第32話 綻び
「むにゃ……ボルトさん……」
――違う、その人はハヤトじゃない!
うるさいなあ……せっかく気持ちよく寝ているのに……
せっかくの豪華な馬車での旅、しかも宿は貸し切り、隣には頼れる相棒のボルトさん。これ以上に至れり尽くせりな旅はない。今まで野宿や安い民宿での生活が嘘みたいだ。
――やめて、そこにいていいのは、その人じゃない!
何を言っているんだ、この人は?
僕の隣にいていいのはボルトさんだけ――
え?
誰これ?
ボルトさんじゃない……ちょっと年上っぽい、お兄さんみたいな男の子の姿が見える……
隣に座る男の子が、僕に笑いかける。
――アリス
「…………ハヤト……ハヤト……!」
移動中の馬車の中で、勇者アリスは目を覚ました。
隣でアリスに寄りかかるようにして眠っているのは、雷鳴槍のボルト。
「離れて、ください! ボルトさん!」
アリスは自分に寄りかかるボルトを押しのけ、状況を整理する。
何か、とても長い夢を見ていたような気がする。
――落ち着くんだ、アリス……
自分にそう言い聞かせ、記憶をさかのぼる。
――北の経済都市で下水道のゴブリンを駆逐して、火山と温泉の街に着いて……それから後の記憶がない……?
火山と温泉の街では、3日間の休暇を取る予定になっていたが、その3日間の記憶がすっぽりと抜け落ちている。
――そうだ……ハヤト……ハヤトはどうしたんだっけ……?
たしか、ハヤトはずっと一緒にいたはずだ。
北の経済都市でも、火山と温泉の街でもずっと一緒に……
――ずっと一緒に?
アリスの記憶が混乱してくる。ハヤトの姿と、ボルトの姿が重なり、ぼやける。
――いや、一緒にいたのは、ボルトさん……? なんで僕はボルトさんと一緒に……
アリスは頭を抱えた。本当に訳が分からなくなってくる。
なんで火山と温泉の街での記憶があるのだろう?
なんでボルトと一緒にいたのだろう?
どうして……
――ボルトさんは……ハヤトを殺そうとしたのに……そうだ……
アリスは思い出した。
ハヤトはもういない、邪龍を宿しているという理由で、王都で処刑されたということを。
ハヤトの遺言で、自分は魔王軍との戦いを続けているということを。
「うっ……ハヤト……ハヤト……」
アリスは嗚咽を漏らす。
どうして忘れていたんだろう。
こんな悲しいこと、いっそのこと忘れてしまえれば――
――いや、ダメだ……
イシダハヤトは異世界から来た人間だ。彼のことを『邪龍戦士ドラゴンファイター』ではなく『イシダハヤト』として覚えている人間は少ない。
アリスが忘れたら、ハヤトが生きた証は永遠に失われてしまう。
「そうだ……ハヤトは……この世界の人々のために戦って……邪龍という理由だけで悲劇の死を遂げた……英雄だ……」
アリスはその事実をかみしめる。
「ふう……」
ため息をつき、アリスは再考する。
自分の記憶はどうしておかしくなってしまったのだろう?
「ん?」
アリスの首に、見たことのない首飾りが掛かっている。
「なんだっけ……これ……?」
思い出す。
たしか、ボルトさんにもらって……
そうだ、ボルトさんからのプレゼントだ。
いつも一緒にいるボルトさんからもらったものじゃないか。
なんで忘れていたんだろう。
ボルトさんはずっと一緒にいるじゃないか。
火山と温泉の街でも一緒にデートして、楽しかった。
ボルトさんとは、これからもずっと一緒だ。
アリスは隣で眠るボルトの頬をつつく。ボルトは起きない。
「ふふふ……ボルトさん、おやすみ」
アリスが再び眠りについたのを確認して、魔法剣士のジャスティンと聖術師のティナは目を開いた。
「ティナさん、これは一体……」
「まずいわね……『綻び』が出てきてしまったわ」
「やはり……勇者の能力でしょうか?」
「かもしれないわね。勇者の力を甘く見ていたわ……」