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雲の場所

 何度秋がきても、わたしは山を歩いてしまう。

 赤と黄を基調とした紅葉に彩られた空間は美しく、冷えた山林の空気は雪の予感を伴う。

 ……その美しさと予感が、わたしを引き戻すのだ。ニシクルキム山の、あの夜に。


 ニシクルキムはアイヌ語で、雲の場所という意味だ。北海道は大雪山系に属するこの山には、広大な自然が残っている。

 群生する高山植物の間をナキウサギが跳ねるこの山には溶岩台地があり、大きな岩が積み重なって、独特の景観を成しており、人気も高い。

 

 が、一番は頂上のすり鉢状の台地だろう。

 眼下に広がる雲海とその向こうの大雪山系を一望に見渡せるのだ。

 この壮大な美しさに息を呑まないものはいないし、登山ツアーのパンフレットの表紙を飾るのも、この眺めだ。

 そして、わたしをあの時間に誘ったのも……。


 50歳から足腰の筋力維持として始めた登山の趣味は、長年務めた高校教師の仕事を終え、年金生活に入っても続いていた。

 メーカー務めの夫は定年退職後も嘱託の形で仕事勤めを継続していたが、わたしは何となく、記念行事的なことをしたくなった。平たく言うと旅行である。

 候補としては、伊勢志摩を回る神社ツアー、瀬戸内海でオリーブオイルと海の幸に舌鼓をうつ小豆島ツアー。

 そして……北海道は大雪山系のニシクルキム山の尾根を踏破する登山ツアー。


 集めたパンフレットを机に並べて、思案に暮れるわたしの肩に夫は手を置いて、言ってくれた。

「君が一番憧れている場所に、行ってみたら良いさ。お土産は気にしなくて良いから」

 憧れるというか、登山をしてきた日々の集大成として、直に眺めてみたい景色は、伊勢神宮でもなく、オリーブ畑でもなく、……雲の場所。ニシクルキムの絶景だった。


 北海道に向かう空港には、夫が車で送ってくれた。

「風邪ひかないようにね」

「大丈夫よ。風邪薬もってきたから」

 微妙にかみ合わない会話をお互い気にしないくらいには長い時を共に過ごしてきた伴侶は、ハンドルを両手で握っていた。その皮膚の硬い手に、そっと触れたくなるが、運転中なのでやめて、代わりに言葉を付け足す。


「暖かいかっこうしてるから、大丈夫よ」

 10月初旬の北海道は本州とは比べようもないくらい寒い。雪に沈む前に燃え上がる紅葉が圧巻だという。

 寒さに体調を崩したら宿泊所待機になってしまう。そういう約款だ。つまり、大雪山系の麓につらなる紅葉を見るだけで、ツアーが終わってしまうのだ。


 という訳で、わたしは体調の管理には万全を期していたし、服装もこれでもかというほど、もこもこに着こんでいた。

 着込みすぎて、旭川空港で迎えてくれたガイドリーダーの岸田さんから苦笑交じりに注意をされてしまった。

「着込み過ぎると、逆に汗をかいてしまって、冷えてしまうんです」

 30代の岸田さんは、リーダーというだけあって顔つきは精悍だったけれど、声も表情も穏かで柔らかく、わたしは恥ずかしい思いながらも、彼の醸す安心感に、このツアーを選んで良かったと思った。

 こういった安心感や恥ずかしさが混じった思いと共に、ニシクルキム山に向かう観光バスの車内で、わたしはヤッケを脱いだ。車内も暑かったからだ。


 と、隣の女性も脱いで、自然とお互い顔を見合わせ、どちらからともなく、頬をほころばせた。

「北海道って、意外と暖かいですよね」

 と笑ったくれた彼女の名前は西沢康子さんといった。わたしも東原房子ですと自己紹介をする。

 眉毛が少し薄いけれど、ふっくらとした頬の彼女は、わたしと同い年だった。

 サウンド・オブ・ミュージックの舞台、アルプスの山々に憧れて、このツアーに参加したのだと言う。

 北海道とアルプスは違うが、雄大な自然は共通しているのかもしれない。


 わたしもあの映画は好きだ。一種の憧れに近い感覚を抱いているので、西沢さんともこのネタで盛り上がることができた。それに、わたしの携帯の着信音は、サウンド・オブ・ミュージックのテーマなのである。これは嬉しい偶然だった。


 こうしている間にも、バスは東に向かって真っ直ぐに伸びる高速を進んでいく。  

 雪をかぶる前の原野はくすんだ緑で、際限なく広がる。

 遠くに見える空と大地の継ぎ目には山々があり、紅葉に燃えている。

 思い描いていた以上に大自然。西沢さんとも意気投合できたし、このツアーには良い予感しかしなかった。……少なくとも、この時点では。 


 5時間以上かけて、バスは宿泊先である西川町の旭岳温泉、白雲荘に到着。

 年季はうかがえるものの小奇麗なロッジで、40人のツアー客と歓談する。

 身なりの良い奥さんが、品の良い笑い声をあげたりして、本当に和気藹々といった感じだ。

 話しこむうちに、皆さん50歳を越えているのが分かり、少しびっくりした。どうやら65歳のわたし達は、この集団の中で平均らしい。ちなみに最年長は72歳の男性。

 しゃんとしていらっしゃり、尊敬の念がわく。


 白雲荘では温泉も入る事ができた。露天でないのが残念だったけれど、黒色のお湯はとても良くて、体の内側から温まる。


 翌早朝、この荘に荷物を預けて、出発。旭岳ロープウェイから山頂、いくつもの岳を尾根伝いに渡る。

 空は晴れていて、麓は紅葉色に彩られている。

 山々の頂の隙間に顔を小さく覗かせるのは、ニシクルキム山だ。


 その姿に高揚を覚えながら歩く事ができたのも、午前だけだった。

 午後に入ると、横殴りの強風が吹き始めた。不安な足元にこの風が拍車をかけて、揺さぶりをかけてくる。標高が高いだけあって、風も容赦なく冷たい。

 白雲岳の避難小屋に到着した時に雨が降り始めて、わたしは何となくほっとした。

 隣の西沢さんも、危なかったわね、と言ってから、屈託無く笑った。


 その晩も、わたし達40人は穏かに談笑したが、やはり強風の疲労が効いていたのだろう。何となく皆さん口が重い。そそくさと全員寝てしまった。もちろん、わたしと西沢さんも。


 登山2日目は、雨具の着用から始まった。4つの岳、16kmを踏破。この16kmを、わたしは32kmに感じた。

 昨夜から降り続く雨にぬかるんだ路はとても歩きにくい。風は昨日ほどではないにしても、山脈は雨にけぶり、見晴らしが悪く、西沢さんも口数が少ないし、わたしは3回も転んでしまった。

 西日が差す頃に山小屋に到着。ほっとするも、中に入ってがっかり。廃墟かというほどボロボロの屋内。雨脚が強まると、雨漏りが始まった。


 寝袋を広げようとすると、手に水がにじんだ。雨にずぶ濡れ。濡れ布団と化した寝袋で就寝……は厳しい。中々寝付けない。寒い。隣の西沢さんも震えている……と思ったら、いびきを立て始めた。

 ああ、これは眠れないかもと不安を覚えたけれど、気がつけば寝ていた。

 疲労困憊が、ずぶ濡れの不快に勝ったらしい。


 登山3日目。色々きつかったが、今日が登山最終日。いよいよニシクルキム山の登頂である。

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