5
(…………何で?)
喉まで出かかっている驚愕を、拳をつねってぐっと堪える。
「…………君? もしかして、私のことを知っているんですか?」
更に角灯持って近づいて来るハルアを、ユラは反射的に横を向いて無視をした。
(嘘でしょーーっ!?)
現実世界は想像以上の偶然ばかりだ。
彼の綺麗に整った顔は、夢ではない。
こんな美しい人を見たことがないと、ユラが一瞬見惚れてしまったのは、つい先ほどのことだったはずだ。
混乱の余り、ユラが黙りこくっていると、ハルアの方で答えを出してくれた。
「まあ、知られていても、おかしくはないでしょう。私の名前はハルア。君は?」
「………………」
「名乗りたくない……か?」
――名乗れるはずがないだろう。
ともかく、昼間の眼鏡女がユラであることは、気づかれていないのは確かのようだ。
(……それって、喜ぶべきことなのか、分からないけど)
自分の正体を暴露するつもりもないので、話すこともなかった。
――どうやって、この場から退散したら良いのか。
ユラの頭の中は、そのことだけで一杯だった。
……――それなのに。
「でも、ありがとう。助かりました」
ハルアは、おもむろにユラの前に手を差し出してきた。
握手のつもりなのだろう。
通りすがりの怪しい女と親交を深めて、一体彼はどうするつもりなのか……。
「………………別に、私は」
やっぱり、変だ。
昼間のような皮肉たっぷりの言い方ではない。
差し出された手を無視して、視線を上げれば、ハルアの瞳は子供のようにきらきらと輝いていた。
まるで、新しい玩具を見つけたかのような曇りのない純粋さを放っている。
(これって、まずいんじゃないの?)
普通、雷を地上に落とすような女がいたら、逃げるだろう。
逃げなかった時点で、彼は恐怖心より好奇心の方が勝るような人間なのだ。
(雷帝が人間と仲良くしているところを見られたら、面倒極まりないし……)
フィンが天虚を追ったまま、戻って来ないが、ここは一旦この場から離れるべきだ。
そうしようと心に決め、歩きだした途端、ユラの前に、ハルアとは別の男が立っていた。
「我々の危ないところを救って頂き、有難うございました」
短髪で目の細い、涼しげな面立ちの青年は、厚ぼったいハルアの格好とは違い、簡素なシャツ一枚の姿だった。一見、優男なのにユラの肩を掴んだ力は痛いくらいである。
「こんな勇ましいお嬢さんに、お会いできるなんて、僕らは何て光栄なんでしょう?」
「……ラトナ」
ユラと青年の間に割り込みながら、ハルアが声を曇らせた。
そういえば、昼間のターバンぐるぐる巻き少年は、今はいないようだ。
(この男も、それなりの訓練を積んでいるようだけど……)
ハルアも、この青年も人間界では通常起こりえない状況に、まったく物怖じしていない。
足取りもしっかりしているし、酔っているわけでもなさそうだった。
ユラがわざわざ手を出さなくても、この二人でどうにか出来たのかもしれない。
思わず、手を出してしまったのは、やりすぎだったのか……。
「どうです? これから一杯、僕たちと付き合いません?」
「…………はっ?」
「僕は、昼間この男に、身代わりをさせられましてね。少々、気が立っているのです」
「まだ根に持っているんですか?」
――そうだったのか。
昼間、美術館で『ハルア』の身代わりにされた男は、彼だったらしい。
「ほら、一杯だけでも? もちろん、あの男の奢りですから」
「調子が良い男ですね。まあ、いいですけど。どうです? お酒が駄目なら果実水でも?」
「…………それは」
いつの間にか、 前と後ろに挟まれて、ユラは身動きすらできない。
どうしたものかと、真剣に頭を悩ませた途端……。
「雷帝!」
「…………フィン?」
フィンが大きく跳躍して、ユラの真下に降りてきた。言葉を喋る奇怪な猫を目の当たりにして、二人の男達は子供のようにはしゃぎ始めた。
「猫だよね! ハルア?」
「……喋る巨大猫。素晴らしいですね。一体、何処にこの猫は生息しているのでしょうか?」
「ああん? 何だよ。てめえら、猫が喋っちゃ悪いのか!!」
フィンが毛を逆立てて威嚇すると、二人の青年は、そそくさとユラから離れていった。
――有難い。こういうフィンの活用方法もあるらしい。
フィンはハルアを威嚇しながら、同時に、彼を上から下まで舐めるように確認していた。
(何? 久々の人間が珍しいのかしら?)
ともかく、これ以上、ハルアとフィンを関わらせたくはない。
ユラは咳払いして、フィンの関心をこちらに向けた。
「……フィン。一体、あの天虚たちは、どうしたんだ?」
「雷帝。すまないが、逃げられちまった」
「…………ふーん」
ユラは、おもいっきり残念そうに、うなずいた。
逃がした天虚は残念だったが、しかし、ここで彼らを突きだされたところで、ハルアとの接触が長引いて困ってしまっただろう。
きっと、これで良かったのだ。
「……ならば……仕方ない。また出直すことにしよう」
「ああ、分かったよ。今回はあんたに従う」
やけに、殊勝な態度で逆に拍子抜けしてしまうが、ユラ自身、急いでいるから助かった。
フィンはイラーナに来た時とは、正反対のとぼとぼとした足取りで、ユラの前を歩き始める。 何事もなかったかのように、ユラもその後に続いたのだが……。
「ちょっと、待って!」
追いかけてきたハルアが、ユラの長ったらしい袖を掴んでいた。
「まだ話は終わっていないのですが……?」
「はっ、話……って?」
そもそも、会話自体成立していなかったではないか。
しかし、ハルアは何処までもユラの白い袖を放さなかった。
「私は、君に助けてもらったお礼をしたいのです」
「……はっ?」
「ラトナが言うように、酒でも良いのですが、それが嫌だって言うのなら、他の物を」
息を切らして来て、何を言っているのだろう。この人は……。
しょせん、彼の申し出は不思議な出来事に対する好奇心だ。善意からの言葉ではない。
ユラがそれに付き合う義理などないのだ。
「――いらない」
何とか掠れた声を絞り出した。
「えっ?」
「私は、礼なんていらない」
簡潔な回答を二度繰り返す。
しかし、何故だろうハルアは引き下がらなかった。
「……ですが!」
彼は力を込めてユラの袖を放さずにいる。
(何なのよ、この人?)
無駄に執念を燃やしているようで怖かった。
「貴方に借りを返さないでいると、私が気持ち悪いのです」
「あの……な、私は……あんた達を、助けたつもりなんてないんだ」
「しかし、結果的に私たちは助かった。それは事実でしょう?」
「そうだよ。僕たちを、お嬢ちゃんが助けてくれたんだから」
ラトナまで便乗してきたので、ユラは益々追い詰められてしまった。
「……………………だからって」
(何なのよ。この人たちは……)
早く行かなければ、フィンに怪しまれてしまうではないか。
(でも、礼をくれると言っているんだし……)
………………昼間の目的。
ユラが喉から手が出るくらいに、欲していたものを思い出す。
今回、度重なった偶然は、目的成就のための奇跡的な後押しだったのかもしれない。
願っても良いのではないか?
(せめて、一つくらいなら……)
欲張るつもりはない。
だけど、ユラも兄のトワも、長い間ずっと画家「ハルア」のファンだったのだ。
ユラは小さく息を吸って、呼吸を整えてから口を開いた。
「分かった。そこまで言うのなら、貴方の「礼」とやらを貰うことにする」
「本当に! 私に出来ることなら、何でもします。好きなことを言って下さい」
情熱的に身を乗り出してきたハルアに、ユラは溜息を落とすように小さな声で告げた。
「…………私の望みは、一つだけだ」