その一
二(三)作目です。よろしくお願いします。
近年新幹線が通るようになり、T市は急激な都市開発が進められた。
開通から一年経った今も拡張工事が続くターミナル駅を中心に街には従来の二倍近い人が溢れ、辺り一帯に喧しい音が訪れていた。
そんな中心街のメインストリートにあるにもかかわらず、ある喫茶店はいつも変わらない落ち着きを保っていた。店の名前は「シスル」という。
乳白色の漆喰を塗った外装には店名の由来である薊が描かれ、店先にはパイン材の机と椅子が二組並んでいる。店内では、それぞれの机の上に棘を切り落とした薊が一輪ずつ飾られている。
従業員は四人。カウンターでオーナーが珈琲を淹れつつ常連の客と談笑する中、ウェイトレスがスローテンポなクラシックが流れる店内を忙しなく歩き回っている。
オーナーの背後に見える長方形の穴は隣接した厨房から軽食を運ぶ役目があり、その覗き穴から時々仏頂面の女の顔が見える。目元や鼻の造形でオーナーと既視感があることから、彼女はオーナーの親族と見えた。
そしてもう一人は、壁に掛かった鏡の前の席に座っている「明石錐矢」という少年である。彼は毎週土曜日の正午から、薄紫色のチノパンに黄色とピンクが交錯するサイケデリックなチェック柄のシャツを合わせた奇抜な出で立ちで現れる。
所々カラフルなウィッグをあしらった鼻頭まで伸びる黒い跳ねっ毛をそのままにしている姿も相まって、見るからに怪しい風貌だ。外で見かければ近寄るのを躊躇うどころか通報があってもおかしくはない。
だがオーナーや他の客達は、一風変わった彼もこの店の売り上げに貢献していると皆口々に言っている。実際彼目当てに店を訪れる客も少なくはなく、遠い県からわざわざ会いに来る人もいるのだと言う。
しかし彼は良い接客をするためのスキルを持ち合わせていない。料理はそれなりに作れるのだが、あの格好の為に厨房の番人から調理場への出入りを禁じられている。
では彼はこの場所で一体何をしているのか。それを簡単に言うとなれば、やや特殊な恋愛相談というのが適切だろう。
ある日の正午頃、錐矢は「シスル」でいつもの様に恋愛相談を聞いていた。目の前の席に座る客はウェーブかかった茶髪を肩まで伸ばした、垂れた大きな目の三十代前半の女性である。
彼女はこの街で花屋を営んでいる。各テーブルに飾られた薊はオーナーが彼女の店から仕入れている物だ。
同時に彼女はこの店の常連客の一人でもある。休みの日にはカウンター席でミルクティーを手にオーナーと話しているのだが、普段は近寄ろうともしない錐矢の前に今日は座っていた。
「――分かりました。ではここにあなたの名前を書いて下さい」
話を聞き終えた錐矢は納得すると、懐から名刺大の厚紙とボールペンを取り出した。花屋の主人は名前を書き綴る。
今日彼女が「シスル」に来たのは、錐矢に恋愛相談を持ち掛ける必要があったからだ。と言っても、日頃思いを寄せている男との関係の向上の為にではない。
彼女は数週間前から帰宅途中に背後からの熱烈な視線を感じていた。その時は気にも留めてはいなかったのだが、相手は無視しているのを快く思わなかった様で、先週からは無言電話が掛かるようになり、数日前からはアパートの彼女の部屋を夜中に見上げる人物が出るようになった。
流石に命の危険を感じ始めた彼女は被害届を出した。しかしストーカー被害という物は物的証拠が無ければ捜査に入らないこともあり、今回の彼女の件も警察は同様に証拠を要求するだけで捜査までは至らなかった。
公安に見放されて途方に暮れていた彼女は、愚痴吐きと相談を兼ねてマスターの元を訪ねた。そして勧められたのが錐矢に相談するという選択肢だったのだ。
「……どうぞ」
女性は疑いの目を錐矢に向けながら厚紙を渡した。錐矢が相談を受けているのを今までに何度か見ているものの、彼に全てを任せる事にはまだ躊躇いがあったのだ。
錐矢は厚紙を手に取ると、書かれた名前を一瞥しては女性と見比べる。それを二、三度繰り返して、納得したように頷く。
「ありがとうございます。それでは今から貴女に絡まる情念をこの紙を依代にして切らせて頂きますが、よろしいでしょうか」
「是非お願いします」
「それでは失礼致します」
これから何があっても大丈夫だという女性の覚悟を聞いて錐矢は席を立つ。そして椅子に掛けていた黄緑のリュックサックからラジオペンチを取り出した。
紙を切る、という言葉から鋏やカッターナイフが出てくるのかと思っていた女性は現れた工具に驚きを隠しきれていない。錐矢は錐矢でそんな彼女の反応には目もくれず儀式を進めていた。
錐矢は厚紙とラジオペンチを両手に持つと、何かを探すかの如く机の周囲を歩き回る。依頼人の背後から自分の席の後ろまでのダウジングを三往復もすれば探知に成功した様で、錐矢はテーブルの横で中腰の姿勢になって止まった。
視線の先に厚紙を動かして、ラジオペンチの刃がそれを鋏む。しかし当然ながらペンチが厚紙を切り刻むことはなく、女性の名前の部分を刃の形に凹ませただけであった。
同様に数回凹凸を刻み、その厚紙を二つ折りにしてシャツの胸ポケットに入れて錐矢は再び席についた。
「以上でお祓いは終了です。ストーカーがあなたの生活を脅かすことはもう無いでしょう」
「は、はあ……ありがとうございました」
「また情念を断ち切りたくなったらご相談下さい。私は毎週土曜日はここにいますので」
例え解決した実感が無けれども、錐矢がこの言葉を告げたとなればこれ以上この席に留まる必要は無い。花屋の主人は軽く頭を下げて席を立つと、相談前に飲んだコーヒーの代金を払い店を出た。
「シスル」から家へと帰る間、花屋の主人は錐矢のお祓いを思い返しては不安に思っていた。
これまでに何度か見掛けたお祓いの儀式では、錐矢は鋏を使い厚紙を幾つもの紙片に変えて情念の断ち切りを行っていた。しかし今回自分の番ではラジオペンチを使い、しかもそれを何度も繰り返した。あれにはどういう意味があったのだろうか。
鋏とラジオペンチ、謎の使い分けに彼女は疑問を覚える。同時に普段のそれとは違う念が自分には向けられていたのではないかと戦慄した。
今日は早く寝てしまいたいが、窓下からの視線が気になると数日に渡り閉め切っていたカーテンの向こうも気になって仕方が無い。
カーテンを開けてしまうとストーカーに自身を主張してしまうことになるが、そうする以外に安全にストーカーを見つける方法は無い。ストーカーの有無は自分がカーテンを開くまで分からないという、シュレディンガーの猫の様な状態に葛藤し、ついに彼女はカーテンを開いた。
恐る恐るアパート前の道路を見下ろすが、これといった気配は無い。最近まで見えたアパート前の街灯の下でこちらを見続ける男の姿も消えていた。
だが彼女のストーカーへの恐怖は終わらない。あの街灯の下に怪しい影が無かったのは場所を移動したからではないか、実は自分が帰宅すると同時に、部屋の中へ忍び込んでいるのではないかと仮定が積み重なる。
恐怖が限界に達したのか、彼女はその場にへたり込んだ。しかしすぐに動かないといけないと察し、携帯電話を取り出すと何やらメールを打ち込み始めた。
メールを送信して数分後、彼女の部屋にインターホンが響く。彼女が相手が誰か知っているかの様に確信を持ってドアを開けると、彼女と同年代と見られる、息を切らした女性が手すりにもたれていた。
緊張の糸が切れたのか、花屋の主人は嗚咽を漏らしながら女性に抱き付いた。恐かったと泣き訴える親友に、女性はふらつきながら彼女の背中を叩いて同情した。
女性はこのアパートの大家の娘である。花屋の主人とは高校の同級生であり、彼女がこの部屋を借りる様になったのも大家の娘直々の紹介があったからだ。
花屋の主人が先程送ったメールには、大家の娘の部屋に一泊させてほしいという希望と、部屋まで彼女に迎えに来てほしいという要望が書かれていた。鋭い洞察力と胆力を併せ持つ彼女なら、すぐに来てくれるはずだと考えたのだ。
その予想通り、大家の娘は後の一文から花屋の主人に自分だけでは外に出られない事情があると見抜き、すぐに親友の元へ向かった。余りにも疲れた姿から、彼女がどれ程の勢いでアパート内を駆け抜けたかが見て取れる。
片や精神的に、片や肉体的に満身創痍の二人は助け合う様に肩を組み下の階に降りて行く。そして大家の娘の家に到着して、無防備な自分達が誰にも襲われることなく移動出来たという快挙から、女性は初めてストーカーがいなくなった事を実感したのだった。
時間は少し過去、夕方の喫茶店に戻る。
日が暮れて常連の気配が消えた「シスル」を窓から斜陽が照らす。休日編成の営業を終えた喫茶店に女性の姿は無く、マスターと錐矢だけが残っていた。
カウンター席に座り携帯電話を弄る錐矢の手元に、マスターは赤黒い液体が並々と注がれたコーヒーカップを置く。当店自慢のコーヒーを、更に改良すべくブレンドを変えた意欲作だ。
手元のコーヒーを確認した錐矢は携帯電話を仕舞い、一度マスターを見てからコーヒーカップを持ち上げる。猫舌なのか何度も息を吹き掛け、慎重に口を近付けた。
口腔にコーヒーが入り込んだ途端、想定外の味が錐矢の味蕾を襲う。思わずむせた錐矢はカップを置くとマスターに詰め寄った。
「……今回は塩を入れたんですか」
「この前お昼のワイドショーで塩入りドリンクが今年のトレンドってやっててな。エチオピアじゃコーヒーは塩を入れて飲んでいるんだからいけると思ったんだが、その様じゃ失敗かな?」
「入れすぎですし、最初から塩を入れておかなくて良いです。塩コーヒーなら飲む人は机に置いてある塩瓶を振って飲みますから、わざわざ新メニューにする必要も無いですよ」
「そうか? 塩は名案だと思ったんだけどなあ」
「塩を使うのだったらレモネードはどうですか? 昔やってみたことあるんですが、結構美味しかったですよ」
「いやいや、それこそどこの店にでもある定番メニューだろ。もっとこう、うちの店にしか無いメニューが欲しいんだよ」
マスターは他の喫茶店には無い独創性を「シスル」に求めていた。今こそメインストリートでも屈指の人気店ではあるが、それがいつまで続くかは分からない。今の常連をキープしつつ、新たな客を寄せ集めようと彼は画策しているのだ。
「まあ尤も、うちにはお前の占いという個性があるんだがな」
「そんな大それたことではないですよ。僕のやっていることは」
「そう謙遜すんなって。お前のお陰で救われてる人もいるんだからさ。……ところで、スミちゃんはどうだったんだ?」
「スミちゃん……ああ、香澄さんならもう大丈夫ですよ」
突然ニックネームが出て、錐矢は一瞬戸惑う。そしてそれが花屋の主人のものだと把握してから、錐矢は答えた。
「彼女の周りには友好的な人ばかりだったものの、極端な愛情を示す糸は一本だけでしたので簡単でした」
「お前がラジオペンチを使うのは久し振りに見たな。それほどストーカーの愛情が異常だったってことか?」
「今日僕が対処していなかったら、香澄さんはどうにかなっていたかもしれません。それ程、彼女の身に危険が迫っていたということです」
「なるほどな……正しく間一髪だったって訳か。スミちゃんも災難だったな」
二、三度頷いて、マスターは錐矢のコーヒーカップを手にする。一口目以降が続かない意欲作を飲んで自分もしかめっ面をした後、躊躇いも無く残りのコーヒーをシンクに流した。
「お疲れさん、今日はもう帰んなよ」
「いつもみたいに後片付けを手伝わなくて良いんですか?」
「それがさ、この前お前を手伝わせたことを涼香に言ったら怒られてよ。後片付けでもアイツを厨房に入れんなってさ」
「……ああ、そうなんですか」
「ホント、お前アイツに嫌われてるよな。何かあったのか?」
「特に無いから困っているんですよ。兄の立場から聞き出せませんか?」
「聞いたよ。そしたら『兄さんには関係無い』ってさ。反抗期なんかね?」
知りませんよ、と錐矢は諦めた様に呟き喫茶店を後にした。
帰宅した錐矢を出迎えたのは、一戸建ての家を埋め尽くす闇と静寂であった。「ただいま」の挨拶も無く、錐矢はそれを受け入れる。
締め切られたままだったリビングのカーテンを開けると、夕暮れ時とはいえまだ明るいT市の街並みが覗ける。商売道具の詰まったリュックサックをプラスチックの工具箱だけ抜いて窓際に放ると、錐矢は洗面所に移動した。
鏡に向かいウィッグを外し、邪魔な前髪をピンで止めると錐矢の視界は密林の生い茂った雑草から這い出る様に開いた。そして錐矢は、その視界中にある無数の糸を工具箱から取り出した鋏で切り始める。
余分な糸を取り除いた錐矢は鋏を仕舞うと、夕食を作るために冷蔵庫を物色した。
一人きりの夕食を終え、錐矢は黙々と後片付けを進める。リビングのテレビからは最近話題の女優と若手芸人の電撃結婚報道が聞こえてくる。
共通点はあまり見当たらないが、ツーショットは意外としっくりくる二人。女優側からの強いアプローチに圧された芸人が受け入れたというエピソードを赤裸々に語る様は、万人に姉さん女房を年下男子が支える微笑ましい生活を想像させるだろう。
妻の告白が嘘――全ては女優の売名目的の報道であることに気付いた明石錐矢を除いてだが。
持って半年、いや五ヶ月かと見積もり、錐矢は皿洗いを終了すると、最早魔物にすら見えた醜女の笑みを遮る様にチャンネルを切り替える。サバンナのアカシアの木の下で母親にじゃれつくヒョウの子供を見ながら、もし瞬間移動も使えたらという無力感から来る苛立ちを浄化する。
「糸が見えなきゃワイドショーも楽しめるんだろうけどなぁ……」
錐矢の瞳には常人には見えない糸が映る。それが彼が生まれつき持つ能力だ。
恋慕なら赤、温情であれば黄、嫉妬は青など、糸の色は人の感情による繋がりを表しており、彼は人と人の相関を見ることだけでなく、その糸を切ることでその相関を断ち切ることも可能としている。
小学四年生の時から錐矢はこの力の存在を理解していたが、当時の彼が視認出来た糸の切断という「裏技」を知る由も無く、見知らぬ男の元へ毎晩向かう母親と、妻の作った借金を返す為に怪しい仕事に手を付けた挙げ句蒸発した父親を助けることは出来なかった。苦い過去を持つが故に錐矢は自分しか持っていないこの特別な力を腐らせるのを勿体無く思い、世の為に活かすべきだと考えるようになったのだ。
そんな錐矢が「シスル」で得た役職こそ、彼が昼間行っていた「振らせ屋」である。これは半年前、マスターが錐矢から相談を受けた時に提案したものだ。
集団社会において人の繋がりとは最も重要な要素であり、簡単な気持ちで切って良いものは無い。しかし数多の恋愛談を聞いてきたマスターは破局前後の人々に取り憑く負の感情を処理するにはどうするべきかと考えていて、錐矢の能力がその解決法となるのではないかと思い勧めたのだ。
マスターの予想は的中し、錐矢が実験を兼ねて何人かの客の黒濁した赤い糸を切ると、翌日には彼らの悩みの種である燻った恋心は全て浄化されていた。群発した奇跡に客達はその能力を称賛し、錐矢の評判は瞬く間に広がってゆく。マスターはこれを経営安定への好機だと考え、錐矢を正式なアルバイトとして雇ったことで「振らせ屋」は始まったのだ。