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「ユーラー様っ!」
「ひっ」
「また人間界のハルアに会いに行くおつもりなんですか?」
――翌日。
今まさに、質素な貫頭衣の上に肩掛けを羽織った変装姿で、自室を出ようとしたユラは、扉を開けた途端、マサキが立っていて、失神寸前までうろたえた。
すぐに露見するだろうと予測していたが、ここまで早いなんて……。
(もしかして、マサキは、私のことを見張っているんじゃ?)
しかし、疑いの目を向ける前に、彼女は素早く声を張り上げた。
「ユラ様。私の言うことを聞いていましたか? 再三、貴方の身の危険をお話していたのに、何をされているんです? 昨晩の件を改めて聞きたいと、サクヤ殿の呼びかけで、今夜、臨時定例会を開くことが決定しました。雷帝が欠席するわけにはいかないでしょう?」
「やっぱり、欠席は駄目なんですね?」
「平和的解決のために、多数決を導入したのはエンラ様なのです。後継者の貴方がそれを拒否することなんてできませんよ」
マサキは頭を抱えて、重たい溜息を吐いた。
「大体、昨日ハルアは酷い奴だったと怒っていたじゃないですか? たった一晩でどう気持ちが変わって、こんなことになっているんですか?」
「気持ちが変わった訳じゃないのですが……」
「じゃあ、何なんですか?」
「昨夜、どういうわけかハルアを助けることになってしまいまして、それで彼が礼をするって言うので、つい、おさげ髪の眼鏡の女の言うことを聞くように……と、話してしまって」
「…………はっ?」
上から下まで、ユラの格好を舐めるように見てから、眉間に皺を寄せていたマサキが表情を消した。
おさげ頭の分厚い眼鏡姿の少女は、人間界にも滅多にいないはずだ。
「……………………あきれた。ユラ様、どうしてそんなことを言ったのですか?」
「もしかしたら、彼の署名や絵とか、もらえるかなって。でも、昨夜の私はハルアと初対面ってことですから、彼が芸術家ってことは知らないはずですし。いきなり、作品を寄越せなんて言えません」
「いっそ、強奪でも何でもしてくれば良かったじゃないですか?」
「三千年前の不可侵条約を、雷帝の私が破るわけにはいかないでしょう?」
「不可侵条約は、人間に被害を与えたら……という意味です。命さえ奪わなければ、何をやっても良いんですよ」
「それは、ダメでしょう?」
「門を通る資格があるのは、限られた天虚なんです。言わなきゃバレやしません。貴方は本当に真面目すぎるんですよ」
マサキは髪を掻き散らしてから、ぷっつり、糸が切れたかのように、うなだれた。
彼女が静かになった時こそ、重要だ。
このまま人間界に行くことも出来るが、可能ならばマサキとの間に溝を作りたくない。
「…………だから、マサキ。もう一日だけ。最後のお願いですから、行ってもいいですか?やっぱり、どうしても、彼の署名くらいは欲しいんです」
立ち上がったユラは、両手をすり合わせながら、マサキに迫った。
「何をそこまで執着しているんですか。貴方は……」
拒否というよりは、困惑の度合いが大きいのだろう。
あと一押し。
何か、良い台詞はないだろうか?
――悩むユラの前に
「僕からも、頼むよ!! マサキ」
強力な援護が加わった。
「…………なっ!?」
マサキが直ぐさま振り返る。
雷帝の住まいである雷城の更に奥。エンラの仕掛けた結界で護られている私的空間に、立ち入ることのできる人物は限られている。
久しぶりに目にしたその青年の姿に、ユラは瞳を輝かせた。
「トワ兄さん!」
叫ぶと同時に、ユラは彼におもいっきり抱き着いた。
自分と同じ質素な貫頭衣姿の兄は、ユラの背中をなだめるように何度か擦った。
身長もほぼ同じくらいで、顔立ちも似ている二人の目に見える大きな違いは、トワにだけ目の下に黒子があることと、髪の長さくらいだ。
最近、トワは体調を崩していたので、こうして、ちゃんと向き合ってトワと話すのは久々だった。
「大丈夫なんですか? 起き上がったりして……」
「うん。今日は大丈夫だよ。それに、昨日の美術館には本当は僕も行く予定でいたんだ。結局、体調が戻らなくて断念しちゃったけど……。僕だってユラと同じ。美術館に行っていたら、絶対に、手ぶらでは帰れないって、躍起になっていたと思うもの。……だからさ」
言いながら、トワはマサキを一瞥する。
「僕からも、お願いだよ。ハルアの絵が好きなのは、僕も一緒なんだ」
――そう、ユラはトワからハルアのことを教えてもらったのだ。
ユラが署名にこだわっていたのは、トワに喜んで欲しいという意味もあったのだ。
「ああっ。…………まったく! 分かりましたよ」
マサキが降参のつもりか両手を挙げた。
「予定は、調整しておきますから!」
「良かったね。ユラ! こっちのことは、まかせて。ゆっくり、行っておいでよ」
「ありがとうございます。兄さん!」
にこにこと見つめ合う兄妹の姿に、マサキは深くて重い溜息を吐いた。
「……まったく、何がゆっくりですか? いいですか? これが最後なんですからね。貴方の予定は一杯なんですから。領地の巡回や、書類仕事も山積しているんです。帰ってきたら、今度こそ、お役目一番になって下さいよ」
「それは、もちろんです! 父様の命令は絶対ですから」
空気を呼んだつもりで、適当な返事をしたユラだったが、そのすぐ後に、このことを強く後悔するなんて、その時は欠片も思ってもいなかったのだった…………。