第2章33部:明日へのおやすみ
その晩に俺はメリエルの部屋へと訪問し事情を話すことにした。
これが上手くいかなければ俺とゆーりの命が危ないのだ。
「ということなんだ。お前達はあの劇団員のサインをもらったんだよな。頼む。それを譲ってくれないか」
「事情は把握しましたわ。大変貴重なもので名残惜しいものですけどお渡しします」
俺は物分かりの良いメリエルの返事を聞いて頭を下げて礼を言う。
自分の命がかかっているのだ、それが助かるに越したことはない。
「歪んだ歯車という戯曲については問題ありませんわ。昨晩読んだばかりで、とても面白かったですわ。ですが、その要望で一つだけ満たせないことがございますの」
その言葉で雲行きが途端に怪しくなる。
まるで進むことすらままならない豪雨が降ってきそうな予感だ。
「詩人様のサインだけはいただいておりませんの。確かリーベル王女は詩人様のサインも欲しがっているのですわね。あの場では受け付けてはおりませんゆえ、私も無理強いをするわけにもいきませんわ」
「え!? 嘘だろ? こいつはいきなり大変になったぞ。てっきりお前からもらえると思っていたんだが」
メリエルの説明を聞いて俺は腕を組んで何をするべきかを考える。
当初考えていた計画が崩れてしまい不安で心臓の鼓動が早くなっていた。
加えて思わず本音がでてしまう。
「まぁ!? あんな貴重なものを易々とお渡すわけにはいきませんわ。今回は事情が事情のためお渡しするわけですのよ」
「ああ、その点はとても感謝している。だがこうなってしまった以上、詩人にも会う必要があるってのは間違いないだろうな。詩人のサインは受け付けていないのでもらえませんでした、だと何をされるかわからない」
「詩人に合わないといけないのは間違いありませんわ。それにしてもまさかリーベル王女がそこまで演劇にご興味をお持ちになっているとは、わたくし一度お話ししたく存じますわ」
メリエルは俺とゆーりの危機的状況だというのになぜか嬉しそうだ。
「どうせ俺とリーベル王女は渡すときに面談することになる。その時お前も同席させる。そこで条件なんだが、その詩人の行く先について知っているか?」
メリエルは一しきり考える。
そしてある答えを浮かんだのかパッと明るい顔をする。
「そうですわ。劇団の公演自体は多忙ですの。明日の午前には馬車に乗って次の場所へ出発するはずですわ。それを追いかければ」
「なるほど。出発する瞬間を狙うのか。となると今から会いに行くのはさすがに非常識すぎるか」
俺としてはさっさと終わらせたい依頼であり、万が一失敗した場合は殺されてしまうため今も胸の動悸が収まらない。
「……確かにこれから直接会って話しかければことはうまく運びますわ。ですが大きな劇団故に警備も十分ですので忍びこんで話すのも苦労しますわ。加えて万が一成功したにしても大声で叫ばれて警備兵が来られたらどうしますの。容易くあなたの首などはねられてしまいますわ」
確かにメリエルのいうことは尤もだ。
夜に忍び込む者など怪しい以外に印象を持たれかねない。
それがさらに今一番の人気の劇団の人となれば今後のリスクを考えれば、ひどい処遇を受けるのは間違いないだろう。
「とにかく今すぐ行動を起こすなんて考えない方が身のためですわ。犯罪者と思われるよりも、迷惑なファンとして扱われる方がまだましですわ」
「確かに。今後面と向かって会う機会まではないだろうから多少の無茶はできるな。だがそんな彼らは今どこにいるんだ」
根本的な質問をするがメリエルはうーんと唸るだけで答えがでない。
どうやらどこにいるまでかはわからないようだ。
「とりあえず明日手当たり次第に聞いていくしかないな。今から行っても受付の方も不審がられるだけだ。明日の早朝から行動を起こせば見つかるだろう」
「そうですわね。何か手伝えることがあればなんでもおっしゃってくださいな」
珍しくメリエルの方から手を差し伸べる。
「お前の方から歩み寄ってくれるのは嬉しいな。ありがとう。助かる」
「こんなことであなたが死なれても困るだけですわ。民草の力になるのも貴族の務めですの。それに」
「それに?」
メリエルが少しだけ口ごもるので俺は思わず深く突っ込む。
「ゆーりも言っていましたけど、わたくし達はもはや家族みたいなものですわ。それが散り散りになってしまうのは気分が悪いですわ」
メリエルは俺の目を見ながら真剣な口調で話すが、その視線の先は俺よりさらに向こう側に向けられているように感じた。
敬愛する兄がいないということがメリエルにとっての大きな重荷になっているのであろう。
「……俺だってこんな下らない理由で死にたくはない。そして何よりもゆーりの命もかかっている。さっさと終わらせるだけだ。これはありがたく使わせてもらう」
俺はメリエルから絶版となっている歪んだ歯車という本を受け取り、口元に笑みを浮かべてメリエルの部屋を出た。
ゆーりの部屋に立ち寄り、俺はとりあえず先ほどのメリエルとの内容を話した。
「と、まぁなんとかなりそうだ。お前も安心していいぞ。あとはこっちが何とかする」
扉の前で俺は語りかける。
「こんなことに巻き込んで、マサキの方も命を張ることになったんですよ。ごめんなさい。本当にごめんなさい」
しかし扉の向こうでゆーりが泣きだしそうな声で謝罪を繰り返す。
「しかもあなたが全部背負い込むなんて。私、迷惑かけてばかりですね」
「気にするな。もし俺がいなかったらどうせ同じような目にあって、そのまま殺されていたかもしれないんだ。逆に俺がいることで首の皮一枚繋がってラッキーじゃなかったのか」
口ではそう言いながらも内心は不安で胸が張り裂けそうであった。
しかしながらあのままならゆーりの命が危なかったことを考えると、とりあえずは一安心という気持ちもある。
「まぁそういうわけだ。お前もあまり気負いせずにしてくれ。俺は明日に備えて少し早めに寝る。こっちはこっちで片づけておく。じゃあな、早めに休ませてもらう。おやすみ」
「……マサキ!」
俺が背を向けて自室へ戻ろうとする、勢いよく扉が開けられゆーりが駆け込んで俺の背中に抱き着く。
「もしかしたら死んじゃうかもってしれないのに、顔を見せないなんてあんまりじゃないですか!」
ゆーりが泣きながら叫ぶ。
俺の背中が涙で湿っていった。
「……」
俺は答えることができなかったが、振り返り顔が真っ赤になり涙目のゆーりの顔をじっくり見る。
この顔を見たらますます自分の為さなければならないことが、重くなるように感じたからあえて見なかった。
今回の話が俺だけであればまだ気楽だったが、ゆーりの命も関わるとなるとその責任の重さに押しつぶされてしまうんじゃないかと危惧していたのだ。
だが前向きに考えるしかないという気休めに言ったあの言葉を、今は自分に言い聞かせて実行するしかない。
「……おやすみ。ゆーり」
「……おやすみなさい。マサキ」
俺は今度こそ自室へ戻ろうとした。
「ねえマサキ。私はみんなにおはようって言いたいから、おやすみって言うんですよ。今日も明日も、また明日も」
ゆーりの言葉から強い信愛が込められているように感じた。
俺は何も言わずにそのまま階段を上った。
どんだけじたばたしても明日は来る。
自分のことをやるだけだ、と念仏のように繰り返し不安を押し殺しながら眠りへと落ちていった。




