ろの方へ取りにいき、戻ってくるとウサギの形をして揺らぐモノをカウンターの上に置く。女の駅員さんは正面を向いたままで瞬きをしない。小枝ちゃんに触れるように教えると、ピンク色のお弁当箱が現れた。
「あぁ~よかった」小枝ちゃんはお弁当箱を抱きしめてひと安心。「食べても平気ですか?」と尋ねられても誰も答えられなかったのだが、お弁当箱側面のチャックを開け、ウサギがプリントされたカバーを取り、ウサギが微笑むお弁当箱の本体が現れ、パカッと開けたお弁当箱の中身はウサギのキャラ弁で目はゆで卵をカットし、イチゴとご飯で耳に色合いを付け、ウインナーや細かく刻んだ野菜で森の背景を表現している。カバー、お弁当箱、中身までウサギの三重奏で、小枝ちゃんは鼻を近づけてクンクンしてから、お弁当箱の蓋に仕込まれているプラステック製の箸を出すと食べ始めた。
ゆったりとした箸の運びだけれど、お弁当箱の底も浅いのかもしれないが、お腹が減っていたらしく食べ終わるのにそれほど時間はかからなかった。お母さんの愛情が感じられるキャラ弁はうらやましいかぎり。けれど、完食した小枝ちゃんが「まずい」と青汁を飲んだあとのような枯らした声で感想をもらしたのはたまげるしかない。
「まずいのかよ」トモヤが突っ込みを代弁してくれた。
「まずいキャラ弁は愛情の押し売りですよ」
数秒前までの小枝ちゃんの性格を打ち砕く発言で、聞き間違いだったと思いたい。
「完全に同意」五味さんはうなずいて納得の様子。
「まずいって言いながら完食したじゃないか?」
さすがに意見したくて我慢できずに尋ねる。
「きれいに食べないと怒られるの」
これで答えるのは二度目ですよ、みたいな非難する目で僕は見られてしまう。
──えっ?さっきまでの小枝ちゃんはどこいったの?
だから女は信用できないんだと改めて認識させられる。
そろそろ帰ることを提案しようとすると、小枝ちゃんは「もうひとつお願いがあります!」と大声で切り出す。
「ずうずうしいわね」
間髪入れず拒否る五味さんに、激しく心の中で同意した。
「私、これから声優のオーデションがあるの」だからどうした?と小枝ちゃん以外の全員が呆気にとられる。「時間がなくて、切迫しているの」さっきまでお弁当を食べていたのだから、説得力の欠片もない訴えだ。
「弁当食べる暇があったら、こんなところに来ないでさっさと行けばいいだろ」
今回のトモヤの代弁率は高い。
「お弁当を食べるミッションは重大なの!」小枝ちゃんが小さい体から発せられたとは思えない大きな声で怒る。「面接のときにお腹が鳴ったら最悪でしょう」
「途中でコンビニとかで何か買って食べながら行けばいいだろ。時間を無駄に浪費しただけだぜ」
「第一優先はお弁当の完食、次がオーデションなの」
「知らねぇよ」
「だったら聞くなぁ~」小枝ちゃんが線香花火ほどの癇癪をトモヤに向って起す。
「厳しそうな両親なのに、声優オーデションなんて受けていいんだ」
お客様に対する言葉遣いを放棄したトモヤと、素が出た小枝ちゃんのバトルが続いていたが、五味さんが割って入る。
「お母さんは声優になることを応援してくれているけど、お父さんは反対しているの」
小枝ちゃんは冷静さを取り戻し、真顔で答えた。真実味を深ませようとする魂胆も垣間見えるわけだが、印象が変わってしまった。
「お母さんは知っているわけね。でも、そんな秘密はお父さんにいずればれるわ」
「その前に有名になって自立する」
小枝ちゃんがドヤ顔で決意表明をする。
「はい、はい、えらい、えらい」
トモヤが感情のこもっていない棒読みでほめた。
「馬鹿にしてんのか!」
小枝ちゃんが両手の握り拳を振って足踏みを繰り返す。その姿は電池で暴れるおもちゃにしか見えず、荒っぽい口調も僕としてはご褒美なレベル。
「なにうれしそうな顔をしてんの?」
どうやら僕の顔が緩んでいたらしく、五味さんが八つ当たり気味に尋ねてくる。
「別にうれしくはないよ」
取り繕っても後の祭り状態ではあるが、怒られるいわれもないわけで堂々と振る舞う。
「黒須君はもしかして……」まさかどっちを選ぶの?なんて究極の選択をこの場で迫るわけじゃないだろうな?いや、待てよ、逆に質問されたほうが男として認められたかもしれず、過剰な期待をしてしまう。「ドMなの?」続けられた質問は見当違いのもので、反撃すれば小枝ちゃんに一目ぼれしたの?とか変な方向に会話が飛び火しそうで、苦笑いで勘弁してもらおうとしたが「気持ち悪い」と言われ、僕が寛大な気持ちで接するのを見込んでの五味さんの悪戯にすぎなかったと思うしかない。
「オーデションは今からでも十分間に合うけど、確実に門限に間に合わないの……お願いなんとかして……ください」
小枝ちゃんは自分の話しを継続させていたが、語尾になると泣き始めた。
「泣き落としは通じないわよ」
「違うもん」五味さんの冷たさにかわいく言い返す小枝ちゃんはあざとさと切なさが混同している。
「毛ガニがもう一箱分増えるけど、金銭面的に大丈夫かい?」
かわいそうなので勝手に条件を上乗せして承諾する予知を与えた。案の定、報酬のカニで釣る作戦は成功し、五味さんは唇を噛んではいたが、文句は出てこない。
「うん、問題ないよ。私は声優の卵でモブキャラの声とかやらしてもらっているの。だから毛ガニくらい買える」
結構するんだけど本当に大丈夫かなと思いながら「わかった」と了承する。
「へぇ~すでに声優の仕事をしているのね」
関心を示す五味さんがちょっと意外だった。
「今回のオーデションで生徒Aとかで出るエンドクレジットから脱却して、ちゃんと名前がついた役になりたいの」涙ぐんではいるが力強い言葉が弾ける小枝ちゃんは、見た目とは違い芯が強そうだ。「いまは地味な事務所に所属しているけれど、有名になって大手の事務所に移籍するのが夢」
なんか聞いてはいけない野心を耳にした気がするのでスルー。
「それは良い目標ね」やはりどこか興味ありそうな五味さんなわけで、できるなら私も挑戦したいとか言い出すんじゃないかと危惧したが、次の言葉で安心できた。「私を見習って自立することはいいことよ」
一人暮らしをしているけれど、親からの仕送りをもらっているわけで、そんなに誇らしげにする資格はないと思う。
「なんか言いいたそうね」
勘鋭く見詰められて僕の体はビクッと反応したが、聞いてきたってことは、自立ではなく親の脛をかじっていることは自覚しているようである。けれど、高校生としては恥じることではないのかもしれないと擁護できるレベルではある。
「別に……」言葉が続かなかった。
「黒須君は本当に顔に出るわね」
毎日のように会っているので、表情だけで胸の内を見破られる存在になったのは、自然な成り行きなのかもしれない。
「五味さんには敵わないよ」
僕が苦笑いを浮かべて言うと、五味さんは「当然でしょ」と答え、ある意味他人には感知できない二人だけの意思の疎通ができたと思うことで自らを納得させた。
「策は、あるんですよね?」小枝ちゃんがどこからその声を出したのかと思うほど、甲高い裏声で横槍に近い勢いで聞いてくる。
「成功するかはわからないけれど……」
「やっぱりあるんですね」
小枝ちゃんはぴょんと飛び跳ねて歓喜した。
「やっぱりって、何か知ってるの?」
五味さんが眉毛の下に影を作るくらい上目使いで小枝ちゃんに尋ねる。
「情報処理室で逆法則の情報を掴んだことあるもん」
小枝ちゃんが逆法則という言葉を使った。影野君が〝つまり逆法則ってわけか〟と言ったことを思い出す。つまり二人は情報を共有できる環境に接していることになる。
「情報処理室か……」
そういえば影野君を探しに行ったとき、情報処理室に小枝ちゃんが居た気もする。ただし、二人の女子部員のどちらもメガネをかけていたので見分けがつかない。
「どういうことなの?」
反応してしまった僕に五味さんが尋ねてくる。
「小枝ちゃんは情報処理部員なんだよ。気づかなかった」
五味さんの疑問に答えたが、目の前にいる小枝ちゃんと情報処理室に居た二人の女子部員のどっちだったのか判然としない。
「あっ、これしていないとわからないかな」
小枝ちゃんはスカートのポケットからメガネを出してかけた。それでも半信半疑で「あぁ~居た、居た」と安い嘘をつく。
「声優の卵なのに部活なんてしている暇あるの?」
五味さんは心配しているとというより、小枝ちゃんの行動力に驚きながら聞いている。
「人気声優になると、発言にどんなに注意していても、SNSで理不尽な誹謗中傷をアニオタから受けてしまう。ネットで変な噂が流れも。業界に力のある事務所じゃないと守ってくれない。そのためにはパソコンを扱うスキルを磨かないといけないの。有名になってからでは遅いの」
小枝ちゃんはひょっとして腹黒いのか?と思ってしまう発言をしたわけだが、堂々と喋る姿は逆に清々しい。
お弁当箱とは違う逆法則を使えば可能かもしれないが、危険は伴うことを小枝ちゃんに説明して、トモヤが成功した例しかないことを話すと「じゃあ大丈夫ね」とあっけらかんとうまくいくイメージで頭の中をいっぱいにさせてしまう。
「一瞬のできごとで瞬きする間もないから、ほぼ瞬間移動みたいなものだったな」
経験者のトモヤが成功を後押しするが、説得力があるかといえば微妙だ。
「とんでもないところへ移動させられて、帰ってこられなくなっても自己責任よ」
五味さんが恐怖心をあおったわけだが、恐れを知らない小枝ちゃんは「はい」と快活良く返事をする。
「よく考えた方がいいよ。なにかアクシデントがあった場合本当に……」
「覚悟はしてますから大丈夫です」
小枝ちゃんは最後まで僕の意見を聞かず、決意を固めてしまう。
「最初は協力する気満々だったくせに、危険な臭いを感知したら反対するのね」
五味さんが僕に意地悪く指摘してくる。
「もしものことがあったら責任とれるの?」
怒りを交えた反論で質問した。
「大丈夫よ。ここは私の世界なんだから」
五味さんの言葉はトモヤより説得力を感じるが、やっぱりもう少し根拠が足らないし、不安の軽減にならない。
「やったぁ~」お墨付きをもらって手を叩いて喜ぶ小枝ちゃんの顔に一切の不安がない。
僕の意見を押し通すことが許されない環境が整ってしまい、渋々ではるが計画を練る。まず、プールから出た小枝ちゃんはシャワーで髪を洗ってオーデション会場に直行させ、僕と五味さんはまたプールに潜り、『忘れ物窓口』で午後七時半まで待機。そして小枝ちゃんがここに無事に帰ってくれば、オーデション会場から五味家までの移動時間が短縮できる。オーデションの結果発表は数日後らしい。